阿修羅・原と大仁田厚の退団事情 後編

こんにちは、みやけです。早速後編に入ります。阿修羅・原は唐突に全日本プロレスを去りましたが、実はその年明けに身を引く花道が用意されていたのでは?という妄想を書いて見ます。

ジャパン軍分裂〜天龍同盟結成においても原がプロモートしたであろう長崎県下の興行は以前よりも増え、地方興行としては安定した観客動員を残しました。ここに書ききれていない地方での興行も多いのです。しかしインタータッグ挑戦を除けば原自身はあまり上の方で試合を行うことはなく、勝ち役は担うものの中盤での試合に甘んじている感があります。

プロモーターは試合後の事後処理、酒の付き合い等あるのでメインに参加すると試合後バタバタしすぎるからか?そんな事も思ったり増します。一気に結果を書きますね。

1986年4月11日 チャンピオンカーニバル 長崎国際体育館(観衆4200人・満員)

メイン  インタータッグ選手権 長州・○谷津(14分38秒 リングアウト)ラッシャー木村・●原 ※長州組が王座防衛  ※テレビ収録

1986年7月19日 サマーアクションシリーズ 島原市体育館(観衆 2800人・満員)※テレビ収録

メイン 鶴田・天龍(8分14秒 両者リングアウト)ハンセン・デビアス

セミ ○カーン・マシン・高野俊(10分11秒 片エビ固め)長州・谷津・●寺西

第6試合 馬場・タイガーマスク・●薗田(7分59秒 体固め)木村・○原・鶴見

1987年1月16日 新春ジャイアントシリーズ 長崎国際体育館(観衆 3350人・超満員)

メイン 長州・○谷津(8分3秒 体固め)シン・●アシーク

第7試合 馬場・○輪島(9分41秒)ランカスター・●ロイヤル

第5試合 浜口・●栗栖(11分49秒 体固め)○原・ヒロ斎藤

1987年 世界最強タッグ決定リーグ戦 長崎国際体育館(観衆 4150人・超満員)

メイン 馬場・輪島(10分44秒 両者リングアウト)ブロディ・スヌーカ

セミ 天龍・○原(12分5秒 エビ固め)●マーク・クリスヤングブラッド

1988年 新春ジャイアントシリーズ 佐世保市体育館 (観衆 3200人)

セミ ○輪島・カブキ・仲野(28分2秒 片エビ固め)天龍・原・●川田

1988年 7月9日 佐賀スポーツセンター (観衆 3200人・超満員)

セミ ○天龍・原・川田(22分5秒)タイガー・仲野・●高木  ※原は顔を縫う大怪我を負いながらも強行出場。

1988年サマーアクションシリーズ2で行われた”ブロディメモリアルナイト”では盟友天龍と組み鶴田・谷津組の世界タッグ王座に挑戦し武道館のメインを張ります。国際プロレス崩壊時、一時は故郷の長崎に帰りかけた原とすれば、レスラー冥利につきる瞬間だったのではないでしょうか?

更には、このシリーズの開幕戦、天龍と組んでタイガー・高野俊二組と対戦したのですが、試合前にリングアナからマイクを奪い取り「おい高野!でっかい図体してんだからショッパイ試合するんじゃねえぞ!」と高野を挑発するという”ガチ”のマイクアピールを行います。

高野はこのシリーズ特別注目されていたわけではないです。精神的脆さもありその恵まれた肉体を持て余していたことはプロレスファンなら誰もが感じていたことだと思うのですが、原がそれを唐突に言ってしまったのです。しかも当時は厳禁だった試合前のマイクアピールで。

試合はいきり立つ俊二が次々と得意技を繰り出し、原もきっちり受けるのですが、俊二の技の出し方が雑でありなかなか見栄え良く決まりません。普段の練習不足が露わになってしまいます。対する原の攻撃はラリアットやボディスラム等単調ではあるのですが、一発一発が実に迫力満点で決まり、これだけでも両者の実力差がうかがい知れてしまいます。

