こんにちは、みやけです。
今年1回目の企画は全日本プロレス!しかも「なぜルーテーズ杯は行われたか?」という内容メインにした相当にマニアックな企画です!w奇特な昭和プロレスファンはあきらめずにそのままお読みください!全体的には不遇な目にあうことが多かった昭和の全日本プロレスの若手選手の検証企画です。

「ルーテーズ杯」とは?昭和全日本プロレスのファンには今更説明不要だとは思いますが、1983年グランドチャンピオンカーニバルⅠ中に開催された企画で、簡単に言うと若手選手NO.1を総当たり戦で決め、優勝・準優勝者には海外遠征が約束されるという登竜門的な企画でした。実行当初から新日本プロレス初期に開催された「カール・ゴッチ杯」の焼き直しだ!という指摘は随所で見られましたが。。。
参加選手は、越中詩郎、三沢光晴、後藤政二、川田利明、菅原信義、冬木弘道、百田光雄、百田義浩の8人でした。全日本プロレスと言えば若手が育たない事で有名であり、特に1980年頃は悲惨ともいえる状態。1980年サマーアクションシリーズ終了後、大仁田厚・渕正信が海外遠征をおこなった後、1981年エキサイトシーズで後藤がデビューするまでは半年近くの間、すでにデビュー2年半が経過していた越中しか若手がいないという体たらくでした。
リーグ戦は大きな波乱もなく、優勝決定戦には予想通り越中と三沢が進出。テーズをレフリーに招いての札幌中島体育センターでの優勝決定戦は越中が三沢を下し、見事優勝を勝ち取りました。越中と三沢の試合は常にスイングし「全日版名勝負数え歌」等と評されてはいました。2人の戦いは何十回も行われましたが、後輩の三沢が先輩の越中を破るなんてことはこのリーグ戦前も後にも一切ありませんでした。当時の全日本の体質が良く表れている結果だと思います。
ちなみに星取表は以下の内容となります。

しかしこの企画、当時から違和感があったのはベテランの百田ブラザースが参加している事です。光男はデビュー13年目のベテランであり、メキシコ遠征も経験済み。兄の義浩はデビューが遅かったのでこの時点では3年目なのですが、既にアメリカマットでの遠征も経験済みでありましたが帰国後はパッとせず、既に”万年前座”の雰囲気を漂わせていました。しかし両者はまだ越中・三沢との対戦成績は越中が2回光男にシングルで勝っただけでそれ以外は引き分けはあっても負けたことは無かったため、ランクを考えれば優勝してもおかしくは無かったのです。

そしてなによりも当時思ったのは「百田兄弟のどちらかが優勝、または準優勝したらやはりご褒美の海外遠征に出発するのか?」という疑問です。もちろんそんなことは状況的にあり得ませんし、この企画は越中・三沢に箔を与えるため、そして佐藤昭雄が先頭になって改革していた全日本に新しい風が吹いていことを業界内外にアピールさせる為であることが大きかったような気がするのです。
しかしそれならば、むしろ百田兄弟は不参加の方が自然です。私は百田兄弟は負けるために引っ張り出されたのだと思うのです。まず越中の前年1982年1年間の試合を検索してみますと、百田兄弟とのシングルは、兄義浩は0、弟光雄は2試合だけ。タッグも光雄と1試合だけ、といった意外な結果です。ちなみに2回目のシングルで越中は百田光から待望の初勝利をあげています。
全日前座陣はこれにミスター林(1981年春に引退)を加えたメンバーで入れ変わり立ち代わり対戦していたイメージがあったのですが、調べると意外に同じ人とばかり当たっているのですね。越中については、もう4試合目くらいに出場するのが普通になりそろそろ中堅の域に達してきたのであえて百田とはマッチメイクしなかったのかも知れません。
1982年9月14日 刈谷市体育館 第2試合 ●百田光雄(11分34秒首固め)○越中詩郎
越中はルーテーズ杯の時点では、”若手有望株””時期海外遠征最有力候補”と評されていはいましたが、活き活きした試合内容が評価されただけであり、「先輩からの金星」や「外国人レスラーからのの勝利」は全く得られず、日本最終試合の1984年エキサイトシリーズ3月1日深谷市民体育館でトーマス・アイビーからようやく対外国人初勝利を挙げてメキシコに旅立ったのです。
1984年3月1日 深谷市体育館 第6試合 〇 越中詩郎 (10分51秒 首固め)● トーマス・アイビー
話は逸れますが、このシリーズでの蔵前大会(鶴田がニックからAWA王座を奪った大会!)越中と三沢の遠征挨拶がリング上から行われています。”一般入門”の選手の海外遠征でこのようなセレモニーが行われることは過去無かったので、それはそれでいいのですが、兎に角やり方が雑!馬場・石川対ブロデイ・デストⅠの試合前に行われるのですが、、、
馬場と石川がリングに登場、同じタイミングで越中と三沢が中央に整列するかしないかで「移民の歌」が流れてくるのです。流石にブロディの入場は少し時間をおいてからでしたが、。大音量の「移民の歌」の前に原リングアナの説明はほとんど客には聞こえておらず、それどころかこのシリーズビッグマッチを外され少々機嫌の悪かったブロディの入場での大暴れを待つわびるムードが館内に充満しており、越中・三沢も今後が不安に思ったに違いありません?しかもセレモニー後は2人とも不通にセコンドについてますしね。

