エリートレスラーに昇格した川田利明

こんにちは、みやけです。

年内最終のブログは昭和プロレスの検証企画で締め括りたいと思います。1年間私の拙い文章をご愛読頂き有り難うございました!

今回のテーマは川田利明!活躍された時代は平成期である事は間違い無いのですが、昭和期にも武道館メイン登場を成し遂げていますし、若手時代にも興味深いエピソードが多い!更には中々個性的な性格も前々から興味深く感じていましたので、敢えて取り上げさせていただきます。

プロレスファンならご存知かとは思いますが、川田さんはプロレスは引退宣言こそしていませんがほぼ休業状態。10年前に都内に「麺ジャラスK」というラーメン店をオープンし現在でも厨房に立ち第二の人生を頑張られています。

このブログを見られておられるのは、マニアのプロレスファンだと思いますので、川田選手のバックボーン等は少々すっ飛ばして話を進めて参ります。

まず川田と言えば同じ高校の1年先輩である三沢光晴との扱いの差についてが常に語られてきました。「優等生である三沢の方が常に優遇されてきた」的な報道です。しかしそれって実際そうなのか?と私は常に疑問に思ってきました。

というのもその情報の大半は川田本人の発信であったからです。確かにデビュー当時の川田は同期の新弟子がおらず大半の期間彼一人であった為、オフ中でも試合においても非常に厳しい環境であった事は間違いありません。デビュー以来205連敗というのはその表れかと思います。

対する三沢は入団後程なくして倒産した国際プロレス勢の合流があり、若手の菅原、冬木が加入した事で「楽をした」とまでは言いませんが、余計な神経を使わなくて良い頻度は川田の比では無かったと思います。

馬場もアマレスである程度の実績を残しており、越中・後藤等他の若手と比較してみても、身長が頭一つ抜けており、スター性もありそうで従順な三沢は「大事に育てたいな」と思ったでしょうし、実力はありそうだが、愛嬌に欠け、先輩の世話焼きがメイン業務になってしまっている川田を敢えて抜擢するのは躊躇いがあったのではないでしょうか?。

それでは川田はずっと冷飯を食わされていたのか?そんな事はないのです。三沢と川田、それぞれのレスラーとしてのイベントを抽出し、比較してみました。参考資料として、鶴田と天龍のデータも引っ張り出してみました。デビューからどのくらいの期間を経てレスターとしての重要イベントに辿り着いたか?という資料です。

流石にデビュー直後は三沢の早熟ぶりが顕著ですね。タイガーマスクへの変身もあって全日本史上鶴田に次ぐ早期出世と言っていいでしょう。

しかし川田も極端に遅れを取っているという訳でもないと思います。イベントは1年程度の遅れでしっかり三沢の後を追いかけている感があります。私は若手の頃からずっと川田を見てきましたが、1985年の夏、愛知県体育館で三沢タイガーと組んでキッド・スミス組と戦った試合がテレビオンエアされましたが、半年ぶりに見る川田の上半身が三沢を追い越し、キッド並みに胸板が厚くなっているのにビックリしました。

当時はようやく小川良成が入門した頃でしょうけど、万年下っ端の立場にめげずにトレーニングを欠かさずにきたんだな、と感心したものでした。

デビュー4年目で海外遠征から凱旋帰国した川田ですが、ジャパンプロ大量離脱直後の人員不足で場合によっては第一試合に出ることもありました。既に先輩のハル薗田を破ったりしていましたが、前座を脱出できなかったのは当時の人員構成上仕方のない部分もあったと思います。それでも川田は腐らず精進し続けます。

凱旋帰国後半年ほどもがいた川田でしたがチャンスが訪れます。天龍源一郎が阿修羅・原とともに天龍同盟を結成し、川田も先輩の冬木とともに参加する流れとなったのです。その内部で川田は冬木と”フットルース”というタッグチームを結成。本来なら先輩である冬木が格上となるはずでしたが、2人は完全な同格のイメージでした。

このタイミングで川田の核は「若手と中堅の間」くらいだったのが、大きく引き上げられ大熊・永源・寺西あたりのベテランを抜き去り、石川・井上・渕のすぐ下あたりまで上昇しました。小橋の格を引き上げた時と似た手法です。この時点では馬場の考えの中には「いずれ川田は頭角を現わすだろうから大事に扱っていこう」というような変化があったのではないでしょうか?タフで基礎もしっかりしている川田の潜在能力に気づいて。

そして1年後、阿修羅・原の解雇という更に大きな転機。ここで天龍のパートナーとして馬場は冬木では無く川田を指名したのは本当に驚きでした。天龍・原組は全日本プロレスの最大イベント、世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦武道館大会のメインを任されていたのです。

