⑧ 母の葬儀で思ったこと 味方を見極める事の大事さ ~築35年の実家と母の引っ越し~

こんばんは、引っ越しを直前に亡くなってしまった母。今日はその葬儀の際の私の心境について書いてみたいと思います。一応喪主を勤めさせてもらったのですが、もちろん初めての経験ですからうまくいかないことや判断に困ることが多々ありました。

通夜・葬儀で一番まず頭を悩ますのは「受付」を誰にお願いするかという事。どちらかと言えば母側の親戚関係はショックを受けている人が多いので遠慮したいところではあります。一番いいのは妻側の親戚だと思うのですが、元々妻が県外生まれの為出席してくれる人の見込みは0であり、断念せざるを得ません。次に思い浮かぶのは私の親戚側という事になるのですが、このブログのこの回で何度も登場しているFちゃんにお願いするのが一番いいかな?という事になりました。

しかしサービス業で働いているFちゃんは、シフトの関係で夜遅くしか参列できず辞退の連絡が、、、、しかし通夜より少し前に離島からはるばるやってきてくださったFちゃんのお父様が通夜の受付をやってくれることになりました。このお父様はもう80近いのですが、スマートでダンディで中々のイケメン、なんだか寺尾聡みたいな雰囲気もあって流石に斉藤由貴似のFちゃんの親御さんだけあります。

更にはこのお父様、私が子供の頃から地元の離島で衣料品店を運営しており、つい数年前店をたたんだばかり。接客に関してはプロ中のプロです。「本人も張り切っている」という事で恐縮しながらお願いすると、開始の2時間前から受付テーブルの配置や、お礼品の追加のタイミング、弔問客が入場してからの動線等ガンガン葬儀場の人と打ち合わせていただき非常にありがたかったです。感謝しかありません。

ただし、、、、少し、、、いや、かなり言いにくいのですが、あまりに強い圧でガンガン葬儀場の方に指示を出していたため、私はヒヤヒヤしっぱなしだったのですが、、、、かつての血が騒いだんでしょうね。。。

そして葬儀当日の受付は母の姉の次女のJ子ちゃんがやってくれることになりました。J子ちゃんは住まいも実家から車まで30分くらいの場所にあり母の姉と同居しています。小さいころは毎年夏休みに母の田舎の離島に双方帰省し、私の弟、J子ちゃんの姉のY子ちゃんと一緒にひとつの部屋に雑魚寝し、一緒にお風呂にも入っていました。

普段の付き合いはあまりないのですが、とても面倒見の良い方でいざとなったらどんな状況でも手助けを惜しまない私にとっては大変頼りになる存在の人です。子供のころのテンションで話をできる人がいるというのは本当にありがたいです。

J子ちゃんからは、葬儀が終わってお礼のメッセージを入れた際、下のような返信メッセージが届きました。「何かあってもなくても」という表現がグッと来ましたね。「これからも何でも相談していいんだよ」という度量の広さが見えて。これまで何かあると”責任をしょわなければならない立場”の連続だった私にとっては甘えられる存在がいるというのは本当にありがたいです。J子ちゃんは次女なんですが、なんだか長女のような懐の広さがあります。

ただし、2日の中でちょっと複雑な思いになる場面がありました。J子ちゃんの母、母の姉のHおばさんのあたりがきつかったのです。Hおばさんは昨年夏旦那さんを亡くされています。それでかなり落胆されていたのですが、7年前に旦那を亡くした私の母と同じ状況になり、双方自身の心境を慰めあっていたようです。

それはそれでいい事なのですが、そのような会話の中では必然的に誰かの悪口を言うことになるものだと思います。生前母の口からは、「HおばさんがJ子の管理、行動制限や金銭管理について締め付けが厳しすぎると悪口を言っていた。」とよく聞かされました。J子さんも、「母が自分の悪口を近所中に言っている」とぼやいていました。

ということは、母はHおばさんに私の悪口を言っていただろうな~と普通に思うわけです。母は私に対しては「いつも来てくれてとても感謝している。」と言っていました。そしてこちらが何を言うわけでもないのに「母と子の同居はうまくいかない、私が体験した。同居は私自身がやりたいと思っていない。」ともよく言っていました。

でも母の本音は「私が母の実家に返って同居する。そうしたい事を私が申し出る」という事だったと思うのです。依存心と支配欲が強い母は、『自分が頭を下げることはせずに相手から申し出を受け、自分自身がやむを得ず同意した』というコミュニケーションのとり方をするのです。私はそれに気づいてから絶対にその母のペースに乗らないよう毅然とした態度をとっていました。

であるなら、母とHおばさんの会話の中で「長男が冷たい」「長男は私の気持ちを理解してくれない」という愚痴が頻繁に出ていただろうな、と思うわけです。

Hおばさんは本来は大変優しい方であり、幼少期は私も大変お世話になりました。ただし葬儀の席ではかなりトゲトゲしい感じでした。「もうちょと周りが母の悩みを聞いていれば」「これ以上言うと悪口になるから言わないけど本人は言いたかったことがあるはず」「心労でこんなにやせ細って、、、どうしてこんな姿に、、」などと周囲の人に言っていました。私に何か訴えたい事があったのに違いないです。

それを直接言ってくるなら私のやんわりと説明したかも知れません。でも私たち夫婦に聞こえるように少し離れた場所で上のようなことを言っているのですね。これはもう甘んじて受けるしかないです。何を抗弁しても今となっては何もわからないのですから。。。

