全日本プロレス シリーズの歴史 ~1983年 新春ジャイアントシリーズ~ 阿修羅・原 対 鶴見五郎 2年半前の国際第3試合が全日本後楽園のセミで激突! 

こんにちはみやけです。早速前回告知した全日本プロレスのシリーズの企画を書いてみたいと思います。

1983年 全日本プロレス新春ジャイアントシリーズ 1月2日後楽園ホール~1月22日後楽園ホール

参加外国人選手 ミル・マスカラス(前半1週間特別参加)、タイガー・ジェット・シン(後半2週間特別参加)、キラー・トーア・カマタヘラクレス・ヘルナンデスドリーム・マシーン(桜田一男)、ジプシー・ジョーロッキー・ジョンズウルトラセブンスティーブ・ボラス

フリー日本人 上田馬之助、鶴見五郎

タイトルマッチ 1月2日後楽園ホール インタージュニア選手権 〇 大仁田厚(9分51秒 体固め) ● ジョーンズ ※ブロックバスターから

1月20日 北茨城市体育館 アジアタッグ選手権 〇 石川敬士&佐藤昭雄(12分11秒 原爆固め)● マシーン&ジョー

1月22日 後楽園ホール インタータッグ選手権 △ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田(7分11秒 両者リングアウト)△ シン&上田

トピックス

最終戦の試合前、ウルトラセブンが日本マット定着日本陣営入りを発表しました。1月16日の豊明大会でタッグながらも天龍がカマタに初のフォール勝ち。初の大物食いでは?インタータッグには当初シン・カマタ組が挑戦予定でした上田にパートナー変更。そのインタータッグ戦では鶴田が自身でも最多?と思われるほどの大流血、荒れ狂って時期シリーズでの復讐を誓いました。 

感想

マスカラスは一切馬場・鶴田・天龍とは絡むことなく、全試合中堅どころと戦いました。バトルで優勝するために来日したようなのものですね。毎年恒例の夏休み中企画、マスカラス兄弟を招いての”ファン感謝デー”もこの年は開催されず(テリーメインで開催)、年末の最強タッグに兄弟で参加した後は2年間お呼びがかかりませんでした。馬場もそろそろ賞味期限切れと判断していたのかもしれません。しかし個人的にはこの年の新春バトルロイヤルは全日本のバトルロイヤルの歴史の中でも屈指の好試合だと思います。メイン級選手の脱落の状況が実に理にかなっている!

カマタは天龍にフォールを許した後は、北茨城でのノンタイトルのタッグでも鶴田のバックドロップに完敗。ここ数年来日する都度「今までになかった悪結果」を重ねてきたカマタですがいよいよ2番手選手からも転落しつつある兆候を見せました。

そして国際プロレスにゆかりがある選手が集結したシリーズでもあります。カマタ・ジョー・セブン・上田・鶴見はもちろん、マシーンも日本リーグ戦に参加経験がありますね。セブン・マシーンの中の人は日本人ですし、正月を挟むシリーズはどうしてもフリー系日本人選手の参加が増えるようです。帰省を兼ねて、、というところでしょうか?この兆候は翌年の新春ジャイアントシリーズも同じく続きます。

注目試合① 北茨城市体育館 アジアタッグ選手権 〇 石川敬士&佐藤昭雄(12分11秒 原爆固め)● マシーン&ジョー

この試合でまずマニアの話題となるのが石川のジャーマンですね。どんな技もある程度はこなしてしまう石川ですが、さすがにジャーマンに関しては「無理して出さなくても。。。」と声を掛けたくなるような腰砕けで見栄えの悪いものでした。しかしこの時期の石川自身は原や井上といった中堅選手の加入により危機感を覚え、何かしら自身に新しいイメージを取り入れようとしていたのは間違いないと思います。

