こんにちは、みやけです。
今回は久々にプロレスの検証企画。「3本勝負の勝敗パターン(主にメインのタッグ)」について検証して見たいと思います。ズバリ言えば、「誰々はタッグの3本勝負では基本的に1本も取られることはない」「誰々はエースクラスなのに地方の3本勝負では頻繁に1本取られれている」等の事実を記録を基に検証して行くものです。
日本のプロレスは創立以来、メインイベントは3本勝負を基本としてきたと思います。タイトルマッチの場合は1本勝負も珍しいことでなかったと思いますが、ノーテレビの地方興業であればメインは基本的に6人タッグの3本勝負であったと思います。そのパターンとしては、両チームが1本づつ取り合った後、最後は日本側団体エースが外国人側最弱選手から1本取る、というのが鉄板パターンだったと言っていいでしょう。

しかし、このスタイルの3本勝負は1982年に新日(秋頃)・全日(夏頃)両団体とも行われなくなり、1本勝負にスライドしております。理由として、全日本は「NWA世界線のルール改正どうのこうの。。。」というコメントがあったような気もするのですが、実際のところはスピード化が図られるようになった時代のニーズに合わなくなってきたのではないか?というのが意見として多いようです。
そこでまず、プロレス界の2大巨頭、全日本プロレスでのジャイアント馬場と新日本プロレスでのアントニオ猪木はどうだったのか?まずはそこから検証してくのが筋だとは思いますが、ある程度分析したところ結構新日と全日のプロレス論の骨幹に関わる部分であり、そうそう安易に語れないなという気がしてきたのです。結論を先に言うと猪木はタッグの3本勝負でも滅多に負けないが、馬場はエース級が相手ならとって取り返す形であるならしょっちゅう負けてているのです。
これはもう少し時間をかけたい、というか先に語りたい選手の傾向があるという個人的な理由もあり(笑)今回は全日本プロレスの外国人選手を検証して行きたいと思います。ちなみに評価ずけのランクとしては
特A=3本勝負でも、基本的に取られることはない→ファンクス・ブッチャー(途中から)・マスカラス・ロビンソン
A=基本的には取られないが、エースクラス相手なら、取って取られて、はある。→馬場(!)・鶴田・レイス・ルーイン・大木
B=基本的に取られないが、エースクラス相手なら、1本取られっぱなしもある。→マードック・デスト・カマタ・コックス・ブラジル
C=メインのチームリーダーになることはあまりないが、たまには相手のエースクラスから1本取ることもある。→スレーター・イヤウケヤ・ホフマン
D=基本的にやられるだけ
それではまず特Aのこの選手から始めたいと思います。意外に思うかもしれませんが。。。
● ビル・ロビンソン 特A

1976年のサマーアクションシリーズに全日本プロレスに初登場し、その後1985年まで来日を重ねた”人間風車”ビル・ロビンソンですが、全日本マットで彼が完敗したシングルマッチは初参加時の蔵前での馬場戦とエース外人として最後の扱いを受けた1984年のグランドチャンピオンカーニバルの大阪での鶴田とのインター戦のみなのです。さらにタッグで言うと1本勝負・3本勝負を含め、ピンフォールを取られたのはたったの1回!1981年のサマーアクションシリーズ最終戦の後楽園大会での天龍と組んでインタータッグに挑戦した試合、いわゆる天龍の出世試合にて2本目にツープラトンキックを決められ1本取られた以外は一度もないのです!とにかく彼は負けを受け入れない!?それとも全日本が彼を守った?
例外を認めていただければ、シングルマッチの3本勝負のタイトル戦では馬場・鶴田に対しては流石に1本は取られています。それ以外はゼロ!象徴的なのはPWF王座に就くもブッチャーの挑戦を受けたが、試合中膝を痛めタイトルを失った試合です。
1978年10月18日栃木県体育館 PWFヘビー級選手権 (王者)ビル・ロビンソン 対 (挑戦者) アブドーラ・ザ・ブッチャー
① ○ロビンソン(8分16秒片エビ固め) ② ●ロビンソン(6分15秒 カウントアウト) ③ ● ロビンソン(3分8秒 レフリーストップ)
3本勝負で1本も取られることなく王座転落。。。。この例で思い浮かぶのが日本プロレスでジョニー・バレンタインが高千穂明久に王座を明け渡した試合が思い出されますが、この場合高千穂がピンフォールで勝つのはあまりに無理があるのでこのような処置が取られたのだ、となんとなく想像できるのですが、当時まさに全盛時のブッチャー相手に1本も取らせないのはあまりに無理があります。
しかも1本目で得意のワンハンドバックブリーカーを完璧に決めた後、それが原因で膝を痛め、リングアウト・レフリーストップで立て続けに敗れる、という「不可抗力の強調」には逆に「そこまでしなければならない何かがあるのでは?」と思ってしまいます。これは彼が関わったインタータッグ挑戦の3本勝負で更に顕著になります。

