大木金太郎の裏エース人生

こんにちは、みやけです。

今回は昔のプロレスの話です。“韓国の猛虎”と言われた頭突きがトレードマークの大木金太郎さんの話です。残念ながら大木さんは2006年に亡くられています。

何故大木選手を取り上げるのか?正直な話、特に好きな選手ではありません。子供の頃から見ているレスラーなのですが、“怨念”という言葉がぴったりくるその気迫は十分感じられるのですが、ファイトスタイルが単調であり見ていて面白い選手ではないのです。

しかしですね、昭和プロレスファンにとっては神ブログとも言うべき「昭和の全日本プロレス」という全日本プロレスの旗揚げ以来の試合結果を全て記録したブログを発見し、その内容を精査していくと以下のような事実を発見し、大木選手の存在についてえらく気になりだしたのですね。

その事実(妄想?)とは?『旗揚げ以来馬場の個人的ルートで常に複数の一流外人をシリーズに招聘してきた全日本プロレス。しかし人気が頭打ちとなり、経営トラブルにも巻き込まれた1977〜79年頃は表向きテリー、ブッチャー、マスカラス人気で活況なように見えたもの、その実他の外国人は極力削減し、その代役を大木が務めていた』という事です。

新間寿氏が常々「NWA系の有名選手を独占して招聘している馬場さんが憎らしかった!」なんて話を良くするものですから、私もその認識でいたのですが、記録をじっくり調べて見るとかなり大木選手に依存してシリーズを乗り切っていたのですよね。という事で大木選手の全日本プロレスでの足跡を拾ってみました。

尚、世界最強タッグ決定リーグ戦とチャンピオンカーニバル、オープン選手権はスター選手一斉参加のイベントであり、この話の趣旨に当てはまらないので割愛させて頂きました。

1975年ジャイアントシリーズ(ブッチャー、ベーカー、ハンセン参加)

蔵前の最終戦のみに参加し馬場と一騎討ち。敗れる。

ジャイアントシリーズ2 → 不参加

1976年新春ジャイアントシリーズエキサイトシリーズ → 不参加

NWAチャンピオンシリーズ、サマーアクションシリーズ、ブラックパワーシリーズ→不参加

ジャイアントシリーズ(ブッチャー、ワルドーフォンエリック、オーツ兄弟参加。※外人勢やや弱体?)

キム・ドクの凱旋帰国に付き添い全戦参加。ワルドー相手にアジアヘビー級王座を防衛。ドクとのコンビでインタータッグ奪取。

スーパーパワーシリーズ(ブッチャー、ロビンソン、マードック、コックス参加)

後半戦のみ参加。インタータッグ王座防衛に失敗。王座転落。

・1977年新春ジャイアントシリーズ、エキサイトシリーズ、NWAチャンピオンシリーズ

→不参加

サマーアクションシリーズ(マードック、ウィスコフスキー参加。外人勢超弱体!)

→最終戦のみ参加。鶴田との試練の10番勝負の相手を務め引き分ける。

ジャイアントシリーズ(ブラジル、ワフー、パテラ、他2人参加。人数少ない!)

→2日のみ参加。ドクは後半1週間参加。大木はPWF&アジアのダブルタイトル戦に臨み敗退。アジアヘビーのベルトを失う。

1978新春ジャイアントシリーズ(レイス、ルーイン、タイクーンズ参加。尚、このシリーズからサムソン・クツワダが姿を消す)

→2日のみ参加。両日ともタイクーンズ相手のインタータッグ王座防衛戦。ドクは全戦参加。

エキサイトシリーズ(マードック、フレアー、オコーナー参加。外国人側やや弱体。)

→1週間参加。ドクは全戦参加。馬場鶴田相手にインタータッグ王座防衛戦。敗れて王座転落。

スーパーパワーシリーズ

 →不参加(トーアカマタ初登場!)

サマーアクションシリーズ 

→不参加(ドクのみ全戦参加。テリー、ブッチャー、スレーター参加)

サマーアクションシリーズ2(マスカラス兄弟、モロウスキー参加。外人勢弱体過ぎ!)

