全日本プロレス・静かに姿を消した中堅レスラー  ラストマッチを検索してみた!

こんにちは、みやけです。

今回は久々に昭和プロレスについて書いてみたいと思います。そしてその内容は最近定番となってしまっている妄想モノではなく事実の検証を行ってみたいと思います。

私は昭和プロレス、特に全日本プロレスのファンであるのですが、私が熱心に見ていた当時のレスラー達はいつの間にかいなくなっていたパターンが多いのですね。新日本は引退セレモニーを頻繁に行っていた印象はありますが、全日本のレスラーの場合「あの試合が最後の試合だった」「ああいう引退セレモニーがあったなあ」と容易に思い浮かぶのはジャンボ鶴田、大仁田厚くらいでしょうか。。。

引退セレモニーは行われていない訳ではないのですが、テレビ中継もされず、ひっそり去って行くパターンが多いのです。そして力を残して退団をやむ無く受け入れ、後に他団体でカムバックして脚光を浴びる選手もまた多いのですね。

今回はそういう中堅レスラー達の全日本最終試合を再確認し、その前後の状況をも考察してみようという企画です。まあ、経営者・馬場の首切りの歴史を紐解く事にもなる訳ですが。。。。それでははじめてみましょう!

※参考資料 ブログ 昭和の全日本プロレス https://blog.goo.ne.jp/1972ajpwf

      五月書房「小鹿注意報!」

ロッキー羽田

最終試合 1986年11月27日 世界最強タッグ決定リーグ戦 函館市民体育館 観衆4500人超満員

第5試合 ○アニマル浜口 小林邦昭和 (15分6秒 逆さ押さえ込み)マイティ井上 ●ロッキー羽田

実は羽田選手はこのシリーズではこの大会が唯一の出場なのです。その前のジャイアントシリーズ(最終戦は七尾での輪島デビュー戦!)の中盤戦の岡崎大会で冬木とシングルで対戦し、急所打ちからの反則負けを最後に以降は最後まで欠場しています。

私は輪島のデビュー戦を見た際、対戦相手のシンが入場する時に彼の側にいたのが阿修羅・原であった事に違和感を持ちました。そして後ろからついてくるのは百田光と大熊、あまり見ない光景だったのですよ。

羽田が外国人レスラーの入場時のサポートを良く行っていたのは、観客から汚いヤジを飛ばされたりモノを投げられたりした際、レスラーが客に手を出さないようコントロールできる力が羽田にあったからだと思っています。デカいですからね。ですので当然羽田は周辺にいるはずだと思ったのですがこの時点ではもう東京に返されていたのですね。

羽田は80年代に入るあたりで糖尿病を発症し数度の長期欠場を経験しました。そして怪我も多くなり試合を休む事が多くなったのですが、後述する小鹿や百田義浩と違い、理由もなく試合を外される事は無かったのです。ただし、原・井上と言った国際勢が合流したあたりからファイトに精彩を欠き、試合がテレビにオンエアされる機会も無くなり、第2、3試合あたりで細々ファイトしている印象でした、

これからは推測ですが、結果的に最終試合であった函館大会は彼の生まれ故郷北海道での事実上の引退興行だったのかも?彼がこの大会をプロモートしたのならそれは前から決まっていたでしょうけど、馬場は岡崎大会の前あたりで羽田に引退を急に通告し、ある程度のご祝儀上乗せと引き換えに納得してもらったのではないか?そんな風に思います。

函館大会のマッチメイクも羽田にしてはいい組み合わせだし、現地では引退試合的な雰囲気が漂っていたのかも知れません。そして翌年10月の日本武道館大会、鶴竜対決がメインであり試合後にブロディが乱入した試合ですが、ここで羽田の引退セレモニーが行われたようです。私にはその映像や記事を見た記憶が全くないのですが。。。。。。

しかし一年近く欠場扱いとなりながら、彼の近況がほとんど報道されなかったのは可哀想でしたね。ジャパン分裂でゴタゴタしていた時期とはいえ。。。。私も羽田の試合は何度も見ましたが、決して悪いレスラーではないのですよ。長身ながらもひと通り技はこなすし。。。。ただ試合に感情が見えて来ず、ただ黙々と試合をやっているだけの感があったのでヤジられる対象になりがちでしたね。

同世代やすぐ下の後輩のインタビューを聞いても羽田選手についてはあまりいい話は出て来ないですね。どうも酒絡みで評判がかなり悪い。。。。。後輩にどんどん追い抜かれて心が荒んでいたのでしょうか?

ただし間違いなく全日本プロレスが一番苦しかった時代を支えたレスラーではあるのですから、もうちょっと彼のいい話を聞きたいですね。OBレスラーの回顧インタビュー全盛の昨今ですので期待したいと思います!