話を戻しますと、とにかく当時の全日本プロレスは特に中堅・ベテラン選手に気を遣いすぎ明確な決着をつけたがらない、チャンカンでの大熊・小鹿の”対戦拒否”が良く知られていますが、見るに堪えなかったのが1981年チャンカンでの石川・佐藤・井上・羽田・大熊・小鹿・トンガ間での星の回し合い。意外と完全決着がついているのですが、例えると〇Aー●B、〇Bー●C、〇Cー●Aといった感じの星取りが続出し、結果的に全員ほぼ同じ得点となり「誰が強くて誰が弱いのか判断しにくい」という状況が生まれたのです(阿修羅・原は身内の不幸で不参加)
また、越中の前に生え抜きの前座選手として長年百田兄弟と第1、2試合で頑張ってきた大仁田厚も1974年から6年間の前座修行を経て1980年夏に海外遠征に出発するまで1度も百田兄弟、もしくはミスター林、伊藤正男、外国人選手には勝利する事は無かったのです。(渕は遠征直前2度首固めで勝利)それを考えれば越中・三沢がテーズ杯優勝したのは相当に異例。というか逆に考えれば百田兄弟は越中・三沢に負けるためにリーグ戦に参加したといった方がいいのかもしれません。
ここでポイントになるのが菅原です。菅原は1979年デビューなので、同年デビューの越中とはほぼ同期、81年デビューの三沢とは2年先輩になります。しかし国際プロレスからの移籍組なので2人との格は非常に微妙。馬場が気を遣ったのか越中対菅原のマッチメイクはめったに行われていないのです。(大半は越中が勝利)三沢対菅原は割と頻繁に行われましたが割りと買ったり負けたり、2人との格は非常にあいまいだったと思われます。そして百田兄弟には全く歯が立たず、全てピンフォール負けを喫しています。
菅原はこのリーグ戦、越中に首固めでピンフォール負け、三沢と時間切れ引き分け、百田兄弟にはそれぞれ完敗するという非常に興味深い結果を残しています。越中・三沢に完敗した百田兄弟のプライドに傷がつかぬよう、外様の菅原が格を曖昧にするような結果をしょい込むことになった、、、こう考えて間違いは無いのではないかと思います。これまでどおりといえばそれまでですが、結構重要なポイントだと私は思います。
これだけ見ると若手への切り替えを推進していた佐藤昭雄と日テレに押し切られてルーテーズ杯を開催、百田兄弟の敗退まで馬場が受け入れた、のようにも思えますが、私は逆に馬場はベテラン勢に文句を言わせないために佐藤の計略に乗ったように思うのです。この時と同時進行で極道コンビ、羽田の扱いが急激に悪くなり、3者ともこのGCCⅠ以降1年以上に渡ってビッグマッチへの参戦、更にはテレビマッチへの出演がありませんでした。
3人と馬場の距離は微妙だったと思うのですが、百田兄弟とは繋がっていたはずです。しかし極道羽田を冷遇しておいて百田兄弟には手つかず、というのは3人が黙っていないだろうと、ルーテーズ杯の企画を受け入れた。というところではないかと思うのです。とにかく全日本プロレスは旗揚げ以来あらゆる企画において「スパッと完結する事がなく、何となく逃げ道を残して終わる」事が常の団体でしたから。。。。
結論としては百田兄弟は極道・羽田排除のとばっちりを喰らった!
というところでしょうか?wノアがプロレス中継を切られる際も、巨人戦・サッカー中継地上波終了のとばっちりを喰らいましたし。。。
最後に全日本プロレスに入団した若手がどんな状況から海外遠征に立ったか?もしくは前座を脱却したか?を探ってみたいと思います。
桜田一男
1976年ジャイアントシリーズ途中愛知県体育館大会を最後に海外遠征・天龍に同行、帰国は1978年日本リーグ戦

