こんにちは、みやけです。
前回は西城秀樹さんの曲に関する思い出を書いたのですが、twitter経由でたくさんのお礼、激励の言葉をかけていただき本当にうれしく思いました。動機として、特に「泣かそう」と思って書いたわけではなく、子供のころに他者と共感し得なかった出来事についていつか書きたかったというだけなのですが、多くの秀樹さんファンの声が心に刺さりいみじくも「書いてよかったな」と深く感じました。そして秀樹さんファンの秀樹さんに対する深い思いれについてもいたく心にしみました。
そして今回は前回書きながら思い出した私自身の「ラジオ」に関する若い頃の思い出をもうひとつ書かせていただきたいと思います。今回の内容は西城秀樹さんには全く関係の無い話ですし、もっと言えばアイキャッチに使用させていただいた森口博子さんについても、ほぼ、、、、、まあちょっとだけしか関係ありません。(笑)ご了承ください。

では本題です。それは前回の話の中で大きなポイントになった、RKBベスト歌謡50。TBS系列の福岡のローカル局のかつての看板番組ですが、私はその関係者にどこかでお礼を言いたかったというお話なのです。
私は1977年頃から1983年くらいまでこの番組のヘビー視聴者でありました。あまり友人がいなかったこともあって小学生時代は日曜の午後、部屋に閉じこもってこのラジオ番組をしょっちゅう聴いていました。少なく見積もっても2回に1回は聞いていたと思います。そして私は中学に進み野球部に入部します。そうなると聴くのは絶望的になるかと思ったのですが、わが中学の野球部は練習はそれほどハードなものではなかったので、日曜の練習は一応毎週行われていたものの、13~14時頃には終了していたのです。
ですので、番組の後半は何とか聞くことが出来ました。遊びたい盛りの中学生ですから、練習が終わったらそのままどこかに遊びに行こう!というお誘いもないこともなかったのですが、ベスト歌謡50を聞きたい私はその手の付き合いも2回に1回程度に抑え、なんだかんだと理由をつけて帰宅し、日曜の夕方はお菓子を食しながらラジオを聴いていたのです(笑)
3年間そのような生活を送った後中学を卒業となり、私は「県立福岡中央高校」という高校に進学します。そしてまた野球部に入部するのです。この福岡中央高校、元々は女子高であり、明治31年開校という長い歴史を持つ高校です。OBにはあのサザエさんの作者である漫画家の長谷川町子さん、俳優の米倉斉加年さん、、、、、そしてタレントの森口博子さんがいらっしゃいます。

森口さんは私が3年生の時に新入生として入学されてきました。すでに中学時代から地元のCMに出演していた森口さんは入学当初から校内で話題になっていました。彼女は演劇部に入られました。なもんで私の代の卒業アルバムの部活動紹介のページでは彼女の姿がばっちり掲載されています。芸能活動を本格化するため彼女は私の代の卒業と時を同じくして東京に引っ越し、堀越学園に転入するのですが、1年しか在籍しなかった中央高校の思い入れは深かったようで、バラドルとして大ブレイクした後、「母校を訪問して思い出に浸る」的なテレビ番組が何度も放映されています。
残念ながら?私自身は彼女と直接かかわる機会はありませんでした(涙)でも彼女の生の姿を一度は確認したい、というのは男子生徒ほぼ全員の願望でしたものですから、既に最上級生となっていた野球部内のメンバーも「演劇部での彼女の練習風景を見に行こう!」と意見が一致!「雨の日の室内練習での筋トレの最中にこっそり抜け出して見に行くのが最大のチャンス!」という結論になり、(監督は外部の人でしたから雨天時は学校に来ず)、12人いた我々最上級生は3手に分かれて演劇部の練習風景を覗きに行ったものです。
演劇部の練習は講堂で行われていましたから運動部関係の人間が近づく理由はないのです。なのに汗臭い練習用の野球ユニフォームを着た坊主頭のむさい男が入れ代わり立ち代わり講堂を周辺をうろうろしているのですから、周りから見れば魂胆はバレバレだったでしょうね。何をやっているんだか。。。(笑)
同じ時期に高校に在籍しながらかかわりを持つことがなかった私ですが、彼女のあまりうまくいかなかったデビューからその後の大ブレイク、そして近年の活動まで静かに応援させてもらってきたつもりではあります。相変わらずベッピンさんですし、キャラクターも変わっていないのが素敵ですね。彼女が当時私のことを認識していた可能性は極めて低いですが、何かのはずみでこのブログを読み「●●さん(私の本名)じゃないですか!」とコメント欄に書き込んだりしたりして、、、なんてくだらない妄想に浸ったりもします(笑)
で、本題です!森口博子さんの話題はこれで終わりです!アクセス稼ぎに利用したと思われても仕方がないですが。。。(苦笑)

