たけしプロレス軍団(TPG)新日マット登場の深読み (前編)

こんにちは、みやけです。今回はプロレスのお話。あのビートたけしさんがプロレス団体を旗揚げし、新日本プロレスに挑戦したいわゆる“たけしプロレス軍団(TPG)”について、一体どのような経緯であの流れが発生したのか?演繹的推理で仮説を立てようとするものです。

あのたけしさんを「ボスキャラ」としてリング上に引っ張り出したのは、個人的にはモハメッド・アリと異種格闘技戦を行うに匹敵するくらいものすごいことだったと思うのですが、関係を終えたたけしさんサイドがこの件を「黒歴史」的に封じ込めてしまっており、なおかつあの時以上にビッグな存在になってしまった事もあって、プロレス側からはなかなか突っ込んで踏み込みにくいのではないか?私はそのように感じているのです。

今回は私の記憶を元にその経緯を推測してみたいと思います。「記憶」と書いたのは、私は“ビートたけしのオールナイトニッポン”のヘビーリスナーでありまして、中・高校時代は部活動・受験勉強でへとへとになりながらも毎週木曜深夜1時からは毎回朝3時まで視聴していた訳ですよ。当時はおいそれと録音できる時代でもなっかたですしね。そして同時に既にヘビーなプロレスファンでもあったわけでTPG発足については、非常に興味深く聞いていた訳です。その流れは今でも鮮明に覚えています。

ただしかし、検証するなら出来る限り多方面から書籍を読み漁り、関係者のコメントも出来るだけ収集しなければ、真の研究とは言えない訳です。この件については国会図書館に出向き、当時の東スポのマイクロフィルムを軒並みチェックすれば(何度か経験あり)事実の裏ずけも数多く収集できるとは思うのですが、流石にそれは断念しました。(東京に出向く機会があればやりたいとは思っているのですが)ですので今回は記憶頼りの妄想が中心となる訳です。それなりにネットでチェックはしましたが。。。。そしてどちらかといえば今回はプロレス視点よりビートたけしさん側からの視点が主となります。まあ、御託はこれくらいにして初めていきたいと思います。

このテーマに関わるのは「新日本プロレス」「ビートたけし」「テレビ朝日」そして「東京スポーツ」となる訳ですが、各々の状況を時系列で記していきたいと思います。あ、そういえばこの問題は「昭和」以降の話ですが、、、、まあ、気にせずお読みください(笑)

1986年夏

たけし → 自身の女性問題に関して各写真誌から執拗な追跡を受けるようになる。

新日本プロレス → 前田率いるUWF勢との抗争も頭打ちになりワープロの視聴率も10%強に低迷。ブロディが1年ぶりに再登場するもカンフル剤にはなりませんでした。

1986年12月

たけし→12月9日にフライデー襲撃事件発生。たけしさんは間も無く釈放されるも、当面の間謹慎となりテレビ出演を自粛する事になります。

1987年1月

たけし・東スポ → TPG発足における最大のキーポイントになる「“たけし軍団”東スポカメラ強奪?トラブル」が発生し、連日東スポの一面を飾る事となります。ちなみにこの事件、他のメディアではほとんど報じられていません。今では想像もつかないかもしれませんが、当時のたけしさんと東スポはフライデーと同じくらいの犬猿の仲でした。

1980年代中盤から1990年代中盤頃にかけて、なぜか東スポは毒舌系のお笑いタレントについての女性関係や人間関係のトラブルについて執拗かつ悪意的に報道することが頻繁に行われていたのです。噂レベルの話なのにタレント名を一面に載せ中身はスカスカといった、、、、たけしさんの後はとんねるずダウンタウンがその餌食になります。「何がそんなに憎いんだ」と思うくらい当時の東スポは芸人について悪意的に書いていたのです。

