( 演繹的推理)なぜ空気が読めないダメ人間にホレてしまう人がいるのか?

こんにちは、みやけです。今回は心理学的な話をしたいと思います。

9月1日、読売新聞をはじめとする報道各社において「秋篠宮家の長女眞子さま小室圭氏年内に結婚する方向で調整が進められている」と言う報道がなされました。

私個人の感想としては、世間の見解とほぼ同じです。小室圭氏は他人の心を汲み取ることができない人物であり、共感能力が低い人という印象です。さらには彼の母親については様々な金銭トラブルが報じられており、そのような家族を皇族のフレームの中に迎え入れるのは如何なものかと思います。(眞子さまは皇族離脱の意向があるようですが)

しかし成人した2人が結婚したいと思うのなら、それは止めることはできませんし、そこに国民が「止めろ」と言いたくてもどうすることもできるものではありません。「そうならば仕方がないが、とても祝福はできない」そう思うしかないのです。ですのでこの2人の問題については(小室氏の母親の問題も含めて)ここではもう突っ込むつもりはありません。この問題はこれで終わりです。

しかしせっかくの機会ですから、この件だけでなく世の中で多々繰り返される「空気が読めないダメ人間にホレてしまう人がなぜいるのか?」と言う点について心理学的観点から演繹的推理を行って見たいと思います。

まず今回の題名に仰々しく記載している“演繹(えんえき)的推理”とはどんな事なのか?これは物事に対する推理を行うにあたっての取る方法の一つなのです。推理は大きく分けると「帰納法」と「演繹法」に分けられます。

その違いを説明すると、まず帰納法は複数の具体的事実から同一の傾向を抽出して推論を導き出す方法です。例えば「酒は飲みすぎると依存症になる」と言う推論を導き出すための情報として「アルコールを長時間摂取すると神経細胞内に常にアルコール存在している状態が当たり前になり、それが減少すると神経のバランスが崩れることが医学的に立証されている」「親戚の中にも酒ばかり飲んで、アルコール依存症になった人がいる」「メディア・本当でアルコール依存の危険性が刺し案報道されている」と言う科学的根拠・実体験・外部からの情報や事象を統合的して「間違いなくお酒は飲みすぎると依存症になる」と推測するものです。情報の入手先が複数あるため聞くものに納得感を与えやすいのがポイントです。

それに対し、演繹法は一般的かつ普遍的な事実を前提としてそこから事実を導き出す方法です。例えばある人をアルコール依存症だと推論づける場合、「その人の家の冷蔵庫の中は酒類しか保存されておらず、手は日中もプルプル震えている」と言う事実を元に「これはアルコール依存症でしかありえない」と推論づけるものです。ただしこの方法は前提として選択した一般論や普遍的事実に偏って主観が混じってしまうため論理が破綻する場合がある可能性を含めています。例にあげたもので行くと冷蔵庫の中身は同居している他人のものかもしれませんし、手の震えは別の病気からくるものかもしれません。

しかし逆に言えば前提の設定さえ間違えさえしなければ演繹法は非常に強い説得力のある推論法です。帰納法があくまで統計的結果を指し示すに過ぎないのに対し、演繹法の結論はより真実に近いと考えられているのです。私は海外ドラマTVで現在も再放送が行われているシャーロック・ホームズの現代版ドラマ『エレメンタリー」(ワトソン役が女性!)にてホームズがこの演繹的推理を連呼するのに感銘を受け「この言葉は使える!」と確信しましたw

私はこのブログにおいて、特にプロレス関係の話においては好き勝手に妄想や決めつけっぽい推論を書いています。一応心理学的な裏ずけは加味しているつもりではありますが、今後は妄想は全て「演繹的推理により〜」の言葉を入れれば全てそれで押し通せるんじゃないかと。。。(笑)それは半分くらい冗談ですが、比率的に「思い切った推論」が多いブログですので、今後はこの言葉を多用して行きたいと思います。

話が大きく逸れました。ダメ人間に惚れる人についてですね。よくあるパターンとしてはヤル気も気力ないグータラ男になぜか人格的に優れた女性が入れ込んでしまい、別れることは微塵も思っていない、と言うパターンは良くありますよね?

