パワーボム初披露! ~天龍源一郎の本当の覚醒時期を考える (後編)

こんにちは、みやけです。前回はプロレスラー・天龍源一郎さんの必殺技開発に至る話を書きましたが今回はその後編です。1981年のインタータッグ挑戦から4年が経過、ようやく天龍はパワーボムを使用ししはじめます。

と、その前に私のこのブログでのスタンスを書かせていただきます。回の多くは検証物が多いのですが、気持ちとしては「Wikipediaをそのまま書くような内容にはしたくない」という思いを抱きながら文を書いています。wikiはあくまで確認用のサイト。というか「意地でもwikiに書いていないことをぶっこもう」という思いがあります。そうでないと態々こんな内容のブログを書いている意味がない!

なぜ、こんなことを書くかというと、wikiでの天龍のインタータッグからパワーボムが完全に必殺技に昇華するまでの過程があまりにサラッと書いてあるからです。天龍を見て来た者にとってはこの苦悶期間があったからこそ、後年引退試合で披露できるほどのフェバリットホールドになり得た、そう思うのです。では続きに行くとします。1985年以降の天龍源一郎です。

1985年2月28日 エキサイティングウオーズ 勝田市総合体育館 鶴田・〇天龍・石川(17分52秒 体固め)長州・谷津・●栗栖

私の記憶が頼りですが、天龍はジャパン勢が参戦した1985年新春オールスーウォーズからパワーボムを散発的に使用し始めた印象があります。しかしこの技でフィニッシュを取ることはありませんでした。ジャパン軍への忖度の為?このシリーズ長州がらみの試合は長州側の負けなし!天龍が勝名乗りを受けるシーンは限られていました。調べ得る限りテレビマッチで初めてパワーボムでフィニッシュを取ったのが翌シリーズのこの試合となるのです。

栗栖が国内で初めてメインに登場したという意味でも興味深い試合なのです。天龍は観客にアピールしたのちパワーボムを決めるのですが、落とし方は膝から着くゴデイ式。これは最終系とは大きく異なりますが、そのまま体重をかぶせてフォールに入るのは同じです。見栄え的にもまずまずの形であり初フィニッシュとしての披露としては申し分なかったと思います。しかし倉持アナが「脳天逆落とし!」としかアナウンスしていないのはまだ「パワーボム」の呼称が定まっていなかったかも知れません。しかし、同アナの事ですから。。。

その後、長州との初の一騎打ち、スーパーパワーウォーズを経て、ジャパンプロレス主催の”ビッグラリアートフェスティバル”に参戦しますが、天龍はキラー・カーンとピンフォールを”取って取り合う”という良く分らない”行ってこい”が発生します。

5月10日 ビッグラリアートフェスティバル 後楽園ホール  鶴田・〇天龍(11分47秒 逆さ押さえ込み)M斎藤・●K カーン

5月11日 静岡産業館  鶴田・●天龍(9分11秒 首固め)長州・〇 カーン

前シリーズ天龍はUN王座を掛けカーンの挑戦を受けましたが、反則決着。このシリーズは特にカーンとの因縁が出来たわけでもないのにお互いピンフォールを取り合ったのはよく分りませんね。これがのちのドラマに発展もしなかったですし。。。邪推するなら、ジャパン参戦後ビッグマッチはあまりに不透明決着が続いたため、ここでちょっと入れとくか、みたいな。。。そして翌シリーズの開幕戦、天龍は今度は浜口からパワーボムでピンフォールを奪います。

5月17日 サンダーウオーズ 旭川市常盤体育館  鶴田・〇天龍(10分47秒 エビ固め)長州・●A浜口

この一撃はバランスを崩し、浜口の体が流れ、フォールの体制時には足がロープにかかってしまいます。形としてはちょっと不細工ですね。しかし投げ方は膝をつかない最終系に近づいてきています。やはりこの技は相手の後頭部がマットに突き刺さる可能性もある訳で、この投げ方を完成するまでには安全性を考慮するため試行錯誤を重ねる必要があったのでは?と感じます。浜口も若干頭から落とされるのに怯えがあるようですしね。。。

