こんばんは、みやけです。
今回は昭和プロレス検証企画!日本プロレス〜全日本プロレスに在籍後、海外遠征に出たのはいいもののそのまま足跡を絶ってしまい、未だその所在がわからないとされる伊藤正男選手の消息を追ってみると言う、地味を極め切った企画です!例によって全日合流後からの熱戦符をチェックしたのですが、中々興味深い点もありました。ぜひお楽しみください!

このブログでは以前「全日本マットから静かに姿を消した中堅レスラーのラストマッチ」と言うブログを書いたのですが、かなり多くの方に読んでいただけました。ありがたい限りです。復帰・出戻りに寛容な新日本プロレスに対し全日本はひっそりと首を切られ、何とは無しにその後は会場に姿をあらわすことも難しくなると言う独特の体質を検証して見たかったと言う試みが一部の奇特な昭和プロレスファンの心を捉えたのかもしれません。
ただしその中では伊藤選手については書いていません。結構取り上げた人数が多かったと言うのと、基本的に私のブログは1980年代を中心にスポットを当てており、それから外れる選手であること、そして何よりも伊藤選手のファイトについて全く見たことがないのが書くのを躊躇った大きな原因です。しかし姿を消したどころか未だ持って生死を含めて消息不明、というのが何ともミステリアスですし、氏の人間性というか性格・考え方がほとんど伝えられていません。
その辺り、戦績から私の演繹(えんえき)的推理によって紐解けないか?と思った次第です。あ、演繹的推理とは下のブログにあーだこーだと書いています。すごくおヒマな時にでも読んで見てください(笑)
それではまず伊藤選手のプロフィールから書いて見たいと思います。1948年生まれですから健在ならば72歳となります。北海道樺戸郡出身で全盛時代のサイズは身長179cm、体重120kgとなっています。大相撲を経て1972年に日本プロレス入。同じ年にデビューした選手としては木村健吾・藤原喜明・ミスター・ポーゴあたりがおり、ロッキー羽田は1年後輩になります。1973年の日プロ崩壊とともに他の同僚と共に身柄を馬場率いる全日本プロレスに引き取られることになります。
(全日本入団直後)
日本プロレスから全日本入りした選手の大半が扱いが良くなかったのは有名な話ですが、伊藤はその中でも悪い方の部類の選手でした。ランク的には選手の中でもどん尻だったと思われますのでやむを得ないのですが、特に理由もなく3大会くらい連続で試合が組まれないというケースもザラにありました。まあ、移籍直後は全日本全体が選手のキャパオーバーでしたからやむを得ない部分もあるのですが、大木・上田・松岡が姿を消した1974年以降もそのような状況は続きました。全日本のファイトマネーは1試合いくらの日給だったはずですから、経済的にもかなりきつかった筈です。

戦績的には、、、後輩の羽田にはすでに追いつかれており、勝ったり負けたり。そして伊藤が勝てる唯一の選手が羽田だったのです。あとは桜田・ヒライあたりとのマッチメイクがなされましたがこの時期は一切勝てず、レスラーのランク的には同クラスではないかと思われる肥後宗則にも一切勝てませんでした。そして全日本創設以来のメンバーである佐藤昭雄との対戦は一切組まれませんでした。佐藤の方が2年先輩ですから伊藤が勝つことはなかったと思うのですが、柔の佐藤と剛の伊藤の組み合わせはなかなか面白そうなのですが、なぜかタッグでも当たることはありませんでした。
そして全日本入団翌年全日本が獲った最初の新弟子である大仁田厚がデビューします。デビュー戦こそ佐藤昭雄でしたが、その後大仁田とは連日第1試合で伊藤と対戦するのが常となります。一見百田光雄に揉まれまくったイメージがあるかも分かりませんが意外とそれほどでもなく、1シリーズの中で3〜4割くらいは大仁田と当たっているという非常に高い頻度の組み合わせなのです。

そしていつも疑問に思っていたのですが、大仁田がFMWを旗揚げした際、伊藤に声をかけるという発想はなかったのかな?と言うことです。FMWの旗揚げは1990年ですから、この時点でも伊藤は42歳。この時点でまだアメリカのマットに上がっていたかは不明ですがまだまだバリバリ現役で試合をできる年齢です。大仁田はミスター珍だけでなくラッシャー木村までも引っ張り出そうとした男ですから、デビュー時にプロレスのイロハを叩き込まれ、旗揚げ当時消息不明になっている伊藤については、十分ストーリーを作成する余地があったと思うのです。
FMW旗揚げ間も無く、シーク軍団、もしくはポーゴ軍団に手薄い正規軍をボコボコにされる大仁田。意を決してアメリカでコックをして生計を立てている伊藤を探しだし住む家を訪れ「伊藤さんよ〜〜!俺にもう一度プロレスを教えてくれや〜〜っ!」と玄関先でのたうち回り、その思いにほだされ(?)伊藤は日本マット復帰を決意すると言うものです。