改名は頻繁に行っていましたが、このシリーズ前に隆士から敬士に改名(結局最後の改名になる)。この次のシリーズにはパートナーの佐藤昭雄の負傷により泣く泣くアジアタッグ王座を返上。その後はシングルでマイク・デービスジェリー・モローに敗れる等かなり格が後退しつつある時期だったのではないかと思います。ですのでこの時期の石川は今まで使ったことのない技を頻繁に取り組んでいたイメージがあるのです。流石にジャーマンはこの試合限りだったようですが、夏にサソリ固めを会得!当時は相当野次られていましたが、なんだかんだで結局は自分の技にしてしまった感がありますよね。

しかし、問題はその石川にジャーマンで敗れてしまった(マシーン)桜田だと思うのです。桜田が素顔であったとしたら石川にジャーマンで投げられて完全ピンを取られるなんて当時の全日本ならありえないじゃないですか!なんでこんな無様な負け方をしてしまったのでしょうか?

ドリーム・マシーンこと桜田一男はこの前年のジャイアントシリーズに「ダラス地区で活躍していた正体不明の大型マスクマン」として、それなり前宣伝をされ登場。開幕戦ではやはりジプシー・ジョーとタッグを組み石川をベンヂュラム・バックブリーカーで葬りました。マシーンは動きは決して悪くなかったと思うのですが、下の動画でもわかるように、受けに回った時に弱弱しい感じで倒れることが多く、あまり「大型」と感じることはできなかったタイプの選手だと思います。

それ故か、シリーズ中盤からは馬場や鶴田相手にコロコロピンフォール負けを喰らうようになり、天龍にも負けてしまいます。このシリーズでの参加も注目度はさらに下がっており、シンとのコンビも特に注目されることはありませんでした。サクラダは2年前のジャイアントシーズに凱旋帰国し、「戸口より少しだけ下」程度のランクで扱われ、帰国第一戦では馬場と組んでメインでブッチャー・カマタ組と対戦するもインパクトは残せず、次の最強タッグではシリーズに参加するもチームにエントリーはされず。翌新春ジャイアントシリーズにも参加した後再びアメリカに戻り、その後マシーンとして戻るまで全日本への参加はありませんでした。

マシーンとしてカブキより前に逆上陸した桜田ですが、もとろん中身が彼だとは告知されることはありませんでした。もっとも彼には日プロ時代練習で左肩を骨折して治療を中途半端に終えてしまったため、尖がった骨の隆起が残っており、マニアには正体はばれていたようです。もた、この時期発売された「続・プロレスを10倍楽しく見る本」ではマシーンの正体は「肌の色から日本人だ!」と断定し、桜田、伊藤正男を候補とあげつつも最後に「薗田一治」の名を上げ「多分奴だろう」と締めくくっています。体形を考えれば薗田が一番当てはまらないと思うのですが。。。。

そして迎えた新春ジャイアントシリーズ、本来なら当時の石川と桜田なら桜田の方が確実に1枚格上であり、クイックならともかくあんな不細工なジャーマンで投げられて完敗する、なんてブックはあまり酷いと思います。「マシーンはこのシリーズで最後」というのはすごく感じられましたが、あそこまでやらなくても、、、、馬場かマッチメーカーの佐藤と何かひと悶着あったのかと思います。

その後桜田は全日本プロレスには一切登場していません。馬場亡き後の新体制の時代にもです。ケンドー・ナガサキに改名後1984年の世界最強タッグ決定リーグ戦にて、馬場のミステリアスパートナーとして名前が挙がってことはありましたが、結局それもガセネタでした。その頃には桜田の心は全日本から離れていたのでしょうね。その前にも移籍話はあったようですから。そのご存じのように桜田は新日本に転出。長州一派とは違い、彼の移籍には特に契約問題でのもめ事はなかったように記憶しています。

その後はFMW・SWSを経てNOWを立ち上げましたが軌道には乗らず、大日本プロレスに参加した後なんとなくリングから遠ざかる結果となりました。新体制からの全日本のお誘いはあったと思います。天龍・大仁田だけでなく、冬木・後藤・戸口あたりの一度は復帰しているわけですから。。。。やはりあのジャーマンでの負けはあまりに屈辱であり、どうしても馬場を許すことはできなかった、というのが長年全日本と関りを持つことを拒否してきた理由、そんな気もするのです。