グレート小鹿

最終試合 1986年9月9日 サマーアクションシリーズ2 愛知県立体育館 観衆6800人

グレート小鹿 ○大熊元司(11分27秒 体固め=ダイビングヘッドバット)保永昇男 ●仲野信一

グレート小鹿が連載していた人気ブログを纏めた著書『小鹿注意報!』では引退の経緯について「1987年の夏、京都の野外大会で大熊選手と組んでマイティ井上・佐藤昭雄組と対戦、井上のパイルドライバーを受けた際雨で滑って受け身を取り損ね首を強打し長期欠場となり、翌シリーズ最終戦の相模原大会で復帰を申し入れたが相手にされずそのまま引退となった」という内容の話が書かれています。記録とはかなり異なります。

まず勿論愛知県体は屋内会場、そもそも年からして違います。小鹿の話しているのは1986年の愛知大会の前々日に行われた岐阜・大和町町民センターグランドにて行われた 井上 渕 対 大熊 小鹿組の試合のことを言っているのではないかと思います。ちなみにこの試合は井上選手が小鹿選手を回転エビ固めで抑え込んでいます。

この試合で怪我を負ったものの、次の愛知県大会は強行出場、しかし痛みは強くなる一方なので次から休みを申し出たのかも知れませんね。しかし首の状況は思った以上に深刻であり、試合をできるまでには回復しなかったのではないでしょうか?相模原大会もどのシリーズのことを言っているのかは分かりません。まあ、これはレスラーの回顧ものではよくある話ですが。。。。

更に小鹿の著書によれば彼の処遇については団体側から明確な意思表示がされなかったようで、当時の松根社長と馬場会長の間でたらい回しされてしまったようです。結局翌1987年末世界最強タッグ決定リーグ戦の武道館大会で引退セレモニーが発表されたものの“諸事情で”延期。その翌年の7月31日サマーアクションシリーズ最終戦の函館大会(千代台陸上競技場 観衆8200人)にてようやく引退セレモニーが行われました。

この大会では小鹿選手自身が試合に出ることはありませんでした。しかし欠場から2年経っての引退セレモニーですから色々揉めたのだろうなと思います。この興行はダイジェスト的にテレビ中継はされましたが、小鹿のセレモニーは放映されなかったと記憶しています。

プロレスファンならご存知のように、その後小鹿はインディでブレイクする訳ですが、全日本退団前の試合を見ていた私の感想は「あんまり動こうとしないで、お決まりの小ネタだけで試合を成立させているなあ」という印象でした。まあ、最後はちょっと可哀想でしたが、若い選手の為には人員整理の対象になってもやむなし、と当時も思っていましたよ。長州が「全日本はぬるま湯」と発言した時真っ先に小鹿の顔が思い浮かんだものです。

百田義浩

最終試合 1986年 スーパーパワーシリーズ 5月17日横須賀市総合体育館 観衆2700人

大熊元司 ○グレート小鹿(17分48秒 体固め)ロッキー羽田 ●百田義浩

この試合以降“怪我の為”最終戦まで欠場。そして戦列に戻ってくることはありませんでした。百田義浩の場合、理由がハッキリしないのにカードが組まれない事が多く、正直アブレの常連だったと思われます。wikiには「1987年まで現役を続けた」とありますが、87年の試合は確認できません。

その後1989年のいわゆる百田光雄ブームの際に弟のセコンドに着くスーツ姿の兄・義浩の姿を見る事が出来、ようやくこの時点で彼が引退していた事を認識しました。最後の試合もたまたまラストになってしまっただけで、なんとなく引導を渡されてしまったのかも知れませんね。

しかし全日本にとっての1986年はカルガリーハリケーンズの3人の加入の煽りを食い、国際血盟軍の剛・菅原・高杉の3人がリストラされたのは有名ですが全日本側も羽田・小鹿・百田義浩の3人がリストラされていたのですね。同時に外国人側の中堅レスラーの来日もセーブされましたし、脇役タイプのレスラーにとっては戦々恐々の1年だったでしょう。

百田義浩のファイトスタイルについては若干の記憶はありますが「地味」というしか無いですね。身体の柔軟性とバネに欠けるという。。。。致命的ではありますが。大舞台も与えられることはありませんでした。ちなみに私は彼とマイク・ショーのシングルマッチを観た事があります。印象は特になかったのですが。。。

ただし、高齢でレスラー転向したこともあり、ダラダラと現役を続けていたらその後第二の人生に深刻な影響を及ぼすような怪我負った可能性もあります。百田義浩を早めにリタイアさせたのはそれなりに正しい判断だったのではないかと思います。その後フロント業務に就いた義浩氏ですが、54歳という若さで亡くなられてしまったのは惜しまれます。