そしてこのシリーズ後の特別興行で長州とテレビ中継では初めてのシングルマッチを行います。その中で試合終盤天龍は長州に対し「決めに行く」流れでパワーボムを放ちましたが、やや形が崩れピンフォールには至りませんでした。しかしゴールデンタイムの大一番でこの技を長州相手に披露したことはファンに大きなインパクトを与えたのではないかと思います。

6月21日 日本武道館  〇天龍(19分12秒 反則勝ち)●長州

この年の天龍はジャパン軍を相手に自信が全日本軍の先頭に立って奮闘しましたが、ビッグマッチでは不透明決着が相次ぎ、長州戦以降でもパワーボムをビッグマッチのフィニッシュとして確立するには至りませんでした。記録をチェックしてみてもこの年の下半期の天龍のタッグでの決まり手は8割がた延髄切りでした。しかし、翌年、パワーボムが天龍の必殺技としてフューチャーされ、レスラー人生の大きな分岐点となる試合が訪れます。

1986年1月28日 ニューイヤーウオーズ 東京体育館 インタータッグ選手権 鶴田・〇天龍(22分21秒 エビ固め)長州・●谷津

両軍力を出し尽くしたうえ完全決着がついたという点で全日本の歴史を見ても確実にベスト10には入るであろう名勝負となった1戦です。この試合天龍は谷津に対し延髄切りでグロッキーにさせておいてからパワーボムで3カウントを取るという実に強い勝ち方を見せます。

そして勝利を宣言された後「やった~!」と表情を崩して感極まる天龍を見るとなんとも心が熱くなってしまう瞬間でした。あえて言うなら、天龍の喜ぶ表情をテレビ画面全面で見たかったのですが、それを多い被すように天龍に抱き着き顔を隠してしまうジャンボ、、、w。まあ、悪気はないのでしょうけど(笑)

ベルト変換セレモニーの際、収まらない谷津がマイクアピールを行うのですが、天龍は涼しい顔で勝利者トロフィーを掲げ「何をごちゃごちゃ言っている!勝ったのは俺だ!すっこんでろ!」とでも言いたげなシーンは実にかっこいい!名実ともに天龍=パワーボムが認知された試合だったと思います。”本家”ゴデイは膝を悪くしてやや低調でしたし、その他の使い手はその時点ではいなかったですしね。

ここで、必殺技としてのパワーボムが確立される、、、と思いきや、また低迷期に入ってしまうのです。東京体育館決戦の後、札幌でのリターンマッチで谷津のジャーマンで敗れてしまう天龍。その責任を感じ自身が保持するUN王座を返上。チャンピオンカーニバルにて天龍・谷津・カーン・原・デビアス・オレイアンダーソンを交えて「UN王座決定リーグ戦」が開催されます。

全日本的には、決勝は天龍対谷津を想定していたでしょうが、谷津が怪我で早々にリーグ戦を離脱。やや気の抜けたリーグ戦になってしまいます。カルガリーハリケーンズも参戦し混沌とした全日マットですが、「元横綱・輪島博プロレス転向」という衝撃的ニュースが入ってきます。

4月12日 チャンピオンカーニバル UN王座決定リーグ戦 熊本市体育館 〇天龍(16分30秒 片エビ固め)● 阿修羅原

ゴールデンタイムにて輪島のプロレス転向記者会見の直後に放送された試合であり、全日本としても自信をもって提供した1戦だったと思います。試合内容も非常に力が入ったものであったと思うのですが、フィニッシュがやはりクイック、、、原がエアプレンスピンに来たところを天龍が丸め込む、という結果でしたが、見ていた私は「元の天龍だなあ、、、」と思わずにはいられませんでした。

馬場としたら、可愛がっており使い勝手のいい原をあまり完璧な形で負けさせたくはなかったかも知れませんが、格下の谷津にピンフォール負けでややイメージを落とした点天龍にはスカッとした勝ち方をしてもらいたかったです。ならば決勝で、、、と思ったのですが。。。