後年、自身に厚生年金受給の権利があることを知り、馬場に感謝のコメントを述べていた桜田ですが、このマシーン時代の思い出を是非聞きたかった気もします。

注目試合② 1月22日 後楽園ホール 〇 阿修羅・原 (8分18秒 片エビ固め)● 鶴見五郎

この試合は当時も非常に熱のこもった面白い試合だなと思いましたが、後年改めて見返しても非常に趣のある試合だと感じました。鶴見は前年の世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦の蔵前大会の天龍・原対上田・Sデストロイヤー戦直後に竹刀をもって乱入、上田と共闘して全日本正規軍と敵対することをアピールし、このシリーズではシン軍団の切り込み隊長として連日メインに登場しました。国際時代は”独立愚連隊”という前例のないユニットを組んでも連日第3試合くらいでお茶を濁して鶴見からすればプルレス人生の中でも最高に充実したシリーズではなかったかと思います。

また、1984年に入ると石川や井上にもコロコロ負けだした鶴見ですが、意外にもこの全日本登場2回目のこの時点ではほとんどピンフォール負けを許していませんでした。鶴見はこの前年の1982年新春ジャイアントシリーズに登場したのですが、連日上田とタッグを組み中堅勢と対戦、ほぼすべてを反則負けで乗り切り、ピンフォール負けはタッグでドスカラスに1回のみでした。マスカラスブラザースや馬場天龍組との対戦も反則負けで乗り切り、格がなんとなくもやっとしたままシリーズを終えたのです。

そしてこのシリーズにおいても、流石に馬場と鶴田にはピンフォールを許すものの、天龍以下中堅には負けることはありませんでした。対する原は3強に続く第4の男の座を確固たるものにしており、それを考えると原と鶴見の関係というのはこの時点では中々読みにくく「反則を絡めば鶴見の勝利もあり得る」という状況ではなかったかと思います。

しかし国際プロレスで辛酸をなめてきた両者にとっては、シリーズ最終戦の後楽園ホールのセミで遺恨決着戦のシングルマッチを行うというのはなんとも感慨深いだったのではないでしょうか?鶴見は国際プロレスで大位山と”独立愚連隊”というヒールユニットを結成しましたが、メインどころかセミにも出場することはできず、たんなる外国人参加選手の穴埋めとした思えない扱いでテーマ無き戦いをこなしていましたからね。

そして連日その愚連隊の相手を務めていたのが原だったのです。原はデビュー以来順調にスター街道を突き進んでいましたが、1979年の3月31日後楽園ホールでの剛竜馬戦、そして新日本プロレスに乗り込んでの4月3日蔵前国技館での藤波辰巳戦でいずれもふがいない試合をしてしまい、スランプ状態となり、この試合以降は「修業しなおし」ということで、ヘビー級転向・海外遠征もお預けとなり、メインに登場する機会が極端に減り連日第2~3試合に登場するようになったのです。

原が渡米できたのは1980年の夏。なんと1年近く前座選手として修業のしなおしを強いられました。第2試合で米村天心や高杉正彦と普通に戦っていたのです。しかしいくらなんでもちょっとこれは不自然。個人的な推理としては原の借金問題が片付かず、債権者が海外に出るのを許さなかったのでは?と失礼なことを思っているのですが。。。。。

そんな中、原と鶴見はそこそこ手が合ったようで頻繁に対戦します。原が鶴見に負けてしまうこともありました。そしてシングルマッチも普通に第3試合で行われてしまうのです。

1980年 ビッグサマーシリーズ 千歳市体育館 第3試合 寺西&●原(16分34秒 エビ固め)〇鶴見&大位山

1980年 ビッグサマーシリーズ 北海道岩内町中央小学校体育館 第3試合 〇阿修羅・原(11分6秒 反則勝ち)●鶴見五郎

エリートと窓際族が崩壊を間近にした国際プロレスの前座で連日対戦していたわけですが、2年半後には馬場に認められ、次の職場で前の職場の因縁を持ち越した決着戦を行う、というのはなんともグッとくるシチュエーションです。そしてこの時はファンも普通に原を応援し、鶴見に野次を飛ばしていましたから、これが2人が誰からも受け入れられるレスラーとしての努力を積み重ねていた結果からではないでしょうか?

