
こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスのお話、創設期の全日本プロレスにおいて国際プロレスからトレードという形で移籍しNo2として貴重な戦力になっていたサンダー杉山について、昭和51年2月に突然退団してしまった事件について私なりに考察していこうというものです。喧嘩別れ(発表は円満退社)した馬場と杉山両者についてどちらに非があったのか?という点についての演繹的推理ですw

杉山選手の退団事情について簡単に書いて見ます。鶴田・ヘーシンクのデビューやデストロイヤーの助っ人参戦によって徐々に扱いが悪くなっていた杉山選手。昭和50年頃からそれが顕著になり、マッチメイク的にも第4試合くらいでタッグで極道コンビと戦いお茶を濁す、という事もしばしばでした。
同時に彼はサイドビジネスも活発に行っており、それが理由でシリーズの途中で試合を欠場する事も多くなり、道場に姿を現し同僚とトレーニングをこなすという事もほとんどなくなっていたようです。
さらに杉山は1試合あたりのギャラの単価も他の中堅選手より高く、それでいてサーキットにあまり参加しない「いいとこ取り」的な存在について団体内の同僚から批判が高まっていたようです。
そのあたりの問題について昭和51年エキサイトシリーズ(2月21日)の開幕戦の後楽園ホール(デストとブルー・シャークとの覆面10番勝負が行われた大会!)に現れた杉山に対して馬場が注意したところ、杉山は反発!「そんな言われ方をするならもう辞めますよ!」と盾突き、馬場も返す刀で「辞めてもらって結構!」と言い放ち、杉山は既にその大会でテリー・マーチンとのシングルマッチが組まれている事が発表されていたにも関わらず、会場を後にしてしまったのです。職場放棄というわけですね。
全日本プロレスの体質を考えるならここで馬場と杉山は完全決裂。二度と顔を会わせることは無いはずなのですが、杉山が全日本の名古屋地区のプロモート活動も請け負っていたためそうは行かなかったようで、後日両者は同席で記者会見を行い「退団は円満退社であること。」を強調し、杉山自身ははフリーになるがプロモート活動は継続し、その後も数回ですが名古屋地区の大会に選手としても出場しています。そしてその時の選手達の宿舎も杉山が関わっていた企業の系列のホテルに泊まっていたとの事です。当時の記事としては以下の様な内容が発表された様です。
1977年4月18日。チャンピオンカーニバル・大宮スケートセンター大会での試合前に馬場・杉山が同席で記者会見。馬場は杉山が3月31日付けで全日本プロレスとの契約が切れフリーになったと発表。
馬場の説明の要旨「杉山はタレント活動に加え、名古屋でサパークラブを経営している為に多忙で、試合を欠場することが多くなっていた。もっとプロレス活動に力を入れて欲しいと要請した事で杉山と衝突した。しかし彼は全日本プロレスの功労者であり喧嘩別れだけはしたく無い。同じマットに生きる人間として後味の悪い思いはしたく無い。」
杉山のコメント「テレビの仕事、名古屋での事業、そしてレスラーと掛け持ちでやってきましたが、どれも中途半端になりファンに申し訳ない。プロレスだけは辞めたく無いので馬場社長に頼んでフリーにしてもらった。今までより回数は少なくなるかもしれませんが、都合のつく限り試合をやりたい。全日本だけでなく国際プロレスからも話があれば出場します。

杉山が退団後も全日本と付き合いがあったという部分、繰り返しますが全日本の体質を考えれば相当に異例、いくらプロモートが関わっていたとはいえ馬場が職場放棄をしたレスラーとその後も付き合いがあったというのは杉山くらいのものでは無いでしょうか?(馬場逝去後、三沢光晴他NOAHに移籍予定の選手が離脱直後に売り興業の数試合のみ出場したことはありますが。。。)

