あなたもプロモーター? 〜昭和の全日本プロレス・それぞれのふるさと凱旋興行〜

こんにちは、みやけです。

前回予告しておりましたが、今回も昭和プロレスの話です。そしてさらにまたマニアックな企画なのですが、レスラーそれぞれの故郷での凱旋興行についてどれだけ優遇されていたのか?と言う点について検証する企画です。

まずですね、全日本プロレスの企画ばかりになっていますが、他団体も興味がないわけではないのです。もちろん一番好きだったのは全日本なのですが、新日本も毎週見ていましたし、熱戦符に関しては隅から隅まで見るのが大好きで新日本も検証して見たい気持ちは山ほどあるのですが、元データが不足してるのです!

” 昭和の全日本プロレス”に匹敵するサイトがあればいいのですが、私の手元にあるのは10冊程度のゴング誌、ベースボールマガジン社から出版された”スポーツスピリット21(81〜85年の全団体の熱戦符を掲載)、および”ミック博士の昭和プロレスマガジン”です。

この資料を確認すれば85年までは大方確認できるのですが、86年以降がまとまった資料がない!私としては一番プロレスを見ていた時期であり、きちんと揃わないとやる気がしないのです。

言い訳?はそれくらいにして本題に入りたいと思います。プロレスラーの場合、故郷・生まれ故郷で興業を行なった場合、親戚・友人が沢山見に来てくれるはずであろうし、当然観客動員にも貢献するわけです。団体側としてはそのご褒美として、そのレスラーが”いいかっこ”出来るよう、勝てそうな相手とマッチメイクするのがしきたりみたいなものではないかと思います。

そして、そのレスラーに多量のチケットを捌ける営業力・人脈があれば興業そのもののプロモーターを買って出る事もあるかと思います。初期の全日本でいえば、サムソン・クツワダ、サンダー杉山、グレート小鹿あたりがそれに関わっていたようです。

熱戦符やレスラーのインタビューを読むことが楽しみのひとつに「〜はご当地興業においてはプロモーターも兼務していたのでは?」という推測をするのも楽しみのひとつなのです。そして故郷限定であっても、そのエリアにおいては試合結果・マッチメイクだけでなくテレビ中継でさえも引っ張ってくる選手がいたものだと感じる事もあるのです。

前置きが長くなりましたが、今回紹介するのはジャンボ鶴田、天龍源一郎、そして、、、石川敬士の3人です!尚、期間については1981年から1989年あたりまでに限定させて頂きます。それから基本的に「市」レベルをチョイスの基準とさせて頂き、町立体育館的な郡部の会場も割愛させて頂きます。

① ジャンボ鶴田

鶴田の出身地は山梨県なのですが、彼については親族がプロモート業に関わったという話はあまり聞かないです。もともと試合会場もピンとくるところが少ない県ですよね。81年以降ですとまずこの開会が最初に引っかかります。

1981年1月22日韮崎市体育館 観衆3500人

メイン UNヘビー級選手権 鶴田(2-1)アブドーラ・ザ・ブッチャー ※鶴田が王座奪回

1本目 7分47秒両者リングアウト、2本目 鶴田(3分33秒 体固め)※フライングボディアタック

鶴田がタイトルマッチで初めてブッチャーに完勝した試合なのですが、これを今まであまり優遇されていなかった地元山梨での大会で実現させたというわけですね。個人的にはこの試合については、鶴田がブッチャー超えをハッキリと明示させるために敢えていったんブッチャーに負けたのでは?という印象を持っていました。(※既に移籍が決まっていたブッチャーの置き土産?)

ただし今思い直してみると“地元で悲願のタイトル奪還”というのは過保護なイメージの強かった彼の好感度アップには結び付かなかった気がします。インターやAWA奪取の時もそうですが、あまりにもお膳立てが整いすぎている感じで。。。。でも地元的には盛り上がった事でしょう。

そしてその2年後、いわゆる“ババ抜きシリーズ”において再度同市での大会が行われます。

1983年2月6日 韮崎市総合体育館 観衆2400人

メイン 6人タッグマッチ ○鶴田&カブキ&大仁田(12分23秒体固め)鶴見五郎&ジム・ディラン&マイク・デービス ※ジャンピングニーパット

セミ 天龍&石川(11分37秒 反則勝ち)シン&上田

正直相手の外国人側がかなり弱体ですね。ただしシン上田組が相手だと、たとえ勝ったにしても、反則攻撃で攻め込まれる状況が多くなり、あくまでスマートに勝ちたい彼の美学には合わず?このマッチメイクになったのかも?

