おはようございます、CMBOです。
昨晩、3泊4日の鹿児島旅行から帰ってきました。
日差しがとても厳しく、確かに疲れましたが、妻側の身内への病状報告、
墓参り等計画通りに事が運び、満足すべき内容でした。
妻には免許がないので運転しっぱなしだったのですが、特に体調不良に
陥ることもなく、体力面でも自信になりました。
やはりずっと家にいると「気分が悪くなったらいつでもベッドに横に
なって休みを取る事ができる」と考えがちです。
私の場合、それが原因でホッとした時に頭痛が出てしまうのかも知れません。
さて今回は、途中まで書きました高齢者免許返上の話です。
急に話が飛びますが、1985〜1990年あたりの間、ちょうどバブル突入の
真っ最中だったと思いますが、生活の質が向上すると同時に、
「老後をどう楽しく生きるか?」という事が盛んに議論され出した事を
覚えています。議論というかオヤジ系週刊誌の記事によく載っていましたね。
それまでは自分の両親を看取るまでは同居し続ける、というのが
普通の在り方だったと思います。高齢者の扱いについては、
家の中の自分の部屋で静かに過ごすというのが一般的なイメージ。
当時は「認知症」という言葉は無かったので、「ボケ老人」だの「徘徊」
だの言われて、なにか厄介者されていたイメージがあるのです。
しかし、バブル時代の中で、「日本はこのまま右肩上がりの成長を続ける」
という錯覚を持ってしまい、「日本人はこれまで馬車馬のように滅私奉公
を尽くし無趣味で働くだけの人生だったが、老後は退職金と国家の福利厚生
を利用して自分の好きなように生きるべきだ」という考えがやたら推奨されて
きたように思うのです。
その時、必ず例に上がられるのがスェーデンをはじめとする、北欧諸国
の充実した福祉。「日本は北欧のような福祉国家を目指すべきだ」という
意見がよく叫ばれていました。ただ、知っている人は知っていると
思いますが、これらの北欧諸国の消費税は25%前後というかなりの国民負担率
です。この当時はその事はあまり報じる事なく「福祉国家の実現」ばかり
叫ばれていましたが。。。。。
当時バリバリ社会の中心となっていた30〜40代の方々は、今70〜80代
くらいでしょうか?私にはこの世代の方々は未だに「老後の面倒は周囲
もしくは国が見てくれる」という幻想を捨てきれていないように見えて
しょうがないのです。
今の若い人、さらには50代以下の人達の方が、半分あきらめつつも
「自分の最後は自分で準備しておかなければならない」とそれなりに
悟って生活設計を立てていると思います。
すべての高齢者がそうだと言っているわけではありませんが、「老後は楽園」
的な当時のイメージを払拭できず、今の自分を見つめて身の程にあった
生活を考え直す、コンパクト化するという概念に欠けています。
だから、免許を返上したくないという気持ちが続いてしまうのだと
思います。前章でも書きましたが、いずれ肉体的に完全に運転できない日が
確実に来るのです。もしかすると突然に。
突然そうなった場合、周囲にどれくらい迷惑がかかるかを想像できない
のでしょうか?
前章でも書きましたが、理由はそれぞれあるのでしょう。ただ、運転が
完全にできなくなった時の事前準備を行った上で運転に取り組んでいるのなら
まだしも、普段から家族に散々止められておいて、何の対策もなく
自分は運転を続けている人を見ると、正直「何でこの人達に対しての
税金を支払わなければならないのだ?」と思ってしまいます。
行動力アップのための働き方改革、大いに結構です。
やむを得ません。
ただし、高齢者をまだ現役として継続雇用するのであれば、意識改革も
行う必要があると考えます。
正直日本は政治家も(与野党問わず)、マスコミも、
企業も高齢者に甘い!
結局、人口比率が高い、選挙権を持っている比率が高い、資産は下の世代より
多く所持しており大きな購買層である、という理由で一番叩かれない
世代であると思います。
話が大きく逸れましたが、高齢者の免許については、持ち続けるなら
事前準備を怠り無くしておくべきだと思いますし、
それをやろうとしない無責任な人は必ず出てきますので、何か
事故を起こした場合は強制力のある免許証の回収、厳罰の法制化を
望むものであります。
この章はこれでおわりです。
それでは、また。