1985年の全日本とジャパンプロレス ノーテレビのタイトルマッチの裏事情を考える  中編

こんにちは、みやけです。

今回もプロレスの話です。1980年代前半期のプロレス界においての「ノーテレビのタイトルマッチ」について書いたのですが、今回もその内容を引き継ぎつつ、1985年の全日本プロレスとジャパンプロレスの関係について書いてみたいと思います。その後、「ジャイアント馬場のトップ戦線撤退」について色々書きたいことが出来てきたので、3部作とし、今回はその2回目です。もう題名から変わってしまいムチャクチャかもしれませんがどうぞお楽しみ下さい(笑)

この回のポイントはですね、1985年の全日本プロレスです。前年の1984年はジャンボ鶴田がAWA世界王座奪取、天龍もUN王座に戴冠し、ハンセン&ブロディの超獣コンビと戦えるようにまで成長、肉体的ピークを迎える4人が真正面から力対力でぶつかり合う黄金時代を迎えようとしていたところに、長州率いるジャパンプロレスが翌年から参戦するとこになってさらに魅力的なマッチメークが広がり、新日本を上回る団体にのし上がる最大のチャンスだったはずですが、なぜ期待されたほど盛り上がらなかったのか?という点なのです。

10月からテレビはゴールデンタイムの生中継も始まりましたが、10%強をウロウロしており、「目標20%、悪くとも15%」としてた日本テレビからすれば完全に期待外れだったのではないかと思います。それはなぜか?シリーズごとの、そしてテレビ中継ごとのマッチメイクについて唐突な組み合わせが連発され、連続して視聴している側からすれば「このシリーズはどこに向かって進んでいるのだろう」と感じることの連発で「この回は見よう!」という気持ちにならなかった事が大きいのではないかと思います。

まず1985年の全日本&ジャパンのシリーズの概要をあげてみたいと思います。

 シリーズ名シリーズの天王山日程シリーズ天王山のメインセミ
(全)オールスターウォーズ東京体育館最終戦馬場xシン(PWF)鶴田・天龍x長州・斎藤
(J)3軍対抗戦大阪城ホール(ノーテレビ)単発興行長州x天龍馬場xカーン
(全)エキサイティングウォーズ両国国技館19戦中14戦目鶴田・天龍x鶴田・天龍xウォリアーズ(インタータッグ)長州・谷津xブロディ・ブルックス
(全)スーパーパワーウォーズ横浜文化体育館25戦中24戦目鶴田xフレアー(NWA)カーン・谷津xハンセン・デビアス
(J)Bラリアートフェスティバル大阪城ホール(ノーテレビ)6戦中3戦目長州xハンセン鶴田xカーン
(全)サンダーウォーズ愛知県立体育館26戦中18戦目長州xシン鶴田・天龍xウォリアーズ
(全)SウォーズIN武道館日本武道館単発興行(テレビ生)馬場x木村(PWF)長州x天龍
(全)サマーACTウォーズ福岡スポーツセンター30戦中29戦目馬場xハンセン(PWF)天龍・石川x長州・浜口
(J)サマードリームFST大阪城ホール(ノーテレビ)7戦中3戦目長州x谷津(長州x鶴田の代替)カーンxキマラ
(全)ダイナマイトウォーズ両国国技館23戦中8戦目ハンセン・デビアスx鶴田・天龍(PWFタッグ)長州・谷津xファンクス
(全)ワールドチャンピオンCN両国国技館23戦中14戦目フレアーxマーテル(世界統一)鶴田・天龍xウォリアーズ
(J)ニューウエーブINジャパン大阪城ホール6戦中3戦目長州x鶴田天龍xキマラ
(全)世界最強タッグ日本武道館最終戦長州・谷津xハンセン・デビアス鶴田・天龍x馬場・ドリー
(J)創立1周年記念興行後楽園ホール単発興行長州xマシン小林邦xヒロ斎藤

見れば一目瞭然なのですが、全日本の通常興行の大会場メインでは「全日本対ジャパン」の対戦はタッグでさえも1度も行われていません。せっかく長州を自分達の枠の中に迎え入れながら、最終戦(もしくは天王山)のメインは今までどおり外国人がらみなのです。しかもウォリアーズの初来日あったとはいえ来日外国人のレベルは下がる一方、、、メインのカードは新鮮味に大いに欠けます。しかしテレビ内の中継では全日本プロレス内の一番ホットな話題は「全日本対ジャパン」の抗争だとあおるのです。見ている側は何が何だか分かりません。

そしてその日本人抗争の集大成であるシングル対決はすべてジャパンプロレスの興行に持っていかれているのです!当時注目度が高かった長州対ハンセンの再対決も含めて。そしてそれは大半がノーテレビ!流石に年末の鶴田対長州はオンエアされましたが、鶴田の腕の負傷で流れた8月の大阪城ホールもノーテレビだったのですからねえ、、、むしろこの試合は行われなくて良かったです。私はリアルタイムでもこの時期になると「なんで変な試合ばかり流して面白そうな試合は流さないんだ!」と怒り心頭だったものです(笑)※長州x天龍の初対決はダイジェスト的には放送

