全日本プロレス シリーズの歴史 ~1983年 エキサイトシリーズ~ 馬場と上田馬之助との明るく楽しいプロレス 

こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話、1980年代の全日本プロレスの思い出をシリーズごとに語っていく企画の2回目。1983年エキサイトシリーズです!

1983年 全日本プロレスエキサイトシリーズ 2月11日後楽園ホール~3月3日後楽園ホール

参加外国人選手 (後半戦1週間特別参加)トミー・リッチタイガー・ジェット・シンドスカラスジム・デュランマイク・デービスビクター・ジョビカ  フリー日本人 上田馬之助鶴見五郎   凱旋帰国 ザ・グレート・カブキ

タイトルマッチ

2月17日 清水鈴与記念体育館 インターJR選手権 〇 大仁田厚(13分 原爆固め)M・デービス ※大仁田が2度目の王座防衛

2月23日 高石市臨海スポーツセンター アジアタッグ王座決定戦 〇M・井上&阿修羅原(17分12秒反則勝ち)●G・小鹿&大熊元司 ※井上組が王座獲得

2月25日 愛知県体育館 UNヘビー級戦 ○ J・鶴田(15分41秒 体固め)T・リッチ  鶴田が王座初防衛

インターJR選手権 △ 大仁田厚(10分15秒 両者リングアウト)D・カラス ※大仁田が3度目の王座防衛

3月2日 山形県民体育館 アジアタッグ戦 〇M・井上&阿修羅原(16分10秒回転エビ固め)G・小鹿&● 大熊元司 ※井上組が王座初防衛

トピックス

ジャイアント馬場は前年ハーリー・レイスに奪われたPWFヘビー級王座を奪還するため、レイスの地元チェッカードームでの王座挑戦を理由に全シリーズを欠場との発表がありました。この為マスコミはこのシリーズを”ババ抜きシリーズ”と称しました。しかしこのPWF戦はシリーズ開幕戦と同じ日時に行われており、中盤戦から参戦する事は十分可能であったのです。しかし馬場は海外マット視察を理由に当初はシリーズに参加しない予定でありました。

これについては、当時馬場に代わって現場をコントロールしていた松根社長&佐藤昭雄の「馬場がいないと観客動員はどうなるのか?」という実験を兼ねたものであった可能性があります。馬場は当初「俺が出ないのならお客さんは入りっこないよ」とタカをくくっていたようですが、実際は観客動員は徐々に盛り返し、「長年赤字を垂れ流してきたエキサイトシリーズは初めて黒字になった」と後年佐藤昭雄は語っています。馬場はそれを感じ焦ったのか最終戦に急遽帰国し、挑発を繰り返してきた上田馬之助とシングルマッチを行い、上田の腕を中攻撃して戦闘不能にし快勝しました。

外国人勢は弱体でしたが、3年半ぶりに凱旋帰国したザ・グレート・カブキが(高千穂明久)が大人気を呼びました。当初は外国人側からの出場やノーペイントでの参加も噂されたが、アメリカマットを震撼させた歌舞伎風のペイントで登場し、霧吹きやヌンチャクパフォーマンスもそのまま逆輸入し概ね日本のファンにも受け入れられました。シリーズ最大の山場は愛知県体育館での鶴田対リッチ、カブキ対シン、大仁田対ドスの3大決戦。この大会はテレビ中継ゴールデンタイム復活のテスト放映として、土曜19:30~20:50までの特番枠で生中継されました。

ジュニア王者の大仁田厚は既にこの頃から膝の故障、動きの悪さが再三指摘されており、難敵ドスには敗れるのでは?という読みもされていましたが、両リンでなんとか引き分け防衛。しかしその前のデービス戦といい低調な試合内容が顕著になっていました。また、秋田大会では全日本マット史上初のランバージャックデスマッチで天龍と上田が行いました。乱入・逃亡を防ぐため、リングサイドをセコンド10人が囲み、リング外にエスケープすると強制的に押し上げられる試合方式です。しかし、試合はセコンドを務めていた鶴見五郎がスパナをもって乱入。上田に手渡し反則負けとなりましたは。鶴見のこの行為は問題視され、ペナルティとして半年間全日本マット出場停止となりました。

