こんにちは、みやけです。
今回は沢田研二さんの話です。勝手に「企画」として続けている私がお気に入りの曲を紹介する”私的名作コレクション”の続きを書こうと思ったのですが、思うところあって今日は紹介しつつも、私とジュリーの思い出についていつか書こうと思っていたことがあるのでそれを話して行きたいと思います。ぜひお付き合いください!
紹介曲は「危険なふたり」「やさしく愛して」「生きてる実感」です。

「危険なふたり」は私の一番好きな曲!何度か書きましたが「勝手にしやがれ」でも「TOKIO」でもなくこの曲なのです。最大の理由はジュリーの魅力が一番良く表現されているということなのですが、ライブでこの曲が流れると一気にテンションが上がります!
この曲はバンドの演奏パターンが演奏する度に違うバージョンになるのが好きですね。特にエンディングが色々と趣向を凝らしています。コンサートビデオで行くとどれが一番いいか、、、「ジュリーマニア」も捨てがたいですが、1999年の「いい風よ吹け」の映像がベストですね!この曲はお年を召された時代のジュリーの方が好きなのですよ。。。
さて、私の話をさせていただきます。今年54歳になるのですが。ジュリーファン歴45年と言ったところでしょうか。。。小学校3年の時に聞いた「勝手にしやがれ」でファンになるというベタなパターンです。あの頃はテレビ・ラジオそして商店街の有線放送でこの曲が頻繁に流されており、自然と耳に入るケースが1日に何度もありました。この曲の総セールスが100万枚行っていないというのはちょっと信じ難いです。
初めて買ったシングルは「ダーリング」アルバムは「思い切り気障な人生」です。その後ジュリー自身の人気の波はありましたが、私のジュリー熱は冷める事なく、リリースされたシングルとアルバムは必ず購入していました。
しかしシングルは1990年発売の「世界はUp&Fall」アルバムは「単純な永遠」で継続購入は途切れてしまいました。当時の私はプロレス及びプロ野球にのめり込んでおり、社会人になったばかりで仕事も多忙。ネットがない時代ではジュリーの情報は中々得ることが出来なかったので、興味を持つ時間が少なくなってしまたのです。

ただし、他の歌手に興味を移すという事は無かったのです。ウルフルズや渡辺美里さんの曲はよく聞いていましたが、一番好きなのはジュリーでした。「そのキスが欲しい」や「愛まで待てない」はリリースして暫くしてから聴きましたが「とても良い曲だな。何で売れないのかな?」と思ったものです。
その後2000年を越え、ジュリーがテレビへの出演を若干解禁すると事前にまた興味を持つようになり「あの日は雨」等CDもまた買い始めるようになりました。しかしその後直ぐジュリーは個人事務所を立ち上げてしまったので、1年も経つと私の心境はまた元に戻ってしまいました。
そして私は40歳近くまで独身を続けていました。別に何かポリシーがあってそうした訳ではなく、望んではいたのですが、中々実現には至りませんでした。コミュニケーション能力に問題があった当時の私の性格が一番の要因でしょう。あと容姿の問題(当時は体重105キロ程あった!)もおおきかったかも?(笑)
しかし、38歳ごろ某大手婚活サイト、当時は結婚相談所と言いましたが、そこに登録し、紆余曲折の果て今の妻を紹介されて、何とかお付き合いが軌道に乗りました。それが2007〜8年頃の出来事です。しかしそれは遠距離恋愛運でした。私の住まいは福岡、妻は鹿児島だったので、たまにどこか中間点で落ちあって観光地をデートする時もありましたが、基本私が妻の元に車で3時間かけて平均月2回通っておりました。
基本土曜の朝に自宅を出発、日曜の21時頃戻ってくるスケジュールでした。3時間ひとりのドライブは辛い!特に熊本〜鹿児島の県境は電波があまり届かずラジオの野球中継もよく聞こえませんでした。必然的に聞くのはジュリーのアルバムになりました。「ロイヤルストレートフラッシュ」「A面コレクション」をひたすらかけ、眠気を覚ますために自らも大声で熱唱したものでした(笑)

