こんにちは、みやけです。

今回は例によって昭和プロレスの妄想話。1ヶ月程前に書きました「あなたもプロモーター?」という企画についての続編。長崎県出身の大仁田厚と阿修羅・原についてスポットを当ててみました。特に原については全日退団時に元々どのようなレールが引かれていたのか?妄想してみました。
まず大仁田ですが、そもそも彼がプロモート活動を行っていたかははっきりしません。ただし原については間違いなく関わっていました、それも結構手広く。そして1984年ジャイアントシリーズでの失踪事件がありますが、これは後述します。その後1988年サマーアクションシリーズの佐賀スポーツセンター大会では間違いなくプロモート活動を行っていました。
というのもこの大会の4日前の小浜大会で原はスタン・ハンセンとの場外乱闘時に突き飛ばされ、コーナーポストの金具に顔面から激突!額から目にかけて13針縫う裂傷を負い骨が直接見えるような状況だったとか。。。原は翌日から欠場したのですが、佐賀大会は「自身がプロモートした大会」であった為抜糸前の状態で強行出場したのです。
この話を聞いた時、「原は相当手広くプロモート活動をやっていたんだ」とつくづく思ったものです。隣の県の県庁所在地ですしね。そして前回同様全日本の長崎県内での興行をしらみつぶしにあたった結果、それまでもそれなりにテレビ収録やビッグマッチも行われていましたが、原の入団以降さらにグレードアップした事が確認できました。そして”失踪退団”の翌シリーズもテレビ収録ありの長崎大会が予定されていたのです。

そして長崎出身といえば大仁田厚!大仁田の凱旋帰国から最初の引退までは、完全に原の在籍期間と被っていたのですが、ぞれぞれどんな扱いを受けていたのか?今回も長い文になるのですが(笑)比較しながら書いていきたいと思います。
前回同様、長崎県内でも比較的人口の多い市に限定しての抽出となります。まず原が全日本入団してから最初の長崎県下の興行です。
1982年1月22日 新春ジャイアントシリーズ長崎国際体育館(観衆6000人・満員)
メイン 馬場・鶴田・天龍(2-1) ハンセン・ボルコフ・キニスキー
第6試合 原(13分33秒 両者リングアウト)ジプシー・ジョー
長崎国際体育館は地方会場としては比較的大きなハコだったのですが、テレビマッチでも無く、おそらくカードの事前発表も無かったこの大会で満員は立派なものです。ハンセン登場最初のシリーズというのも大きかったでしょうね。6000人というのは眉唾ですが。。。。
原自身は宿敵ジョーと両リンという意外に地味な扱いです。チケットは当然捌いたとは思うのですが、プロモート活動も行っていたかはよくわかりません。でもジョーにしたって全日本登場から2シリーズ目ですからまだそれほど価値は落ちていないのですよね。いきなり完敗させる訳にはいかなかったと思います。
そしてこの年5月には大仁田厚が凱旋帰国!売り出したい2人が揃い踏みとなった為全日本が長崎で興行を行う必然性は高まったとは思うのですが、大きな町での興行はそれから1年後になるのです。
1983年グランドチャンピオンカーニバルⅠ 4月17日 長崎国際体育館(観衆5500人)
メイン インタータッグ選手権 ○馬場・鶴田(13分41秒 体固め)ハンセン・●バス (日本組がタイトル奪回!)
セミ インタージュニア選手権 大仁田(11分46秒 両者リングアウト)ジプシー・ジョー ※大仁田が王座防衛
第6試合 ○ 原 (7分15秒 片エビ固め)ヘクター・ゲレロ
実に良いカード!原が相変わらず地味な扱いなのが気になるところですが、大仁田はセミでかつての国際のエースのジョーを迎え撃つという中々の高待遇です。大仁田主役の凱旋興行と言って良いのではないでしょうか?