更に言えば、詳細は後述しますが杉山在籍時の名古屋地区の興業は、他の地域と比較しても観客動員的にはかなり低調だったのです。この原因はレスラーや全日本フロント側にあるとは思いますが、杉山は興行主としてそれ程優秀であったとは思えないのです。それなのに。。。
ぶっちゃけ先に結論を書いてしまうと、おそらく双方の言い分があり完全にどちらかが悪い、という事はないようである。という身もふたもない結論になるのですが、そもそも杉山の出場状態は実際どうであったのか?細かく事実を検証して真実に近いところを探ろう!というのがこの企画です。まずは杉山選手の全日本在籍時の試合出場状況をまとめてみました。

傾向が実にはっきりしています。最初の1年強は欠場無し。日プロ勢が合流するまでは全日本のメンバーは少なく国際のレスラーの力を借りてようやく1日7試合なんとか組める、という状態でしたからサイドビジネスで欠場なんて申請できる状態ではなかったでしょう。
日プロ勢が合流したのは1973年のサマーアクションシリーズ。これ以降は流石にメインに出場する機会は緩やかに減少するものの、「試合を組んでもらえない」という事はありませんでした。ただし杉山選手側、近い側からの書籍・ブログによると、「会場に出向いたら試合が組まれていなかった」という事が再三あり、それが両者の亀裂の一端であるとされています。
果たしてそのような事があったのか?それがあるのなら資料で行くと入団から1年半近くが経過した1974年エキサイトシリーズ以降という事になります。ここで私はもう一度「試合を組まれない」という事を考え直してみました。プロレス興業の場合、参加外人選手や怪我で試合に出られない選手との兼ね合いで、今いる人数が奇数になるとどうしても試合からあぶれる選手が出てきます。(バトルロイヤルで回避する方法もありますが)その場合、「試合を組まない」のはどうしても若手選手やランク的などん尻の前座選手になりがちです。
全日本プロレスは日給制、試合がない分私生活に直結するわけであり死活問題ですが、夜の食事は馬場が街に連れ出したらふく御飯を食べさせてあげれば補填が効きます。遠征中は宿代も会社持ちですし、帰京しても合宿費用は会社持ちですから、当時としたら組まれなくても「仕方ない」で済んでしまうのかもしれません。
会社側としても今のように各個人ホテルの部屋があてがわれているとしたらその経費は勿体無いですが、当時の宿泊先は日本旅館。その他大勢の選手は大広間に押し込まれるでしょうから1人頭の宿代はそれほど大きい金額では無いのかも知れません。

しかし家族がある選手は、衣食住が保証されればそれでいいという訳ではありません。各種の支払いがありますからね。国際プロレスの経営が苦しくなった時代でも、鶴見等の独身選手は試合給の支払いが滞りがちだったとのことですから。なので、当初私は「トップクラス扱いで家族もあるの杉山選手の試合を組まない、なんて事があるかな?これは杉山選手の都合が大きな理由なのでは?」と考えました。しかしその後私には2つの書籍の記事を電撃的に思い出したのです!

ひとつめは、昭和プロレス研究の大御所、ミック博士が発行されている「昭和プロレスマガジン」の第3号”昭和40年代の全日本プロレス”内で検証された、「涙の日本プロレス残党熱戦譜」という検証企画があり、日本プロレスから合流した全選手、および既に全日本に在籍していた選手の試合がどのくらい組まれていたかを集計した大変貴重な記事があるのです。
それによると合流組は伊藤正男!が一番酷く全試合の半分があぶれ!流石に大木は外される事はありませんでしたが、小鹿・高千穂等そ以外の全員は程度の差はあれ全試合の1/3程度試合は組まれていないのです。
そして次が大きなポイントなのですが、駒・大熊・クツワダ等生え抜き選手も同じくらいの割合で試合を組まれていないのです。当時は「そんなこともあったのだ」と読み過ごしていたのですが、今思うと中々ひどい話です。少なくとも駒選手は結婚していたはずですし。そして上の表で掲載したようにこの時点では杉山選手が試合から外されている事はありませんでした。ご存知の方も多いかと思いますが、試合給の単価は大熊・駒より杉山選手の方が数万高かったようなのですが。。。