1978年羽咋体育館 馬場&鶴田対ビル・ロビンソン&マリオ・ミラノ
① ○ ロビンソン(26分1秒 エビ固め)● 鶴田 ② ○ 鶴田(1分25秒 リングアウト)● ロビンソン ③ ○ 鶴田(4分20秒 体固め)● ミラノ
1980年ジャイアントシリーズ 岩手県営体育館 馬場・鶴田対ビル・ロビンソン&ワフー・マクダニエル
① ○ マクダニエル(14分20秒 対固め)● 馬場 ② ○ 鶴田(8分40秒 リングアウト)●ロビンソン ③ ○ 馬場(2分10秒 体固め)● マクダニエル
ここまでピンフォール負けを回避するか?という感じです。ここまで徹底されるとなんらかの「確約」を疑いたくもなります。ロビンソンがかなりの高額のギャラ提示を受け新日本から全日本に戦場を移したのは色々な所で語られていますが、「勝敗」についても「確約」があったのではないでしょうか?ズバリピンフォール負けのNG(シングルの3本勝負はやむなし)です。ファンの間では新日本に行ったブロデイ・ブッチャー、全日本に行った長州がそうであったとまことしやかに語られていますが、その期間は結果的に2〜3年でした。
ズバリ!ロビンソンは5年契約&ピンフォール負けなし(馬場戦除く)だったのではないでしょうか?理由は初登場からちょうどきっちり5年が経過した時点で天龍と組んだ試合で馬場にフォールを許し、その後はめっきり扱いが悪くなっているからです。最強タッグはロクなパートナーがいないにも関わらず1979年を除けば毎回のように参加、通常シリーズでも年2回はエース格として呼ばれていました。その間高いクオリティをキープし続けていたとは思えません。1978年頃から「太った」「マンネリ」「自己主張強すぎ」「人間風車は過去とは別の技」とマスコミからは相当辛辣に批判されていました。
しかし5年が経過した1981年は最強タッグに呼ばれず、創立10周年記念シリーズにもお呼びがかからない。次の参加は翌年のチャンピオンカーニバル、その後は何と2年間もお呼びがかからず、ようやく1984年に参加したと思ったら、鶴田に完敗というていたらくです。この時のロビンソンはもうエースを張るには無理があったとは思いますが。。。後述するマスカラスやブッチャーと同じか、それを上回りかねない高待遇は「5年」という確約があったからではないか?と私は妄想しているのです。
アブドーラ・ザ・ブッチャー 特A
そのブッチャーですが、全日本設立当初はAランクでした。まだ実績に乏しかったので順当であるのですが、馬場限定ではあるものタッグの3本勝負では普通に「取って取られて」います。