最もきつかったのは全長8キロある「肥後トンネル」と「加久藤トンネル」。通過に10分近くかかります。閉塞感を払拭する為私はこのエリアでは必ず「BAD TURNING」をかけ、「どうして朝」や「世紀末ブルース」をかけ絶叫したものでした。(笑)そんなの事を繰り返していると当然「今のジュリーはどんな曲を出しているのだろう?」という興味が湧きます。私は久しぶりにシングル「そっと口づけを」と「生きてたらシアワセ」を購入しました。
購入したのは2008年の春頃で、その頃には妻との婚約するかしないか?という状況だったので、この「ウエディングソング」的な意味合いの詞の「生きてたらシアワセ」が久しぶり購入のアルバムというのは、ジュリーから私が祝福されているような気持ちになりました。
永年苦しんだ婚活でしたが、最後の最後にジュリーが現れ、私に救いの手を差し伸べてくれた、そんな気がしてならなかったです。暫く放置に近い状態であったジュリーは妻との遠距離恋愛がきっかけでまた聞くようになったのですから。。。
そして妻とは婚約成立。妻が私の実家に挨拶に来てもらった時には一緒に「Rockn Roll March」還暦ツアーにも見に行きました。久しぶりのジュリーのコンサート参戦でした。妻は特にジュリーに興味があった訳ではなくSMAPのファンだったのですが、会場で永年ジュリーを応援していたであろう女性ファンが本当に幸せそうに楽しんでいる姿を見て感銘を受けていました。
コンサート終了後、妻は「歌手とファンが共に歳を重ね数十年に渡って思い出を作っていく事は本当に素晴らしい。私もライブされあれば別にSMAPがテレビに出なくなっても構わない」と感慨深そうに語っていました。その数年後SMAPがあんなことになった際は私は妻にかける言葉が無かったですね。
そして妻との結婚式はその年の12月7日の日曜日に決まりました。その頃にはジュリーのドームライブの情報も入ってきていたので「結婚式の後ならまた一緒に見に行こう」と考えていました。しかし!ドームライブの日程が発表してされた時、目が点になりました。。。

(大阪ドーム)11月29日 土曜日
(東京ドーム)12月3日 水曜日
結婚式の直前とは!!!東京ドームに至っては4日前!私は結婚式前日から次の火曜まで休みをとっていました。当時の勤務先は中々のブラック企業であったので、その前にまた平日有給を取るなんぞはとても出来る状況ではありませんでした。東京ドームは断念するしかありませんでした。
もう選択肢は大阪ドームしかありません!妻も式前の準備で忙しく流石に付き合う余裕はなく私のみ単身参戦となりました。しかし私自身も色々とこなす事があり、式用にオーダーしていたスーツの引き取りがあった為コンサート翌日曜は早々に大阪を後にしました。
しかしコンサートそのものは皆さんご存知のように素晴らしい内容!最後はヨレヨレの声になるかと懸念していたのですが、全くそんな素振りも見せず歌い切ったジュリーは正に超人だと思いました。無理はしましたが行って良かったと思いました。

翌月曜会社に出社し、仲のいい人には大阪土産を配ったのですが、皆不思議そうな顔をしていました。「こいつは結婚式の1週間前に何しに大阪旅行に行っているんだ?愛人との精算か?」皆そう言いたげな顔をしていました(笑)
そして結婚式は無事執り行われました。妻の希望で披露宴は行わず親戚のみ集めた食事会を開催しました。私は会の間のBGMに「生きてたらシアワセ」のCDを何度もかけてもらったのですが、悔しいことにその声が沢田研二と気が付いた親戚は誰一人いなかったようです。。。。私の両親も含めて(涙)
その後もワイルドワンズとのコラボやタイガース復活等ジュリーの活動を楽しんでいたのですが、私自身に人生を左右する危機が訪れました。会社の健康診断で血液関連の数値が極端に低かったので精密検査を行った結果、血液にのガン、骨髄異形成症候群との診断を受けたのです。
発見当初は軽症であった為経過観察で済んだのですが、日を追うごとにみるみる数値は悪化し、抗がん治療・骨髄移植が必要な状況になってしまいました。それが2017年夏の話。移植にはドナーさんの確定まで時間がかかるので、まず1ヶ月程入院して化学療法を行うことになりました。
これは抗がん剤が効くかどうかの検査入院的なもので、入院が長期になる可能性は低かったのです。しかし私は9月に福岡で行われるジュリーのデビュー50周年記念ツアーのチケットを購入していたのです。
入院は盆前でしたのでギリギリ行ける計算でしたが、治療の副作用が大きければキャンセルも十分あり得ました。でも私は「絶対に直ぐ退院する!」と心に決めてチケットを手元に置き入院しました。