ふたつ目の書籍は辰巳出版社発行のおなじみ「G スピリッツ48号 馬場夫妻と全日本プロレス」内に掲載された佐藤昭雄元選手へのインタビューです。佐藤は設立直後の全日本は金銭的に当初選手に説明していたような待遇を作れなかったと語り、あるとき駒選手、大熊選手と飲み行った際(それぞれ別々の日にちだが、同じくらいの時期)両者から「馬場さんは嘘つきだ」と同じように愚痴られた、という話です。これも中々興味深い話です。これがいつの話なのか?日プロ合流前なのか?後なのか?が非常に気になるところです。
あくまで私の推測ですが、これはこの試合あぶれの話では無いでしょうか?ただでさえ試合の単価が以前と変わっていないのに、日プロ勢が合流したからといって試合が組まれない(収入の減少)があるというのは納得しがたいものではなかったのでしょうか?人生の大きな決断をして独立する人について行ったのに、後から合流した、それも崩壊した会社の人間とそれほど大差ない扱いを受けたのですから。。。。「何の為に馬場について行ったのか?」と駒や大熊が怒るのもわかります。(推測ですが。。。)

もう面倒くさいので宣言しますが、これからの文章は演繹的推理(←出た!)による推測・妄想のオンパレードです!w試合結果・会場・日付等は事実ですが。。。
おそらく契約形態が駒や大熊と違ったであろう杉山ですが、上の表でわかるよう1974年のエキサイトシリーズより欠場がチラホラ発生しだします。(怪我の可能性もありますが)それも内容的にはツアー途中の地方で急に欠場する、というもので1974年のチャンカンを例にとれば、第6戦愛知・常滑市→出場、第7戦徳島・阿南市、第8戦徳島・池田町→欠場、第9戦香川・小豆島→出場、と言った具合に地方サーキット途中で唐突に欠場になるパターンが多く、いわゆる「会場に着くと初めて試合が組まれていないのがわかる」パターンが発生したのでは無いかと思います。
交通網や通信手段が発達していないこの時代では、地方ツアー中ヒョイっと抜けてサイドビジネスをこなす、というのは中々難しいのでは無いかと思います。このパターンの欠場が半年ほど続きましたが1974年後半くらいから欠場の頻度が増えだします。それもガッツリ特定エリアのには姿を現さないというもので、何となくツアーを離脱して名古屋に戻り?サイドビジネスを行っていたのでは無いか?と推測されます。
もしそうだとするならば、流石に馬場の承認を得ず勝手に離脱したとは考えられません。渋々とはいえ承諾をしていたと思います。もっと言えば契約的に試合をはずす事はNGであったにも関わらず。
そうしてしまった為、杉山側は交換条件としてその手の欠場の承諾を馬場から得たのかもしれません。もっともっと言えば、頭のいい杉山のことですから「特別扱いされている全日本にはそう長くはいられないだろう。それならば自分のやりたい事をやれるだけやっておこう」と考えたように思うのです。
思えば、当初No2とした入団した杉山ですが、特別なビッグマッチは下に挙げる2試合のみ、彼に関してのドラマが作られる、なんて事はありませんでした。鶴田やヘーシンクの入団もあって、杉山のランクは緩やかにではありますが下降するのみだったのです。
1972年旗揚ジャイアントシリーズ2 USヘビー級選手権 ○ ザ・デストロイヤー(2-1)●杉山 ※デストロイヤーがタイトル防衛
1974年MSGシリーズ MSG杯争奪第2戦 ○ ペドロ・モラレス(9分57秒 ドロップキック)● 杉山
しかし、時が経つに連れ、杉山の欠場はあまりに露骨になるのです。1974年のNWAワールドチャンピオンシリーズ、ご承知かと思いますがこのシリーズの第8戦、鹿児島県立体育館で馬場はジャック・ブリスコよりNWA世界ヘビー級王座を奪取します。杉山の行動ですが、開幕戦は出場したものの2戦以降の九州地区のサーキットは全て欠場、しかし問題の第8戦にはしっかり?姿を表し馬場を祝福します。そして数試合また欠場しますが、サーキットには参戦。そして馬場が王座を奪回されるのは杉山の地元(と言ってもいい?)14戦での愛知・豊橋市体育館です。何の証拠もありませんが、側から見れば「美味しいところだけ試合に来ている」と思いたくなるのも無理はないかもしれません。

