こんにちは、みやけです。今回も昭和プロレスの話、3部作?の最終回です。
前編中編と「ノーテレビのタイトルマッチ」と題し、主に1983年と1985年の全日本プロレスのマッチメイクの不条理さを書いてきたのですが、今回は1984年~1985年に的を絞って「なぜそのような状況になったのか?」大胆な仮説を立てその根拠を語っていこうというものです。そしてこの仮説についてはそれを裏付けるような決定的証拠はなく大半が私の演繹的推理によるものであることをご了承ください。
まず最初に私の仮説はこうです。1984年からの流れです。

① 日本テレビ→2年近く続けてきた「ジャンボ鶴田単独エース路線」、世界王者まで昇りつめたが期待したほどの視聴率につながらず、その路線は継続するも「プラスアルファ」を欲するようになる。なお1985年からのゴールデンタイム復活はほぼ内定済み。それへ向けてのテコ入れの必要もあった。
② ジャイアント馬場→会長職に棚上げされ巻き返しを狙っていたが、ジャパンプロレスを立ち上げた大塚直樹氏が接近。当時最も人気があった長州力を引っ張れるという「プラスアルファ」があったので、日テレとのパワーバランスをひっくり返そうとした。
③ 日本テレビ→ゴールデンタイム復帰に向けて不可欠である長州力参戦をスムーズに行うために、佐藤昭雄をマッチメーカーから降りてもらう。しかし馬場自身のタイトル戦線復帰は認めず、逆にゴールデンタイム復帰以降は一切タイトル戦線にかかわってはならぬことに釘を刺す。

④ ジャイアント馬場→やむなく1年かけて「ジャイアント馬場さよならシリーズ」的な思い出作りのPWF王座防衛ロードを派手に展開し、ゴールデン復帰直前にひっそりと王座陥落。以降は一切シングル王在にはかかわらなくなった。
という流れです。それではまず前回も少し書きましたが①の「鶴田sage 」について書いていきたいと思います。
① 鶴田への評価の見直し → 鶴田一人だけが損した?NWA世界王座連戦
1984年グランドチャンピオンカーニバル2のジャンボ鶴田の扱いはひどいものでした。 衰えたビル・ロビンソンにタッグでピンフォール負け、さらにインター戦での引き分け(2戦目は完勝 、インタータッグ王座決定戦でも連続引き分けで王座奪取ならず、、、これらもそうなのですが、シリーズ前半戦でのNWA王座を巡るケリー・フォン・エリック、リック・フレアー、ハーリー・レイスとの4者巴の戦いの中では一人だけ貧乏くじを引かされたとしか思えないのです。それぞれどう損得があったのか列記してみたいと思います。三方一両損ならぬ三方一両得かつ一方のみ丸損、とでも言いましょうか。。

ケリー・フォン・エリック
得→格上ジャンボ鶴田相手に田コロという大会場で王座防衛、2両得?
損→フレアーに破れ王座を手放す、2両損? 収支ゼロ?

リック・フレアー
得→横須賀でケリーよりNWA王座奪回、3両得?
損→田コロノンタイトル戦でレイスに完敗、2両損? 収支1両得?

ハーリー・レイス
得→ノンタイトルだが田コロでフレアーに完勝、2両得
損→フレアーと引き分けNWA王座奪取ならず、1両損? 収支1両得?

