私が一番好きなレスラーは小橋建太!(前編 〜大分でのテリー・ゴディとの激闘!)

こんにちは、みやけです。今回は久々に新作を書きたいと思います。プロレスの話です。

そしてその内容は最近やたらと書いている妄想・検証者ではなく、私が一番思い入れのあるレスラーについて、感謝の気持ちを伝えるという内容なのです。

そのレスラーはジャイアント馬場でもジャンボ鶴田でもなく三沢光晴でもなく小橋建太なのです。その理由は彼が私の人生の苦境において2回も心の支えになってもらったからです。自暴自棄になってしまいそうな状況の中、彼の存在によって人生を踏ん張ることができたと言っても過言ではないのです。

小橋さんと私には少しだけ共通点があります。まず年齢、小橋さんは1967年3月27日生まれ、で、私は1967年4月1日生まれと誕生日が極めて近い同級生なのです。そして生まれは小橋さんが京都で私は大阪(ただし生まれて半年で福岡に引っ越していますので、関西人ヅラするつまりは全くありませんが、、、)と同じ関西生まれという点もあります。

あとは、、、、そのくらいですか、、、あえていえば、双方同じく真面目でストイックな努力家という共通点もあるかな。。。(←オイオイ!)

ただし、プロレスファンである私は、大きなバックボーンもなくイチ新弟子としてデビューしながらも、タッパもありスター性のあるルックスを持つ小橋さんにはデビュー当初から注目しておりました。彼の試合を始めて見たのはデビューから約半年経った1988年世界最強タッグリーグ戦での北九州市八幡的場池体育館という、おそらくプロレス興行で使用されたのはこの1回だけではないか?と思うくらい北九州市の片隅にあるマイナーな体育館でした。

https://radiotalk.jp/talk/372094

この大会の観客はせいぜい600〜700人程度だったと思うのですが、閑散とした会場では第一試合からメインまでなんとも盛り上がらない試合が続いていたのですが、小橋は前座試合ながらも石川敬士選手と組み、タイガーマスク&ジミー・スヌーカ組と対戦。石川選手のうまいリードもあり、格上の先輩に臆するとこなく次々と技を繰り出し、この大会唯一リング上に目が釘付けになる試合を展開してくれました。

その時の私は大学生。しかしその頃なぜか全日本プロレスはなかなか福岡市内で興行を打たなくなり、彼の試合もなかなか観るチャンスがなくなってしまいました。その後私は1990年春に大学を卒業。業界最大手の某ブラインドメーカーに就職し、研修の後最初の配属先は大分営業所となりました。ルート営業としての赴任でした。

私は人見知りの性格なので、今思えば営業なんて仕事は一番合わない職業なのですが、逆にその事を認めたくなかったので営業職にこだわっていたのです。隣県とはいえ初めての一人暮らし、そして当時の大分営業所の都合もあり、あまり先輩の指導を受ける事なく、単独で営業活動を任される事となりました。

しかしその仕事内容に私は悪戦苦闘しました。私はブラインドメーカーというのは「この部屋にはこんな色のブラインドが合う」とか「このタイプのブラインドが最適」などをお客様にアドバイスするようなインテリアコーディネーターの的な仕事を想像していたのです。単に私のリサーチ不足なのですが。。。実際の営業の仕事内容ですが最大手メーカーなのでそれほどあくせく販促を行う必要はなく、もっぱらパチンコ店に付く電動ブラインドや会議室によく設置されているスライド式パーテーションの施工打ち合わせが主な業務なのですが、それでも販売店回りは日々の日課です。

それでも人見知りな私は、販売店を一人で回ったところで一体何を喋っていいかわからないです。「うちの商品を買って下さい!」みたいなベタなセリフを言ったところで「いつもメインで買っているよ」と普通に返されてしまいます。結局は販売店とこれまで会社が築き上げた信頼関係を適度にキープし、2・3番手のメーカーが変な動きをしていないかを気にしていればいい、人なっこい人であればなんてこたあない営業だったはずなのですが、しかしそういう人として最低ラインのコミュニケーション構築が苦手だった私はルートセールスが恐怖になって行きました。