アジアタッグの幻のフォール問題もありましたし、こうしてみると馬場不在を乗り越えるため二重三重の色々な仕掛けを用意していたことが見て取れます。

注目試合 何故か異様に優遇されていた上田馬之助

3月3日後楽園ホール 特別試合 〇 ジャイアント馬場(16分3秒 レフリーストップ)● 上田馬之助

昭和プロレスファンにおいては鉄板ネタの一つである「馬場の上田腕折り制裁試合」ですが、私は以前このブログで自身の見解を述べました。要約すると「一般紙に自身の事を批判された馬場夫妻は、その”落とし前”として「ガチ風の試合で完敗」し、「真剣にやっても上田は馬場より弱い、というイメージをつけさせ”上田実は強い説”をも払拭させようとしたというものです。この事は今でもそう思っていますし、この見解に特に付け加える点はないのです。しかし改めて思うのは「復帰した全日本において、上田は実に優遇されていたなあ」というものです。

まず、以下の上田馬之助が1981年に全日本に再登場してから3年間のシングルマッチの成績です。やや唖然とする内容なのです。

※上田から見た対戦成績
ジャイアント馬場     0勝2敗 (1レフリーストップ・2反則負け) 
ジャンボ鶴田       0勝2敗 (2反則負け)
天龍源一郎        0勝3敗1引き分け (3反則負け・1両リン)
ザ・グレート・カブキ   0勝1敗 (1反則負け)
阿修羅・原        0勝8敗 (8反則負け)
マイティ・井上      0勝3敗 (3反則負け)
石川敬士         0勝6敗 (6反則負け)
ロッキー・羽田      1勝2敗 (1ピンフォール勝ち・2反則負け) ピン勝ちは1981年10月27日小樽大会。パイルドライバーからフォール。

上田は全日再登場後13シリーズに参戦。ほぼフル出場していますからおそらく250試合程度はこなしていると思います。しかしシングルマッチでは上記の内容のようにピンフォールで勝つでもなく、負けるでもなく、延々反則負けを繰り返していたのです。完敗したのは馬場だけ、これはわからなくもないですが、これ以外に勝ったのも羽田に1回だけ。しかも逆に羽田にも2回反則負けを喫しています。基本的にシリーズ2,3番手に位置していた上田ですが、流石に石川、羽田あたりにはきっちり勝たねばならないのではないでしょうか?

そしてこれはタッグでも同じなのです、上記のシングルマッチを差し引くと、タッグでは220試合程度には参加している訳ですが、大半は反則決着か自身はフィニッシュには加わらず、通常試合で自分がピンフォールを取ったのは3年間でたったの1回(やはり羽田相手!1982年5月31日馬場・羽田xシン・上田 上田が羽田をパイルドライバーからフォール)あとはピンフォールを取った試合でもパートナーのシンやカマタにひたすらフィニッシュをゆだねていたわけです。

例外的に言えば、1981年千歳でのインタータッグ戦1本目にはシンとのダブルブレーンバスターで鶴田から1本とり、1984年後楽園ホールでの全日本軍団対シン軍団のイリミネーションマッチでは天龍から1本とった後鶴田に取り返されています。

リング外では常に波紋を呼ぶ発言を繰り返した上田。しかし彼の試合展開は個人的見解ですが、まったく評価しかねました。はっきり言うと「つまんない!」のです。上田は自身のプロレス論において「試合の前半はベビーフェースを卑怯な攻撃でひたすらねちこくいたぶる、いたぶればいたぶるほど、ベビーフェイス側の反撃の際の解放感が爆発する。だから俺は試合の前半はひたすらチョーク攻撃で相手をいたぶり続ける」というような事を常々話していたと思います。

