プロレスラー、阿修羅・原さんの足跡を訪ねる。前編

こんにちは、CMBOです。去る2月25日、私は往年のプロレスラー、及び日本代表のラガーマンでもあった阿修羅・原さんの足跡を訪ねて、原さんの故郷でもある長崎県諫早市に出向き日帰りで取材旅行を行ってきました。今回はその成果を書いてみたいと思います。

原選手は残念ながら2015年4月にご病気で亡くなられております。実は諫早の原選手の足跡探しを行うのはこれで3回目。何故このような事に取り組もうと思ったのか?もちろん私がプロレスファンであり、現役時代その無骨なファイトぶりがとても好きだったというのが大きな理由です。近隣県の福岡在住の私にとっては地元の名士である原選手が晩年どんな余生を送っていたのか?という点に興味がありました。

そしてさらに言えば、インタビュー等で語られる彼の人柄。同業者内で原選手の事を悪くいう人は皆無であり、皆「後輩の面倒見が良く優しい」というイメージが大半です。その反面「寂しがりやで見栄っ張り。身分不相応に人に奢ってしまう。」という点も共通して語られているのです。

後年の自身へのインタビューでは「人から認められる事、人から評価される事」が何よりの生きがいである、と力説されていました。私が邪推するに、様々な事情で幼少期親からの愛を十分に感じ取る事が出来ず、いくら成果を出しても自分に自信が持てず、常に人から褒められる事を欲する大人になってしまったのではないか?どうしてもそう思ってしまうのです。なぜなら私も同じタイプの人間ですから、よく分かるのです。

プロレスラーとしてはトップクラスに登り詰めた原選手ですが、この見栄っ張りな性格が仇となり、絶頂期に金銭問題をおこし、一時はプロレス界を追放されていまいました。その後パートナーの天龍源一郎選手が立ち上げた新団体で復活しますが、既に体力的に下降しており思うような活躍は出来ませんでした。

ラグビー時代を含め、原選手の生涯はファンを感動させるような名シーンを何度も作りながら、何処かで歯車が狂ってしまい、中々ハッピーエンドで終われない。。。そんな事の繰り返しだった様に思えます。でもそこに人生のリアリティを感じるのですね。ちなみに原選手のwikiは以下の内容です。

要約しますと、1947年生まれ。諫早農業高校〜東洋大学〜近鉄でラグビー選手としてレジェンド的な活躍を収める。1977年プロレス入。国際プロレス倒産の後全日本プロレスに移籍し1980年代後半には天龍源一郎と世界タッグを保持して武道館でもメインを取るトップ選手となる。1994年に引退。以降は地元諫早市で両親の介護を続けながら、時折地域のスポーツ団体のコーチをしたり講演等をして過ごされていた様です。

今回の取材旅行では、原選手の地元での写真を確認する事を1番の目的としました。地元の名士ですから色々な施設を回ればプライベートの写真がまだ残っているのでは?そう思ったからです。それではそろそろ取材旅行の話に移りたいと思います。

自宅から諫早市までは車で約1時間半。その日は夕方から雨の予報でしたので、朝9時には出発!11時には諫早に入る予定でした。しかし高速に乗るや異常な大渋滞!「連休明けの午前中とは言えここまで混むか?」と思いました。10キロの渋滞だったのです。

後で分かった事ですが、この朝中洲で無銭飲食・飲酒した3人組の馬鹿タレが福岡市内で轢き逃げ事件を起こし(尚且つ無免許!)、高速道路で逃走。10台を超えるパトカーとのカーチェイスの上筑紫野インター付近で確保されたらしいのです。ちなみに写真の左側に映る黒っぽい車が犯行車両の模様。。。。そりゃ福岡が『修羅の国』と言われるはずです。馬鹿ちんガッ!詳細は下記の模様です。極刑を希望するものです。

この渋滞で鳥栖の前で1時間近く足止めを食らってしまい、諫早に入ったのは昼直前でした。とりあえずランチです。諫早駅のすぐ近くにある『李花』という中華料理屋さんで名物の皿うどんを頂きました。

私は皿うどんを注文。写真は麺がすっかり隠れちゃっていますが、白胡椒が効いてとっても美味しかったです。お値段は700円。麺はパリパリと太麺の両方あります。あと生麺を使った長崎ちゃんぽんも美味しそうでしたよ!