この大会はテレビ中継もなかった為か、観客動員も前回よりはややダウンしております。そしてその後は山梨県内での大きな大会は行われなかったのですが、その4年後野外会場で驚異的な観客動員を記録した大会が行われます。

1987年4月4日 石和町神田温泉 観衆6900人(超満員)

メイン 馬場&○鶴田&輪島(8分19秒体固め)木村&原&鶴見 ※バックドロップ

石和町神田温泉という温泉は山梨県の笛吹市という市にある温泉街にある施設のようです。おそらくこの大会は野外大会でしょう。というのも当時全日本でリングアナを勤めていた故・仲田龍氏の著書『NOAHを創った男』(ベースボールマガジン社刊)の中にこの大会としか思えない話が出てくるのです。

この本は氏の自己顕示欲の強さがこれでもかというほど発揮されまくった本なのですが、それはいいとしてこの大会と思われる記述は以下の通りです。

『私が記憶する限り一番客が集まった野外興業は、全日本マットにジャパンプロレスが参戦する直前頃に開催された山梨の温泉街での興業。地元の観光協会の駐車場にイスを7000席並べ、観客で埋まった。チケットが売れた数は7000枚以上で温泉街の駐車場に椅子が30列並ぶ光景は圧巻だった』

お気づきの方もおられるかも知れませんが、「ジャパン参戦”前”」と言う点以外は条件が全て合致し、この興業の事を指しているのは間違いありません。この本はその他の日時データはかなり正確に書かれてあるのですが、なぜここだけ明らかに違うのかよく分かりません。今更税金対策でもないでしょうし。。。プロレス関係者のインタビュー本では良くある話ですが。。。

それはそうと、何故これだけ観客が集まったのか?まだギリギリ輪島ブームも続いていた頃ですが、テレビ収録もなくカードも弱いのに。。。鶴田個人がジャパン軍離脱集客の危機を感じて、自ら地元の知り合いの温泉街に切符を売りまくったのでしょうか?そして1年後同じように野外会場で驚異的な観客動員を記録します。

1988年8月22日 山梨県田富町パチンコニューワールド駐車場 観衆6400人(超満員)

メイン ○鶴田&谷津&輪島(13分31秒 体固め)ブッチャー&スヌーカ&●オーツ ※バックドロップ

当然のように鶴田が勝ち役を担っているのですが、何故ここまでの集客に繋がったのか原因は全く分かりません。参加外人もおなじみのメンバーですしシリーズ内の他の興業はどちらかといえば低調なのです。もう「鶴田の地元だから」以外に理由が見つからないのです。何か他の理由があったのか、是非知りたいところではあります。

天龍源一郎

なんとなく積極的にプロモート活動を行っていそうなイメージがある天龍ですが、故郷福井での試合はそれほど目立った活躍はしていません。勝ち役は担ってはいるもののビッグマッチは見当たらないのです。記録を一気に並べてみます。81年〜84年は目立った福井での興業はありません。

1985年4月8日 福井市体育館 観衆5000人(超満員)

メイン 長州&カーン&浜口(9分6秒 両者リングアウト)ハンセン&バス&ボブ・ブラウン

セミ ○天龍&石川(7分30秒 エビ固め)谷津&●栗栖 ※パワーボム

1986年12月2日 福井市体育館 観衆3400人(満員)

メイン 鶴田&○天龍&石川(10分37秒 首固め)長州&浜口&●寺西

1987年4月1日 福井市体育館 観衆3900人(超満員)

馬場&○天龍&輪島(12分22秒 エビ固め)木村&原&○鶴見 ※パワーボム

1988年5月27日 福井市体育館 観衆3600人(満員)

メイン ○天龍&原&冬木(20分37秒 エビ固め)谷津&カブキ&●田上 ※パワーボム

 1988年11月30日 福井市体育館 観衆3450人(満員)

