こんにちは、みやけです。今回は久しぶりに昭和プロレスについて書いてみたいと思います。
テーマは「ノーテレビのタイトルマッチ」!プロレス団体の基本的にタイトルマッチであると思います。シングルorタッグ、もしくは階級別の細かいくくりはあっても、そのくくりの中での最高峰を争う戦いが興行のメインテーマとなり得るわけです。別のパターンがあるとすれば、別の価値基準を設定したリーグ・トーナメント戦、更には特定個人同士の感情的なもつれを清算するための遺恨マッチがあるかと思います。
私が特に熱心に見ていた1980年代前半のプロレス界はメジャー団体である新日本プロレスと全日本プロレスはどちらも全国放送のゴールデンタイムで週1回オンエアされていましたから(全日本は一定期間)、当然テレビ中継はもっとも熱狂度が高いタイトルマッチが開催される会場で収録を行う訳です。すでにご存じかとは思いますが、当時のプロレス団体は自前のトラックに機材を積み込み日本全国津々浦々を回り週5~6日くらいのペースで興行を行っていました。タイトルマッチが行わない大会のほうが多く、開催されるのは集客が見込まれるそこそこの大きな市町村に限られたのですね。

プロレス団体のツアーは3~4週間単位で行われますが、その間開催されるタイトルマッチは5回程度、ツアー終盤の東京の大会場であると当日2,3試合タイトルマッチが開催されることも珍しくないわけです。今回はそのタイトルマッチが何故かテレビ収録から漏れてしまった、いわゆる「ノーテレビのタイトルマッチ」について「なぜそのような状況になってしまったのか?」の裏事情を演繹的推理で深読みしようというものです。
その期間のくくりですが、昭和期すべてとなってしまうと膨大な量になってしまうので、私が最も熱心にプロレスを見ていた1980年~1985年の間で期限を区切って検証させていただきたいと思います(笑)基本目視での調査のため若干資料の拾い漏れがあるかもしれませんが。。。
まず新日本プロレス!この団体は基本「ノーテレビのタイトルマッチ」はほとんど存在しないのでは?と思っていました。特にワールドプロレスリングの放送が開始されて以降はシーズ最終戦は猪木が外国人エースレスラーとタイトルマッチを行う、その間の地方興行でのテレビ収録ではタッグのタイトルマッチで最終戦の猪木戦を煽り、ジュニアのタイトルマッチを挟んで少し見る側の口直しをさせる、という興行戦略が確立されており、全日本ファンの私もこの戦略にはこの流れは心底うらやましいなと思ったものです。

記録をチェックしたのですが、調べ得る限り私が括った期間でノーテレビであったのは以下の2試合です。
1980年8月24日 田園コロシアム NWAインタージュニア戦 〇木村健吾(19分13秒 片エビ固め)●ピート・ロバーツ ※木村が王座防衛
1980年10月25日 沖縄市体育館 NWAインタージュニア戦 〇木村健吾(17分1秒 体固め)●ロン・スター ※木村が王座防衛
いずれも木村健吾絡みというのがなんとも味わい深いところですが、同時進行で藤波辰巳がWWFジュニアベビー級の防衛を重ねており、健吾にあまりスポットが当たらなくとも仕方がないところかと思います。さらにそれぞれのシリーズでその後に藤波、チャボ・ゲレロの挑戦を控えており、木村の箔付のために開催された感があるこの防衛戦をテレビの放送に乗せる意味合いは低かったのでしょう。
新日本の「ノーテレビのタイトルマッチ」といえば1978年7月28日広島県立体育館、アントニオ猪木のペドロ・モラレスとのNWF王座防衛戦が有名です。ただしかしこの試合はテレビカメラに収録されたのは間違いないようです。オンエアされなかった理由はは「その時猪木は重度の腰痛でありあまりに試合内容が押されていたためお蔵入りになった」とか「収録していたがトラブルで場内の照明が落ちた」等諸説あるのですが、いずれにしても元々放送される予定ではあったようです。