・高杉正彦

最終試合 1986年8月23日 スーパーパワーシリーズ 平塚青果地方卸売市場大会 観衆2800人(超満員)

第5試合 ○鶴見五郎 高杉正彦(11分48秒体固め=急所打ち)小林邦昭 ●仲野信市

上記3人同様“86年組”の高杉です。いったんはエキサイトシリーズ3月2日の陸前高田大会を最後に剛、菅原と共に全日本を去ります。高杉のカードは第3試合で保永昇男とシングルを行い、7分51秒回転エビ固めで敗れています。

ただし高杉は以前から地元・神奈川の平塚地区でのプロモートも行っていたようです。83年にはグランドチャンピオンカーニバル2にて同所で興行を行い、なんとメインの6人タッグに出場した高杉(ウルトラセブン)はチャボ・ゲレロにピンフォール勝ちしております!(大胆にも程がある!w)

それはいいとして、高杉のwikiを見ると全日本退団後の記述にこうあります。「全日解雇後はフリーランスとして全日本の前座で様々な謎の覆面レスラーに扮したり、地元である平塚市で行われる試合にスポット参戦するなど、、、、」しかしこれはちょっと眉ツバ。復帰については剛竜馬は87年に1シリーズだけ復帰しますが、菅原は無し。高杉にしてみてもこの平塚大会だけのはずです。

国際プロレスなら公式記録には載っていない選手の特別出場もジャンジャンあったかも知れませんが、この頃の全日本プロレスandプロレスマスコミは意外とちゃんとしており、例えバトルロイヤルであってもそんな特別参戦が記録に残っていないとは思えないのです。

全日本プロレスでは1988年新春ジャイアントシリーズジョー・プルートという何処の馬の骨とも分からぬ外国人が1試合だけ鹿児島大会にトライアル参戦し、佐藤昭雄と対戦しましたがあっさりお払い箱となりすぐに消えています。そのプルートも各マスコミが出版する「歴代外国人参加選手」的な企画には掲載されおり、高杉が言う“謎のマスクマン”が載っていないはずでは無いと思うのです。

このwiki、おおらかな性格で知られる本人が書き込んだのではないかと推測しているのですが。。。でもその割りには笑うに笑えない内容ばかりなんですよね。。。

栗栖正伸

最終試合 1988年1月22日 新春ジャイアントシリーズ 西尾市体育館 観衆1550人

第一試合 ○栗栖正伸(10分17秒回転エビ固め)●百田光雄

新日本時代は殆どテレビに登場する事も無く、唯一の晴れ舞台が猪木対国際軍団の1対3マッチでのレフェリー起用という悲運のレスラー人生でした。しかしジャパン軍として全日本登場後はテレビマッチのメインにも登場しましたし、対外国人で定期的にセミあたりに起用されていた印象があります。

馬場もその向こうっ気の強さを評価していたように思えます。ジョン・テンタのシングルデビュー戦の相手となった栗栖は果敢にもふた回り以上の体格差があるテンタに対し卍固めを仕掛けて行きました。栗栖の魅力がよく出た試合だと思いました。

しかし徐々に序列は下がり、ジャパン軍が解散した頃には百田光雄と第一試合で戦うのが定番になってしまっていました。肉体的には決して衰えを見せていた訳では無かったのですが。。。おそらく馬場と昵懇の仲になっていた永源との不仲が大きいのではないかと思います。元々外様なのですから。。。

結局その年の8月30日(武道館でのブロディメモリアルナイトの翌日)、大阪府立体育館にて栗栖の引退セレモニーが行われました。試合はなしです。地元での開催という訳ですがこのシーンも私にはちょっと記憶がないです。彼も後日インディでブレイクした一人ですが、何と無く全日とは絶縁状態もような感じになっています。トラブルを起こして退団した訳では無いのにちょっとかわいそうな気もします。それとも栗栖に全日への思い入れがないのか。。。

佐藤昭雄

最終試合 1990年新春ジャイアントシリーズ 1月26日後楽園ホール 監修2350人(超満員)

第2試合 ⚪︎ 佐藤昭雄 (6分15秒 回転エビ固め)ランディ・ローズ

1983年のエキサイトシリーズ、いわゆるカブキ凱旋による”ババ抜きシリーズ”開幕戦において試合中の怪我で以降の試合を欠場。アジアタッグを返上しその後はアメリカを行ったり来たりの不定期参戦になっていた佐藤昭雄。しかし年を追うごとに全日マットとは疎遠になり、最後の方はせいぜい年間1〜2シリーズの参戦となっていました。

それでもアジアタッグには再度戴冠する等大きく序列を下げられることもなかったのですが、流石にこのシリーズはファミリー軍団に組み入れられたり、ブレイク前の田上にシングルで完敗したり扱いはかなり悪くなっていました。コンディション的には特に悪くなかったと思うのですが。