メイン ○天龍&川田(21分6秒 首固め)タイガーマスク&●スヌーカ

天龍同盟全盛時でも結構普通な故郷興業であることが分かります。ビッグマッチもテレビ中継も見当たりません。しかし1990年の秋、久しぶりに福井でテレビ中継の収録が行われます。

1990年9月7日 福井市体育館 観衆3100人(満員)

メイン 鶴田&●田上(19分27秒 片エビ固め)ゴディ&○ウイリアムス ※パワーボム

そう!なんと言う皮肉かこの年の4月に天龍はSWSに去っていたのです。それどころか同月29日に同じ福井市体育館で「越前闘会始」というプレ旗揚げ戦を行うというこの因縁。離脱は5ヶ月前ですから流石に天龍が新団体旗上げの準備をしながら、その傍ら古巣全日本の地元での興業をプロモートしていた。。。なんて事はなかったと思いますが、当時を思い出しても不思議な感じがしたものです。

そしてこれからが本題となります!

③ 石川敬士

私は石川選手については「どちらかといえば好きな方」程度の印象なのですが、ブログを書いていると何故だかこの選手が気になってしょうがないし、別件の調べ物をしていても彼にまつわる注目点が次から次に集まって当初の予定を大幅に修正して石川メインのブログを書いたこともあります。

そして今回もそうなってしまいそうな予感。。。。さてさて石川選手の故郷といえば山形県。日大派閥等で人脈はありそうでありますが、調べてみると彼がアジアタッグ戴冠以降、異常な程山形地区での全日本の大会が充実していることが判明しました。

全日本創立当初から山形ではタイトルマッチは行われた事はありません。馬場のPWF王座争奪戦において米沢市体育館でブッチャーとシングルを行ったくらいが唯一のビッグマッチではないでしょうか?ただし定期的にサーキットコースには組まれており、山形県体育館・鶴岡市体育館・酒田市体育館あたりの大会が思い浮かびます。テレビ中継の収録もちょっと記憶にないですね。

しかし石川選手がアジアタッグ王座を戴冠以降、俄然故郷山形地区の興業がグレードアップするのですね!順に紹介したいと思います。

1982年9月8日 山形県体育館(観衆 4400人) ※テレビ収録

メイン ○馬場&テリー(7分30秒 片エビ固め)ハンセン&●ブラックウエル

セミ アジアタッグ選手権 佐藤&○石川(11分49 体固め)ルーファス・ジョーンズ&●フランク・デューセック

きっちり石川がタイトルマッチでピンを取り「いいカッコ」しておりますね。メインもテリーとハンセンが絡むと言うまずまずのカードですし、完全決着が付き満足度は高かったでしょう。ポイントはアジアタッグがセミという点ですね。地味な組み合わせではありますが、鶴田・天龍をアンダーカードに追いやってのセミはかなりの優遇です。

ここで馬場の信頼を得た?石川は半年後も山形で興行を開催します。

1983年3月2日山形県民体育館 観衆4500人 テレビ収録

メイン ○ トミー・リッチ(9分35秒 反則勝ち)カブキ ※カブキの毒霧攻撃

セミ アジアタッグ選手権 ○井上&原(16分10秒 回転エビ固め)●大熊&小鹿

セミ前 鶴田&●石川(10分29秒 片エビ固め)○シン&上田

本来なら石川はアジアタッグに出場するはずだったと思うのですが、相方の佐藤の怪我で王座返上。しかししっかり鶴田と組んで狂乱コンビと対戦し血だるまで玉砕し存在を示しています。メインのカードも新鮮ですし、連続のテレビ中継!プロモーター(だとは思いますが)石川の評価はさらに上がったのではないでしょうか?