日本最終試合は伊藤正男と組んでヒライ・林組と対戦、 ヒライに首固めで敗れています。この時点で全日本に合流から3年が経過しており、マーク・ルーインやキング・イヤウケヤとシングルで対戦する等中堅に近い扱いを受けており、雑誌の記事でも再三「海外遠征真近」と書かれています。しかし外国人選手からの白星は一切無し。先輩の中堅レスラーからの勝ち星もほぼなく、肥後や前座選手に転落していたヒライ、後輩の伊藤にも負けることがありました。正直かなり扱いは悪いですね。
遠征前には短期でニュージーランド遠征も経験しており、76年の遠征時も”まだ髷を切る訳に行かなかった天龍の髪結い役”の意味が大きかったように思います。馬場は桜田の実力は認めながらも何かこう距離を取っていずれ消え去るのを待っていたように思います。”ドリーム・マシーン”として外国人扱いで参加させられたのも、過去の試合でトップレスラーとしての資質を見切られ、されとて「これ以上中堅が増えられても」という事ではなかったかと思います。
ロッキー羽田
1974年NWAチャンピオンシリーズ終了後海外遠征、帰国は1977年NWAチャンピオンシリーズ

凱旋帰国初戦で鶴田と組んでメインに登場、ラシク・ミラノに血だるまにされた結果を受け「悲惨な凱旋帰国試合」と評する向きも多いのですが私はそうは思いません。1本目はマリオからブレーンバスターで1本とっています。なおかつ羽田のような外様でエリートでも何でもないレスラーが帰国試合でメインに抜擢されるのは日本プロレスを遡っても例のない事ではないかと思います。
この直後天龍の凱旋帰国が被ったのですが、羽田は即前座に降格という扱いを受けることもなく「極道より僅差で上」の位置をしばらくキープしていたと思います。年末には最強タッグにも出場しています。戸口にしても日本で何の実績もないのに帰国後インタータッグを巻かせましたし、この時期の馬場は自身の後継者の育成にそれなりに積極的だったと思います。ただし、羽田帰国後まもなくサムソン・クツワダのクーデター騒ぎが判明しその意向は一気にしぼんでしまったように思います。
伊藤正男
1981年スーパーアイドルシリーズ途中9月5日大阪府立体育館、羽田に敗れた後西ドイツに出発。その後帰国は実現せず

このブログでは以前伊藤に焦点を当てて1本分書きましたが、伊藤は桜田とは違い意外と何度も外国人選手から勝利をあげています。「猪木に勝ったことがある」マニュエル・ソトを筆頭にw、ムース・モンロー、マーク・テンダー、アイザック・ロザリオ、ドン・カヌードル等、、、全日本の歴史をひも解いても格段にショッパイ外人ばかりですが、海外遠征前にこれだけ海外遠征前に外国人に勝利していたのは伊藤くらいです。
ただし馬場の評価は決して高いとは言えず、遠征直前にも普通に第一試合に出場していました。伊藤も桜田同様短期の東南アジア遠征は経験していたので馬場からすれば「遠征経験済み」の認識の選手だったのかも知れません。日本プロレス崩壊後8年も前座を務めていればそうなるのかも知れません。現在は消息不明のようですが、全日本関係者からも伊藤のエピソードはあまり語られないのは寂しいものですね。”きれい好き”だったようですが。。。
大仁田厚・渕正信・薗田一治
大仁田1974年4月デビュー→1980年サマーアクションシリーズ2途中で遠征、渕1974年4月デビュー→1980年サマーアクションシリーズ終了後遠征、薗田1975年1月デビュー→1979年ブラックパワーシリーズ途中で遠征

3人の戦績は似たり寄ったり、3人ともデビューから遠征に至るまでお互い勝ったり負けたりであり、大仁田・薗田に関しては外国人・先輩レスラーからは一切勝ち星をあげられないまま遠征に出ています。しかし渕だけは百田光雄から勝利を2度奪っているのです。大仁田も川田も後藤も冬木もそして小橋も奪えなかった百田から奪えなかった勝ち星を地方であっさり奪っているのはやや不思議な感じもします。
1980年チャンピオンカーニバル4月19日 後楽園ホール ●百田光(14分54秒 エビ固め)〇渕
1980年サマーアクションシリーズ9月4日 佐賀スポーツセンター ●百田光(15分6秒 首固め)〇渕
大仁田は遠征直近1年くらいは頻繁に外国人選手と対戦していましたが、渕もそこそこ対戦しています。2人はほぼ同格だったのに渕だけ「先輩越え」の恩恵を受ける、、、大仁田は前座時代から目立っていましたからいずれ馬場も大仁田のほうを先に売り出そうと思っていたのかも知れません、「実力では上の渕がふてくされない様」全日独特のバランスを保つための気配りだったのかも
菅原信義・冬木弘道・ターザン後藤・川田利明
菅原・1981年秋全日本移籍→1984年GCCⅢ途中でウィーンに遠征、同年最強タッグ中に帰国し国際血盟軍入り。格はさほど変わらず。冬木・1981年全日本移籍→1984年ジャイアントシリーズ終了後海外遠征、翌85年最強タッグ中に帰国。後藤1980年エキサイトシリーズでデビュー→1985年ワールドチャンピオンカーニバル終了後海外遠征、そのまま帰国せず。川田・1982年ジャイアントシリーズでデビュー→1985年冬木と入れ替わるように海外遠征、冬木同様翌86年最強タッグ中に帰国。