1973年5月31日ブラックパワーシリーズ 高松文化センター 馬場&マティ鈴木 対 ブッチャー&ルーファス・ジョーンズ
① ○ ブッチャー(5分34秒 体固め)● 馬場 ② ○馬場(1分40秒 体固め)● ブッチャー ③ ○鈴木(4分15秒 コブラツイスト)● ジョーンズ
それがいつから特Aに昇格したのか?私としては1976年のチャンピオンカーニバルからではないかと思います。割と時間がかかったのですね。それまではAランクと言ってものシリーズ中のフォール負けは1〜2回程度で、たまには一切負けないシリーズもある。特Aに近いAという感じです。しかしこのシリーズおよび次の参加となったジャイアントシリーズ(ハンセン初来日)と連続でピン負けなし。ここで特Aに昇格したのでしょう。デストロイヤーとの血みどろの抗争もあり、この時点では完全に全日本のトップ外人になった感がありましたから。
そしてこれ以降、ブッチャーは外国人軍団の総帥として馬場と遺恨試合を繰り返す、、、、というイメージだと思うのですが、実際はそうでもなかったと思うのです、ちょっと冷め気味というか。。。。もちろんチャンカンでは毎年優勝争いを行なっており、抗争はずっと続いているイメージなのですが、それ以外の通常シリーズではあまり馬場は積極的にブッチャーと絡もうとしなかったと思うのです。

最強タッグでは遺恨が勃発したファンクスがいましたし、自身の体調の悪化もあり、基本的には自分からは動かないブッチャー相手だと試合のテンポが一層スローモーになる、そう危惧したのかもしれません。1977年からブッチャーが新日に移籍する1981年まで、馬場がブッチャーとPWF戦で戦ったのは(国内)4年間でわずか2回、そしてこの間、ブッチャーは次々とパートナーを変えインタータッグ戦を7回戦っているのですが、馬場とブッチャーで1本取られたり取ったりした事は1回もなかったのです。ブッチャーが取るのも取られるのは常に相手は鶴田でした。
1979年ジャイアントシリーズ インタータッグ戦(王者)ブッチャー&レイ・キャンディ 対 馬場・鶴田
① ○鶴田(2分30秒体固め)●ブッチャー ② ○ブッチャー(5分3秒 体固め)●鶴田 ⑶ ○馬場(5分40秒 エビ固め)●キャンディ ※日本組が王座奪回
いずれじっくり書きますが、馬場は地方の3本勝負のタッグマッチではCランクもしくはそれ以下の選手に結構コロコロ負けています。ラモス・ラシク・ウィスコフスキー。。。馬場はブッチャーに負けるのが嫌だったわけではなく「自分のいまの体調で戦う事は双方のメリットにならない」そう考えたのではないかと思います。馬場は後年ブッチャーについて「人気は凄かったが、彼との戦いは自身の技術の向上には全く寄与しなかった」と語っていました。本当のところレスラーのタイプとしてはあまり好きではなかったのではないかと思います。
自身の衰えもあり、ブッチャーの相手をファンクス・マスカラス・リッキーらに押し付けた?そんな気もするのです。
ミル・マスカラス 特A
ザ・デストロイヤー B

なぜか同時掲載となった二人ですが、まずマスカラス。彼もまたロビンソンと同じくらい”ピンフォール負けNG”ぽいレスラーです。まず彼がシングルで負けたのは1試合のみ(日大講堂での股間強打試合放棄は除く)下のデストロイヤー戦。そしてこれが長年のライバルデストとのシングルでは最後の戦いとなります。
1978年サマーアクションシリーズ9月11日岩手県営体育館 USヘビー級選手権 (王者)ミル・マスカラス 対 (挑戦者)ザ・デストロイヤー
① ○ マスカラス(12分41秒 片エビ固め)● デスト ② ○デスト(6分10秒 回転エビ固め)●マスカラス ③ ○ デスト(3分55秒 エビ固め)● マスカラス
それ以外では地方のタッグで3回負けただけです。うち2回はデスト、これは抗争中のシリーズですから分からなくもないのですが、もう一つは大木金太郎なのです。これはまだスカイハイがマスカラスのテーマ曲となる前であり、彼の商品価値がまだ定まっていない時期だったので、時の戯れのような出来事だったのかも分かりません。逆に言えば馬場とやりあうのを嫌った結果このような結果になったのかも。とにかく全日本マットにおいて、マスカラスと馬場はタッグで「取って取られる」というやり合いが一切ないのです。そしてご存知かと思いますが、シングルで当たったことも一切ありません。
1974年創立1周年ジャイアントシリーズ 10月16日徳山市体育館 馬場・大木 対 マスカラス・モロウスキー
① ○ マスカラス(10分54秒 エビ固め)● 大木 ② ○大木(3分49秒 エビ固め)●マスカラス ③ ○ 馬場(2分37秒 体固め)● モロウスキー