でも母の兄弟がみなそう思っているのではなかったのです。母の兄であるSおじさん、この方も私の幼少期から非常に私たち一家に大変優しくしてくれた人です。通夜で対面して状況説明を話すと「そうね、でもこれはお母さんの寿命やったんよ。寿命だから仕方ないよ。人には寿命があるんだから。」とにっこり微笑んでくれました。それがHおばさんと話した直後だったので本当に救われました。私たち夫婦が心を痛めているのをわかってくれたのだな、という事を。

またJ子ちゃんも、会場に入るや否や、まず私に妻に近寄り「私は2人の味方やけんね」と言ってくれました。多くを語らずとも状況を察してくれたのでしょう。

そして最後に紹介するのは妻の父義父が態々県外から弔問に来てくれたのです。義父はもう80代前半、50代に脳梗塞を煩い、九死に一生を取りとめ「次に起こったらもうアウト」と宣言され、発声と脚力が不自由になるも懸命のリハビリで徐々に日常生活を取り戻した根性の人なのです。

私は義父が大好きです。尊敬しています。私が今から書く内容を見ると「いやいや、イジっている」「小馬鹿にしている」と思うかもしれませんが、まったくそんなことはありません。実に愛すべき好漢だと思いますし、あんな人になりたいなと常々思っています。

義父は某地方都市の副知事も努めた立派な経歴の持ち主なのですが。一言で言うとお調子者。自身で作成作曲して自費出版でCDデビューも飾っています。歌人として別名もあります。定期的に出版物も出していました。常に自分のことを書いてです。脳梗塞で発声に後遺症が残ったときも「もう歌えなくなった」事が一番ショックだったというのですよ。

義父は火葬場まで見届けてくれました。当日のJRで帰ると思ったのですが、泊まると言い出しビジネスホテルを探しました。本当は私たち夫婦と会食をしたかったようですが、私と妻の疲れようを見て、前から気に入っていた博多駅構内にある居酒屋で一人で一杯やることにしたようです。

私たちは義父をホテルの送ったあと、食事からちゃんとホテルに戻っているか21時頃に義父の携帯に電話すると義父は直ぐに電話に出ました。なんと食事はホテル近所のコンビニで焼き鳥をと惣菜、ビールを買って自室で済ませたというのです。

どういうことなのか?詳しく事情を聞いてみると、、、父のお気に入りだった店は博多駅全体があまりに以前と変わりすぎていて見つけることができなかったようです。おそらく再開発で移転してしまったのでしょう。父はしばらく店を探してさ迷ったらしいのですが、すっかり変わってしまった博多駅周辺に少し迷子になりかけたそうです。

「寒さが忍び寄ってきた中、これ以上うろうろすると体調を悪化させる可能性もある。ここで自分が騒動を起こして私たち夫婦やホテルの人に迷惑をかける訳にはいかない。今日は娘や義理の息子と車の中でたくさん会話して十分な一日だった。今ならまだホテルに歩いて帰れそう。身の程をわきまえて夕食はコンビニで済まそう。」と考えたようなのです。

義父からしたらなんでもない普通の判断だったのかも知れません。でも私は義父のその説明を聞いて涙が止まらなくなりました。母の死では直接涙を流すことはなかったのですが。この時は泣いたのです。

なぜか?義父の「自分のことは自分が責任を持って行動する」という考えに感動したからです。母は昔から、そしてこの半年は特に「自分は何も意見を出さず、相手から応援したいと言わせる、手を差し伸べさせる。」事を繰り返していました。私はその事に疲れきっていたからです。

依存心が強く、本当は助けてもらいたい、いや助けないとどうにもならない状況なのに、ギリギリの段階、いやそれを超えた段階であっても、相談できない、助けを求めない、真実を話せない。でもそんな人でも人としての立場を尊重し、高齢者としてより多くケアをしなければならない。私がその部分にすごく葛藤していたのだと思います。

しかし義父自身が年老いていることを自覚し、自身が今どんな状況であるのか正確に把握し、身の丈を考え他人に迷惑をかけないよう、自分のとるべき行動について正確に判断したことについて、「これが母であったら」と私は内心思ったのだと思うのです。

義父は帰宅しての電話で「何年かぶりの一泊旅行で自信がついた。落ち着いたらまた来るから今度は食事をしに行こう」と言ってくれました。もちろんですたい!尊敬する義父の驕りというのでしたら、金に糸目をつけずこれから福岡のおいしい店を全身全霊で探しますけん!w

この半年間長々と書き続けてきました「母の引越し」シリーズも今回で一応終了です。本来は素人の不動産売買の難しさを書こうとしていたのですが、まさかこんな内容になるとは。。。

ただ、このように自分自身が窮地に陥ったとき、私の気持ちに寄り添ってくれた人、Fちゃん、J子ちゃん、Sおじさん、この方々は私にとって本当の味方だと思います。感謝を忘れず、時には甘えさしてもらい、ずっと関係を続けていければと思います。

Hおばさんは一時的に感情が高ぶっていただけだと思います。これはもう仕方がない。長年母の話し相手になってもらいありがとうございました。母の分まで長生きしていただきたいです。そして義父のMさん!あなたのピュアで自分が大好きな精神力には親近感を感じられずにはおれません!いつかお酒を酌み交わす日が来ることを楽しみにしています!

そして妻よ!長い間母に寄り添ってくれてありがとう!

今回母の死に至るまでの間、いろいろなことを悩み、学び、発見しました。私もまもなく高齢者になるわけです。どう年を取るか?これは日所運に大きなテーマ。ジャアイント馬場ラッシャー木村は団体のエースとして君臨していた期間以上に、衰えた後「楽しいプロレス」としてのメンバーである期間の方が長かった。ただそれは彼らにとって不幸であったか?そんなことはないと思うのですよ。

今日はこんなところです。それでは、また。

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