そしてこの“たけし軍団”東スポカメラ強奪?トラブル事件です、詳細は年明けにたけしさんをはじめ、軍団および関係者がとあるお店で新年会を行っており、東スポのカメラマンが店外から撮影のチャンスを伺いじっと待機していたようです。会も終わり出席者が店から出てくる瞬間を狙って東スポのカメラマンはたけしさん本人の姿の撮影に成功します。当然無許可だったようです。

そしてその瞬間、たけしさんの”関係者”がカメラマンに近寄り、威嚇し、暴力をふるってしまった、と私は記憶しています。ちなみみこの“関係者は”もちろんたけしさん本本人ではありませんし、軍団でもありません。あくまで“関係者”です。まあ、当時のたけしさんファンにしたら「ああ、あの人か」とすぐに顔が浮かぶそこそこ名のしれた方ですが。。。。

しかし、東スポはこの事件を自紙で大々的に報じました、見出しは「たけし軍団また暴行!」というショッキングなものでした。この件はたけしさんや軍団が店から立ち去ってから一悶着あった話のようで、当人達はこれを目撃していない可能性もあります。しかし東スポはこの“関係者”を”軍団”として表現し、連日たけし本人から謝罪がないことを執拗に報道したのです。

たけしさんサイドからすれは、もし身内が暴力行為を行ったのならそれは謝罪しなければならないという思いはあったのでしょうが、当時はオールナイトニッポンの出演も自粛しており、自身の表現の場を失っている状態。東スポの紙面での追及に対しノーガードでボコボコにされるのは相当にこたえたのではないかと思います。

フライデーに関しては相変わらずたけしさんへの対決姿勢は示していたものの、世間の風当たりは相当に強くなっていました。しかし東スポはその特異な存在感によって「面白そうだからもっとやれ!」という感じの世間の反応であり、いわばやりたい放題の状況が続いていました。たけしさんサイドからすれば、復帰にあたっては東スポとの関係をクリアする必要がある、と考えても不思議はなかったと思います。

1987年3月

新日本プロレス → 3月26日 大阪城ホールにて「〜アントニオ猪木レスラー生活20周年記念〜INOKI闘魂LIVE2」が開催。特例として当時全日本プロレスの契約選手出会ったマサ斎藤がメインで猪木と対戦。しかし当時新日本の試合に乱入を繰り返していたいわゆる“海賊男”が試合後半に乱入し斎藤に手錠を掛けて控え室に連れ去るという不可解な行為が発生し結果斎藤の反則負け。

あまりにお粗末な結末に場内のファンが暴走。リングに物が投げ入れられたり、火を付けるものが現れる等場内大混乱となりました。新日本プロレスの人気下降ぶりを象徴するようなスキャンダルです。そしてこの大会の以前から決定事項ではあったのですが、「ワールドプロレスリング」は金曜8時の時間帯から撤退することになります。

テレビ朝日 → たけしさんがMCを努めていたテレビ朝日のバラエティ番組「ビートたけしのスポーツ大将」が3月いっぱいをもって打ち切りとなります。その他当時のたけしさんのレギュラー番組は日本テレビ「天才!たけしの元気が出るテレビ」フジ「オレたちひょうきん族」TBS「風雲たけし城」「世界まるごとハウマッチ」は元々番組内の企画がメインの作りだったのでたけしさん不在でもなんとかやりくりし打切りには至りませんでした。

しかし「スポーツ大将」についてはアマのスポーツチーム(町レベルのクラブチーム)がたけし軍団およびそのスポーツの経験がある助っ人タレントと対戦し、その試合を見たたけしさんが解説者としてツッコミを入れるという、たけしさんありきの番組であったため持ちこたえることが出来なったのです。テレビ朝日の番組だけ終わってしまい、たけしさん的には大きな借りができてしまったのではないでしょうか?