まとめると、1981~1985年の間の新日本プロレスはタイトルマッチが行われる会場はほぼテレビ収録が行われ、シリーズの流れを盛り上げるために一躍買っていたと断言していいと思います。
そして全日本です。ここまでの書き方であると逆に全日本はノーテレビのタイトルマッチが相当に多かったかと思うのですが、実のところそれほどでもありません。シリーズの流れの構築は正直新日本に遥かに後れを取っていたとは思うのですが、基本的にタイトルマッチはテレビで放映されていたのです。年ごとの合計回数を列記すると以下のようになります。
1980年→1回、1981年→2回、1982年→4回、1983年→13回、1984年→7回、1985年→12回
となるのです。1983年と1985年が突出していることが分かります。ただし1983年については後述しますが理由がはっきりしています。そしてこのブログでは1985年、ジャパンプロレスが合流し、ゴールデンタイム復活に向けシリーズの流れはそれまでよりもはるかに重要性が増したと思うのですが、なぜこんなにノーテレビのタイトルマッチが多かったのか思いっきり妄想していこうというものです。
まず1983年の数値が急増している件ですが、これは前年まで10年開催されていた参加選手総当たりのリーグ戦「チャンピオンカーニバル」を廃止し新たに「グランドチャンピオンカーニバル」を開催したのが大きな原因です。コンセプトは「世界中のチャンピオンを集結させ連日タイトルマッチを開催する」というものでした。一時はNWA王者とAWA王者が同時参戦し統一戦を行うのでは?という噂も経ちましたが結局は3シリーズに分けて開催され、前年チャンカンの後に開催された「グランドチャンピオンシリーズ」と中身は大差ないものでした。
しかもこの「GCCⅠ」は発想そのものが新日本の「IWGP」のオマージュであり、企画そのものが「IWGP潰しのため」といわれても仕方のなかった部分があります。さらにはIWGPの前に開催しちゃうし。。。参加メンバーも一時はオットー・ワンツやピート・ロバーツの参戦も噂されましたが、結果はほぼ通常メンバーであり、シリーズの話題はテリーとハンセンの抗争でした。「時期NWA王者の登竜門」といわれたミズリー州ヘビー級王座を引っ提げてケリー・フォン・エリックが参加したのは歴史的に見ても意義があるものでしたが。。。。

企画に基づき地方会場で連日タイトルマッチが開催された訳ですが、最も奮闘したのがブルーザー・ブロディ。後半戦2週間の特別参加でありながら、最強タッグリマッチのリーグ戦4試合を消化しつつも、自身が保持するインターヘビー級王座の防衛戦を4回行ったのです。しかも防衛戦の全てがノーテレビ!プライドの高いブロディがよくごねなかったものです。しかもまだ無冠の天龍を除けば他の3人はいずれも大会場のメインを張ってもおかしくないカードなのに。。。
4月16日 愛知県立体育館 〇 B・ブロディ(9分5秒 体固め)●天龍源一郎
4月23日 横須賀市総合体育館 △B・ブロディ(12分49秒 両者リングアウト)△ T・ファンク
4月25日 諏訪湖スポーツセンター △ B・ブロディ(13分46秒 両者リングアウト)△ D・F・ジュニア
4月27日 西脇市総合スポーツセンター 〇 B・ブロディ(15分40秒 反則勝ち)● J・鶴田

その他、インタータッグ王座の移動がありながらもどちらの試合もノーテレビ、というのもあります。
4月12日 愛媛県民体育館 〇 ハンセン&バス(15分21秒 片エビ固め)● 馬場&鶴田 ※ ハンセン組が王座奪取
4月17日 長崎国際体育館 〇 馬場&鶴田(13分41秒 体固め)ハンセン&●バス ※日本組が王座奪回
こうやって見てきて思うのですが、明らかに詰め込みすぎです。このシリーズ、ファンの間で一番印象に残っているのは大阪府立体育館でのテリー・ファンクとスタン・ハンセンの一騎打ちにおいて血だるまのテリーがブルロープを首に巻き付けられリング上を引っ張りまわされ、そのシーンのあまりの凄惨さにテレビ放映が一部カットされた試合ではないでしょうか?結果的にはテリーとハンセンの抗争から最強タッグリマッチの流れがスムーズに印象に残っているのです。