高校に入学すると野球部の練習は相当に本格的なものになり、日曜も終日拘束されるようになります。ファンである沢田研二さんですが1年の時には「おまえにチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」がヒットしていましたが、練習禁止であった試験前1週間を除けば番組をほぼ聞くことが出来ない状態に陥りました。日曜でも帰宅は19時頃でしたからね。ちなみに木曜21時から放送開始のザ・ベストテンはちょうどその時間頃の帰宅でしたからなんとか夕食を取りながら見ることが出来たのです。
中学時代よりはるかにレベルが上がった野球部の練習に耐えつつも、私はベスト歌謡50のランキング情報収集の欲望が募っていきます。そんなこんなで迎えた年末、「年間ベスト50」の順位だけはGETしたい!と考えるようになりました。ベスト歌謡50でもザ・ベストテン同様年間ランキングを放送していたのです。しかし当日の練習は冬季のランニング中心メニューとはいえ夕方4時ころまでは確実に行われることは確実だったのです。
私は対策を練りました。まず母親と交渉しラジオを全部聴いてベスト50を書き留めてくれないか依頼しました。当然拒否されました。5時間近くずっとラジオの前にいなければならないのですからね、当然です。しかし私は母を恫喝・脅迫し?なんとかベスト20まで記録する約束を取り付けました。その年ジュリーの年間ベスト10入りは厳しかったのですが、「お前にチェックイン」と復活タイガースの「色つきの女でいてくれよ」はベスト20ならランキングインの可能性があったからです。ちなみにその代償は翌年のお年玉の半分をマネージメント料として献上することになりましたが。。。
でもやはりベスト50の情報はどうしてもGETしたい!という欲望は抑えきれませんでした。この1年我慢に我慢を重ねた反動があったのです。意を決した私はゲリラ戦法を取ることを決意しました。同番組を放送しているRKBに直接乗り込みランキング表をもらおうという大胆不敵な試みでした。もちろん放送前ならその情報をもらえるはずはありませんが、終了後なら台本か何かをもらえるのではないか?という甘い目論見でした。
当時RKB社は福岡市の文化の中心・西鉄天神駅の隣駅の薬院駅の近くにありました。そして私の高校もその周辺にあり、電車通学の私は練習が終わって駅に向かうのがちょうど17時半ごろの放送終了時頃でありちょうどいいタイミングかな?と思ったのです。ただし無学で非常識な高校1年生なので「相手に迷惑ではないか?」とか「それができるかどうか事前に連絡しておいたほうがいいのではないか?」などいう事を考えるには至りませんでした。まさに若気のいたりというしかありません。
私は当日、一緒に電車通学していた野球部の同僚Yと一緒にRKB本社に乗り込んだのです!Yは付き合わされただけなのですが、彼は松田聖子さんのファンでその年は「渚のバルコニー」や「赤いスイートピー」がヒットしていたので興味はなくもなかったようです。私はまず正門の駐車場受付BOXにようなところで守衛らしき中年男性に気持ちを語りかけました。興奮していたのでかなり早口だったと思うのですが、Yが通訳してくれ?なんとか「先ほど放送されたランキング表が欲しい!」という気持ちは伝わったようです。