そしてこの番組を企画したのが皇(すめらぎ)達也プロデューサー。「欽ちゃんのどこまでやるの?」「ミュージックステーション」「たけしのTVタックル」等テレ朝の人気バラエティ番組作成になくてはならなかった重鎮であり「テレ朝の天皇」という異名もあったようです。オールナイトニッポンでもさかんにこの人の名前は出てきましたね。そしてこの皇氏、TPG設立に大きく関わったのではないかと私は推測しています。そしてその方が。。。

1987年4月

新日本プロレス → 当時の新日本プロレスファンにとっては黒歴史との言える「ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング」の放送が開始されます。MCは当時人気絶頂の山田邦子さん。山田さんはたけしさんと同じ太田プロの所属で、「スーパーJOCKEY」等多くのたけしさんの謹慎期間中の番組で代役を務められてもいました。そしてこの番組のチーフプロデユーサーはは上記の皇氏なのです。初のスポーツ番組への取り組みでしたが、当時としては過剰すぎる演出に視聴率は一層低迷、栄光の人気番組瀬作の歴史を持つ氏としてはなんとかテコ入れの必要を感じたに違いありません。

1987年夏

新日本プロレス → 全日本プロレスでファイトしていた長州力・マサ斎藤・小林邦昭・スーパーストロングマシンら大半のジャパンプロレス勢が全日本との契約を破棄して新日本に復帰しました。しかし日本テレビとの契約問題がネックとなり、「試合には出場できても、テレビ朝日のワールドプロレスリングでは放映できない」といういびつな状況が続くことになりました。

長州が参戦している以上、当然大会場ではビッグマッチを組むわけですが、これを放送することはできないジレンマに悩ませることになります。ジャパン勢を取り戻し、人気が逆転しかねない状況あった全日本プロレスに対して差をつけるチャンスであったのですが、なんともこの中途半端な状況のためか思ったほど人気回復とはなりませんでした。新日本は違約金支払い覚悟で長州らを引き抜いたのだと思いますが、これは完全に目論見が外れたのではないかと思います。

たけし → 約半年間の自粛期間を経て現場復帰。その場所は予想通り、ラジオ「オールナイトニッポン」でした。当初は軍団のみが復帰し、翌週たけしが復帰するという告知がされていたようですが、軍団の生放送の番組終了直前たけしが乱入し復帰をアジるというアナーキーでドラマチックな復帰を果たします。そして翌週からほぼ通常モードでオールナイトニッポンは再開されるのです。そして程なくテレビにも復帰します。

謹慎期間中、たけしさんの周辺には色々なことがあったようですが、wikiに以下のような記載があります。

事件後にたけしは太田プロダクションを退社し個人事務所「オフィス北野」を設立するが、たけしはこのことと事件の関連を後に明かしている。復帰直後に行く先々で右翼団体に復帰が時期尚早であると街宣を掛けられたことに太田プロダクションには全く対処してもらえず、街宣を指示していた暴力団幹部らの下に自ら出向いて事を収めたが、その際に事務所退社を条件として提示されたとのこと

分かる人にはすぐにピンとくるのではないかと思いますが、これってこのブログ内でも出てくる某と如何にも関連がありそうな案件だな〜と思わずにはいられないのですよ。流石にこれ以上は怖くて書けませんが。。。。。

そして、復帰後のオールナイトではすぐ「東スポ」の話題が出るわけなのですが、意外にその表現方法は嫌悪感に満ちたものではなく、東スポ独特のキテレツな表現方法をからかうという、いわゆる”愛あるいじり”に変貌していたのです。当時の私は大学生でしたが、流石にこれは「なんらかの取引があって和解したのだな?」と思わずにはいられませんでした。

そして「東スポと仲直りの野球大会を行う」と言い出したのです。「もちろんビーンボールは有り」としっかり笑わせるのですが。この野球大会で手打ちというのは、のちの対新日本プロレス、そして対フライデーでも使われることとなります。結果はたけし軍団の圧勝。まあ、それはどうでもいい事ですが。。。。