しかし全日本の上田はそんな高尚なプロレスはしていなかった!試合の大半は退屈なロープ際のクロー攻撃、それを10分近く繰り返し、ようやくベビーフェイス側が反撃すると思いきや、それも数ターンで終わり、結局再度の反則攻撃でジ・エンド。そのパターンばかりでした。この時期の上田にはベビーフェイス側の派手な攻撃に耐えうる体力がなくなっていたとしか思えないのです。私は上田の試合を実際に見て猛烈に憤慨したことがあります。1983年最強タッグ福岡国際センターでの”夢のカード”ジャンボ鶴田戦です。

この鶴田対上田戦は事前には発表されていませんでした。しかし他のリーグ戦参加選手のマッチメイクはすべて事前に発表されており、発表ナシは鶴田と上田のみ、鶴田は上田とやらないんだったら越中&三沢組のハンディキャップマッチでもやるしかない状況で、必然的に会場に着くと鶴田対上田がマッチメイクされていました。それもセミ(ドリー対シン)前です。しかし試合の流れは以下のような内容でした。

先に鶴田が入場。後から上田が例によってのっそり登場します。しかし鶴田はエプロンからロープをまたいでリングインする瞬間に上田に襲い掛かり、パンチの連打。早速ゴングが鳴ります。鶴田は上田の竹刀を奪い取り滅多打ち。観客に「ウォ~!」とアピールします。更にロープに飛ばしジャンピングニーパット!「ウォ~!」と再アピールするのですが、ダウンしていた上田から急所撃ちを喰らい悶絶してダウン。横たわった鶴田を上田は執拗にクローで締めあげますが、レフリーが反則と判断して静止しますが上田はクローを頑として離しません。。。。そんなやり取りが続いた結果2分6秒上田の反則負け。。。。上田はコスチュームを脱ぐ前に試合が終わってしまいました。

正直新日本なら暴動モノの内容ですが、元々期待されていなかったカードなためか、場内は「しょうがないか。。。。」的なうんざりしたムードでした。しかし私は非常に憤りを感じました。上田にも、そして鶴田にも全日本にも。この試合を見て卑怯な悪党・上田への憎悪を募らせる、なんてことは一切なく「手抜きをしてさっさと試合を終わらせた」としか思えなかったです。当時高校生の純朴な私にとってはw大人のいい加減な仕事への取り組みをもろに見せられたようで非常に不快に思ったものです。

しかし、この試合や、3年間の試合結果に見られるように、なぜ上田は「ひたすら反則を繰り返してさっさと試合を終える」安易な悪役レスラーになってしまったのか?少なくとも全日移籍直前半年間の新日本では、若干レスラーとしてのランクは下がっていましたが、負けるべき時は負け、勝つべき時は勝つ試合をやっていた!凱旋帰国したカーンにカナディアンバックブリーカーで秒殺されたり、地方のタッグで普通に猪木や藤波にフォールされたりもしていましたが、逆に木村健吾や永源遥とのシングルではしっかりピンフォール勝ちをしているのです。

なぜ上田は変貌したのか?私は単に加齢とトレーニング不足ですでにこの時期一流レスラーらしい攻防が出来ない選手になっていたので、トップレスラーとしての体裁を維持するにはこうするしかない状況だったと推測しています。まあ、全盛時代もそれほど説得力のある動きをしていたわけではなかったと思いますが、それでも持ち前の腕っぷしの強さでなんとかトップレスラー足りうる試合内容を成立させていた。しかしこの時期の上田正直過去のレスラーとしか言えない状況だったと思います。体形もトレーニング不足が顕著だったし。

そして本題になるのですが、この上田を馬場はなぜ態々新日本から引き抜き負けさせもせずトップレスラーとして扱い続けたのか?という事です。日プロクーデター及び合併騒動時のシコリがあるはずです。上田はかつて一方的に職場放棄した男です。馬場が喧嘩別れしながらも再びリングに上げたレスラーは大木・杉山・上田の3人だけです。大木やインター王座を所持していたことや彼のバックの問題等色々複雑な事情があると思います。杉山は以前ブログにも書きましたが、契約の問題でごく短期間。しかし上田については彼の側に全日本で重宝されなければならない事情は無いように思えます。