この年ジョーは新春シリーズから盛んに大仁田に因縁をつけライバル関係を構築したかったようです。実はしかし前年秋に地方で大仁田に完敗しており、この晴れ舞台での引き分け防衛は私的には「何やってるんだ!」と思ったものです。当時はジョーの凋落傾向が激しかったですからね。
メインはBJ砲のタイトル奪回という非常に興味深いカードです。これはまだ無冠だったハンセンに箔を付けさせるという意味もあったのでしょうが、ノーテレビ会場(愛媛)で王座転落してノーテレビ会場で奪回という流れがイマイチピンと来なかったのですが、前回のプロモートを成功させた原へのご褒美で無理矢理タイトルマッチにさせた?という気がしなくも無いのですよ。

そして大仁田は長崎での凱旋興行が結局これで最後となってしまうのですね。このシリーズの最終戦でのヘクター・ゲレロ戦で致命的な大怪我を負うのですから。。。。実は復帰後再登場するチャンスはあったのですが、、、、それは後述します。
1983年10月14日 ジャイアントシリーズ 佐世保市体育館(観衆3900人)
メイン インターヘビー級選手権 鶴田(19分13秒 両者反則)ブロデイ ※鶴田が王座初防衛
セミ UNヘビー級選手権 ○デビアス(15分59秒 首固め)●天龍 ※デビアスが王座初防衛
第6試合 ○ 原・石川(11分20秒 エビ固め)●ネグロ・鶴見
もう国技館を使って良いくらいの好カードですね!長崎主要都市での興行のマッチメイクが大幅にグレードアップしてきた感があります。鶴田はインター王座を奪われご機嫌斜めのブロデイに押し捲られての両者反則決着。正直お互い認め合ってしまった後年の絡みよりもこの頃の殺伐とした頃のブロデイの方が見所がありましたね、鶴田戦は。
そしてセミの天龍の所には本来ジェリー・ローラーが初来日する筈でした。やや地味なマッチメイクかもしれませんが、よく佐世保で興行を組んだものです。米軍基地があってアメリカの文化が色濃い町ですが、当時でも造船主体であまり活気がある町では無かったのですが。。。そして次の興行ですね。
1984年2月16日 エキサイトシリーズ 長崎国際体育館(観衆4200人)
メイン 特別試合 鶴田(24分29秒 無効試合)ブロデイ
セミ 馬場・○天龍(10分40秒 片エビ固め)スミルノフ・●スーパーデストロイヤー1号
第7試合 アジアタッグ王座決定戦 ○原・石川(16分16秒 片エビ固め)モロー・アイビー ※原・石川組が王座奪取
4ヶ月しか間が空いていないのにノンタイトルとは言え鶴田対ブロデイ戦をまた長崎で組むのは当時不思議に思いました。しかし同日に行われたアジアタッグ王座決定戦で原が王座に復帰しており、ようやく地元で“良いカッコ”した大会だったのです。何らかの理由でこの興行だけは派手にしたかった理由があったのでは。。。。

そしてセミは地味なカードですが、本来ならスーパーの所にはこのシリーズ開幕戦で急死したデビッド・フォン・エリックが入り、天龍をピンフォールしたのでは無いかと睨んでいます。この1週後は蔵前でのUN戦であり、開幕戦のデビッドの相手は原の予定でした。天龍と効果的に絡むのはここしかなかったのですよ!
そして次は問題の?ジャイアントシリーズとなる訳です。
1984年10月22日ジャイアントシリーズ 長崎国際体育館(観衆1800人)
メイン UNヘビー級選手権 ○天龍(15分20秒 首固め)●ヘイズ ※天龍が王座防衛
セミ 馬場・鶴田(11分35秒 両者反則)レイス・ソイヤー
当初この大会では王者原・石川組に佐藤昭雄・マジック・ドラゴン組が挑戦するアジアタッグ選手権が開催される筈でしたが、原の急な欠場でキャンセルになっています。ドラゴン初のアジアタッグ挑戦、石川と佐藤の「元王者同士の対決」もアジアタッグ史上初であり、地味ですが興味深い大会だったのですが、「プロモーターが失踪」した為テレビ収録がある大会にも関わらず開催そのものが危ぶまれました。
馬場一行のバスが会場に入ると全く興行の準備は出来ておらず、警察他関係者への興行許可も手付かず、チケットもほとんど販売されていなかった模様です。しかし各方面への信用問題を考慮した馬場は大会決行を決意、関係者の許可を取り、総動員で椅子を並べ、体育館の前でほぼ無料?で客を呼び込み何とか大会を成立させました。
テレビ中継では閑散とした会場に選手の受け身の音が異様に響き渡る光景が繰り出されました。リングサイドのお客さんもネクタイを締めたスーツ姿のサラリーマンばかりでかなり異質でした。でも当時の全日本の地方大会は閑散として客がウンともすんともいわない光景は珍しくなかったので、テレビの放映にはなんとか耐えうる内容だったのでは無いかと思います。初登場のバズ・ソイヤーのファイトも新鮮でした。
そしてこの当時「原=プロモーター」という事は明確にはされなかったのです。「プロモーター=友人」という表現をされていました。復帰後原の談話ではそう語っていた筈です。引退後のインタビューでもその時のことは話したくなさそうでした。この情報は話が出る度に別の証言が出るのです。