そして1975年に入ると杉山の欠場の度合いはさらに増し、ツアーの半分近くを欠場することも少なくなくなります。これ以上細かくは書きませんが、北海道や九州地区の欠場が目立ち、関東・中部・関西の東部を中心に参戦しており、「サイドビジネスのついでにプロレスをやっている」と言われても仕方のない状況になっています。そして問題の1976年エキサイトシリーズ開幕戦を迎えるわけです。馬場と杉山の口論は(全てかどうかわかりませんが)マスコミが目撃する中行われたようです。
そしてここで、今回の最大の演繹的推理を発動させます!w
仲直りも含めて馬場と杉山の喧嘩は演出であった!
という無茶苦茶なものですw。というのも、この後仲直りした杉山が数試合であるものの全日本出試合を行っている、というのがどうもひっかかるのです。いずれも愛知県体育館での試合ですが。マスコミの目の前では以下のレスラーから叛逆されて、それをビジネスはビジネスと捉えられる程馬場夫妻は寛容な人間であったのでしょうか?
マスコミの目の前でないにしても、職場放棄した松岡は全日本の歴史からほぼ抹消され、上田も以降はレスラーとしての価値を大きく上げたものの復帰までは長い時間がかかりました。

そしてポイントは大木です。大木も1974年の新春シリーズを無断欠場して全日本から追放されましたが、新日本で猪木と戦った後、グレート小鹿の手引きで全日本に戦場を移しています。
その際ちょっとした演出がありました。1975年夏大木とは別ルートの韓国プロレスの誘いで渡韓した馬場ですが、現地のソウルのホテルでマスコミと歓談している馬場の前に大木が突然現れ対戦を迫ったものです。非常識なやり方ですが、馬場はマスコミの目の前で大木の要望を受け、その秋蔵前国技館で一騎討ちを行い大木に快勝しています。
そして、このソウルのホテルでの騒動はマスコミに見せつけるための演出であった事は多くの関係者が証言しています。マスコミの前で行われた馬場と杉山の喧嘩もこれを踏襲したもののように思えるのです。もう選手としてはいどころがなくなりつつあった杉山の退団は既定路線であり、インパクトをつけるため大木の時の様にマスコミの前で一芝居打ったのではないでしょうか?
更に大胆に推理するなら、この芝居は選手には知らされなかったものの、一部の馬場シンパのマスコミは承知していたのではないでしょうか?マスコミの前でこの事件が起こったのがどうも違和感があるのです。
ポイントは退団日付が3月31日付けである事。ご承知かと思いますが全日本プロレスの契約形態は毎年3月が年度末となっており、この時期選手の契約更新も行われます。契約には細かそうな杉山が契約途中での解除にそう簡単に応じる思えないのです。杉山が3月までなのは決まっており、この月いっぱいで全日本を退団するのが自然に見える様に1ヶ月前にひと芝居うった、という妄想です。
妄想の?流れをまとめると
馬場が周囲の雰囲気に流され、本来約束外であった杉山の試合を外す様になる→杉山はやむなくそれを受け入れる代わりに、サイドビジネスでの欠場を認めさせる→段々杉山の存在が不快になって来た馬場は、1976年3月いっぱいで契約終了させることを杉山協議の上決定する→杉山の選手として、プロモーターとしての顔を潰さない様、喧嘩が発展して退団した、というイメージを取られる様な芝居を打つ
ということです。もう一つ馬場が杉山と袂を分かとうと考えた理由の一つに杉山がプロモートする名古屋市地区の興行が意外にも結構不振であったという点があると見ています。杉山が絡んだであろう興業は以下の通りです。
1972年10月30日 愛知県体育館 観衆4500人 メイン 世界ヘビー級王座争奪戦 ○馬場(2−1)● テリー・ファンク
1973年4月23日 愛知県体育館 観衆3800人 メイン USヘビー&太平洋岸ヘビー級選手権 ザ・デストロイヤー(1−1)キング・イヤウケヤ
1973年12月12日 愛知県体育館 観衆5800人 馬場&デストロイヤー(2−1)フリッツ&コワルスキー
1974年1月28日 愛知県体育館 観衆4500人 NWA世界ヘビー級選手権 ジャックブリスコ (1−1)ザ・デストロイヤー ※ブリスコが王座防衛
1974年6月11日 愛知県体育館 観衆5500人 馬場&鶴田(2−1)モンスーン&アリオン
1974年9月24日 愛知県体育館 観衆4300人 馬場&鶴田(2−1)ブッチャー&マンハイム
1975年3月11日 愛知県体育館 観衆4300人 NWA世界ヘビー級選手権 ジャックブリスコ (2−1)ジャンボ鶴田 ※ブリスコが王座防衛
1975年10月17日 名古屋市体育館 観衆3300人 馬場&杉山(2−1)ブッチャー&ピューリン
1976年1月26日 愛知県体育館 観衆3800人 インタータッグ選手権 馬場&鶴田(2−1)ブルーザー&クラッシャー ※師弟コンビが王座防衛
1976年3月8日(喧嘩別れ直後) 愛知県体育館 観衆3400人 PWFヘビー級選手権 ○馬場(2−1)● ワフー・マクダニエル ※馬場が30回目の王座防衛 ○ サンダー杉山(10分30秒 体固め)● デイビー・オハノン
1976年7月1日 名古屋市体育館 観衆1900人 馬場&鶴田(2−1)ビル・ロビンソン&スコット・ケイシー(ロビンソン全日初登場!)
サンダー杉山(10分59秒 両者リングアウト)ジェリー・ブリスコ
正直5000人行けば恩の字という感じで非常に低調です。満員になった事は一度もありません。あまり愛知県体育館を使用する意味がない様に思えます。もっと言えばマッチメイクも非常にありきたりのもので、普通の地方会場のメインとどう違うのか?と思いたくなる様なものもあります。
最も大きな要因は馬場以下選手の力不足であり、その他マッチメイクのマズさもありますが、「地元の顔役」として期待した杉山が思う様な観客動員を出来ない事を不満に思い、排除を考えたのではないか?という気もするのです。