この場合、その女性が持つ強い母性本能をこの男性の存在が刺激したからだ、と言う分析がよくなされます。確かにそう言う部分もあるかと思います。しかしこのようなパターンの場合、女性側の自分へのコンプレックスが大きなポイントとなっている場合が多いのです。特にメサイヤコンプレックスが。メサイヤコンプレックスとは自己肯定感が低い人が、自分を満たすために人を救おうとするコンプレックスのことを言います。

例にあげて申し訳ないですが、自分の人生を投げ打ってまでボランティア活動に没頭される方がいらっしゃいます。側から見れば「なんて偉い人なんだ」と思われることが多いのですが、あまりに行き過ぎた行動を行なっている人は、私からすれば「人を救うことによて自分の無力感を満たしているのだなあ」と思ってしまいます。もちろんその行為自体は素晴らしいことなのですが、横で見ている側からすれば「私は何もしなくていいのか?」と思ってしまいます。しかし、人にはそういう側面があることを分かっていれば周囲の人は気も楽になるのではないかと思います。

まとめますと、ダメ男に入れあげてしまう女性は、自分に対して自信がないがためにメサイヤコンプレックスでより哀れな他者を救おうとするのです。そしてこの「自分に自信がない=自己卑下」と言う感覚は他者からの印象とは全く異なる場合が多いのです。「非の打ち所のない美人」「有名大学を卒業し一流企業に就職した才女」「伝統ある名家に生まれたお嬢様」であってもそのような人はゴマンといます。

ポイントは幼少期に承認欲求を満たされているかどうかです。親から褒められず、いつも「あなたはダメな人間」と刷り込まれていればその思いは一生つきまといます。子供にとっては家族だけが自分が実体験する唯一の世界ですから、一般的な社会常識は通用しません。本当はそんなことなくても、親が子供を認めてあげなければ子供は常に不安定な気持ちでさまよい続けるのです。私は子供の頃から”英才教育”と称して本人の意向に関わらず、特定の競技の練習に人生を賭けて青春時代を過ごしてきたアスリートには強くそれを感じます。

そしてそのような人にとって、頼もしく映る人というのはどのような人なのか?ようやく最初のテーマに戻るのですが、相手の気持ちを考慮することができず、ズケズケと自分自身の主張を一方的にまくし立てる人に対して“頼もしく”思えてしまうのです。そのような人は心に他人がいませんから、「こんな事を言うと相手が傷つくのではにか?相手を責めることになるのではないか?」と言う発想がありません。単純に共感能力がないのです。

しかし自己卑下の人にとっては、そのような人間の行動は「確固たる自分の考えを持ち、ブレる事なく意思を貫き通す頼もしい人」に見えてしまうのです。自分がそうなりたいと思う理想の人なのですから、疑問にも思わずのめり込んでしまいます。この辺りの感覚は幼少期承認欲求に満たされ親の愛を十分に受けてきた人からは想像しがたい感覚だとは思いますが、「相手のことを鑑み、その後の影響を考え慎重に行動するする人」は「頼りない人」に見えてしまうのです。

そしてまたその「頼もしい人」本人も当然コミュ力に難がある人です。共感力が著しく低いのですから。そうなってくると双方通常の社会では普通の人間関係を構築することが難しくなり、「共依存」の関係になりがちなのです。他に行き場がないですから。なのでその最中は一般社会と触れ合う中で何度もトラブルに巻き込まれますが、双方自分の事を理解してくれるのは”一見”相手だけという思いが拭えず、周囲からボロカスに言われようとも別れる事を選択しないのです。

ですので、本人達は幸せなのです。「自分の気持ちを分かってくれるのはパートナーだけだ」と気持ちが強固ですから。ただし、その二人が一般社会と強く接触せざるを得なくなった時。。。。。当然大きなトラブルに発展するケースが多くなる訳です。でも二人を一般的な道徳観念で説得するのは無理なんですよね。双方”理想のパートナー”な訳ですから。

いかかでしたでしょうか?私の演繹的推理。

今日はこんなところです。それではまた。

#シャーロックホームズ

#エレメンタリー

#演繹的推理

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