私はだんだん「営業に回る」と言って外に出ては、販売店付近の公園等で車の中にこもって時間を潰す事を繰り返すようになりました。近くまでは行くのですが、店に訪問する勇気がなく結局寄らずに帰ってしまうのです。別に店から拒絶されているわけではありません。新人という事を逆に活かして「大分のことは全然知らないので色々教えてくださいっ!」的なスタンスで行くのも一つの手だったのですが、基本的に販売店の社長は自分一人で会社を回している方が多く、非常に多忙であまり世間話に乗ってくれるような雰囲気ではなかったのです。

結果私生活でも恋人はおろか、同性の友人すら満足にできず、せっかく温泉の名所大分に住みながらも、自身は勤務した期間は一度も温泉に行かずに終わるという体たらくでした。休日もパチンコかファミコンに明け暮れる生活。そして録画したプロレス番組への鑑賞には一層のめり込んで行きました。結局大分に住んだのは2年間でしたが、半年に一度程度開催される全日本プロレスの大分での興行が唯一非日常を感じられ、自分を取り戻せる瞬間となっていました。少し大げさかもしれませんが、本当にそれくらい大分での生活にはいい思い出がないのです。

当時の全日本プロレスは”四天王プロレス”の原型ができかけていた時代ですが、小橋に関しては「シングルベルト戴冠はまだまだ先」と言われていた時代で、三沢川田田上および外国人4強にはまだ一度も勝っていませんでした。後年必殺技となるラリアットもまだ開発段階であり、ムーンソルトプレス等他の選手の得意技を頻繁に”流用”していた時期だったので、どちらかといえば「個性が見えにくくなっている」「技の安売りをしている」と批判を受け始めた時期だった思います。

ただし、私が観戦した大分の大会では2回連続で、若干地味なカードでありながらも熱がこもった熱い戦いを見せ、中盤の試合なのに試合終了後、大きな拍手が事前と巻き上がるという感動的な結末になりました。

1991年7月10日 大分県荷揚町体育館(観衆2050人) 30分1本勝負 ○小橋建太(11分56秒 回転揺り椅子固め)●ボビー・フルトン

フルトンはファンタスティックスの一員としてタッグ屋のイメージが強く、私自彼ののシングルマッチを見るのは初めてだったので、どんな攻防になるのか密かに注目しておりました。この試合はノーテレビだったので記憶を絞り出して書いていますが、前半はやや小橋優勢。しかし7分過ぎあたりからフルトンが一気に構成にでます。得意の空中殺法も連続で披露しますが、その間、ラリアット・キッチンシンク・フライングショルダーアタック等の打撃技を挟み攻撃の手を緩めません。

後になって思うと、この手の打撃技で小橋の腹付近にダメージを与え、前かがみの状態にさせておいてから空中殺法で上からの攻撃を行うという実に理にかなった攻撃だった気がします。中々見ることのなかったフルトンの攻撃に対し大分のファンも徐々に熱狂して行きます。小橋は正面からフルトンの技を受け、逆にまた技を返しもするのですが、フルトンも同様に小橋の打撃技を正面から受け必死に立ち上がります。陽気なイメージのフルトンが小橋の熱血ワールドに引き込まれていった感がありました。

戦前、ファンはは空中殺法の応酬をイメージしていたと思うのですが、日本人抗争のようなゴツゴツとした戦いは非常に新鮮でした。最後は小橋がフルトンの隙をつきローリングクレイドルで仕留めましたが、予想を良い意味で裏切る大熱戦に大満足の内容でした。小橋がフルトンの知られていない一面を引き出した試合でした。

1991年9月2日 大分県荷揚町体育館(観衆2050人) 30分1本勝負 ○小橋建太(11分6秒 ムーンソルトプレス)● トミー・エンジェル

熱心なプロレスファンでも、このトミー・エンジェルを記憶しているファンが一体どれだけいるのか。。。。身長187cm、体重117キロのボディビルダー上がりを思わせる筋肉質体型。ぱっと見の外見は強そうなのですが、動きが硬くスムーズな試合運びができません。どちらかといえば“しょっぱい”タイプのレスラーです。最初はエンジェルが優勢に試合を進めていましたが、次第に手詰まりになり小橋と攻守が入れ替わります。