→計2週間参戦。愛知県体育館でノンタイトルで馬場と一騎討ち。リングアウト負け。ドクは全戦参加。

ジャイアントシリーズ(ブッチャー、ロビンソン、カマタ、ブラジル参加)

→ドクと共に全戦参加。上田市体育館でドクと組みインタータッグ王座に挑戦するも敗れて奪回失敗。その他は連日外人か極道クラスの中堅と対戦。

1979新春ジャイアントシリーズ(ブロデイ、エリック、ラシク、イヤウケア参戦)

→ドクと共にほぼ全戦参加、連日中堅相手に戦いビッグマッチはなし。

チャンピオンカーニバル→参加。ドクは不参加。この後2シリーズ参加が無く、以降の参加は1外人選手として扱われるようになる。年末の最強タッグではカマタとタッグを組む。

こうしてみると、75年の再登場以降、大木個人の事情もあるのでしょう、その後1年は他の外国人選手と同じくらいのペースでの登場なのですが、77年夏頃から急に参加のペースが早くなります。

そして当時の事を思い出してみても、一応エースとして参加している外国人選手は存在するものの、実際はシリーズの柱、話題、最終戦のメインを担っているのは大木(及びドク)である事がやたら多いなと思うのです。1977年のジャイアントシリーズ、1978年の新春G、エキサイト、サマーアクションシリーズなどはその典型だと思います。

そしてその扱いに甘んじていたのが、 ディックマードックだという気がします。本人の集客力の問題が大きいのでしょうが、特に1977年のサマーアクションシリーズはただでさえ2番手以降の外国人選手の層が薄いのに、マードックは一切ビッグマッチに絡まず地方のメインのタッグでは自ら決勝フォールを取られてしまうこともしばしば。シリーズの話題は最終戦の鶴田大木戦のみという体たらくでした。

また大木が“使い回された”この時期は言われるほどNWAの大物は全日本プロレスには登場していません。フレアーとブロデイくらいでは無いかと思います。何故このような状況に陥ったか?同時期は馬場の体調不良と鶴田の伸び悩みで全日本プロレスの経営状態が悪化し、頼みの外国人選手招聘の予算にもブレーキがかけられたのでは無いかと私は推測します。

その為、長期的スパンで抗争相手を勤められるのは比較的ファイトマネーが低く済む大木andドクが適任だったのではないでしょうか?

また一説によれば、1977年頃はサムソンクツワダがクーデターを起こし、ジャンボ鶴田の引き抜き未遂が発生していたとの話があります。昭和プロレス研究の大御所サイト『ミック博士のプロレス研究室』では地道な取材を元にこの事件を深く掘り下げられ、「クツワダ(更には黒幕?)が第4団体を作ろうとしていた」という結論を出されつつあります。

私も博士の考えに大いに共感している読者の1人であるのですが、これが事実だとするならば、例え時期エースの鶴田でも頼みの外国人選手招聘が不安定になっているのでは、将来を悲観する気持ちも分からなくもないのです。

ただですね、私がここで訴えたいのはですね、大木選手の不遇さなのです。2年近く全日本正規軍の抗争相手として立ちはだかって来たにも関わらず、ファンの印象にはあまり残っていないと思うのです。蔵前の対決で6分少々で負けた以降は「そういえばチョコチョコ来てたなあ」という程度の印象なのではないでしょうか?ジャパン軍参戦期間と対して変わらないのに!

どうしてそうなるのか?大きな理由のひとつにプロレスの懐古本や年鑑ものの本が発行される際、外国人選手は各シリーズ毎に誰が参加したかはリスト化されており、後で見直すときに記憶の補填にもなるのですが、大木の様な外国人サイドで参加しながら、団体に所属しないフリー系の選手だとそれがリスト化されんし場合が多く、いつ来ていたのかが曖昧になりがちなんですね。

これは上田馬之助やマサ斎藤、更にはヒロ・マツダやマティ鈴木のような日本陣営側で参加していた選手にもなぜか当てはまってしまうんです。そして肝心な団体側もその手の選手達に対して功労者的にはあまり扱っていない様な気もします。

新日本プロレスはそうでもないのですが、全日本プロレスはその傾向が強い様に思えます。色々あった上田や大木はともかく、マティ鈴木選手なんか設立時に大いに貢献して、他への浮気も無かった恩人の1人だと思うのですが。。。。

いずれにしても、今後大手出版社がプロレスの年鑑本、懐古本を出版する際は大木の様なフリー系選手の扱いにはもう少し気を遣って貰えれば、という思いです。

しかし!ではもし大木金太郎の名勝負編DVDBOXが発売された場合、私は買うのか?!

買うかな〜。。。。。。買わないだろうなあ。。。。(苦笑)

今日はこんなところです。

それでは、また。

#大木金太郎

#ジャイアント馬場

#全日本プロレス

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