そして食事後、私は諫早市内にある森山町立スポーツ会館という施設に電話を入れました。ここは原選手が引退後親の介護をしながら一時町民のスポーツコーチを行なっていた場所なのです。ここには当時の原選手のスナップ等が残されているのでは?そうあたりをつけたのです。

実は私は以前この施設を訪れて、可能な限り見学させてもらったのですが、原選手の足跡を見つけることは出来ませんでした。なもので今回は電話でその有無を確認したのです。年配の男性が電話に出てくれました。お話をしていくと確かに原選手についてはその男性、そして他の職員の記憶にも確かに残っている、との事でした。ただし写真については「確か遺族の方に全て差し上げたので全く残っていない」との事でした。

これは残念でした。一番可能性があると思っていたし、もしかするとエピソードも聞けるかと思っていたのですが。。。。

次に私は諫早市の図書館に向かいました。昔の新聞等で必ず足跡が確認できるはずだ、と思ったからです。これは自身の家系図作成の経験が役に立ちました。各自治体の図書館には古い新聞がストックしてあるものなのです。そしてその本山は国立国会図書館。ここには大手新聞社の過去の新聞がマイクロフィルムに収められ保管されており、申請すれば視聴可能です。

私も5、6年前東京旅行をした際、TDLに行った妻や姪っ子を尻目にここで日本プロレス分裂時の東京スポーツのマイクロフィルムを半日かけて閲覧する、というアホな事を行った記憶があります(笑)。

それはともかく諫早市の図書館に着く直前、すぐ近くに諫早市美術・歴史館という建物がありました。特に歴史館には何らかの資料がありそうですが、残念ながら火曜が休館日。後日訪問する事にしました。そして図書館。ここでは大きな収穫があったのですが、詳細は次回に書きたいと思います。

次に向かったのは原選手の母校、諫早農業高校。アポは一切取っておりません。「農業高校だから田舎のほうにあるだろう。近くに小高い丘みたいな所もあるだろうからそこから全景を撮影出来ればそれで充分」などと楽観していたのですが、学校は図書館から程近い住宅街の中にあり、入口と思える道路は車一台がやっと入れるのみ。

とりあえずマイカーで入っていくと、もうUターンは出来ず敷地内に入らざるを得ない状況に陥りました。私の車は他県ナンバーですし、どう見ても不審車両です。どうしたもんかとマゴマゴしていると中から中年の男性が駆け寄ってきたので、私は「一旦敷地内に入らせて頂き、Uターンさせてもらえないか?」と頼みました。

男性は「どうぞ!どうぞ!」と快諾してくれましたが、私の車が大通りに合流するまで疑わしげに私の車の動きを監視していました。先生、ごめんなさい、怪しいもので御座いません。。。。

その後、私は原選手の実家方面に向かいました。原選手の実家は諫早市を走っている島原鉄道中の釜の鼻駅という無人駅の近くにあるらしいのです。何故知っているかというと、別冊宝島という雑誌が介護生活を送っている原選手のインタビューを行った際、この駅で待ち合わせをして、その写真がインタビューにも載ったからです。

私はお調子者の故ついつい同じポーズを取ってみたくなるのです。

島原鉄道はの〜んびりした1両編成のローカル線。確かプリント列車もあったと思いますが、今回来たのは単色の車輌でした。

また、この記事が掲載された後、再度のインタビューを考えた記者が原選手の家に電話したが何回かけても誰も出ず、実家のすぐ横に美容室があった事を思い出し、そこに電話して様子を聞くと原選手は体調を崩して入院しているらしい、というくだりがありました。

その美容室だろうというお店は駅のすぐ前にありました。

そして次回書く図書館の調査で原選手の実家の住所も判明しました。というのも訃報に実家の住所が明記されていたからです。Googleマップ検索すると大凡実家の場所は何となく判明しました。ただし流石にそこまで立ち入る事はしませんでしたが、本当にこの美容室のすぐそばのようです。

とにかくこの近辺は穏やかな農村地帯。釜の鼻駅前の道路は観光地に雲仙に続く道路の為そこそこ交通量は多いのですが、それでもこんな穏やかな場所からあんな激しい人生を送った原選手が育った、という事がピンと来ないのです。

とりあえず、訪問出来たのはここまでです。次回はそこそこ収穫があった図書館での調査結果について書いてみたいと思います。資料もコピーしてきました。そして更には原選手と懇意にされいた方の居酒屋が諫早市内にあったようなのですが、こもお店は2年前に閉店してしまったようなのです。そこには原選手のラグビー時代のユニフォームが展示されおり、店名も原選手がつけてくれたそうです。

このお店が開いていれば泊まりで行って訪問してお話をお聞きしたかったのですが、、、、展示されていたユニフォームは今どこにあるのかも気になるところです。

今日はこんな所です。後編も1週間以内にupするつもりですので、是非読んでいただければと思います。

それでは、また。

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