この4人の前座時代は全員似たり寄ったりの成績です。いずれも先輩レスラーにも、外国人選手にも一切勝利をあげることなく遠征に出ています。この中で扱いがちょっとかわいそうなのは菅原だと思います。全日本合流は81年のジャイアントシリーズ中盤からですが、なんと前シリーズデビューしたばかりの三沢に初勝利を献上しています。この時点で菅原はデビュー2年目です、後藤や冬木の方が”適役”だったように思うのですが、なんとなく菅原の一匹狼的キャラクターがそんな立場をしょい込んでしまうのかな?という気がします。社会でも似たようなことがありますよね。
しかし後藤もまた可哀そうなのは2年後輩の川田に初勝利を献上している事です。普通にいけば1年先輩の三沢が適役だとは思うのですが、海外遠征直前で損な役回りはさせられなかったかもしれません。しかし外様の冬木の方が選ばれそうなものですが、何故か後藤。。。
1984年新春ジャイアントシリーズ1月14日北海道・本別町体育館 第一試合 ○川田利明(10分24秒逆さ押さえ込み)●ターザン後藤
後藤が「ターザン」を名乗りだした際もかなりコミカル臭満載でした。泉田のデビュー前後と雰囲気がそっくりです。三沢にもデビュー後あっさり負け、即座に追い抜かれましたし、自身の立ち位置はこの時点でよく心得ていたのかもしれません。
冬木については私が全日初観戦時最初に目にした選手ですので、その時の事が印象深いですね。1983年GCCⅢの福岡スポーツセンター大会。入場すると第二試合の菅原対冬木戦が行われていたのですが、私が会場に入ると冬木が菅原をロープに飛ばし、例のごとく「フギャ~」と叫びながらスピンキックを放っていました。入り方は小林邦明のそれと酷似していました。
当時は天龍の延髄切りに続いて石川敬士がサソリ固めを使いだした頃。館内は冬木のスピンキックは初見だったようで。その見栄えがいいとか悪いとかではなく、「また全日は新日の真似をしよう」という声がいろいろな場所から発せられていました。しかしこれだけ個性豊かな前座選手がそろっていたので冬木も何かしようと必死だったのでしょうね。
小川良成・小橋建太

小川は1985年にデビューしていますが、体重が中々増えなかったのと肘の脱臼癖で長期欠場を繰り返しました。天龍SWS移籍の際も脱臼欠場の真っ最中であり、移籍するのかしないのか?話題に上がることもあまりありませんでした。後輩の小橋・菊池にも抜かれ、ようやく前座から脱却したのは1984年頃だったと思います。後にヘビー級シングルのベルトを巻くわけですがよく腐らずにがんばったものです。
小橋はデビュー前までは馬場から冷たくされたようですが、1988年エキサイトシーズにて大熊元司の胸を借りてデビュー以降は評価がぐんぐん上がり、 デビュー3シリーズのスーパーパワーシリーズにおいて、当時既にタイトルコンテンダーであった渕・川田・冬木とシングルマッチを行う等異例の抜擢を行っています。

百田光対小橋はこの時数戦行われていますが、全て百田が完勝。しかし瞬く間に小橋は第1~2試合でチマチマ前座試合を行っている存在ではなくなり、結局”百田越え”は果たせないまま?今に至っています。小橋は昭和の全日本プロレスでの「道場入門新人」においては最も前座修行が少なかった選手だと思います。
こんなところです。新日本プロレス、そして日本プロレスにおいても海外遠征前の若手が外国人選手、先輩ベテランレスラーに勝利することはそれほど”稀”というわけでもなかったと思うのですが、全日本にはそれが極めて少なかったので今回いろいろ調べてみました。
時間があれば他の選手も調べてみたいと思います。
それではまた。
#全日本プロレス
#越中詩郎
#三沢光晴
#大仁田厚
ルーテーズ杯の星取表を見ますと、菅原選手の得点が越中選手、三沢選手を上回っていますね。
昭和時代には新日派、全日派みたいな感じのがファンにもありましたが、私は全日派でしたが、当時の全日本はこのような謎めいた事が多いですよね。
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コメントありがとうございます。
確かに昭和全日は「あれはなんだったんだ?」という展開が多いですよね?
思うにレイスの件は、鶴田の格上げとレイスのフォローを同時に行おうとしてあんな流れになったのかな?と
シンが冷遇されたのは単に馬場さんがハンセンと2人を相手にベルトを巡っての抗争をする体力・気力がなかったからかな?と思いますよ。