こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話であり、新企画を初めてみたいと思います。80年代の全日本プロレスについて開催シリーズごとに時系列で私個人の考え、思い出を綴っていくというもので前からやりたかっていた企画なのです。

その前になぜこのシリーズからはじまるのか?それを含めて私がどうやってプロレスを見始め、何故全日本プロレスのファンになっていったか少し語らせていただきたいと思います。まずプロレスが好きになったのは今は亡き私の父の影響なのです。父は平凡なサラリーマンでしたがプロレスファンでもあり、日本プロレス時代からプロレスのテレビ中継を見ていたようなのです。しかし、元来の人見知りな性格が災いして人間関係には非常に苦労したようです。私から見れば短気な一面もありましたが根本的に穏やかでのんびりした性格の人でした。
それが理由の一つだと思うのですが、父は常にガツガツしているアントニオ猪木さんより、どっしり構えるジャイアント馬場さんの方にシンパシーを感じていたようです。ある日父の会社の同僚が家に来て酒を酌み交わしていた際、ふとプロレスの話題になった時に「猪木は人の悪口ばかり言うけん好かんとですよ」と父が力説していたのを覚えています。でも日本プロレスが分裂した後も全日本・新日本の両団体は見ていました。とにかく根本的にプロレスが好きな人で、猪木さんを悪くは言いながらもしっかりワールドプロレスリング中継についても見れるときは見ていましたね。
ただし私は当初はプロレスに嫌悪感を持っていました。全日本プロレス中継が当時放映されている土曜夜8時は〝8時だヨ!全員集合!”が放映され散る訳で当然私はそれを見たいわけです。当時はまだ週休6日制でした。父は土曜も仕事に出ていましたから私は夜になればテレビを独占して全員集合を普通に見るのですが、8時20分頃父が帰宅するので前半戦コントが終わったあたりでチャンネルをプロレス中継に変えられてしまうのです。

当然私は抗うわけですが、父は私をプロレスファンに仕立て話し相手を増やそうと企むわけです。父はごく稀に「今日は面白くない」と言って全員集合にチャンネルを戻すのを許してくれたりもするので私は夕食を取りながらプロレスを見る父の横に待機しチャンネルを戻す機会を窺っているわけですが、父から盛んに「ホラホラ!面白いやろう?」と促されるので、純情で素直な?私は徐々に徐々にプロレスの面白さにひかれていったのです。
金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」放送時もやはり父は夕食を取りながら新日本プロレスの試合を見るのが日課でした。その時間帯は私は特に見たい番組があるわけではないので父の傍にいる必要はなかったのですが、徐々にプロレスの持つ魔性に引き込まれつつあった私は父と並んで新日本プロレスの試合も見るようになったのです。父は私からプロレスの話題を振られたりすると機嫌がよくなり臨時の小遣いをくれたりしましたからねw
そして「全員集合」にしても毎回平均的に面白い訳ではないのです。結構前半戦コントは以前にやったパターンと大方同じ内容の場合も結構あり「今日は外れ回」と思わせるような事も多々ありました。そして徐々にプロレスが好きになり始めていたとある土曜の夜8時、「今日は外れ」と判断した私はまた父が帰宅していた訳でもないのに自ら「全日本プロレス中継」にチャンネルを変えたのです。その大会は、、、おそらく1976年エキサイトシリーズの開幕戦の後楽園大会です。欠場が多くなっていたサンダー杉山が試合開始前馬場と待遇の件でもめ、試合をドタキャンして帰宅してしまった、という事件が起こったとされている大会です。
当時のカードは(メイン)覆面世界一決定戦第9戦 ザ・デストロヤー 対 ブルー・シャーク、(セミ)ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田 対 ワフー・マクダニエル&デイビー・オハノン、サムソン・クツワダ 対 マーク・ルーイン でした。その中で当時小学校4年生の私に強烈な印象を残したのは、馬場からピンフォールを奪ったワフー酋長でも、情けないマスクをかぶらされたブルー・シャーク(ダン・ミラー)でもなく、”毒蛇”マーク・ルーインだったのです!

ルーインはクツワダを一方的に攻め込み、最後は得意の”アナコンダ殺法”スリーパーホールドでクツワダを”落として”しまったのです。クツワダは失神したままタンカ?で運ばれて行きました。しかし子供の私には”落とされた”という状況がよく呑み込めず、単純にルーインがクツワダの首を絞めて殺してしまった、という事にしか見えなかったのです!父はその日つきあいの飲み事があったようでプロレス中継もすっかり終わった22時頃に帰ってきたのですが、私は「さっきの試合でクツワダが殺された!」と父に騒ぎ立てましたw
父は最初はびっくりしながら私の話を聞いていましたが、徐々に状況を把握し「ガハハ!」と笑いながら「プロレスラーは強いけん、すぐ生き返るばい!」と私を慰めてくれました。そして翌週、父の予言通り元気にセミファイナルに出場するクツワダの姿がありました。小学生の私にとっては「首を絞められて意識を失った=殺された」としか理解できなかったので翌週何事もなかったように試合をこなすクツワダには何とも理解しがたい不思議さを感じました。
私の家はごくごく普通の家庭であったのですが、両親も同居していた祖父も若干融通が利かず生真面目な家庭であり、「おとなしくしている事」を美徳として育てられたので、今思えばですが、プロレスの持つアバウトさ・うさん臭さに何か非常に心を引き寄せらえれるものがあったと思うのです。今思えばこの中継が馬場鶴田組の試合から放映されていれば私がここまでプロレスに傾倒する事はなかったのかも知れません。またこのマーク・ルーインというレスラーもいろいろな意味で色気のあるレスラーなのですよね。彼は私にとっていつも気になるレジェンドレスラーでした。
そしてその後はミル・マスカラスの「スカイ・ハイブーム」やファンクスのオープンタッグでの感動の優勝を目の当たりにすることになり父以上にプロレスに傾倒していくことになるのです。