スタミナ不足もあるのか、エンジェルは小橋のチョップや投げ技を食らっても、動きが止まってしまい中々戦闘体制に戻れません。観客も「短時間で終わりそうだな」という雰囲気が充満してきます。しかし小橋は攻撃パターンを変え、胸板へのチョップ一本に絞るのです。胸板に関してはエンジェルはそこそこ分厚いのですが、そこに小橋は健介戦を思わせるような重々しいチョップをドスドスと叩き込むのです。当時頻繁に使用していた連打式ではなく、一発一発腰を据えての水平撃ちです。

そして小橋は片膝をついて耐えるエンジェルに対し、「どうした!かかって来い!」と両手を引き寄せるポーズを取りながら鼓舞するのです。まるでその後の秋山や志賀との戦いのように。流石にこの気持ちはエンジェルにも通じたのか、それまで出してきたベアハッグやハンマーパンチではなく原始的なヘッドバットや勢いをつけたボディスラムで反撃します。

単純だが、明らかに「このまま情けない姿で負けるわけにはいかない」という気持ちの入ったエンジェルの攻撃に、場内のファンも段々と熱くなって行きます。ひたすらパワファイターとしてのキャラを通してきたであろうエンジェルの玉砕ファイトは自分自身でも初めてだったのではないでしょうか?結局フィニッシュを狙ったトップロープからのフライングボディプレスをカウント2で返され、逆にムーンサルトで負けてはしまうのですが。全く予備知識のないレスラーの必死な熱いファイトを見ることが出来たことで場内のファンは大満足でした。

普通に思えば「見なくても良いかな?」と思ってしまう平凡なカードを自らが相手鼓舞させ、熱戦に持ち込む小橋選手の心意気に当時の私は感激しました。小橋選手の「まわりからどう思われようが自分が決めた道を突き進む」という姿勢に社会生活そして他人の目に戸惑う同級生の私としては大きな刺激になったものです。流石にそれによって社会人としての行動が一変するまでには至らなかったのですが、心の支えになったのは間違いありません。

そして翌年、私が見た生涯のベストマッチであるテリー・ゴディ戦になるわけです。

1992年4月7日大分県荷揚町体育館 観衆2800人(超満員) チャンピオンカーニバル公式戦 △小橋建太(時間切れ引き分け)△テリー・ゴディ

この頃の小橋とゴディの力関係ではゴディが1枚上。しかし小橋の成長は顕著であり、単発的な勝利なら十分あり得る、という感じだったと思います。昨年の当地での活躍もあり会場内は小橋の初勝利を期待する雰囲気が漂っていました。試合はまさに一進一退の熱戦!流石に細かい攻防は記憶していませんが、とにかく両者は10分過ぎからフル回転。時間切れ引き分けを逆算しての両者朦朧となっての時間稼ぎ、、、みたいなシーンは一切なく、それぞれの技が決まると即フォールに入り、返されるとすぐに次の攻防に入る、というムーブが繰り返されたのを記憶しています。

さらに20分過ぎから小橋の手数が多くなり、技のクリーンヒットが目立ってきます。明らかに勝利に向けての流れであり、場内は「これは行ける!」という雰囲気で一体化します。そして27分過ぎ頃小橋のムーンソルトプレスがほぼマット中央で完璧に決まり、「これで決まった!」と場内騒然となりましたが、ゴディはギリギリで返し、観客の「あ〜〜っ!」という声が響き渡るのです。

その時点で残り時間2分強ですから、普通ならそのまま時間切れの流れ。しかし両者は立ち上がりそれぞれ技を繰り出します。全然ドローの雰囲気がありません。ゴディは小橋をロープに振ってラリアットを狙うも空振りに終わります。小橋はそこで踏ん張りゴディが振り返るのを狙って逆に完璧なラリアットを叩き込みました。まだその時点では必殺技になっていなかったラリアットですが、タイミング的に申し分なく「今度こそ決まった!」と場内の興奮はピークに達しました。