それでも4選手はしっかりプロレスの攻防をこなしていたのですが、乱戦の中俊二が後ろから原の後頭部を突き飛ばすと、原は振り返りざま俊二をフロントヘッドロックで強烈に締め上げます。和田京平レフリーが血相を変えて静止するのですが、俊二は程なくして力なく膝から崩れ落ちてしまい、30秒ほど失神してしまうのです。

幸い?天龍とタイガーの場外乱闘も同時に行われていたのでレフリーから即座にカウントを取られるには至りませんでしたが、俊二は完全にノックアウト状態であり、和田レフリーの平手打ちでようやく目を覚まし、すぐにタイガーにタッチしてことなきを得ました。フロントヘッドロックという実践的な技であっという間に俊二を失神させたのは原の腕っ節の強さがよく表されたシーンですね!

1988年10月15日 平戸市文化センター (観衆・2050人)

セミ 天龍・○原・冬木(24分25秒 体固め)輪島・カブキ・●渕

そんな原ですが、急に悲劇の時が訪れます。まず翌ジャイアントシリーズの開幕戦でいきなり原が欠場します。腰痛の為ということで、2週間後には戦列に戻るのですが、どうもそれに対する天龍の対応が冷たいというかそっけない。何だか投げやりなコメントをしていたのを記憶しています。おぼろげな記憶ではあるのですが、、、、プロレスも怪我の症状には微妙な伝え方をしており、「欠場の原因は怪我だけではない」という表現をしていたと記憶しています。

すでにこの時、単発的な失踪をしていたのか。。。。上記の平戸大会の前に原は復帰するのですが、聞きなれないこの会場は佐世保市の隣にある平戸市の興行、自身がプロモートしていたので流石にこれは戻ってきたのでしょうか?しかしこのシリーズの天龍同盟は何かこうギスギスした雰囲気だった記憶があります。

シリーズ後半では天龍は鶴田との一騎打ちを行いますが、ハイレベルな攻防の上、天龍が鶴田の急所を蹴って反則前け。えらく殺伐とした試合でした。今後の事をある程度想定してしまった天龍のメンタルが不安定な故あんな結末になってしまったのでしょうか。。。

そして翌世界最強タッグ決定リーグ戦。プロレスファンならご存知のように原は会場に現れず、馬場は悲しそうな表情を見せながらも「原を解雇いたしました。いい選手ではあったけれど、他の選手に迷惑をかけることをしでかしかねないんでね」と語りました。原の約7年の全日本プロレスの生活はトップに上り詰めたと思ったら急に幕を閉じたのです。

そしてここからが妄想ゾーンになります。

天龍は川田利明を原の代打に指名しリーグ戦に参加します。先輩に冬木を差し置いての指名です。これには当時私も驚いたものです。川田は見事な頑張りで原の代役を務め、最終戦の武道館大会でも素晴らしいファイトを展開しました。

そして邪推ではありますが、このシリーズ当初は龍原砲の優勝だったと私は睨んでいます。彼らは前年優勝を逃しているし、スーパーパワーシリーズの札幌でのタッグ統一選で五輪コンビに敗退。ブロディメモリアルでのこの対戦で1勝1敗でしたので、ここまで全日本を引っ張ってきた箔付けをするのにはここしかなかったと思うのです。

ハンセン・ゴディ組の優勝はタナボタ。本来の星取りは以下のようなものだったと思っています。

開幕戦 天龍・●川田ー○ブッチャー・シン → ○天龍・原(反則)●ブッチャー・シン

札幌  ●鶴田・谷津(リングアウト)○天龍・川田 → ○鶴田・谷津(ピンフォール)天龍・●原

武道館 ●天龍・川田(ピンフォール)○ハンセン・ゴデイ  → ○天龍・原(ピンフォール)ハンセン・●ゴデイ

これで辻褄があうのですよ!(笑) 

