コンプレックスを認めれば楽しく生きられる (第1回) 〜演繹的推理による心理学〜

こんにちは、みやけです。

今日は久しぶりに心の問題、心理学について書いて見たいと思います。このブログ、最近は私の趣味の話ばかりになってしまっていますが、元々は闘病&メールカウンセリングを主としたものです。特に性格的に悲観的な思考になりがちな人に「物事の見方を変えるだけで気持ちが一転するものだ」という事を広めて生きたいな、と思っています。ちなみにメールカウンセリングは随時受付中ですので、興味がある方は是非ご検討ください。

今回は「コンプレックス」という言葉について改めて検証し、コンプレックスが原因でどうしても悲観的思考をしてしまう人はどうそれを改善すれいいのか?について考えて行きたいと思います。長くなるので何回かに分けて書いて行きます。今回は1回目です。

これを書く切っ掛けとなったのは今話題のカップルですね。私の見解としては問題?の大きな原因は女性側の自身へのコンプレックスが、ただただの人の気持ちを理解する能力の乏しい人間人ついて「頼もしい」と心酔してっている状況なんですよ。これが理解できていないと今回の件が電撃的に白紙になったとしてもまた同じことが起こると思うのですよ。

私は一般的な人間のタイプとして以下の3つのパターンに分けています。

① 共感力が乏く、心に他人がいない人間

人の気持ちを理解する能力が非常に乏しいタイプです。「こんな事をしたら、こういう人達の気持ちを傷つける」「こんな事を言ったら、人によってこの様に受け取られかねない」という感覚が非常に乏しいので、多くの人から反感を買いやすいタイプですが、その逆自分に陣がないタイプの人間にとっては、その言動が「頼もしく」見える場合があり、”信者”と呼ばれる様なファンを取得するケースも多く見られます。視野が狭いため、自分についても他人についても限定された価値観でしか見れていません。基本的に政治家のポスターを思わせる様なギロリとした目を持つ方が多いようです。

② 精神的にバランスが取れ、自分のことをよく理解できている人間

承認欲求を満たされた環境で育っているため、自分が何者であるかしっかりと理解しています。自分が何が好きで何が嫌いか、嘘偽りなくしっかりと心の中にセットされているため、他人に対してジェラシーを抱いたり、恨んだりすることが少ないタイプです。共感能力が非常に高いので、①や③のタイプの人にもその心情を理解し寛容な心で接することができます。人からどう思われようと全く気にしていないので、自分の好きな事をとことん突き詰める精神的に健全な人生を送ります。金銭的に恵まれていなくても全く問題としません。

③ 自己卑下で自分に対して自信がない人間

多くの場合、幼少期に親から自身について存在を否定される様な扱いを受けてきたため、自分に自信がなく、常に自分の事を価値がない人間だと思っています。人から羨ましがられる様な容姿を持つ俳優・女優や強靭な肉体を持つアスリートにも数多く見受けられます。特に幼少期から親の「英才教育」なる指導を受けてきた人間はこの傾向が強くなります。イケメン・美人であっても怯えたり悲しそうな雰囲気の目をしているのが特徴です。

今回はこの③のタイプの人間について、どのような原因でそうなっているか検証し、生き方においてどう対処すべきか考えて見たいと思います。このタイプの方は今回のようにあり得ないような選択をしてしまうケースが多いのです。

③のタイプについて、その思考の大きな原因となっているものはわかりやすくいえば「コンプレックス」です。しかし、このコンプレックスという言葉、日本では本来の意味とは異なった内容で伝わっています。まずその事を説明します。

コンプレックスという言葉を最初に心理学で記したのはヨーゼフ・ブロイアーという学者です。元々定義されているものは「感情複合」というものであり、衝動・欲求・観念・記憶等様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡まり合って意識下に抑圧されているもの、とされています。分かりやすく言うと「常に心の中にあるモヤモヤした感情」とでも言いましょうか。。。ざっくりと言うなら「不安感」と言うことになります。

しかし、日本ではアルフレット・アドラーが唱えたコンプレックスの一つである「劣等コンプレックス」が突出して浸透する結果となっています。それは何故か?私の個人的見解としては縦型社会が続いた日本では、下のものに劣等感を植え付けて支配することが常であったため、浸透しやすかったのではないかと考えています。