4月26日 大宮スケートセンター UN王座決定戦 〇天龍(21分7秒 首固め)●T・デビアス

これもまた、非常に良い勝負ではあるのですが、首固めの決着なんですよね。。。何かこう、「飛び立とうとすると、何かハプニングが起こっていまくいかない」そんなイメージの時代の天龍だったと思います。世間のプロレスに対する話題は輪島一色、逆にプロレスファンは忸怩たる思いが絶えない時期だったと思うのですが、そのイライラを吹っ飛ばすようなシーンが発生しました。なんでもないシーンですが、実にスカッとする一瞬でしたね。

5月2日に後楽園ホールで唐突に行われたジャンボ鶴田対スーパーストロングマシーンのシングルマッチ。そもそも必然性の無いマッチメイクです。一応それなりの攻防はあるのですが、双方の熱気が感じられず実に間延びした試合でした。最後はセコンドのヒロ斎藤が鶴田を羽交い絞めにしてマシンが椅子攻撃しての反則負け、会場内が「案の定」という感じで失望した雰囲気になっているのが手に取れます。

本来ならここで「ジ・エンド」というところですが、椅子を手にした天龍が鶴田の助太刀に乱入してきます。そしてマシン・斎藤に対し、渾身の力で椅子でぶっ叩きまわし2人を追い払います。その叩き方が当時としては尋常ない力の入れ具合、、、マシンには悪いですが「部屋に侵入してきたゴキブリをスリッパで渾身の力ではたきまわす。。。」そんなイメージがする爽快なシーンでした。同じような表現を週プロでもされていましたね。

当時のファン的には「目立っているようで迷走している全日本」、それに対し合法的に?暴れまわって見せた天龍に対し自分を重ね合わせたファンも多かったのではないでしょうか?天龍はそのマシンと次のシリーズUN王座を掛けて挑戦を受けます。

6月12日 日本武道館 スーパースーパーパワーシリーズ UNヘビー級戦 〇天龍(15分17秒 エビ固め)●スーパーストロングマシーン

まだ全日マットでは全く実績をのこしていないのに(というか新日マットでも特筆した実績はなかった)多くのチャンスを与えられていたマシン。この天龍戦では今一つ動きが固く、試合はスイングしません。結局マシンは首固めで天龍を仕留めようとしますが、逆にひっくり返されピンフォールを奪われてしまいます。「ミスター首固め」のお株を奪うにはまだ早かった、ということでしょうか。。。

その後の天龍はおおきな実績を作ることが出来ず輪島のデビューを迎えることになります。逆に全日本が招へいする外国人勢のレベルは劣化する一方。。。WWF(当時)の全米進行の煽りを受け、有名どころはWWFかWCWに確保されてしまったためです。翌1987年の新春ジャイアントシリーズ、天龍はフランク・ランカスターという初来日の選手のUN王座挑戦を受けます。

1987年1月31日 八戸市体育館 UNヘビー級戦 〇天龍(9分17秒 四つ葉固め)●フランク・ランカスター

このランカスター、どう見ても日本にUN王座が固定されて以来最弱のチャレンジャー、どうも馬場が前年輪島のアメリカでの特訓の際紹介された選手のようですが、動きを少し見ただけでもトップクラス扱いできる選手でないことは明白。動きはそれほど悪いわけではないのですが、鶴田・天龍に対抗しうる攻撃力があまりに希薄!それでもこのシリーズ中鶴田・天龍対カートヘニング&フランクランカスターのマッチメイクで両者リングアウトの結果を見ると情けなくなってしまった思い出があります。輪島フィーバーで賑わいながらも片やこんな選手に頼らなければならなのかと。

この試合天龍は延髄切りからパワーボムというコンボを見せますが、その後すぐにテキサスクローバーホールドに移行しそれでギブアップを奪うのです。この技でのフィニッシュはジム・ガービン戦以来ですが、、、なぜこのような流れを選択したのかちょっと分かりませんね。パワーボムで十分だったと思いますが。。。確かにこの試合はチャンピオンらしい強さを感じる試合運びだったと思いますが、相手がランカスターでは天龍の評価を見直すまでには至らなかったと思います。