子供のころの私の趣味は「プロ野球=ジャイアンツ」「沢田研二」「プロレス」の3本立てであったのですが、中学に進むと野球部に入り練習や学習塾等で帰宅は21時頃になっていたため、自然にプロレスから遠ざかる結果になりました。専門誌を購読するようなお小遣いの余裕もなく、全日本プロレスは土曜夕方に中継枠が移動し、中々生の映像を見るのが困難になってきたのでやむを得なかったのです。ワールドプロレスリングも帰宅する頃には中継が終わっていましたし、当然当時は我が家にはビデオもない、、、それでも見ることが出来る時間があれば意識して見ていたので興味を失ったわけではなかったのですが。。。。
そんな中、私の気持ちを一気にプロレスに引き戻す歴史的プロレス事件が起こります。高校に入り野球部に入部した私はやはり帰宅は21時を超えるのが常だったのですが、学校の近くに軽食も出すパン屋さんがあり、同じ学年の野球部員は帰宅途中の20時頃に30分程度そこで炭酸飲料を飲み、パンや焼きそばなんぞを食べながらそこでくつろぐのが常となっていたのです。そしてそのお店にはテレビがあったので野球中継を見ながらその日の練習の事をだらだら話していたものでした。
そして1982年の10月の金曜、やはり私と野球部仲間数人はそのパン屋に20時頃入って行く訳ですが、野球中継は中止となっていました。当時は空前のプロレスブームでしたので「雨傘番組」として待機していた「ワールドプロレスリング」を見ることなりました。私もプロレス中継を見るのは数か月ぶりであったのですがもちろん異存はなく中継に見入ったのですが、、、マニアならピンと来たのではないかと思いますが、その大会は長州力の「かませ犬」発言が出た後楽園ホール大会だったのです。

タイガーマスクの登場でマット界が一般社会を巻き込むブームとなっていることは薄々知ってはいましたが、部活動や受験で3年ほどプロレスをじっくり見ていなかったのです。ですのでそのシーンは衝撃的な瞬間でした。そしてその後1週間連続で東スポを購入して情報を収集し、プロレス界が如何に変貌し以前とは全く変わっていることに気づかされました。そして私プロレス熱が再燃。定期購入していた週刊ベースボールとオリコン誌の購入を打ち切り、月刊プロレス・ゴング・週刊ファイトを購入するようになりました。このルーチンはその後15年近くにわたって続けたのです。
全日・新日のその後のシリーズ、世界最強タッグ決定リーグ戦及びMSGタッグリーグ戦でプロレスのブランクを埋めるため情報を収集してコンディションを取り戻しw、翌年の新春ジャイアントシリーズ及び新春黄金シリーズでは現在の両団体の状況・展望を完璧に把握しwなるだけプロレスをテレビで見るように心がけました。もちろん部活動も継続していましたが、その時は練習がやや早めに終わる冬のシーズンだったのでなんとか例のパン屋を活用すればそこそこテレビ中継も見ることが出来たのです。
私のプロレスへの情熱は明らかにこの時期に熟成されました。ある程度下地はできていたのですが、両団体が激しい興行戦争を行っていた1982年後半にプロレスと再会した事により情熱がよみがえり私が最も興味を持つ趣味となりました。ですので特に1983年~87年くらいまでは異様な情熱でプロレスを見ており今でもその間のそれぞれのシリーズ・参加外国人や事件・タイトルマッチの結果等は資料を見ずとも大方時系列で話すことが出来るのです。
という事で私のプロレスマニアとしての出発点になった全日本プロレスの1983年新春ジャイアントシリーズから検証を始めたいと思うのです。ちなみに何度か書いていますが私は全日本プロレスファンです。しかし新日本も毛嫌いしていたわけではなくテレビも毎週見てはいました。ですので新日本編も書こうと思えば書けるのですが、思い入れの差がありモチベーションとしてもまだそこまでするには至らない、なおかつこんなスタンスで新日ファンを名乗るのもおかしいので、全日本プロレスに的を絞ってこの企画を行うというものなのです。
長くなりましたが、このような流れで次回から企画を開始したいと思います。まずは1983年新春ジャイアントシリーズから!参加外国人・タイトルマッチ等を紹介しつつ私が興味を持った2~3試合を取り上げて解説したいと思います。どうぞお楽しみに!

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