ジャンボ鶴田
得→なし
損→田コロで格下のケリー相手に引き分けで王座奪取ならず、2両損 収支2両損?
収支は私が勝手に算出したものですが、今後も継続参戦は明白なレイスとフレアーは悪い出来事もありましたが、それを上回る大きないい出来事がありました。ケリーは王座を失ったのは大きな痛手でしたが、それでも大舞台で鶴田と引き分けたのは大きな実績だと思うのです。ケリーを一流選手の枠組に入れざるを得なくなりました。それに対し鶴田は何も得るものがなかった。。。当時それまで快進撃を続けていた鶴田がなぜ急にこれほどひどい扱いを受けるようになったか疑問に思ったものです。
そして色々と考えた上結論として出たのは「ゴールデン昇格にはジャンボ1本では弱い」と日テレが判断したのではないかと思うのです。この事は正直なところジャンボファンの私でさえも思っていました。日テレの松根社長は「もう馬場では視聴率UPは望めない」としてジャンボの一本立ちが「全日本のほうが面白い、という視聴者の印象を変えられる、ジャンボにはその素質がある」と目論み2年近くにわたってプッシュしてきたと思うのですが、猪木さんや馬場さんとは違い、中々一般大衆を巻き込むようなキャラクターではないと痛感するようになったのではないでしょうか?
日テレが1981年頃から強く介入してきたのは「全日本を良くするため」が最終目的ではなく、その上で視聴率が上がることが最優先事項な訳です。いくら選手のレベルアップが図れたとしても視聴率に反映していなければ次の手を打つのはテレビマンとして当然の感覚だと思うのですね。

2月にはAWA世界王座を奪取し、「格」としてはある程度頂点に近いところまで上り詰めたのですが、それほど大きなムーブにはならない、、、視聴率を見てもそう感じられるのです。辰巳出版のGSPIRITS47・48号では日本テレビの当時のプロデューサーの原章氏がそのあたりの視聴率について振り返っているので表にしてみます。ただし日テレ関係者から昔の視聴率の話が出る場合、当時あまり重要視されていなかったニールセン(高い数値が出がち)の数値ばかり出すのに違和感があるのですが。。。
日時 | 会場 | 放送形態 | 視聴率(ニールセン) | メイン | セミ |
1983年2月 | 愛知&チェッカードーム | 土曜トップスペシャル | 16.4% | 鶴田xリッチ | 馬場xレイス |
1983年4月 | 大阪府立 | 通常夕方放送 | 20.1% | テリーxハンセン | 馬場・鶴田xバス・スミルノフ |
1983年8月 | 蔵前 | 土曜トップスペシャル | 14.3% | ファンクスxハンセン・ゴデイ | 鶴田xブロディ |
1983年11月 | 愛知 | 土曜トップスペシャル | 不明 | 馬場・ドリーxハンセン・ブロディ | 鶴田xフレアー |
1984年2月 | 蔵前 | 土曜トップスペシャル | 14.9% | 鶴田xニック | 天龍xスティムボート |
1984年3月 | 蔵前 | 土曜トップスペシャル | 16.5% | 馬場xハンセン | 鶴田xニック |
1984年8月 | 蔵前 | 通常夕方放送 | 15.8% | 馬場xハンセン | 鶴田xマーテル |
一見、土曜トップスペシャルでは平均していい数字を出しているように見えますが、しかし当時の報道では初回の2元中継は20%を目標にしているという関係者の声が聞かれており、この数値は微妙なものではなかったかと思います。そしてそれから土曜トップスペシャルを重ねるうちに上昇していくかと思いきや、上がったり下がったり。。。鶴田ageの集大成であるニック戦での15%いかない数値はある意味日テレ関係者が鶴田への限界を感じ、「視聴率UPにはプラスアルファ」が必要、と判断したのではないでしょうか?少なくとも当時の期待値はもっと高かったと思うのです。鶴田xニック戦のビデオリサーチの数値は11%代でしたからね。この数値はゴールデンとしてはどちらかと言えば失格でしょう。当時では。

そしてその時期、新日本のお家騒動でジャパンプロレス興行を設立した大塚直樹氏が馬場に接触してくるわけです。大塚直樹氏の著書「クーデター」では大塚氏と馬場会長が初めて会ったのは1984年5月27日、鶴田xケリーの田コロ決戦の直後です。大塚氏と会って鶴田sage が始まったわけではないようです(笑)しかしその数日後に日テレ出向の松根社長との3者会談が行われており、 日テレもジャパン軍の参戦には大きな興味を持っていたはずなのです。
そして「プラスアルファ」が確定し、「鶴田sage」が顕著になっていったのではないかと思うのです。
④ ジャイアント馬場 さよならシリーズ?開催?
そしてこの頃の馬場会長、選手としての存在感のアピールについてもまだまだ引き下がるつもりではなかったのではないかと思います。なにせ鶴田のAWA王座獲得も当初は自身が出向こうとしていたくらいですから。。。でも日テレ的には「ゴールデンタイムで馬場がチャンピオン」というのはあり得なかった!CMが好評で段々認知され始めていた、いわゆる「馬場さん」というキャラクターに押し込めたかったはずなのです。ゴールデン復帰後解説席に常駐したのもその一環でしょう。
しかし馬場会長、ゴールデン復帰までの限られた1年間をチャンピオンとして華やかに生き抜こう!という動きをするのです。それは大塚氏と接触以降のあまりに華やかなPWF王座での戦績が証明しているのです。。まだまだジョーさんがバリバリ失神している(笑)不完全決着全盛の全日本プロレスでしたが、馬場会長は思い出の大会場で大物相手に完勝の連続だったのです。