波に乗る石川は次期シリーズでは場所を変えて鶴岡市での興業にて大役を担います。

1983年4月4日 鶴岡市体育館 観衆3000人 ノーテレビ

メイン 馬場&鶴田&○天龍(9分19秒 片エビ固め)ハンセン・バス・●ドノバン

セミ ミズリー州ヘビー級選手権 ○ケリー・フォン・エリック(13分41秒 体固め)石川 ※タイガークローからそのまま抑え込む

日本で初めて開催されたミズーリー州ヘビー級選手権( 当時NWA王座への登竜門として知られた存在だった)の挑戦者に抜擢されたのです。格上の原を差し置いて。。。相手も『フリッツの息子」としてイメージしやすいケリーですし、チケットも売りやすかった事でしょう。「山形と言えば石川」のイメージは全日内ではさらに強固になったのではないでしょうか?さらに石川の快進撃は続きます。

1983年 12月9日 山形県体育館 観衆4300人 ノーテレビ

メイン 最強タッグリーグ戦 馬場&○ドリー(18分40秒 SPTホールド)マスカラス&●ドスカラス

第6試合 ○ 石川敬士 (13分7秒 逆さ押さえ込み)鶴見五郎

ノーテレビとはいえ馬場&ドリー対マスカラス兄弟というのはなかなかのドリームカード。リーグ戦に参加していない石川は流石に上の方では試合は組んでもらえませんでしたが、リーグ戦メンバーの宿敵鶴見にピンフォール勝ち。第5試合では原対モンゴリアンというリーグ戦出場者同士のシングルを抑えての第6試合です。

1984年 4月17日 山形県体育館 観衆3500人 ノーテレビ

メイン PWFタッグ王座決定リーグ戦 ○グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル(21分47秒 リングアウト)●馬場&ドリー

第5試合 ○ 石川(11分56秒 片エビ固め)デビッド・サンマルチノ

ここでも石川は前座試合に甘んじましたが、メインは興味深い試合。しかも番狂わせが起きています。もうこの時期の山形は主要サーキットコース扱いされていたと言っても過言ではないでしょう。そして翌年石川の最大の晴れ舞台が用意されることとなります。

1985年 4月3日 山形県立体育館 観衆5100人

メイン インタータッグ選手権 ○鶴田&天龍(11分53秒 反則勝ち)ハンセン・バス

セミ 石川敬士 (6分10秒 無効試合)長州力  ※阿修羅・原乱入

長州のサソリがガッチリ決まり石川のギブアップ負けかと思った瞬間、失踪していた阿修羅・原が乱入した試合ですね。試合自体は不完全燃焼ですが、石川としては「長州に負けなかった=引き分け」という事実は残ったわけだし、その後の印象度を考えても美味しい結果だったのではないかと思います。

原の乱入がなぜこの会場だったのか?当時はよく分からなかったのですが、いま考え直すと失踪して石川はアジアタッグ王座を返上することになりました。その罪滅ぼしとして原の乱入については石川がプロモートする山形大会をチョイスしたのではないでしょうか?インタータッグ戦も行われましたし、これまた大成功の山形大会だったと思われます。

1985年10月31日 鶴岡市体育館 観衆3400人(超満員)

メイン ○長州&カーン&谷津(10分49秒 体固め)ゴディ&カブキ&●クルーズ

セミ アジアタッグ王座決定戦 井上&○石川(14分9秒 回転エビ固め)寺西&●保永

ザ・ロードウォーリアーズ(4分22秒 体固め)天龍&●薗田

馬場&鶴田&渕(12分7秒 体固め)木村&原&●剛

半年後は場所を変えて鶴岡市。当然のように?石川はアジアタッグ戦に出場するのですが、この試合がセミであり、ウォリアーズ、馬場、鶴田、天龍の後に試合をしていると言う事です。アジアタッグ戦はマニアからしたら興味深いカードではありますが、かなり地味。しかしそれをセミに持ってくるよう進言できるほど当時の石川には発言力があったと言う事でしょうか。。。

順風満帆に見えた石川のプロモートですが、思わぬ落とし穴に陥ります。翌シリーズの世界最強タッグ決定リーグ戦で今度は山形県体育館がサーキットに組み込まれます。しかもテレビ生中継!当時はゴールデンタイムに復帰し生中継も開始さればからり、このシリーズでは後楽園(生)→横浜文体(生)→山形(生)→武道館(録画)と言う流れでオンエアされており、山形は武道館での最終戦を前にどう見ても波乱が起きそうな大会であるのです。

