「健全なる精神は健全なる肉体には宿らない?」
こんにちはCMBOです。
今日はちょっと視点を変えて雑談的な話をひとつ。。。。
『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』という言葉。
どこかで見たり聞いたりした覚えがある人が多いかと思います。
特に体育界の指導者が好んで使用されているように思われます。
概ね「スポーツで身体を鍛えれば自然に精神も向上するものである。」
という意味なのでしょうか?
この言葉、古代ローマ風刺詩人のデキムス・ユニウス・ユウェリスという方が
残した言葉なのですが、その意味は実は本来違うことを話しているいう解釈が
一般的なのです、ただ諸説あり確定的なものではありませんが。
本来「健全なる肉体には健全なる精神が願われるべきである。」
と言っているのです。
さらにわかりやすく言うと、「鍛えられた体の人間(=兵士)には其れ
相応の精神が宿って欲しいんだが、実際はなかなかそうじゃないんだよな〜(図体がでかい奴が素行が悪いのは本当に困り者だ)」と言う嘆きの歌なのです。なんせ風刺詩人ですから。
ではなぜこれが誤訳される事になったのか?誤訳されたのは日本だけではないのです。近世に入りなちす・ドイツをはじめとした各国が「宿る」とミスリードし、
さも肉体を鍛える事によてのみ健全な精神が得られるかのような言葉に
恣意的に改組し軍国主義を推し進めたのです。その結果、戦後教育でも
誤ったまま「肉体信奉」が説かれる事になったのです。
近年、プロアマスポーツ界での指導者のパワハラ事件が相次いでいますが、
トラブルが起きた場合でも、その分野のトップの人間は皇族まがいに
尊大な態度を取り、反省のかけらも無いように見受けられます。
体育会系のトップはその競技の経験者、さらにはかつてトップに君臨した方が
多いのでしょう。「一度健全な精神が宿ればそれはもう劣化することはない」
と確信しているように見受けられます。
結局「強さこそすべて」の信奉をぬぐい去れない事がいつまで経っても
スポーツ界のパワハラトラブルが減らない根源のように思われます。
更に言えば「礼儀」「礼節」と言う言葉をやたらと連呼する格闘技系スポーツ程
「強さこそすべて」的思考を補強するためにその言葉を連呼しているように思えます。
本来は「強い身体を持っているんだから精神もちゃんとしなきゃダメだぞ」
と言う思考であるべきですが、「我々は礼儀を何よりも重んじているから
◉◉の競技をやっているものには悪い奴はいない」と言う発想です。
何度こういう人物を見てきたことか。。。。
私が大学時代に懇意にさせていただいた教授からお聞きした言葉で印象的だった
言葉は「”先生”と呼ばれる職業はにはロクな奴がいない。」というガチな
自虐ネタでしたが(笑)、※政治家・医者・教授・学校の先生・博士らしいですが 自分の事を正義の言葉で防御するのは脅迫的であり健全な思考では無いと思います。
ここ最近、スポーツ界のトラブルが頻発していますが、これは突然急増していた
訳ではなく、コンプライアンスが厳しくなった事によって、ようやく
明るみに出てきただけで、指導者側の方はおそらく自身は「神」の領域に
近づいている存在だと思っているようですから記者会見での対応が
世間の感覚と噛み合わないのも頷けます。
私が何を言いたいのかと言うと、「肉体の強さ」と「精神の強さ」は別なのです。
私も高校まで野球をやっておりましたので、厳しい練習によって精神が
鍛えられる事を否定はしませんが、それは必ず比例するものだと考えるのは
明らかに勘違いです。
そしてなんやかんや言われながら一般社会はコンプライアンスとか
やっていい事悪い事の区別のレベルアップ、民度の高まりは確実に
上向いていますが、スポーツ界は中々変わろうとして無いな〜とつくづく感じます。
もう60〜70代のご老人にそれを意識してもらうのはもう無理でしょうが、
若い世代の指導者及び現役のアスリートの方々については、私の主張、
少しでも耳を傾けていただければと思います。
今日はこんなところです。
それでは、また。