ただし、重要なのはアドラーは劣等感を克服することによって、人格の発達が形成すると唱えています。これが非常に重要なことだと思います。日本人にとってアドラーの理論が多くの人に受け入れられているのはそれだけ劣等感に苛まれている人が多いからではないでしょうか?その前に自分自身の性格に劣等感が大きな影響を与えていると認識しているかどうか?自覚があるかどうか?が重要なポイントです。

人は自分の真の姿を直視することは非常に怖いものです。それをひた隠しにしている人は穏当に数多くいます。でもそこから目をそらすことで何故自分の心が怒りに満ちていたり、心の何処かに不安な思いが渦巻いていることに気がつかなくなります。私もかつてそうでした。私はコミュニケーション能力が非常に低い人間です。おそらくそれは子供の頃の承認欲求が満たされていないのが原因だと思うのですが、相手自分の気持ちを伝えることができず青年期は非常に苦労しました。

それで散々苦労したにも関わらず、就職する際「営業職」にやたらと固執しました。大変失礼な話ではあるのですが、「営業職はコミュニケーション能力に長けた一人前の人間」「事務職はコミュ力の低い1ランク下の人間」と言う決めつけの思い込みがあり、無意識にコミュ力が低い事を認めたくなくて、世間話ひとつもできない人間なのに営業職にこだわったのです。

その結果、その分野の第一企業であるにも関わらず、取引先で何を話せばいいのか分からず、ルートセールスを行わず公園や喫茶店でサボる事を繰り返し2年で会社を辞める羽目になりました。それでも自分のコミュ力の無さを認めることができず、今度は文房具の問屋の営業職として採用、またまた人間関係に苦労しました。しかし、私生活で車の人身事故を起こし免許取り消しとなることで、営業職から離れることになり心の負担が取れた気がします。自分には向かない仕事だったとようやく認識しました。次の配属先は物流部門だったのですが、なんとかそこではハマり、15年その会社に務めた後転職し、今でも物流に関わっています。まだ営業にしがみついていたと思うとゾッとします。

もうひとつ例を。

たとえに上げて申し訳ないのですが、Kさんと言う元プロレスラーがいます。90年代に活躍し今では飲食店を経営されている方です。選手としては非常に素晴らしく優秀な方で、多くの方を感動させたものです。しかし非常にクセの強い性格の方のようで、お店の接客や専門誌のインタビューでも独特の反応をされることが多くよくネタにされています。私もこの方の言動は非常に興味深く観察しています。

K氏は自身への批判、疑問、追求については(レスラー人生、飲食店他全てにおいて)、必ず具体的に「これにはこういう理由がある」と言う事を非常に論理的に述べます。具体例や証拠もしっかり述べます。しかしその姿を毎回見ていると私は「絶対に批判されたくないんだなあ、自分の真の姿を直視したくないんだなあ」とつくづく思います。世間一般でもそういう人はよくいると思います。

何か指摘されると「それは分かっています。どうするかの対応策もすでにやっています!」と頑なに話を掘り下げられるのを拒む人。特に自分の周囲に問題が発生して困っているのに、自分の事について聞いただけで「それはもう解決しています」という人、、、、問題はその部分なんだろうな、とつくづく思います。自分の弱点を直視しないということは必然的に「相手に問題がある」という結論になるわけです。

そうなると、自身の周囲には問題が山済みなのに、その部分には絶対に手をつけないため、ひたすら相手が悪い理由を積み重ねて行く形となります。そうなると周囲の人はいくらその人の話が筋の通った正論であったとしても、何か釈然としない嫌悪感がたまる結果となります。そうなって行くと双方の壁は理屈ではなく心理的な面でさらに深まる事になるわけです。

コンプレックスはアドラーが提唱する劣等感が起因となることが非常に多いのですが、その劣等感について直視できることは簡単なようで非常に難しいものです。いわゆる「自分を見つめ直す」と言う事ですが、それって本当に難しいのです。普通なら何年もかかります。でも劣等感をはっきりと認識できれば生きている事が楽しい人生になります。少なくとも暴かれるものがない、と言うことは不安がなく何をするにしても無心で物事に取り組めます。

そして劣等感が解決していないが故に、例のカップルやオンラインサロンに集まる信者のように、単に共感力の低い人を「頼もしい」と思い、そこに全力で依存するのです。

次回はどうすれば、劣等感を受け入れられるようになるのか書きたいと思います。今日はこんなところです。それでは、また。

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#アドラー心理学

#劣等感

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