そしてこの後、現在に至るまでたけしと東スポとの蜜月関係が継続されることになる訳です。現在はどうなっているか確認していませんが「客員編集長」として30年近くにわたり、東スポの一面を使っての社会を斬るコラム。そして年1回開催する「東スポ映画大賞」。もちろんたけしさんなりのジョークを交えての企画なのですが、離合集散の激しい芸能界において何故これまでに長きにわたって「良好な関係」を築けたのか?たけしファンとしては不思議でならないのですよ。あれだけ東スポを嫌悪していたのに。。。

1987年9月

たけし → 9月8日(火)東スポ紙上でプロレス団体設立を宣言します。その内容は以下の通り。火・水で一般に認識させ、木曜深夜のオールナイトでたけしさんの生の声でその詳細について説明がなされました。練られた流れだな、と当時感じました。

「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった。力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手を育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバー1のプロレスラーだから」

ファンの方ならよくご存知だとは思いますが、たけしさんはボクシングのファンで、プロレスに関しては少年時代は興味を持っていたようですが、かなり冷ややか、というか明らかに見下し、ネタとして見ている感じです。弟子のタカさんやダンカンさんは明らかにプロレスファンでしたが。。。それにしてもこの時代はまだまだ一般社会にプロレスの話題を降っても「何それ?」とならないようなプロレスの認知度はあったのです。

これより以前からたけしさんは週刊ポストにおいて「毒針講談」というエッセイを連載していましたが、1983年年末の回でプロレスの話題を持ち出し「馬場がドリーファンクジュニアとタッグを組むって言っても、日本側だかなんだかわかんなくてなんだかピンとこないよな」と語っておられました。もはや隔世の感がありますね。今だったらEXITやかまいたちが世界最強タッグの参加メンバーの話を全国放送の媒体でガチで話すようなものですから。。。

そしてこの時点で「アントニオ猪木」というワードが出てきた時点で、「もう既に話はできているんだろうな」と当時の私は感じました。でもそれはどのような流れで猪木さん=新日本プロレスと繋がったのか?全くわかりませんでした。馬場さんとは日テレのバラエティ番組で結構前から面識があったはずですが(世界はショーバイショーバイ開始のもっと前)猪木さんとはその時まで面識があったかさえも怪しいものです。

1987年10月

新日本プロレス → ようやく長州力のテレビ出演が解禁。10月5日の生放送時には藤波辰巳との名勝負数え歌が復活することになりました。同時に猪木対マサ斎藤の巌流島決戦もオンエアされました。しかし大きな反響を呼ぶには至らず。かつて日本中を熱狂させた藤波と長州の絡みも時間が経ちすぎたせいか、なんだか色あせたものになってしまっていたのです。

そして、そんな中、TPGと新日本プロレスは急接近していき、2ヶ月後にはたけしさんが両国の新日本のリングに敵として上がるという事態にまで発展するのです。このスピード感には当時驚いたものですよ。

・・・・長くなりましたので、続きは次回に書きたいと思います。ディープな昭和プロレスファンなら、この時系列の流れでみれば「ああ、そういうことだったのな」おわかりになる方も多いかもしれませんね。ざっくり言えば、たけしサイドー東スポーテレビ朝日これらがフライデー襲撃事件の余波によってさまざな貸し借りができTPG旗揚げからたけし両国登場に繋がったと見ています。

次回はたけし軍団両国登場までの流れと、その結果これに関わった各者はその後どのような影響があったのか総括してみたいと思います。まあ、今回色々と書いていますが、私はたけし信者の一員であり、「たけしさんと同じ時代を過ごすことが出来て本当に良かった」と心から思っている一人です。そういえばTBSの情報番組も来春勇退されるとか。。。あとは自分の好きなように生きられればいいのではないかと思います。

それでは、次回も読んでくださいね!バイビー!(笑)

#アントニオ猪木

#ビートたけし

#新日本プロレス

#フライデー襲撃事件

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