守衛の方は部外者をチェックし、不審者は追っ払うのが業務であるかと思うのですが、坊主頭でパンパンの野球用練習バッグを担いだ坊主頭の学生服2人組の襲撃には面喰いつつも、強い思いれで話す私の気持ちを汲み取ってくれたのか、「ちょっと局の人に聞いてみるけん」と言って、おそらく建物の中の人に電話を繋いで事情を話してくれたようです。そしていったん電話を切り、建物内からの回答を待つことになりました。
時期は12月後半の夕方18時頃。あたりは夕闇が迫ってきます。待つ時間は10分、そして15分を過ぎました。練習でほてっていた体も徐々に寒さを感じてきます。そして20分近くが経過したあたり守衛室の電話が鳴りました。おじさんは電話を取り少し会話した直後「ランキング表ば持ってくるちゅーとるばい!」と笑って語り掛けてくれました。そして30歳くらいの男性の方が建物から紙を持って走ってきました。私は自分のしたことが非常識なふるまいだったのではないかと思い始めていたのでかなり悲観的な気持ちになっていましたので、この光景を見たときは本当にうれしかったものです。
男性は私に数枚の紙を渡し「これになるけどいい?ちゃんとしたやつは渡せんけん」といい、「熱心に聞いてくれとるんやね、ありがとう!」といって笑ってそそくさと建物に戻っていきました。渡された紙は印刷されたランキング表ではなく走り書きでした。でもそれには1位から50位までちゃんと書かれていました。でもそれは簡略された書き方でした、たとえば「5ーチャコ」「20-ニンジン」みたいな書き方なのです。でも歌謡曲ファンなら「チャコ」=サザンオールスターズのチャコの海岸物語、「ニンジン」=田原俊彦さんのNINJIN娘だと容易にわかるなんとも意気な記載方法でした。

一時は絶望的な気持ちになっていただけに、その男性からいただいた紙はすごく貴重なクリスマスプレゼントでした。今思い返してもなんと機転が利いたふるまいをしてくれたものだと感謝の気持ちでいっぱいです。おそらくですが、印刷され社名が入った資料をどこの馬の骨とも知れない妙な高校生に渡すことはできなかったのでこのような方法を取ったのではないかと思います。守衛さんが後押ししてくれたのもあるでしょう。とにかく資料を渡してくれた男性にはまともにお礼を言うこともできませんでした。とりあえず守衛の方にお礼を言い日が落ちて真っ暗になったRKB本社を後にしました。
そして帰宅した私は、もらったランキング表と、母を恫喝?して書かせたベスト20と比較してみました。ランキングは完全合致していたのです!RKBの誰とも知れぬ方が私のために50位分正確なデータを書き写してくれたのです。当時はコンプライアンスとかは無縁のいろいろと緩い時代だからこそこんな対応ができたのだとは思いますが、あの時のやさしい対応には本当に感謝しています。自分が大人になればなるほど、その優しい対応が心にしみます。
当時言う機会がなかったのですが、改めて
RKBベスト歌謡50のスタッフの方!ありがとうございます!
と言わせていただきます。純粋な少年の気持ちにしっかり答えてくれたのは本当に感謝しています。ラジオを2時間視聴し、20位までランキングをメモってくれた母には金銭でしっかり補填をしております(笑)でもRKBの方には全くお礼を言う機会がなかったのは心残りですね。
私はこのブログでもtwitterでも「マスコミ」という媒体に関してはかなり辛辣に批判しており、正直ぼろくそに言っています。でもこの件についてはずっと感謝の気持ちを持っていますし。今まで書いてきたマスコミに対する見解を改めるつもりはないのですが、これだけは本当に感謝しているのですよ!
今日はこんなところです。それでは、また。
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#沢田研二