こんにちは、みやけです。
前回この「母の引っ越し」シリーズを書いた時、母はまだ健在でした。しかし書き上げ、UPした●日後に母の体調が急変。担当医から「危篤」と言われ、血圧の上が40~200を推移し、基準値最大限の血圧を降下させる薬を投与されつつその後8時間近く頑張りましたが、某日AM3時過ぎについに力折れ、天に召されました。81歳の誕生日を数日後に控えるというなんともやるせない幕切れでした。

母の葬儀はなんとか家族葬にて行われました。これについてはコロナ禍になる前から母が希望していたものです。現時点私はその後の処理・手続きに追われておりますが。この事についてはまだ印象が強烈に残っている間に文章にしておきたい、と思い書き記しています。
前回の内容では母が引っ越し前日に救急搬送され精密検査を行っているところまで書きました。昨年末からめまいが悪化し失神を繰り返していたためMRIを含め「脳」の検査をまず重点的に行っていたのですが、特に大きな問題はないという事で改めて全身の検査を行ったところ、「首の骨のズレ」が確認されたのです。診断名は「頸椎脱臼(けいついだっきゅう)」でした。医師の推測によると短い期間の中で何度か転倒を繰り返し複数回首を打った為そのような状態になったのではないか?という事でした。

そういえば、母は年末から失神、急にバタッと倒れる事が頻繁に発生するようになっており、私や妻の見ている目の前で急に一瞬もうろうとした後ほどなくバタっと倒れる、、、それも自宅ではなくスーパーや医者の待合室で、、、そしてその都度何度検査しても原因が分からず終わっていました。そしてその際あまり痛みを訴えないのです。もしかするとその転倒で、神経を損傷し痛みを感じることに鈍感になっていたのかもしれません。。。。
(以降の文は、担当医の説明をなるべく正確に文字起ししているつもりですが、私の認識違いで医学的な誤りがあるのかも知れません。ご了承ください)
しかし問題は結構深刻でした。首の骨がずれている為、首の中を通っている血管が圧迫され頭に血液が行きにくくなり脳梗塞を起こしかねない状況になっていました。その為「首の骨を削て血液の通りを良くする」というかなり大掛かりな手術を受けざるを得なくなったのです。しかし前回書いたように母の栄養状態が悪く、回復に時間がかかる可能性があり、免疫力が低いため手術の上において何らかの菌に感染した場合、不測の事態が起きる可能性はある、との説明でした。何故か1週間前に負った左手の火傷は全く治っていないとの事で、免疫力の低下は顕著でした。
「脳梗塞の恐れ」というのは深刻な状況だと思い、私は首の骨を削る同意書にサインしました。その他にも血流を良くするためカテーテルを入れたり、呼吸を確保するために一時的に人工呼吸器を入れたり、、、改めて私がその説明をするのは知識の面で難しいのですが、いずれにしても相当な医療行為を行うのだと思いましたし、それだけ母の病状が深刻なものだと思い、正直この時点で「このことがおさまるのに長い時間はかからないだろうな」と思いました。

