関東・東北限定王者のリック・フレアーと蔵前に縁がなかったハーリー・レイス

こんにちは、みやけです。

今回も昭和プロレスの話です。前回は新日本プロレスの蔵前国技館メイン登場レスラーリストを検証しましたが、諸事情で全日本版は諦め?別の視点からNWA世界王者隣日本で何度も防衛戦を行った“狂乱の貴公子”リック・フレアー“ミスタープロレス”ハーリー・レイス”について検証して見ますと意外な事実が分かりました。

まずフレアー!1973年に国際プロレスに初来日。この時はまだグリーンボーイの域を出ませんでしたが、5年後の1978年には時期NWA世界王者候補として全日本プロレスに登場、開幕戦のタッグマッチではジャイアント馬場からピンフォールを奪い、ジャンボ鶴田のUN王座にも挑戦。

更に1981年にはついにNWA世界王者として登場。1987年までの6年間ほぼ毎年来日し多くの日本人および外国人選手と世界王座防衛戦を行い、時には挑戦もしました。ちなみに全日本時代は蔵前国技館では4回、両国では1回、武道館では1回の防衛戦を行っています。

ただし当時からフレアーの防衛戦については「東京およびその近郊での防衛戦がやたら多いな」と思っていました。なので今回フレアーが日本のどの県で防衛戦を行ったか日本地図に色つけしてみました。

赤の色つけがNWA世界線を行ったエリアで、青の色つけはその他のタイトルマッチ(UN戦のみですが)を行った県です。

・・・・こんな結果になるのではないかと思ってはいたのですが、関東・東北エリアでしかタイトルマッチを行っていないのですね!厳密で言えば新潟県の長岡でリッキー・スティムボートの挑戦を受けていますが、まあ、新潟も東北みたいなものですし。。。

フレアーは西日本エリアへのサーキットはなんらかの理由で遠征NGだったのか?いや、そんな事はなく1983年の最強タッグ期間中にジャンボ鶴田と愛知県体育館でノンタイトルのシングルマッチを行っていますし(時間切れ引き分け)、1987年のワールドチャンピオンカーニバルではリック・マーテルと世界王者コンビを組んで京都府立体育館で長州・谷津組と対戦しています。

もっと言えば私の住む福岡、いや九州には全日本の来日時には足を踏み入れてもいません!九州は特にNGだったのか?!

なぜこれほどまでに世界戦の会場が偏っていたのか?もちろんフレアーが操作したわけでないと思います。たまたまなのか?馬場の思惑があったのか。。。しかし正直なところ「宵越しの金は持たない」みたいな古いタイプのレスラーであったフレアーは東北エリアより派手な事が好きな関西・名古屋・福岡等の地域の方が気質的にはあっていたような気もしますが。。。。

ちなみに国際初来日でのスケジュールも確認したのですが関東・中越中心のサーキットでしたが、タイトル戦線には絡まなかったものの終盤には大阪府立体育館に登場しており、九州では大分県で1試合のみ出場しています。

西日本エリアサーキットの際何か嫌な事があった、、、そんな事はないでしょうが、この偏った状況に何か理由があるのならぜひ知りたいものです!

さてもう一つ。”ミスタープロレス”ハーリー。レイスについてです。さすが親分!レイスはフレアーと対照的に日本国内では実に多くの県でNWA王座の防衛戦、挑戦を行っています。フレアーと同様日本地図を作成してみました。

赤の色付けがNWA王座に関わる試合を行った県、青の色つけがその他のタイトルマッチ(PWF等)を行った県です。

さすが日本贔屓の?レイス!極端な偏りも無く日本各地でタイトルマッチを行っていますね。1975年の新春ジャイアントシリーズでは沖縄サーキットにも参加していますので、(完全に調べたわけではないのですが)おそらく日本のすべての県で試合経験があるのではないでしょうか?

しかしですね、全日本一筋のレイスでしたが、実は蔵前国技館では一度もタイトルマッチに絡んだ事はないのですよ!さらに言うと日プロ時代から遡って見ても、さらに言うと他のタイトルマッチ、例えばインターヘビーやPWF王座の挑戦においても一切蔵前でマッチメイクされた実績がないのです。

もちろん世界最強タッグや創立10周年記念興行の蔵前大会には参加していますので蔵前でレイスが試合をした事は無い。というわけではないのです。

もっと言えば新装なった両国にも1回、武道館にも4回登場していますが、いずれもセミ前のアンダーカードに甘んじており、タイトルマッチに絡んだ経験はないのですね。意外な事実です。

細かい点を言えば日大行動や東京体育館では何度かPWF戦を行っています。そしてジャック・ブリスコも蔵前ではNWA戦を行った経験がないのです。これは全日本は創立当初はビッグマッチは日大講堂の方を中心に興行を開催していたからというのが大きな理由だと思います。

しかし日大講堂が老朽化の為1970年代後半からはプロレスへの使用許可を出さなくなり、メイン会場を蔵前にシフトするのと同時進行で馬場の体力の衰えが顕著になり全日本の興行成績も低調になった為、必然的にレイスは大会場で試合をする事が難しくなったという訳でしょうね。

1982年、スタン・ハンセンの登場により全日本の観客動員は域を吹き返します。1982年の蔵前開催は2回にとどまりましたが、83年は3回、84年は半年間だけで3回開催しています。しかしNWA世界王座はレイスからフレアーに交代してしまった為にレイスはその恩恵を受ける事ができなktたと言えます。

なぜか縁がない」という現象はプロ野球や大相撲の世界でもよく見られますが、プロレスは更に多いように思います。1983年秋にレイスはNWA王座を再度奪取しベルトを携えジャイアントシリーズに参戦しますが。このシリーズには蔵前での試合はありませんでした。

しかし翌シリーズの世界最強タッグリーグ戦では当時人気絶頂だったザ・グレート・カブキが最終戦の蔵前でNWA世界王座に挑戦する事になっており普通に行けばレイスがその相手を務めるところなのですが、遠征直前でフレアーに王座を奪回されてしまうのです。

この辺りは、レイスの商品価値云々というよりは「時のいたずら」という感がしなくもありません。ただし個人的にはいかに1970年代後半から80年過ぎくらいの間の全日本プロレスがファンクス(最強タッグ)頼りであり、その他のシリーズがいかに苦しかったかを象徴する結果なのではないかと思うのです。

今日は、こんなところです。それでは、また。

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