もっと言うと当初の「チャンピオン祭り」の構想が「それだけでは弱い!」とテレビ局からダメだしされ、無理やりテリーとハンセンの抗争をねじ込んだ為なんだか歪な流れになったように思えるのです。石川敬士が日本で初めてミズーリヘビー級王座に挑戦したり、ロッキー羽田がアジアタッグに挑戦し久々に脚光をあびたり、前述のようにロン・バスがひっそりとチャンピオンになったり。。。
当時全日本の総帥ジャイアント馬場は経営不振のため会長職に棚上げされ、日本テレビの松根氏が社長に就任していたわけです。これはあくまで私の推測ですが、「日テレによる全日支配」になんとか抵抗しようとまずレスラー&プロモーターを改めて味方につけるため「チャンピオン祭り」の企画を立てたが、「テリー対ハンセン」の構図を押す日テレとの妥協案でなんだかこのような形態になった気がしてならんのですよ。当時のゴングを見ても、IWGPの具体的な興行形態は最後の最後まで迷走しましたが、このグランドチャンピオンカーニバルもまた具体案が二転三転しているのですね。
その結果、当初の約束を反故にできなかった馬場会長はノーテレビのタイトルマッチを連発させた、そのようにも思えるのです。以降のシリーズでも興味深いノーテレビのタイトルマッチがありますね。
GCCⅡ 5月20日 アジアタッグ選手権 泉佐野市体育館 〇原&M井上(12分51秒 体固め)越中&●三沢 ※ 元国際コンビが王座防衛
当時人気&実力急上昇中だった越中詩郎&三沢光晴のフレッシュコンビ。このタイトル挑戦はルーテーズ杯優勝&準優勝のご褒美の一つなのでしょうが、当時のランク的にはまだまだアジアタッグ挑戦は早すぎるような気はしました。まだ2人とも外国人選手への勝利の実績がなかったですからね。これは当時馬場に代わりマッチメーカーに就任し日テレのバックアップでレスラーの意識改革&若手の抜擢を推し進めていた佐藤昭雄のプッシュであることは明白でしょう。

ただしかし、負けであってもタイトルマッチがいきなりオンエアされたのでは他のうるさ型のベテラン勢の反発は必至!そのなかでも常識的人物である石川にしたって、自身の地元でのタイトル挑戦がテレビオンエアされなかったのだから平静ではいられないでしょう。そのあたりを配慮して?ノーテレビになったのではないかと思います。
このグランドチャンピオンカーニバル2および3は長いシリーズの割には戦いのテーマが限られておりマッチメイクに四苦八苦していたと思います。2の開幕戦の後楽園ホールのセミでは下のような通常のシリーズでもスルーしてしまいそうなタイトル戦戦とは無関係なテーマ無きマッチメイクがされてしまうのですから。。。。フレッシュコンビの試合を中継にぶっこむ余裕は十分あったと思うのですよね。
5月12日 後楽園ホール 45分1本勝負 馬場&〇天龍( 12分5秒 片エビ固め)デストロイヤー&●ビル・アーウィン
更に3では再びインタータッグの移動がありました。子弟コンビは福岡スポーツセンターで王座をタイガー・ジェット・シン&上田馬之助の極悪コンビにリングアウトで敗れ王座を奪われますが(この大会はテレビオンエア)、同シリーズ内の後楽園ホール大会で王座を奪回します。これもまたノーテレビだったのです。

8月1日 シン&●上田(11分 リングアウト)馬場&〇鶴田 ※ 日本組が王座奪回
この理由ですが、私がこのブログで何度も力説しているのですが(笑)この年の初頭の上田の一般紙での馬場夫妻批判に対し、馬場は「 ガチ風の試合で試合で完敗し、実力でも馬場>上田の印象付けを行う」事を強要し?無難に落とし前をつけたことによる「飴」だと妄想しているのです(笑)上田にベルトを巻かせるのが目的ですし、今後も使っていくのだから、ピンフォール負けでなくていいしもっと言えばオンエアする必要もないと思ったのでしょう。
ではそろそろこの回のまとめに入ります。新日本プロレスはほとんどといっていいほど「ノーテレビのタイトルマッチ」は行われず、IWGPによって管理ベルトが減っても、シリーズのテーマとテレビ中継がうまく連動していた、と言っていいかと思います。
対する全日本も、新日本とはシリーズの会場設定が異なるため幾分ノーテレビのタイトルマッチが発生する頻度は高かったが、基本的にはシリーズテーマはテレビ収録と連動していた、しかし1983年は「グランドチャンピオンカーニバル」という企画の為それが崩れた。妄想として馬場と日テレとの意思疎通の微妙なずれによりこの件が多発するとこになった、というのが結論です。
しかしまあ、この1983年については、ノーテレビになったタイトルマッチはいずれもマニア向けの組み合わせが多く、「ファン不在」と指摘を受けるようなものではなかったかと思います。しかし2年後の1985年、長州率いるジャパンプロレスが参戦した年には、マッチメイクとテレビ中継が連動しておらず、「なんでこの試合が中継されて、あの試合が中継されない?」というパターンが続出しました。
私はこの1985年はファン不在で団体間の主導権の引っ張り合い(全日本プロレスとジャパンプロレス)が行われた「汚点」と言ってもいい年であったと今でも思っています。ただし長くなりましたので続きは次回に。
それではまた。
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