残り時間30秒強!小橋は倒れかかるようにゴデイに覆いかぶさり完全に決まったかと思われましたがまたもキックアウト!客席は怒涛の重低音ストンピングが鳴り渡ります。そして時間切れ引き分けのゴング!もちろんブーイングや「延長コール」などは一切飛ばず。「素晴らしいものを見せてくれてありがとう!」という感じの大拍手が飛び大円団となりました。

これが私が見たプロレスのベストマッチです。ゴディの動きも最高でした。しかし小橋はそれ以上に凄かったです。その前の2試合の好勝負がありましたし、大分というノーテレビの地方都市で武道館のメインレベルの攻防を見せつけたのですから、本当に凄いなと思いました。お膳立てされなくても自身の力で観るものを興奮の渦に引きずり込んだのですから、憧れも感じました。まだ24歳の同級生と思えば凄く眩しく感じたものです。

そして現実に戻ります。実はこの時私は会社に辞表を提出済みで、1ヶ月後には故郷の福岡に戻る予定でした。営業という仕事に慣れなかったのもありますが、いくらミスを犯しても担当は増える一方で、重要な仕事を任されるようになり、何か大きな事故を起こすのではないか?と不安に思うようになってのです。サイズギリギリでパチンコ屋につけた電動ブラインドが落ちてくるのではないか?とか重量オーバーギリギリでつけたパーテーションが天井から落ちてくるのではないか?とか。。。。

残寝ながら小橋の姿を見て「負けずにこの会社での仕事を頑張ろう!」となるまでには至りませんでした。しかし辛く苦しいだけであった大分の2年間で録画されたプロレスを見ることだけが心が解放されるひと時であり、そんな中彼自身も苦難を乗り越えながら成長して行く様は大きな心の支えになったものです。やはり同級生というものは何か心に引っかかるものがあるのですよ。

余談ですが、この前のトミー・エンジェルと対戦した大会後、私は一人で近くの居酒屋に入ったのですが、なんとその店で既に小橋選手と後輩の浅子選手がカウンターで飲んでいました(笑)。普通のサラリーマンが行く居酒屋のカウンターで飲んでいたのもびっくりしました。そしてなんて偶然だとも思いました。飲食店で有名人と一緒になったのはこれまでの人生の中で小橋選手ただ一人です。そして一番印象深かったのは小橋選手のケツのデカさでした(笑)

その後、皆様ご存知のように小橋選手は三冠王者として全日本プロレスのトップを取り、NOAHに移籍すると「絶対王者』として団体の顔になりました。一方私は今度は文具の会社に就職し、15年程勤め上げた後今後は地方の某小売店の本部に転職しました。その間自分自身の内向的な性格に相変わらず苦労しましたが、自分をひたすら見つめ直すことで少しずつですが改善されていった気がします。

そして常に「小橋が頑張っているんだから、俺も」という気持ちは心の何処かにありました。読んでいただければわかるように、私はただの観客であり、小橋選手と交流があったわけではないのです。でも人生で一番苦しかった時代に心を癒してくれた彼の存在はいつも心の中にありました。小橋選手は行動も言動もあまりにストイックすぎるが故にアンチからはその部分を小馬鹿にされたり、揶揄されたりもするのですが、私は我のその部分も非常に共感するのです。

そして時は21世紀となり、小橋選手も私も人生の後半戦を迎えるわけですが、なんたる偶然か「がん」という同じ試練に立ち向かわざるを得なくなるのです。

今日はこんなところです。次回後編に続きます。

#小橋建太

※文中にあります私が最初に就職した「ブラインドのトップメーカー」について、この文だけ見るとひどい会社のように印象を持ってしまうかもしれません。ただし、それは私があまりに未熟だっただけであり、特に営業所の方々には非常によくして頂きました。特に私を根気強く指導して頂いた5歳上のI先輩には今でも感謝の気持ちで一杯です。検索して見るとI先輩はまだこの会社の関東近辺の営業所で所長をされているようです。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。あの時は本当に色々ご迷惑をおかけしました。

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