それまでの馬場なら、最終戦のメインカードを五輪コンビ対ハンセン・ゴデイ組に入れ替えるか(そうすると多くの大会の組み合わせの再シャッフルが必要)、原と同格もしくはそれ以上のパートナーを急遽引っ張って来る(あるとすればこの時点では完全に全日本と切れたとは言い難かったキング・トンガ、もしくは馬場自身がこのシリーズ限定で助っ人参加)の二択だと思っていました。

時間の余裕が無かったこともあるでしょうが、馬場は川田を選択。これは全日本の歴史上最も画期的な抜擢だと思うのです。天龍のインタータッグ抜擢はありましたが、元々彼はスター候補。しかしくどいようですが、この時点の川田は“期待の若手”以外の何者でもなかったと思うのです。週プロデスク勢のアドバイスで馬場のマッチメイクに対する考え方が変わりつつあったのも大きいと思いますが。。。

ただし、私が最大の原因と考えるのが、当時の川田は表情をむき出しにして相手に突っかかって行く突貫ファイターのイメージが強かったからでは無いかと思います。「グワ=ッ!」と絶叫してのラリアットはご記憶の方も多いでしょう。

なぜ川田が抜擢されたかについて、川田の自伝「俺だけの王道」でも『分からない。もしかすると自分の方が冬木さんより少し大きかったからかも』と語っています。これについて明確に記された媒体はないと思います。

私の推測ですが、馬場にしたら最終戦メインで天龍のパートナーに求めているのは「如何に玉砕するか?」であったと思います。武道館の観客をまだその域に達していないレスラーが満足させるには“壮絶な玉砕”しか無かったと思いますから。(結果的に玉砕したのは天龍でしたが。。。)

冬木と川田を比較した場合、冬木にもその要素はあったとは思うのですが、彼はどちらかといえばテクニシャンタイプなので、比較的身体を張ったファイトをしている川田を選択したのではないかと思います。もちろん、これまで大きなミスを犯すこともなく着実に努力を重ねてきた川田に対する信頼も芽生えていたからでしょう。

そして川田はその抜擢に対し充分すぎるほどのファイトを展開し、自信を持ち、その後超一流レスラーへの道を歩んで行ったのだと思います。自信をつけ運をつかんだものが当初の筋書き?を遥かに超えて大きな力を発揮する、というのはマット界だけではなく他の業界でもよくある事。川田は波に乗ったのです。

そして上のデータを抽出してみても興味深いのですが、「興業でのシングルメイン出場」と「武道館メイン出場」においては三沢より川田が早かったのです。(川田のシングルメインはあすなろ杯優勝ご褒美による天龍戦)。三沢にとってそれぞれの初体験はいずれも例の天龍離脱後の武道館での鶴田との初対決なのです。意外ですよね?

三沢はタイガー時代は猛虎7番勝負という企画を組んでもらいながらも、シングルで興業のメインを張ることはなかったのです。川田は馬場からは「機会があればいつか引っ張り上げよう」と思われながらひたすら日々努力してチャンスを待ち、千載一遇の機会を捉えそのまま振り落とされずにエリートレスラーの道に乗った、そんな気がするのです。鶴田同様川田はレスラー生活において常に上昇しながら落ちることが無かった稀有なレスラーだと思います。

それにしても、鶴田の早熟さは異常ですね。元々後継者最有力候補として入団したとは思うのですが、デビュー1年半程度で馬場やデストロイヤーを抑えてシングルメインをはったのですから。。。(後楽園ホールでのドリー・ファンク・JR戦)

この回をまとめますと、「川田はエリート候補であったが、自身の努力でその座を掴み、転げ落ちることはなかった」んだと思っています。彼は自虐的に恵まれなかった点だけを強調しがちですが、チャンスかしっかりもらっていますし、それに応えるだけの能力もあったし、馬場もその素材を見抜いていた、というのが結論です。如何でしょうか?

さて、今回はこんなところです。次回の後編はこの川田選手のメンタルについて私なりに分析したいと思います。三沢さん曰く「ひと言多い」らしいですが、川田自身は自分のことを「硬派を装おっている」というような表現をしがちです。

しかし、このように自分の性格について「自分はこういう性格だからそう理解してくれ」とやたら強調する人は、実は本当の性格を隠したくて最初っから相手に先制攻撃を仕掛け侵入させないようにしているパターンが多いのです。

今回はこんなところですね。

それでは、皆様!今年一年ご愛顧ありがとうございました。来年こそはコロナが収まると良いいですね!

それでは、また!

#川田利明

#全日本プロレス

#ジャイアント馬場

#デンジャラスK

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。