もちろん試合も白熱戦となりました。試合は一進一退の攻防ながらも手数の多い原がやや優勢に見えました。しかし鶴見は巧みな反則攻撃で試合の流れを引き戻します。それでも双方が繰り出す技はお互い正面でガッチリ受け、ヘビー級の凄みを見せつけます。いかにも馬場が好みそうな試合な訳です。そして試合は佳境に。鶴見は原を場外を向かせる形でコーナーポストの上に乗せ、自身もセカンドロープに駆け上がり、原のお株を奪う、いやそれ以上でもある”雪崩式バックドロップ”を繰り出します。これは過去誰も披露したことのない本邦初公開の技!原は完全にグロッキー!!

鶴見は即座にフォールに入ります。原のダメージ具合から見て3カウント入ってもおかしくない雰囲気でしたが、カウント2で原の髪の毛をつかみフォールを解除します。「まだまだ痛めつけ足りない。試合続行」という訳です。そして鶴見は原をブルドッキングヘッドロックにかけようとしますが、原の首をもって走っている最中に逆に突き飛ばされコーナーポストに激突!そのまま回転エビ固めに仕留められ無念の敗戦となりました。しかし後楽園最終戦セミにふさわしい名勝負だったと思います。

その後、鶴見は次のシリーズにも参戦し大活躍、しかし天龍対上田のランバージャックでマッチに乱入した罰として半年間の全日本出場禁止の処置を取られてしまいます。そしてその後月刊ゴング誌が鶴見にインタビューを行います。ジムでトレーニングにいそしむ鶴見のもとを訪ね、中々面白い質問を投げかけています。残念ながらそのゴング誌は手元にないながらもその内容は鮮明に覚えているので、再現してみたいと思います。

「上田さんからは遠慮せずにガンガンいけ、と言われている」「原戦は勝っていた?あそこで決着をつけることはやぶさかではなかった。俺は原に『今の待遇に甘んじてそれでいいのか?』と問いたいんだよ。井上よりも扱いがいいくせにのほんとしてるのに腹が立って。。。もっとも井上も似たようなもんだがな

そしてインタビュアーは唐突に猪木と3対1マッチを行ったばかりのかつての盟友ラッシャー木村についても感想を聞きます。「木村さんも新日本に踊らされているんじゃないの?アンドレとかならともかく、体格が変わらない猪木だよ。まだ国際のファンも見ているんだから。俺ならやらないね。」

ほぼこんな事を話していたと思います。いくらなんでもインタビュアーはこの1年半後には木村と鶴見が合体して馬場と戦うことになる、なんてことは流石に想像していなかったと思いますが、なんとも興味深いインタビューですね。しかしどこに行ってしまったのかな~あのゴング!手元にないのが残念でなりません。

そろそろまとめます。この試合が後楽園のセミと発表された際は、極道コンビ・羽田・井上・石川・桜田あたりのこの日前座を務めた古株は「なんでこの2人が?」とやっかんだ者は1人や2人ではなかったかもしれません。しかしそれを黙らせたといってもいい熱戦を見せてくれたのはこの2人のプロレスセンスと情熱ならではと思います。

「当時見たら凄いと思ったけど、後から見るとそうでもない名勝負」はプロレスにおいては結構あるものですが、この試合は今見ても本当に気迫が大変伝わってくる名勝負ですね。

今日はこんなところです。次はザ・グレート・カブキが凱旋し、馬場が上田馬之助の腕を折り制裁した!エキサイトシリーズ!こんな感じで2~3試合スポットを当てて語ってみたいと思います。それでは、また。

#石川敬士

#桜田一男

#阿修羅原

#鶴見五郎

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