コンサートは期待通り素晴らしいものでした。シングル50曲を1番だけ歌唱するという斬新な企画!もう聞くことはないのかと思っていた「灰とダイヤモンド」や「CHANCE」も聞くことが出来、ドーム並みの思い出深い内容となりました。
そして全曲終了後、いつものようにジュリーはバンドメンバーと一緒に客席に歩み寄り手を振りながら別れの挨拶を述べ始めました。なんだか感極まっているように見えました。そして最後に何度も頭を下げながら「皆さん本当にお身体を大事にされてください!長生きして下さい!元気でいて下さい!」と何度も繰り返しました。
私はその時涙が止まりませんでした。声をあげて泣きたい心境でした。周囲のお客さんも普段と違うジュリーの言葉に多くの人が涙していました。これから「ガン」という巨大な敵と勝つか負けるか分からない戦いに挑む私にとって、ジュリーがこんなに相手の体調を気遣う声をかけいただいたのは偶然とは思えませんでした。40年間ファンを続け来た甲斐があった、とつくづく思いました。最後の最後にまたジュリーが駆けつけてきたのです。
その後、ドナーさんが中々決まらず、私は選択肢を増やす為ダイエットを決意、当時90キロあった体重を65キロまで落としました。翌年夏、ようやくドナーさんが決まり、骨髄移植が実現する事になりました。
移植すると退院まで通常3ヶ月以上かかります。骨髄移植そのものは輸血と同じように、腕に針を刺して血液に混ざった骨髄を流し込むだけなので、そう大掛かりなものではありません。痛みもないです。
でもその前に主要となった血液細胞を死滅させる為に放射線治療を行うのです。身体の腰のあたり、骨髄のある部分を目掛けて放射線を光線で当て白血球を0にするのです。私の場合、量的には少量でしたので、深刻な副作用の可能性は低かったのですが、それでも恐怖には違いありません。
方法としては、病院の隅の一角にある頑丈な作りの放射線室にてベッドにバンドで体を拘束されて、30分程放射線を浴び続けるのです。ただし本人の希望が有ればDVDや音楽の視聴は可能という事でした。
私はジュリーのコンサートDVD「CROQUEMADAME & HOTCAKES」を観る事にしました。“トカゲジュリー”でも見れば不安な気持ちも和らぐと思ったからです。しかし放射が開始し、再生を始めると早送りに失敗してしまい、もう終盤が再生されていました。もう病院の人は部屋の外に出ていますし、身体は固定されていますので、リモコンの細かい操作は出来ませんでした。
その時流れていたのが、この「生きてる実感」だったのです。(収録は2000年発売の來タルベキ素敵)ジュリーがピョンピョン飛んでいました。和さんさんも飛んでいました。「これの方が病気に立ち向かう今の心境に合っているな」とつくづく思いました。今後もうまくいくような気がしてきました。
本当に偶然ではあるのですが、私は死の恐怖を感じながらも、間違って?流れてきたジュリーの生きることを讃える歌で元気付けられたのです。放射線治療は何事もなく無事に終わりました。
その後骨髄移植も無事終了。周囲の支えもあり、経過は順調です。幸せな毎日を送っています。ただしまだ免疫抑制剤服用中であり、まだまだ衛生面に最新に注意を払う生活は続きます。再発の恐怖を拭いされるのもまだまだ先のようです。

そして今、ジュリーファンにとっては今年のコンサートが開催されるかどうかが最大の関心事だと思います。ジュリーの生の姿はずいぶん見ていないでしょうしね。気持ちは分かりますよ。
私の場合、今回は元々福岡で開催予定がなかったというのもあるのですが、コロナ禍と私の健康状態を考えれば、コンサート観戦はたとえ福岡に来てくれていたとしても無かったと思います。来年から来たとしても同じかもしれないですね。
でも、私は今まで書いたようにジュリーにはずいぶん良くしてもらったから、2017年のツアー観戦が最後になったとしても、それはそれで仕方ないと腹を括っています。運命には勝てません。身の丈をよく知り、やれることをやっていきたいと思います。
ジュリーが還暦コンサートで語った「これからは日常を一歩一歩大事に歩いていきたい」という言葉の意味がだんだんわかってきた気がします。私は映画の公開が楽しみですよ!
それではまた。
長い文章を読んでいただきありがとうございました。
#沢田研二