2月5日 札幌中島スポーツセンター インタータッグ戦 長州・●谷津(17分5秒 ジャーマンスプレックスホールド )鶴田・〇天龍

前年の新春ジャイアントシリーズ最終戦でインタータッグを奪われ1年間取り返せなかった鶴竜コンビですが、場所も同じく札幌でようやく奪回に至ります。決め技は天龍のジャーマン!目には目をという事なのでしょうが、流石に天龍のジャーマンはこれが初公開!ブリッジは正直奇麗ではないですが、なんというか「パワーボムを後ろに投げた」的な力強さが感じられます。

この時期全日本の選手たちは「どうもジャパン勢は新日本に戻っちゃいそうだな~」と何となく感じていたのではないかと思います。であるならば、ちょっとしっぺ返し的な意味を込めて普段ないような技でフィニッシュを取り、「勝手なことするんならこっちも形を変えたやり方でやるよ」というような意思を示した、そんな気がしなくもないのですよね。

さて2回に分けて書いてきたこの回もようやく結論です。パワーボム披露から約2年。天龍は「破壊力」「安全性」を両てんびんにかけ、自身の技術も磨きながらパワーボムが鶴田のバックドロップと並べるような必殺技となり得るよう試行錯誤を重ねていったと思うのです。その結果、その出発点となったのがこの試合だと確信しています。

6月1日 スーパーパワーシリーズ 石川県産業展示館 猛虎7番勝負第5戦 〇天龍(11分3秒 エビ固め)● タイガーマスク 

同門同士だけあって、試合開始からの攻防は実に見どころのある名勝負でした。フィニッシュも実に堂々たるもの。天龍はタイガーに延髄切り2連発、耐えたタイガーはフライングショルダータックルで反撃、それを天龍はラリアットで撃墜し、最後はフォームも完璧なパワーボムで完全な3カウントを奪います。この時期のタイガーが「一流どころ」であるかは微妙なところかもしれませんが、天龍が一流選手相手のシングルとしてはこれだけ堂々としたフィニッシュで完勝したのはジム・ガービン戦依頼?そしてこの後は天龍同盟を結成し、パワーボムを必殺技として明らかに固定させるのです。

次々シリーズより天龍がパワーボムでフィニッシュを取る頻度が格段に高まります。

8月25日 白石市民体育館 〇天龍・原(8分27秒 エビ固め)カブキ・●薗田 ※パワーボムから

8月28日 栃木県体育館 〇天龍・原・川田(14分11秒 エビ固め)輪島・石川・●渕  ※パワーボムから

9月8日 鹿屋市体育館 〇天龍・原・川田(16分3秒)タイガー・カブキ・●薗田 ※パワーボムから

9月14日 神奈川サンテラス戸塚店駐車場 〇天龍・原(10分11秒 エビ固め)谷津・●寺西  ※パワーボムから

それほどの頻度でもないじゃないか!と感じる方がおられるかも分かりませんが、龍原砲結成当初は原がラリアットでピンフォールを取るパターンが多いのですよ。。。でもタイガー戦以降天龍がパワーボムを必殺技として固定しだしたのは間違いないところです。フィニッシュの使い分けは→2流以下~延髄切り&フライングエルボー、そこそこ一流~ラリアット、一流&ビッグマッチ~パワーボムというイメージですかね。

話をまとめます。天龍がパワーボムを喰らってから4年、使用し始めてから2年半。そしてインタータッグ代役挑戦からは実に6年。それほどの長い年月をかけてようやく誰もが震え上がる必殺技のパワーボムにまでたどり着いたわけです。片やジャンボはルー・テーズから指導を受けるや1~2か月程度でバックドロップを自分の形に築き上げました。それがまた鶴田と天龍の対比として興味深いところでもあります。

ここまで時間をかけて築きあげた、必殺技。天龍が引退までこの技にこだわった理由がわかる気もします。スレーター欠場による善戦から真のトップレスラーになるまで更にもがき続けたのが天龍源一郎。私はそう思うのです。

今日はこんなところです。それでは、また。

#天龍源一郎

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