更に特筆すべきはマスカラスの負けなし記録。マスカラスは1981年スーパーアイドルシリーズにてジプシー・ジョーを迎え撃ってのIWA世界ヘビー級選手権3本勝負の2本目においてフライング・ニードロップで取られて以降、最後の全日本登場となる1986年夏のスーパーパワーシリーズにおけるまであらゆる状況において一切ピンフォール負けがないのです。シングルの3本勝負、バトルロイヤル、あらゆるタッグマッチを含め5年間無敗!(1984年は来日が無かったのですが)
そして、その後IWAから始まるインディにおいても負けなしは続いていると思うのです。(3本勝負の1本取られるくらいはあったかもしれませんが。。。)そして彼はまだ現役のはずですから、40年以上無敗を続けているということになります。。。。日本マットでは。
しかし、その日本マットの連勝記録に匹敵する選手がもう一人いるのです。そう!”白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーです!

デストおじさんは、全日本に助っ人として参加した後、馬場につぐNo2、鶴田がUN王座に就くとNo3に緩やかにシフトしていったという印象ですが、馬場は決してデストを初来日選手のかませ犬にするようなぞんざいな扱いはしませんでした。私はBランクにしましたが、いつでも外国人側エースに切り替えてもいいように格はキープさせていたと思います。しかし、かといって絶対負けはNGという訳ではなく必要な時にはきっちり?負けていました。
1978年の第1回最強タッグの際は、デストはリーグ戦には参加していませんが、シリーズには帯同しているのです。そして、鶴田や石川をパートナーに参加チームと戦い負けるべき時はきっちり負けていました。
1978年世界最強タッグ決定リーグ戦 12月11日福島市体育館 30分1本勝負 馬場・デストロイヤー 対 ザ・ファンクス
① ○テリー(19分27秒 体固め)● デストロイヤー
しかし長年全日本に尽くしてくれたデストロイヤーに対し、馬場は彼が外国人側に回った後も極端に格を下げるようなことはありませんでした。デストが最後に負けたのは1981年スーパーパワシリーズ(ブッチャーが離脱して最初のシリーズ)大宮スケートセンター大会での1本目鶴田にパイルドライバーで1本取られました。ちなみに2本目は鶴田から4の字固めで取り返しています。ちなみに2本取られた「完敗」となると前述のマスカラスに勝った1978年のサマーアクションシリーズの開幕戦の鹿児島大会でマスカラスに負けUSヘビー級王座を失って以来となるのです。チャンカンでもリングアウト負けはあっても、ピン負けはこれ以降ありません。
となるとですね、デストは1993年まで毎年欠かすことなく来日を続けた訳ですから、12年、もしくは15年負けなし?ということになる訳です!年間1シリーズでも25試合は消化するでしょうから、約400連勝?600戦無敗のヒクソン・グレイシーやルー・テーズの936連勝に匹敵する偉業ではないでしょうか?!(←ない、ない!)
なんか段々耐えきれなくなって笑わかせに入ってきている感もありますが、とどめがこの選手です。
ディック・マードック B