でも「原=プロモーター」で間違い無いでしょう。もう亡くられた原さんの過去を穿り返すのは申し訳ないのですが、プロモート料は事前に支払っている筈であり、その状態で更にチケットも売らずに失踪、というのが辻褄が合わないからです。(●社が相手なら半分だけ前金で、残りは当日ということもある。デビルムラサキ・談)
同じ会社の原のプロモートなら料金はファイトマネーから差し引き、もしくは売上と相殺という事も出来たでしょう。そして疑問なのは、同郷の大仁田厚はこの時どうしていたのか?あまり話題にはされないのですが、この年の夏には大仁田は1年近い怪我の治療から復帰し、このシリーズにも参戦していたのです。
しかし大仁田は膝の靭帯損傷のため開幕後1週間もしないうちに欠場。長崎大会も欠場。欠場から3週間後大宮と茨城の地方興行に出場して前座試合をこなすも再度欠場。そのままシリーズを終えます。そして翌シリーズの世界最強タッグリーグ戦中に「負けたら引退」と宣言しマイティ井上のインタージュニア王座に挑むも敗退。そのまま引退となる訳です。膝の靭帯損傷は相当重症だと思うのですが、ビッグマッチがあるでもなかった2試合に何故強行出場したかは疑問が残ります。
ただし大仁田は長崎の興行のプロモートにはあまり関与していなかったと思うのですね。少しでも関わっていたならば少なくとも原の失踪については自身が欠場していたとしても事前に知っていたでしょうし、少なくとも全日本一行が現地に到着して気づく、と言うことはなかったと思うのです。
ただし原はすでに長崎大会の2日前から欠場しており、大仁田が怪我なく巡業について回っていれば、少なくとも現地長崎の情報はもう少し早くキャッチできていたかも知れません。運命とは不思議なものです。