あくまで私の考えですが、人間は健康面での窮地に追い込まれた場合、「なにくそ!」という戦う気持ちさえあれば結構乗り越えられると思っています。私の周りにおられた重病患者さんも、結果的には早世したとしても結構な時間抗ったものですし、後述する私の義父、そして私自身もそうなんじゃないか、と思っています。その逆、体調不良が重なった時点で「もうだめだ、、、」といった鬱状態になる人はあまりにあっけなく天に召されるような気もします。私の父も母も。。。。
そんな中で手術は行われ無事成功。私と母の状況を聞いて帰福していた弟は呼吸器をつけて担架で運ばれる母を一瞬見ましたが昏睡状態であり、全く意思疎通ができるような状態ではありませんでした。これが母が入院して1週間目の話です。手術は終わったものの、身体の臓器が衰弱しており、なかなか体力の回復が見られず免疫力も低いので高熱を出したり、何らかの感染症に罹患すると非常にまずい状態でした。
先生は「時間を掛ければ元の生活に戻れる可能性はある」とのことでしたので、私は気長に病院からのいいニュースを待つことにしました。弟は長期戦になる可能性もある為いったん県外の自宅に帰りました。私は翌日病院に電話して母の状況を聞きましたが、どうもよくなさそうな雰囲気は伝わってくるものの、具体的なことは教えてもらえませんでした。
そして手術から2日目、母の入院を聞いた親族から何度も連絡が入ります。私も別に隠していたわけではないのですが、あまりに劇的な展開の為どう説明していいか分からず、ごく数人にしか状況説明をしていませんでした。みなびっくりしていました。しかしその中で、以前から私を見守ってくれていたSオジサン(母の兄)が「●●(私の事)ちゃんホントにありがとう。もしもの事があってもそれは寿命なんだから仕方がないんよ」と言ってくれました。
Sおじさんは私は子供の頃からとてもかわいがってくれた方なのですが、本当に心の温かい方だな、とつくづく思いました。やはりこのような状況においては親戚筋から「ちゃんと子供が親を見てやらないからだ」「同居していればこんなことにならなかった」なんてことを言う人がいるものなのです。言葉にしなくても通夜や葬儀の時の態度でそういう雰囲気の人はいくらかいました。今回の流れの中で自分の事を心から心配してくれる人と、あまり重要視していない人がはっきりわかった気がします。

その2日目の夕方17時頃、母の状況がどうなっているのか?病院に電話してみました。すると「担当医は処置中ですので落ち着いたら必ず連絡します。」とのことでした。対応してくれた看護師さんの声はかなり暗く、多分悪いニュースなんだろうな、と腹をくくりました。しかし30分、1時間たっても電話はなりません。不安は募ります。弟には先生の回答を待ってから連絡しようと思っていましたし。。。
1時間半経過しようやく担当医から電話が入りました。曰く「昨日から40度以上の高熱が続いている。術後は問いかけにうなずいたり首を振ったりして反応していたが、今日は全く意識がない。血圧も上が200以上になっててしまい、下げる薬を投与すると逆に上40前後に下がってします。色々な薬を限界量まで投与している。打つ手が無くなってきつつある」と話されました。
私は深呼吸したあと「それは一般的に言う”危篤”という事なのでしょうか?」と聞くと担当医は「そう取ってもらって構いません」との事でした。きつい言葉ですが、私はもう覚悟していたのでこれは冷静に受け止めることが出来ました。担当医は「厳しい状況になりましたら病院に来ていただくことになるかもしれません。そのご連絡は深夜になるかもしれませんし、明日明後日になるかも知れません」と言われました。私は弟にその事を伝え待機する事にしました。まだこの時点では母は生存していましたが、先を予想して会社には明日は休みを取りたい旨連絡を入れました。
こうなってくると、ある程度先を見据えて行動する必要があります。まず管理を委託されてた母の貯金のキャッシュカードを持ってコンビニに行きまとまった金を下ろしました。取引銀行に預金者の死去が確認されると一時的に口座が凍結され、葬儀代がそこから使用できなくなったりするからですよ。後、我が家が懇意にしている葬儀社に連絡入れ今の状況を伝えました。事態が急展開しても対応してもらえるよう打ち合わせました。これは功を奏しました。その後なんとか無理のない時間で通夜・葬儀を迎えることが出来ましたから。今東京あたりは亡くなる人が多くて下手すると火葬が1週間待ちだったりするらしいですから。。。