初めはベテランの味を発揮し、後藤と並ぶFMWの重鎮として活躍しますが、度が過ぎた大仁田のええかっこしいぶりに疑問を持ち後藤と共に正規軍を離脱。お互いの風貌からヒントを得て「ザ・ソンシーズ」を結成。。。。。。ま、それはタチの悪い冗談ですが、現実的にあり得ないことではなかったと思います。しかし過去大仁田の口から伊藤の話は出てきたことはないような気がします。とにかく伊藤選手の個人としての性格はなかかなか引っかかってくる情報がないんですよね。
(成長期)
しばらくこの状態が続いた伊藤ですが、少しづつレスラーとしてのスキルはあげて行ったようです。1976年、ビル・ロビンソンが全日本に初登場したサマーアクションシリーズではついに先輩・桜田に初勝利を収めます。この時点で桜田は外国人選手とも頻繁に当たっており海外遠征直前のイメージ、対する伊藤は未だ外国人選手との対戦は無し、それを考えれば貴重な勝利と言えます。
1976年7月6日 大館市体育館 観衆3000人 ○ 伊藤正男 (9分2秒 片エビ固め) ● 桜田一男
大館は秋田の地方都市であり、伊藤の出身地の北海道で凱旋勝利というわけでありませんでした。馬場は「真面目にやっている伊藤にもそろそろ、、、」と思ったのでしょうか?しかしこの時期の全日本選手は北海道出身の選手が異様に多いのですね。グレート小鹿・桜田一男・伊藤正男・ロッキー羽田・佐藤昭雄と5人もいるわけです。佐藤以外は日プロ合流組ですが、偶然とは言えちょっと珍しい状況だったんですよね。
その後も伊藤と桜田のシングルマッチは頻繁に組まれますが、序列は変わることはなく、伊藤が勝利するのはこの試合を合わせて合計3回。桜田は50勝以上しているのではないでしょうか?
その後も黙々と前座第1試合を中心にファイトしていた伊藤ですが、成長の証を評価されてか、ついに招待外国人選手との初対戦が実現します。相手は初来日の”人間起重機”クラッシャー・ブラックウエル!外国人選手との対戦に至るまで実に4年近い歳月を要したのです。
1977年新春ジャイアントシリーズ1月28日後楽園ホール 観衆2000人 ○ C・ブラックウエル(9分8秒 体固め) ● 伊藤正男
これはこれで、伊藤選手も嬉しかったのではないかと思います。ただしかし、それから半年後早くも外国人選手にシングルでピンフォール勝ちする快挙を成し遂げます。この時期は大きく成長していた時期なのでしょうか。。。そしてその対戦選手は。。。あの
マニュエル・ソト なのです!

1977年サマーアクションシリーズ 9月9日後楽園ホール 観衆2400人 ○ 伊藤正男 (9分34秒 体固め)● M・ソト
旗揚げ1周年後の新日本プロレスに来日し、ジャン・ウイルキンスの乱入があったとは言え、アントニオ猪木からシングルマッチでピンフォールを奪い完勝した男!そして全日本に戦場を移し「ザ・ブラックデビル」としてザ・デストロイヤーとの覆面10番勝負に登場するものの、あまりに弱く「偽物」と馬場自身から断定されてしまい、10番勝負が無効になってしまったという、トンデモ過去を持つあの男です。
その後、伊藤は何人かの外国人選手からシングルで勝利を収めますが、その面々はムース・モンロー、アイザック・ロザリオ、ミスターX(ジャック・エバンス)、と言った本国でも実績に乏しい3流選手ばかりでこれらの選手に勝つのは納得なのですが、ソトはニューヨークやプエルトリコでそれなりに活躍しており、複数のタイトル歴のある選手です。
であるにも関わらず、ソトの全日本での扱いは酷いもので、ブラックデビルのマスクを外されてからは、マシオ駒に1勝した以外は全敗。(そもそもデストとの試合前に高千穂に負けているのも酷過ぎ)そしてソトとして来日したこのシリーズも開幕戦ジャンボ鶴田とのシングルで完敗したのを皮切りに、大隈・小鹿・羽田あたりに連日ピンフォール負けを重ね、一度も白星をGETすることなく最後には後楽園ホールという目立つ会場で伊藤にも負けてしまう訳です。