写真のチョイスからしてイジる気満々まのですが、彼は一応はエースとして扱われながらもその扱いはぞんざいもいいところなのです!タッグの基本としてエース外人は3本勝負の3本目で取られてはいけない、個人的にはそう思います。仮に先に同じ相手から1本取ったとしても最後に取られると「弱い」という印象が強く残るからです。しかしマードックは簡単にそれを受け入れてしまうのです。
1976年NWAチャンピオンシリーズ 5月25日大田区体育館 60分1本勝負 馬場・鶴田 対 マードック&アル・ヘイズ
① ○ マードック(16分33秒 片エビ固め)● 鶴田 ② ○馬場(6分18秒 体固め)●ヘイズ ③ ○鶴田 (6分5秒 回転エビ固め)● マードック
もちろんマードックとヘイズでは圧倒的に格上です。マードックはこのシリーズNWA王者のテリーが来日するまでは絶対的エース、ちなみに2番手はホースト ・ホフマン、一番強い選手が最後に負けるようになぜするのか・・。2本目と3本目は入れ替えるべきだと思うのですが。。。そしてこれは一つの例としてあげただけで、このパターンは再三発生しています。ただしこれはまだいい方。こんなケースもまたいくつかあるのですよ。

1973年創立1周年ジャイアントシリーズ 10月17日西条市体育館 馬場・鶴田 対 マードック・モロウスキー
① ○ モロウスキー(17分34秒 体固め)● 鶴田 ② ○鶴田(2分37秒 体固め)●モロウスキー ③ ○馬場 (7分 体固め)● マードック
1974年ジャイアントシリーズ 10月21日甲府市山梨学院体育館 馬場・鶴田 対 マードック・マリガン
① ○ マリガン(17分58秒 体固め)● 馬場 ② ○馬場(4分35秒 体固め)●マリガン ③ ○鶴田 (3分21秒 片エビ固め)● マードック
正直マードックに対しては上島竜兵ばりに「悔しくないのか〜!」と劇を入れたくなってしまいます(笑)

下の1974年の試合は分からなくもありません。このシリーズはマリガン・ジョナサン・マードックの3人エース体制だったからです。しかしマリガンは「試し」のエース、ジョナサンは「名誉職」のエース、実質マードックがエースだったと思います。両リン・反則がバリバリあった時代にマードックが態々負けなければならない理由はない!1973年の試合はいっそう訳がわからない、このシリーズ鶴田のデビュー戦を務めたばかりの3、4番手選手。どうしてその選手が鶴田と「取って取られて」の攻防を行い、エースのマードックが負けてしまうのかわかりません。本当にこんなマッチメイクだったのでしょうか?このパターンマードック在籍中に計5回ほどあるのですよ。
思えば馬場はマードックを評して「もらったギャラ以上の仕事をしない」とよく話していました。ただし馬場の性格としてその事をマードックに説教するような正確ではなかったと思います。配下の日本人選手へもそうだったように言いたい事は間接的に、やもすれば回りくどい言い方で表現していたようです。「お前の実力は認めるが、今のような適当な仕事への取り組みだと、扱いもこの程度だしこれ以上優遇はしない」という事をマッチメイクで伝えたかったのではないでしょうか?

ただしマードック自身も「ボスがその気なら俺だって!」という性格ではないのでその環境に甘えていたのではないか?そんな風に思うのです。1981年の全面戦争時にマードックは全日本を離れます。馬場は表面上は怒っていましたが、使いあぐねていたので引き抜きは渡りに船だったのではないでしょうか?直前のエキサイトシリーズに呼びましたがPWF王座に挑戦したのはマードックではなく、引退寸前の老雄、キラー・カール・コックスだったのですから。。。
今日はこんなところです。今回はかなり脱線しました。書きたいポイントが色々あったものですから。。。次回は馬場と猪木、新日本プロレスと全日本プロレスの在り方の違いについて3本勝負を分析する事で検証したいと思います!
それでは、また。
#全日本プロレス
#新日本プロレス
#ジャイアント馬場
#ミルマスカラス