このシリーズの参加は選手というよりも日米レスリングサミットを前に「WWF側の使者、マクマホンjrの代弁者」という意味合いが大きかったのでしょう。すっかり米マットの実力者となってしまったかつての付き人佐藤昭雄。馬場もこの状況には引いてしまったようで、以降佐藤とは疎遠になってしまったようです。喧嘩別れ、という訳では無いようですが。。。

しかし佐藤とは実に不思議なレスラーです。地味なイメージが強いですが、会場で見ると実にキビキビ動いていますし、結構気迫も前面に出すタイプなんですね。天龍ら選手が多量離脱後の全日本にはむしろいい出番が与えられただろう選手だったと思うのですが、結果的にこれが全日最終試合になってしまったのは残念ですね。

そもそも彼は引退セレモニー的なものもどこからもやってもらっていないですし。今はアメリカで長距離トラックの運転手をされているようですね。

・ミスター林(レフリー)

レフリー最終試合 1986年3月29日 チャンピオンカーニバル 後楽園ホール 観衆 3400人(超満員)

第7試合 ⚪︎テッド・デビアス(7分53秒 反則勝ち)● キラー・カーン を裁く

最後にレフリーとしてのミスター林です。おお!忘れていましたが86年は羽田・小鹿・百田義だけでなくミスター林も静粛されてるのですね!林は凱旋帰国後大きなチャンスを与えられることもなく、百田兄弟や伊藤正男あたりと前座の第一試合でシコシコとプロレスを続けていましたが、1982年のグランドチャンピオンシリーズの大阪府立体育館での後藤政二戦を最後に怪我を理由に強制引退?させられ、翌シリーズからはレフリーに転向しました。

元々鈍重な動きがウリ?の林ですが、当時は「レフリーの方がキツい」とこぼしていたそうです。そしてレフリー転向翌シリーズで大ポカをやらかします。大仁田厚 越中詩郎 組 対 チャボ・ゲレロ ウルトラセブンの試合をさばき、なんとセブンを押さえ込んだ越中に対して3カウント叩いてしまったのです!

この状況、最終戦で大仁田のインタージュニアに挑戦するチャボが3カウントを取るなら全然問題ないのですが、セブンもその前に挑戦が決まっていたのです。方や越中はようやく外国人選手との試合が組まれ始めた程度のバリバリの若手選手。絶対にありえない勝ち方をしてしまったのです。

セブンはその直前大仁田の指が目に入りダメージを追っていたらしいのですが、これは叩いちゃいかんでしょ!高杉のその後のレスラー人生を暗示するような出来事です。林はその後もハンセンからもろにラリアットを食らったり、レフリング以外で印象的な場面を作ったものですが、馬場と仲がいい訳でもなく、生活に困窮し合宿に居座ってしまう等私生活上の問題もあったようで、86年の3月にレフリーとしての契約も切られてしまいます。

その最後のレフリングが上記のデビアス対カーン戦なのですが、ちょっと印象深いシーンがありました。カーンのデビアスへの攻撃がレフリーを誤爆し、林はカーンの反則負けを取ります。カーンは「ちょっとだけじゃ無いか!」みたいな抗議をするのですが、林は相手にせずサッサとリングを去っていきます。

実況をしていた日テレの若林アナが「確かに反則ですが、この二人の試合はもう少し見たかったですが。。。」と振ると、解説席にいた馬場は「そうですね、もう少し見たかったですね。でもレフリーの権限は絶対ですからね!」と林を庇ったのです。

実は馬場さん、解説ではレフリーに対して苦言を呈することは珍しく無いのです。たとえジョーさんであっても。よくあるのが今回のように悪役レスラーがレフリーに暴行を加え、即反則負けを取った場合「ルールは分かりますが、もうちょっと様子を見てからでもいいんじゃ無いでしょうか?」みたいなファンの声にすり寄るような事をよく言うのですよ。

しかし今回は毅然とレフリーの格式を尊重した訳です。これは去りゆくミスター林への細やかな花向けの言葉なのか。。。考えすぎでしょうか?でもこの試合は久々の生放送で久々登場のミスター林ですからインパクトは大でした。

その後、林はジャパン女子プロのレフリーを務めたりした後、1999年に亡くなられました。インディには意外なほど関わることはありませんでした。血気盛んな一面もあったようですが、なんとも妙な雰囲気を持ったレスラーでしたね。

今回の企画はこんなところです。そしてですね、こうして過去の熱戦符をチェックしていくと、高杉の項にありましたようにそれぞれのレスラーの地元での興行についても面白い兆候があることを発見しました。折を見てそのことをまた書いて見たいと思います。

それでは、また。

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