このブラックデビル事件を含めたソトへの馬場の酷い扱いは、昭和プロレスファンの間でも頻繁に語られる鉄板ネタです。猪木に勝利したソトを無下に扱うことで全日本の新日本に対する優位性を暗にアピールしたのではないか?という推理が多く語られています。ぶっちゃけて言うと伊藤に負けたソトに猪木は負けたのだから猪木の実力は全日本では前座第一試合に出る伊藤レベル、いわば
伊藤正男>マニュエル・ソト>アントニオ猪木
と言う図式をイメージさせたかった、、、、ここまで無茶苦茶な妄想をしでかすと猪木さんファンにボコボコにされかねませんので、これくらいにしておきますが、いずれにしてもこの時点の伊藤の置かれた状況、その後の扱いを考えれば、このソトへの勝利は何らかの思惑があったのではないかと思わずにはいられないのです。
(突如北海道でブレイク!)
ソトに勝った伊藤ですが、その後大ブレイクを果たした、と言う訳でもなく、次シリーズからは大仁田・渕・ミスター林あたりと連日前座1〜2試合でぶつかります。短期的にオーストラリアや東南アジアへの遠征も行いますが、帰国しても普通にミスター林に負けてしまう等団体側からのプッシュは微塵も感じられませんでした。そしてソトからの勝利から2年後の1979年スーパーパワーシリーズを最後に全日本正規軍で長年助っ人として活躍してきたザ・デストロイヤーがアメリカに帰ることになるわけですが、このシリーズ伊藤は連日セミファイナルに登場し、テレビ中継にも初登場すると言う大ブレイクを果たすのです!
伊藤がセミに出場した試合の詳細は下記の通りです。
5月26日福島・大越町体育館 観衆3800人 ○ケビン&デビッド(12分43秒 回転エビ固め)石川&●伊藤
6月3日北海道・八雲町体育館 観衆2000人 ○ケビン&デビッド(16分30秒 回転エビ固め)大熊&●伊藤
6月4日北海道・瀬棚町体育館 観衆2500人 ○ケビン&デビッド(15分49秒 エビ固め)石川&●伊藤
6月6日北海道・恵庭さかえ公園 観衆2800人 ○ケビン&デビッド(14分35秒 エビ固め)石川&●伊藤
6月7日北海道・遠軽町総合体育館 観衆4800人(TV収録) ○ケビン&デビッド(14分28秒 回転エビ固め)石川&●伊藤
6月13日尾花澤市体育館 観衆2000人 ○ケビン&デビッド(16分19秒 回転エビ固め)石川&●伊藤
何と今までセミ前にさえ一度も登場しなかった伊藤がこのシリーズでは6回もセミに出場しているのです。私はこの動画で初めて伊藤選手の動きを見たのですが、印象としては「器用で動きも安定しており、さすがベテラン」と言う事と「120キロもある割りにはそれほど大きく見えないな」と言う事です。泉田純をイメージしていましたが彼よりずっといい選手です。しかし裸足のスタイルというのは個人的になんか攻撃する際の重量感にかけるのです。
ただしエリック兄弟との攻防は息があっており、すべての対戦が兄弟がらみだったと言うのは頷けます。思った以上に可能性を秘めた選手ではなかったかな?と思うのです。この頃体調が悪化し始めていた大熊や羽田に変わる選手として戸口離脱後あたりでプッシュしてもよかったと思うのですが。。。