でもまあ、大仁田は流石に「井上に敗れたから引退」した訳ではないと思います。その前からの決定事項ではあったと思います。夏の田コロでのインタージュニア戦で井上と引き分けた際はそれを匂わすような発言もあったようですが、その次のシリーズでは普通にジュニアタッグのリーグ戦に渕と組んで出場しています。私としては翌シリーズ欠場した期間に自身の怪我について重大な決断をせざるを得ない出来事があったのではないかと思うのです。それが原の失踪と直接関係があるかはどうか分かりませんが、、、それにしては時期の一致が気になるんですよね。
さらに話を進めます。長崎県下の興行を仕切っていたのが原だったら、失踪以降の興行はこれまでのようにいかなくなるはずですよね?しかし翌年正月から開催のオールスターウォーズ、ジャパン軍初参戦のシリーズですが、はやくも佐世保での興行が行われます。
1985年1月12日 オールスターウォーズ 佐世保市体育館(観衆3800人)
メイン 鶴田・石川・●渕(12分40秒 体固め)○長州・カーン・谷津
この興行のプロモートは誰が行ったのか非常に気になるところです。原は失踪から山形に再登場する前に馬場に詫びを入れたようですが、流石にこの時はそんな時期ではないでしょう。元々は原の担当だったとは思うのですが、それからどんな経緯で行われたのか、マニアとしては気になるところなのです。
そしてその翌々シリーズ、ノーテレビではありましたが長崎市でさらなるビッグマッチが行われます。
1985年4月15日 スーパーパワーウォーズ 長崎国際体育館(観衆 3800人)
メイン PWFヘビー級選手権 ○馬場(13分1秒 反則勝ち)●ハンセン ※馬場が王座防衛
セミ 鶴田・天龍・●大熊(13分1秒 体固め)○長州・カーン・谷津
第8試合 アジアタッグ王座決定戦 ○石川・佐藤(12分55秒 リングアウト勝ち)浜口・●栗栖 ※全日コンビが王座獲得
シリーズ最終戦?と思いたくなるような好カードを唐突に?開催しています。ちなみに原はこの直前の山形大会に乱入したもののこの大会には参加していません。しかしこれが原の担当であったなら、つい先日不祥事を起こした専属選手に、こんな美味しいカードを提供するのはちょっと不自然に思えます。復帰以上に周囲に示しがつかない気がするのです。

この当時馬場はノーテレビなのに長崎でハンセンとのPWF戦を開催する理由として「昨年のジャイアントシリーズで現地のファンに迷惑をかけたから」と説明していたように記憶しているのですが、ちょっとこれも意味が分かりません。大会そのものは開催され、テレビにも収録され放映、アジアタッグ戦が流れたくらいです。特にファンに対してはお詫びをしなければならないように思います、
邪推すれば、迷惑をかけた相手というのはファンではなく別の相手だったのでは。。。。。??
そしてその後、長崎での興行は原の不祥事がなかったかのようにテレビ収録、ビッグマッチ開催が更に増加し、原の出身地・島原市でのテレビ収録も増えるのです。
1985年7月28日 サマーアクションウォーズ 島原市体育館(観衆2800人)
メイン ○ 鶴田・天龍(13分50秒 反則負け)●ハンセン・テキサスレッド
第6試合 ○ 原(6分10秒 体固め)● 薗田
メインは実に不思議なマッチメイクで翌日に鹿児島で同じ組み合わせでインタータッグ戦が開催されているのにも関わらず、テレビではそれは放送されず、前しょう戦の島原大会が放映されたのです。過去何度も大きな大会が開催され縁も深い鹿児島の大会をすっ飛ばして原の地元の興行をテレビ放映したという訳になります。
そしてその後も全日本の長崎優遇マッチメイクは続き天龍同盟結成時まで継続されます。しかし長くなってしまったので今回はここまでとします。そして後編はこの続きと、2度目の失踪事件後のシリーズでやはり長崎大会が開催予定だったこと(結局は中止)、そしてそのシリーズは通常小規模な会場中心の開催が多い新春ジャイアントシリーズでありながらも大阪府立体育館と福岡国際センターという2つの大会場の興行が予定されていたこと。
これにどんな理由があったのか、妄想しまくりたいと思います!参加外国人は弱体だったのにどんなマッチメイクをしようと考えていたのか???もう作成に入っていますのでなんとかGW中に後編はUPしたいと思います。後編もどうぞご覧になってください!
阿修羅・原さんは私の大好きなレスラーです。一直線のファイトスタイルが素敵です。でも見栄っ張りで、自己愛、「どうしそんなチョイスを自分からしてしまうの?」という行動を取ってなぜか自分で自分を追い込んでしまう。。。。この性格が私自身の性格と大変かぶるものがありとてもシンパシーを感じるのです。
今回原さんのあまり触れられたくないような部分も書いてしまいましたが、私は原さんが大好きです!
このブログでも原さんの出生地を自らで向いて取材した回があります。外出自粛のGW期間中にこちらも是非ご覧ください。
今日はこんなところです。後編をお楽しみに!それでは、また。
#阿修羅・原