しかしですね、ここからが本題なのですが、翌新春ジャイアントシリーズではまたもや長崎国際体育館での興行が予定されておりました。そして全日本ファンならご承知の通りこの新春シリーズは小規模に行われることが多い(最強タッグで金を使いすぎるため?)のですが、福岡国際センターと大阪府立体育館という2大会場が押さえられていたのです。参加メンバーも大したことないのに。。。。何が行われる予定だったのか?非常に気になるところなのです。

私はこの福岡国際センターの興行を見に行ったのですが、入場した瞬間ちょっとしたショックを受けました。国際センターは広く、2階3階席まであるのですが、販売されていたのはアリーナ席だけで2階以上は席の設定がなかったのです。私自身は元からリングサイドに近い席を買っていました。と行っても閉鎖されている訳ではなく入って行く事は出来たので、私は途中まで誰もいない2階席で観戦していました。

しかしなんだかホントに情けなかったですね。もともと全日本は当時は福岡での集客力は弱く国際センターでの観客動員は回を追うごとに減少していたのですが、アリーナしか使用しないのだったらまだ健在だった九電記念体育館を使用すればよかったのでは?と、当時憤ったものです。

後年超世代軍が結成され、博多スターレーンを使用するようになってから(実は全日本は1978年頃、1回だけスターレーンを使用経験あり)会場の熱狂は後楽園並みになるのですが、当時は非常にリアクションが薄かったのです。当時福岡の会場では異様なテンションで声を枯らしながら声援?を送る20代前半と思われる男性客が常にリングサイドで観戦していたのですが、この興行でも閑散とした館内に彼の声が響き渡っていました。

福岡・大阪での試合結果は以下の通りです。カードが弱すぎますよね?福岡の前日に開催される予定だった長崎での大会はテレビ収録会場でもあったので、福岡の試合を2週に分けて放送する苦し紛れの処置が取られました。

1989年1月19日新春ジャイアントシリーズ 長崎国際体育館 →諸事情により大会中止

1989年1月20日 福岡国際センター(観衆 3200人)

メイン ○鶴田・谷津(34分48秒 体固め)天龍・●川田

セミ タイガー・●高野(9分36秒 体固め)○キッド・スミス

第8試合 世界ジュニア・ヘビー級選手権 ●渕(15分22秒 北斗原爆固め)○ジョーマレンコ ※ジョーが王座獲得

第7試合 ○テンタ・高木(8分41秒 片エビ固め)スパイビー・●アダムス

第6試合 ○ 馬場・木村 (8分41秒 片エビ固め)●バーク・ミラー  ※上記5試合すべてテレビ放映

1989年1月25日 大阪府立体育館 (観衆 4600人)

メイン ○天龍・冬木(17分57秒 片エビ固め)●キッド・スミス

セミ ○鶴田(9分44秒 首固め)●スパイビー

では一体この新春ジャイアントシリーズは本来どう展開するはずだったのか?ズバリ、原の”最後の花道”のシリーズではなかったか?と思うのです。というのは原の退団後複数の関係者から88年夏頃インタビューした際、「身体がもう限界であり持って翌年春くらい」と語っていた、という話をしていたからです。

確かに原はウエイトが増加し、瞬発力が衰え、ロープワークのスピードが以前より格段に遅くなっていました。腰痛が大きな原因でしょう。前述の高野とのイザコザでも原自身はあまり動かず、技を正面から受け、自身の懐に引き摺り込んで動きを止める事で優位さを保っている感があります。SWS時代は「ラリアットとヘッドバットだけで試合を組み立てている」と言われていたようですが、すでにこの頃からその兆候は見受けられました。

だからと言って完全引退するという訳ではなく、長州のパートナーが浜口から谷津に徐々に移行したように、天龍の正式パートナーから降りるという事が考えられていたのではないでしょうか?この次のシリーズではウォリアーズと合体、その次のシリーズでは結構唐突にハンセンとのタッグを発進させるのですが、そのスムーズな流れは早い段階から想定されていたのではないかと思うのです。