それにしても急にこの好待遇の理由は何だったのか?セミ出場の会場をご覧になっていただければわかりますが、大半が地元北海道の会場なのです。しかも全日本のサーキットコースでは耳慣れない会場ばかり。。。定期に興業を打つ会場では小鹿・羽田が睨みを聞かせているでしょうから、新規開拓を請け負い、そこそこチケットを捌いたのでそのご褒美としてプロモートした会場では連日セミに抜擢されたのではないでしょうか?
そしてこの抜擢が伊藤のプロレス人生の飛躍になればよかったのですが、次のサマーアクションシリーズの開幕戦・後楽園ホール大会では第2試合でミスター林と両者リングアウトで引き分け、その後の大会でも同様の扱いとなり、シリーズ中にはデストに変わる第3の男としてタイガー戸口の入団が発表されました。伊藤のブレイクは一瞬で終わったのです。
(海外遠征からいつの間にか全日本退団)
翌1980年のサマーアクションシリーズ2では海外修行を終え、凱旋帰国した百田義浩へ初白星を献上すると言う屈辱を味わいます。百田は前日の鹿児島大会で凱旋帰国第1戦を行いますが、カール・フォン・スタイガーに両者リングアウトで引き分け。このクラスの選手に勝てないのですから、すでに馬場からは義浩の力量は見切られていたと思います。
9月2日 鹿児島中種子島町立体育館 観衆1350人 百田光&○義浩(17分49秒 回転エビ固め)林&●伊藤
離島の閑散としたお客さんの前で、スキル的に未熟な百田義浩にピンフォール負けしてしまうのは、これまでコツコツ積み重ねてきた努力は何だったのか?そう思いたくもなるのかもしれません。義浩は結局外国人レスラーからは勝利することはありませんでしたし。
そして1981年に入ると伊藤にも本格的に長期の海外遠征の機会が訪れます。行き祭はヨーロッパ。当時の全日本は欧州にコネが出来ており、前年には戸口・デスト・大仁田あたりがハノーバートーナメントに参加しております。しかし伊藤自身は嫌な予感がしたのではないでしょうか?稼げるエリアではないし。行き詰まったら転戦は簡単なことではないですしね。
伊藤の日本最後の試合は以下の通りです。ジャンボ鶴田がジプシー・ジョーの挑戦を受けたUN戦が行われた大会ですね。
1981年9月4日大阪府立体育館 観衆6600人 第3試合 ○ ロッキー羽田(11分44秒 体固め)●伊藤正男
なぜ伊藤の遠征がこの時期だったかと言うと、翌ジャイアントシリーズから崩壊した国際プロレスからマイティ井上をはじめとする4選手を受け入れることになっており、それを考慮した口減らしの意味もあったのではないでしょうか?しかし同シリーズは”全日本プロレス創立10周年記念大会”と言うイベントが蔵前国技館で開催されたわけであり、真面目に10年近く全日本に尽くしてきたのに、そのイベントの直前で日本を離れた伊藤の心境はいかがなものだったのでしょうか???

西ドイツに渡った伊藤ですが、その後ほどなくしてカナダに転戦(自腹でと言う話もあります)、髪を伸ばし「東洋風のキモキャラ」に返信した動画はyoutubeでも確認することができます。それを見ると体重はかなり増加しており、その分レスリングテクニックはおろそかになっている感があります。
その後、アメリカ・テネシー地区にも転戦しオースチン・アイドルから地元のタイトルを奪ったりしたこともあったようですが、徐々にフェイドアウト。1987年頃までは日本のプロレス誌が作成する選手名鑑にも掲載されていましたが、いつの間にか姿を消していました。前述したように1990年代からのインディ団体乱立気には伊藤に声を変える団体もあるのではないかと思っていたのですが、全くその気配はありませんでした。
そして現在に至るまで、伊藤がファン・プロレスマスコミの前に姿・音声を披露することはありません。ただし関係者とは一切の接触がないわけではなく、グレート小鹿やグレート・カブキ氏の話によれば「カナダのモントリオールでコックになり、現地の女性と結婚し暮らしているらしい」との事です。
いずれにしても伊藤氏のキャラクターについては「寡黙でおとなしい」以外の情報はほとんど得られていません。全日本プロレスが創設してから10年近くをほぼ間近で見てきた貴重な人物であり、OBレスラーの回顧インタビュー全盛のこのご時世、是非話をお伺いしたい一人であります。全日本創設メンバーと日プロ勢との軋轢、1979年でのシリーズ限定ブレイク、そして海外遠征以降の全日本との関係とプロレスとの関わり、、、色々面白い話が聞けそうですが。。。
10年近く全日本マットでファイトしながらテレビ出場は1回のみ。というのはなんだが帰ってミステリアスですね。ブロディ初来日時のハンデキャップ戦は放送されたのかは定かでないですが。。。
とりあえず今回は、熱戦符から伊藤選手のプロレス人生がどのような状況のもと進んでいったのか妄想して見ました。もしご健在で元気なようでしたらギリギリインタビューをお聞きできる年齢です。どなたかチャレンジしていただける関係者はいないものか?期待しております。
それでは、また。
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