推測するに、これは馬場側の事情でではないかと思うのです。1982年の東京体育館でのスタン・ハンセン戦で馬場は「奇跡の復活」を果たしたとされました。確かにこの試合は緊張感に満ちた名勝負です。しかし以降はそのクオリティを継続したとは言い難い!翌シリーズのブロディとのチャンカン決勝で反則勝ちで優勝した試合内容はひどかったですし、シンとの初対決も全く締まらない内容。ハンセンのと以降の再戦も第1戦に匹敵する名勝負は作れませんでした。

むしろこの時期の馬場は、一層体力的な衰えが顕著になっていたように思えます。これはハンセンやブロディと代わり替わり戦い、ハードヒットを受ける度にダメージが蓄積し、肉体的にしんどくなっていた!という事なのではないでしょうか?そして不本意ながらも、肉体的には負担の少ない上田との試合をを緩衝材的に挟むようにし、ダメージを減らそうとした、と思うのです。

うがった見方をすれば上田との試合は、タッグであっても大半をクロー攻撃で寝っ転がり、最後にチャチャっと反撃を見せれば事足りる、そうにしか見えないのですよ。そうです、正に”明るく楽しいプロレス”馬場はラッシャー木村率いる国際血盟軍との抗争に入る前に既に上田を利用して、「肉体的負担の少ないプロレス」を実践していたと思うのです!

そうすると、露骨に格の低いレスラーとそれを連日行っていたのなら「馬場は堕落した」と批判されかねませんから、馬場は上田を安易には負けさせず、試合内容に関わらずトップレスラーとしての格をキープさせ続けたと思うのです。それではなぜ上田は負けることはなかったが、自身が勝つこともなかったのか?これは身内へ向けてのアピールのような気がします。

配下のレスラーからしたら「もうロートルでしょっぱい上田を何故いつまでもトップレスラー扱いするのだ?というジェラシーがあったと思うのです。それの批判をかわす為に、上田自身がピン勝ちを取るような状況は回避したのではないでしょうか?「上田の名前を利用しているだけで、今の上田を認めているわけではないんだよ」というメッセージとして。まあ、それがどれくらい説得力があったかは分かりませんが。。。。

そして3年が経過し、ラッシャー木村という新鮮で更に格上で肉体的負担が少ない抗争相手を獲得する事が出来たため、上田は用済みとされたと思うのです。84年から85年の間、ジャパン軍が全日本に登場するのと入れ替わるように上田は再び新日本プロレスに舞い戻りました。その際には特にトラブルが発生した記憶はありません。ジャパン軍やハリケーンズの移籍は揉めに揉めましたが上田は気が付いたら新日本に復帰していた印象があります。既に馬場からすれば徹底抗戦して引き留めるレスラーではないと判断したのか?

新日本に復帰した上田は、徐々にバイプレーヤーとしての存在にシフトチェンジしつつ、UWFとの抗争ではそれなりに存在感を発揮。しかし長州の復帰と入れ替わるように新日本からも姿を消しました。全日本2度目の離脱の際は大きなトラブルが発生した訳ではないと思うのですが、結果的に全日本とはその後なんとなく絶縁状態になってしまいました。

今思い返しても、全日本時代の上田は不思議な存在だったなあと思います。性格的にも馬場と合いそうにない上田を3年間干しもせず格をキープしたまま使い続けた理由は絶対に何かあったはずです。私の推測があっているかどうかは闇の中ですが。。。。

今日はこんなところです。シリーズ検証ですので本当はカブキやランバージャックデスマッチの話も書こうと思ったのですが、上田の話が長くなりすぎたのでこのあたりにしますw。次はグランドチャンピオンカーニバルⅠです!それでは、また。

#ジャイアント馬場

#全日本プロレス

#上田馬之助

#ザ・グレート・カブキ

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