原は1988年のジャイアントシリーズの前半戦欠場時に馬場にその事を申し入れ、受理。最後の花道として最強タッグで優勝後、翌新春ジャイアントシリーズで「もう原は限界」と思わせるようなシーンが発生し新パートナーへの交代となる。。。。という流れです。

しかし、、、、原には大変失礼な妄想になるのですが、原の債権者は彼が高額なファイトマネーをキープしていたため、あまり強烈な追い込みをかける事はなかったが、第一線を引退、というニュースを聞きつけ、収入ダウンによる取りっぱぐれを恐れて追い込みが激化!耐えかねた原はこんな状況で最強タッグの花道を飾ることの罪悪感も合間って開幕戦で姿を消した。。。。あくまで妄想ですよ!

でも原は飲み事の大半は自分の金で飲んでいたんでしょうね。。。。天龍はマスコミ懐柔の必要経費として馬場から飲み代をもらっていた、という話はよく出てきますが。原はそんなことしなさそうなんですよね。。。性格的に。年収1000万強あったとしても毎日ウン十万の支払いがあればそれはもう。。。。

では最後にその新春ジャイアントシリーズでどんなマッチメイクが予定されていたのか?全日本の直近10年の歴史を紐解くと、正月シリーズで複数の大会場を使用したのは81年のハンセン登場時、および85年のジャパン初登場、および86年、87年のインタータッグ2連戦が思い浮かびます。最後のタッグ王座2連戦の焼き直しを考えていたのではないでしょうか?”行ってこい”とはいえ完全決着がつくのであのパターンは好評だったからですね。

鶴田谷津対天龍原は前年散々やってはいるのですが、「最強タッグで鶴田組が天龍組に勝利」の借りを返していないとすれば再度の決着の理由づけになりますし、シリーズ開幕前あたりに「原の体調が悪く、引退の噂もある」みたいな情報をチラつかせてお区という手もあるのです。

具体的に予想してみると。。。

(長崎)天龍・○原ー●キッド・スミス  故郷で久しぶり登場のブルドッグスの挑戦を受けて見事完全防衛!

(福岡)天龍・○原ー鶴田・●谷津  原自ら谷津をフォールし、王座防衛

(大阪)天龍・●原ー○鶴田・谷津  鶴田の猛攻に原は腰の負傷が悪化、試合途中から完全にグロッキーとなり完敗。責任を取るため、試合後天龍の正パートナー返上を申し入れる。。。

どうでしょうか?新鮮味は薄いのですが、「最後の龍原砲」という”ウリ”で新春ジャイアントシリーズを乗り切ろうとしたのではないかと思うのです。

 

以上でございます。いかがでしたか?

証拠に乏しい大いなる妄想ではあるのですが、あの閑散とした国際センターを見た私は「たとえ原が出場していたとしてもロクなカードは組めなかった筈、何かの企画が流れたに違いない」と長年思ってきました。この妄想で納得できましたよ(笑)

後半についてはすっかり阿修羅・原の話ばかりになってしまいましたが、彼は彼が全日本が一番苦しい時代に全力ファイトを続けファンに信用される礎を作ったからこそ後年のこの団体の隆盛があったのだと固く信じています。原が別冊宝島誌のインタビューで話したという

「人は誰かから認められることこそが生きがいになる」という言葉には心から共感します。私も自己愛人間ですから。。。

自己愛タイプの人間は「褒めてもらう」「認めてもらう」事こそが生きる原動力になるのです!

コロナ禍が収まれば、長崎での原さんの調査も再開したいと思います。やりだしてすぐ最初の緊急事態宣言だったよなあ。。。それでは、また。

#阿修羅・原

#天龍源一郎

#天龍同盟

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