1984年7月31日 蔵前国技館 PWFヘビー級選手権 ● スタン・ハンセン(10分7秒 首固め)〇 ジャイアント馬場 ※思い出いっぱいの蔵前国技館の取り壊し前最終興行で 馬場がハンセンから初のピンフォールを奪い完勝で王座奪回
1985年2月5日 東京体育館 PWFヘビー級選手権 〇 ジャイアント馬場(16分40秒 コブラツイスト)● タイガー・ジェット・シン ※テーズ戦、ワールドリーグ戦決勝、ハンセン戦等思い出いっぱいの東京体育館で完勝で王座初防衛
1985年4月15日 長崎国際体育館 PWFヘビー級選手権 〇 ジャイアント馬場(13分1秒 反則勝ち)● スタン・ハンセン ※ ノーテレビ、馬場が2度目の王座防衛
1985年6月21日 日本武道館 PWFヘビー級選手権 〇 ジャイアント馬場(12分34秒 体固め)● ラッシャー木村 ※ エリック戦、力道山追悼興行、チャンピオンカーニバル決勝等思い出いっぱいの日本武道館で完勝で3度目の王座防衛
1985年7月30日 福岡スポーツセンター PWFヘビー級選手権 ● ジャイアント馬場(13分50秒 体固め)〇 スタン・ハンセン ※ハンセンが王座奪取

ハンセンからの王座奪回に関しては「ここらでいいかげんピンで勝っとかないと」という状況でありますが、今後も馬場との抗争を続けていくシン・木村を立て続けに完勝したのは後から思えばなんとも不自然にも思えました。時系列で見てみると思い出の詰まった会場を順繰り回っているのですね。そして福岡という地方会場で王座をひっそり明け渡し、その直後全日本プロレスのゴールデンタイム復活が発表。馬場は以降シングル王座には挑戦さえ一切なく、世界タッグに1回、アジアタッグに1回挑戦したのみです。
当時の状況を思い出しても、馬場会長はゴールデン復活以降第一線から退く代わりに、1年間はいいかっこさせてもらい思い出つくりに励んだという読みなのです。それから8月にドリーと組んでハンセン・ブロディの持つPWF世界タッグ王座に挑戦したのも、マスカラスブラザースの挑戦を受け思い出がいっぱいつまった田園、、、←しつこい!(笑)
そんなこんなで、馬場会長が思い出つくりに励み、ジャパンプロレスへの依存を強めていった結果、全日本本体のシリーズの流れがいびつなものとなり、特に1985年のマッチメイクがファン不在のものとなった!そうじゃないなか?というのが前回と今回のブログで私訴えたいことなのです!

私はジャイアント馬場率いる全日本プロレスのファンです。しかしこのブログの内容は馬場ファンから見ればただ馬場さんの悪口を言っているとしか思えないかもしれません。でも別に反馬場派に寝返るわけでもありません。馬場さんにはプロレスを楽しく見せさせてもらったという思いは変わりませんし、大塚社長を憎んでいるわけでもありません。でもしかし1985年の歪なマッチメイクは当時本当に納得できなかった!
本来2回で終了だったこの企画をもう1回追加で入れ込んだのは理由なんですね。書きながら「この事を書くのはこの機会しかない!」と思ったのです。これをうまく活かせばプロレスブームも継続できたかも知れなかったのに。。。
今回はこんなところです。それでは、また。