しかもこの年は全日本プロレスはジャパンプロレスと業務を提携しており、自身のシリーズ内でのビッグマッチでもその大会が収録されない、と言うケースが何度かありました。このシリーズも大阪城ホール大会(鶴龍対ハンセン・デビアス公式戦)、愛知県立体育館(馬場ドリー対長州谷津公式戦)の大会場での試合が収録されず、当時は「この2会場をすっ飛ばしてなぜ山形なのだ?」と疑問に思ったものです。

そして定石通り?山形大会では長州谷津がレイスバー組に、ハンセンデビアスがニックヘニング組にそれぞれ反則前し、鶴龍がキッドスミス組の両リンに持ち込まれる等波乱の大会になるのです。

そして石川選手当人はリーグ戦には参加していませんが、とんだアクシデントに見舞われこの山形大会を欠場する羽目になるのです。

1985年12月1日後楽園ホール ○石川(8分15秒 体固め)栗栖 ※ダイビングギロチンドロップ

この試合で石川は腰を負傷し、最終選まで欠場する羽目になるのです。ん?ダイビングギロチンドロップ?この半年前マリオ・ミラノを失神させた技じゃないですか?しかも場所も同じ後楽園ホール。マリオはその後のインタビューで「客から俺に対して死んじゃったコールが起きたらしいな!そんな酷い国にはもう来ない!」と怒らせた因縁の技。ミラノのはるかオーストラリアからの呪いが石川のアクシデントを呼び込んだのか。。。。

1985年12月7日 山形県体育館 観衆4600人

6試合 馬場&ドリー&○大熊(10分17秒 体固め)木村&原&●剛

この大会の生中継ではこの第6試合が5分以上放送され、結局メインの鶴田・天龍対キッド・スミス戦はほとんど放映されずに生中継は終了しました。本来は間違いなく石川が大熊の所に入る予定であり、サソリ固めで剛を葬っていたのでしょうね。結果的には熊さん最後のテレビ勝利シーンが放映できたのは意義があったと思うのですが。。。

ただしこの怪我で運が逃げて行ったのか?それとも「ちょっと石川にいい思いさせすぎじゃないのか?」という天の声が入ったのか?山形での興業が急に減ることになるのです。次の大会は1年後になります。

1987年1月27日 山形県体育館 観衆 3400人(満員)

メイン 鶴田&天龍&○輪島(10分46秒 体固め)木村&原&●鶴見 ※ゴールデンアームボンバー

第8試合 ○カート・ヘニング&フランク・ランカスター(10分19秒 回転エビ固め)石川&●川田

取られたのはパートナーの川田とはいえ、弱小と言っていい外人チームに完敗しちゃっているんですね。輪島ブームで湧き返る最中に。石川の身辺に変化が生じているのでは?と思ってしまいます。そして次に確認できる興業は1年半後、石川在籍時の山形の興業としてはこれが最後になります。

1988年6月8日 鶴岡市体育館 観衆2400人(満員)

メイン 鶴田&谷津&○高野(12分21秒 体固め)シン&JJファンク&テラー ※ミサイルキック

第6試合 カブキ&○石川(11分53秒 サソリ固め)スパイビー&●リップ・ロジャース

勝つには勝っていますが、非常に地味な扱いになっていますね。全盛時?の石川に比べれば。この時期アジアタッグ王座からは陥落していたものの、体はは程よくシェイプアップされておりむしろコンディションは良かったのではないかと思います。

そしてこの年の年末、最終シリーズ終了後、石川は盟友輪島と共に電撃的に引退してしまいます。このご当地興業の減少とも何か関係があったのか?そう邪推してみたくなるんですね。他の選手でいえば、阿修羅・原、高杉正彦、大仁田厚も地元での大会での厚遇ぶりが目立つのですよ。逆に渕正信は全くその事は感じさせないのですがね。

今回はこんな所です。かなり集中して調べたつもりですが、抜けもあるかと思います。ご了承ください。とにかく熱戦符を眺めているだけで色々と妄想ができてたまらんのですよ。他の選手についてももう少しかけそうです。それから新日本プロレスの1986年以降の熱戦符データをお持ちの方、該当するサイトをご存知の方!教えていただければ嬉しいです!新日本版も書きたいのです!

それでは、また。

#全日本プロレス

#石川敬士

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