「危篤」という言葉でしたから私は1時間もしないうちに病院から連絡が入るかと思っていました。しかしなかなか携帯はなりません。こういう場合時間のつぶしようがないのですね。録画していた「ファミリーヒストリー」を見ようと思っても重い内容の話は頭に入ってこないし、逆に「ワイドナショー」みたいな砕けた番組でも、笑う気になれない。。。いざ病院に行くことになるとそれからしばらくは睡眠は取れないですから、ベッドに横たわり、熟睡してしまわぬようボーっとしているしかありませんでした。
私は7年前に施設で父を見取りましたが、その時は相当身体が弱っておりいつ何があってもおかしくない状態で、ある夜施設に呼び出され行ってみると既に父は亡くなっていた状況でした。待つことは無かったのです。その時の父は日中妻が見舞いに行きおしゃべりをしていたのですが。。。

22時くらいからうつらうつらしながら自宅のベッドで休んでいたのですが、翌AM2時半頃ついに私の携帯が鳴りました。病院からの着信です。「30分前から心臓が停止しており、心臓マッサージを行っているが効果がない、すぐに病院に来てもらえないか?」との事でした。その時はショックというか、私の人生の中でも最大の局面に対峙しなければならいのだ!とちょっと武者震えがしたのを覚えています。私は弟に電話しました、弟はワンコールで電話に出ました。状況を伝え私は妻と共に愛車で病院に向かいました。
病院に着き、待合室にいったん待機後、診察室に通されました。奥の方で母は心臓マッサージを受けていました。瘦せ細ってすっかり小さくなってしまった母、、、3人の看護師さんから懸命のマッサージを受けていました。当たり前の事なのですが、マッサージはかなりの力で胸に圧を加えます。もう意識がないのに強く体を押されている母を私は直視できませんでした。その時が一番つらかったです。看護師の方は全力で対処していただき申し訳なかったのですが。。。。
私は意を決してその時の対応医師、看護師の方々に「いや、もういいです。母を楽にさせてください。十分頑張ったと思うので。」と声を絞り出しました。言葉にするのは大変キツかったです。
午前3時15分過ぎ、母は永眠しました。
危篤状態から9時間、本当によく頑張ったと思います。体力の低下を考えれば電話の後すぐに事が起こってもおかしくなかったと思うのですが。。。とにかくプライドが高く、人に頭を下げることが出来ない母、、、最期は力を振り絞って私や弟、私の妻に対して心の準備をする時間を与えてくれたのではないかと思っています。私はその瞬間は特に涙は出ず、なんだか事実を受け止めきれない心境でしたが、直前の心臓マッサージのシーンはまだまだ鮮明に頭に残っています。
私は弟にこの事実を連絡、更に葬儀社にも電話し手続きを依頼しました。霊柩車は1時間程度で到着しそのまま葬祭場に向かう事になりました。病院の方々に挨拶を済ますと私たち夫婦も葬祭場に向かいました。ちなみに今回母がお世話になったこの病院、大変すばらしい対応をしていただいたと大変感謝しています。私の文章力が無いあまり、何か検査上の見落としがあったような印象を持ってしまった方がいるかもしれませんが、全くそんなことは無く母の悪い状況の原因をなんとか調べようと逐一丁寧に説明をしていただきました。

特に担当していただいたK先生の説明は非常に分かりやすく、見立て・推測も十分納得できるものでした。母への処置についてもあまりに専門的な内容の為相当端折って書きましたが、その病院での技術をフルに稼働して年老いた母の命を救おうと全身全霊で対応していたのが十分感じられました。周りからチヤホヤされるのが好きな母でしたから、このように最高の医療処置を受けて天に召されたのは母の本望ではなかったかと思います。
葬儀場につき、手続きを終えた私たちは一旦自宅に帰宅する事にしました。火葬場は運よく翌日で手配が取れました。

自宅に帰りしなコンビニで買い物をするため駐車場に車を止め、空を見上げると満月が満月が光っていました。満月は人の心を乱すといいます。交通事故が多いのも満月の夜です。この満月はとても印象的でした。10日ちょっと前には普通に日常生活を送っていた母がこんなことになってしまうとは。。。
次回はこの後の事(通夜・葬儀)について書き、終わりにしたいと思います。そろそろ日常を取り戻していきたいと思いますので。
それでは、また。