杉山がいつまでプロモートに携わったかはわからないのですが、結局全日本は1970代はの名古屋市内の観客動員はずっと低調。ハンセンが移籍した1982年頃からようやく満員マークが出る様になります。しかしジャパン軍参戦のほとぼりがさめた1986年頃からは再度5000人入れるのに四苦八苦する状況に戻るのです。この時もマッチメイクに問題があったと思いますが。。。
そろそろまとめに入ります。馬場としては杉山の必要性が少なくなって来た事はかなり前から感じて来た事だとは思うのですが、杉山の魅力溢れる人間性の前に自分が悪く見られるのが嫌で中々断固とした処置ができなかったと思うのです。それでは杉山はビジネスでいつまで全日本に関わっていたのか?おそらく1977年末にサムソン・クツワダがクーデターを起こしかけ解雇された時期頃ではないかと思います。杉山の退団から1年半頃立った時ですね。
クツワダの退団事情については、ミック博士が昭和プロレスマガジン上で「第4団体旗揚げ」について主張されています。この話で可能性の一つとして出ていた杉山の参戦が本当のものであったとしたら、流石の馬場も付き合いを辞めたでしょう。そしてその半年後には新日本の「プレ日本選手権」に参戦するわけですからもうここでは完全に終わっていますよね?
で、題名の結論としては、どちらにもそれぞれのたちばというものがあり、一方的にどっちかが悪いと言うものではない!というのが結論です、申し訳ございません。
このあたりの経緯は百田光雄さん、佐藤昭雄さんならお詳しいのではないかと思うのですが、何処かで聞けないものだろうか。。。
今日はこんなところです、それでは、また。
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