本来、パワーバランス的には全日本のほうが上のはず、濡れ手に粟というか、ジャパン軍の参戦は馬場が手びいたものではなく向こうから来たはずなのにこの土下座外交。。。そしておそらく、それが理由ではないかと思うのですが、全日本プロレスが管理するタイトルにも歪な扱いが連発されるのです。これでようやく題名にある「ノーテレビのタイトルマッチ」に戻るわけです(笑) 

スーパーパワーウォーズ 4月17日 長浜市体育館(観衆3,200人)インターヘビー級選手権 〇鶴田(21分29秒 逆さ抑え込み)●ディック・スレーター

前年・一昨年と2年連続シングルで天龍にピンフォール負けを許したスレーター。もはやトップグループからも転落したイメージがあり、なぜ急にインター王座に挑戦できる資格があると判断されたのか謎です。このシリーズも特筆すべき動きが活躍があったわけではないのに。他にも長州・ハンセン・カーン・デビアス等挑戦するにふさわしい選手はいたはずです。

更にはインター王座の軽視。曲がりなりにもインターはPWFを差し置いての全日本の看板タイトルであり、この時点ではエースが巻いているベルト。それがなぜあまりなじみのない会場でノーテレビで開催されてしまうのか全く意味不明です。前年ロビンソンがインターに連続挑戦した際1戦目の成田がノーテレビだったことはありましたが。。。日本人エースのタイトルの防衛戦をなぜこんなに雑に扱ったのでしょうか?

サンダーウォーズ 6月8日 高松市民文化センター(観衆 4500人) インターJr戦 ●マイティ井上(11分47秒逆さ抑え込み)〇 D・キッド ※キッドが王座奪取

サンダーウォーズ 6月13日 古河市体育館(観衆 3400人) インターJr戦 ●D・キッド(9分56秒 反則勝ち)〇 小林邦明 ※小林が王座奪取

この経緯はなんとなく想像がつきます。①この後行われるタイガーマスク対小林邦戦にタイトルを掛けさせたかった。②井上から小林に直接移動させることはしたくない。(小林>井上のイメージがつく)緩衝材として間にキッドを挟んだ(キッドはいわばイワン・コロフ的役割?)であることは間違いないでしょう。でも両試合ともノーテレビというのはちょっとひどいですね。このシリーズ前半のテレビ中継ではいかにも「顔見世」的なジュニア中心のタッグマッチが連発されていたのに。。。

更に言えば、このシリーズのテレビ収録形態も歪です。テレビでは最終放送となった愛知県体育館は26戦中18戦目というまだ中盤、その後石川県産業会館での天龍対谷津のUN戦富山体育館・徳山市体育館・土浦スポーツセンターといったおなじみの会場で興行が行われています。その会場リストを見ればジャパンの営業力が強そうなところであり、彼らの主催興行だったのではないかと。。。。それにしてもシリーズ後半戦の1/3がテレビ放映されなかったというのは全日本プロレス中継初ではなかったのではないでしょうか?

サマーアクションウォーズ 7月28日 島原市体育館(観衆2800人) テレビ中継! ノンタイトル 〇鶴田・天龍(13分59秒 反則勝ち)●ハンセン・テキサスレッド

サマーアクションウォーズ 7月29日 鹿児島県立体育館(観衆3400人) ノーテレビ インタータッグ戦 鶴田・〇天龍(13分43秒 体固め)ハンセン・●テキサスレッド

この話は前にも書きましたが全く意味不明!同じ組み合わせでノンタイトルの前哨戦をテレビ中継して当然不完全決着!翌日ノーテレビでタイトルマッチを開催して完全決着がついているのです。しかも島原の放映は録画ですから翌日の鹿児島の宣伝にもなっていないのです。私の住む福岡は1週遅れの放送でしたから、既にタイトル防衛のニュースは知っていながらノンタイトルの不完全決着の試合を見る羽目になったのです(笑)

これも何が理由だったのか?思い当たる点があるとすれば、テレビ放映された島原市(長崎県)は阿修羅・原の地元であるということくらいですね。

ダイナマイトウォーズ 9月7日 流山市総合体育館 UNヘビー級戦 △ 天龍(9分53秒 両者リングアウト)△タイガー・ジェット・シン ※天龍が王座防衛

私はこの試合が発表された直後、結構内容に期待していました。天龍はUN戴冠後挑戦を受けるのは基本2,3番手の外国人ばかりで、エースクラスの選手の挑戦を受けるのは初めてだったからです。しかも以前のシンとのシングルではやりたい放題反則攻撃を受けて屈辱の反則勝ち、というイメージが強かったですから。。。でもなぜかノーテレビ。。。このシリーズの後半戦のテレビ中継もまた「長州力対ティム・ホーナー」とか「石川・大熊対カブキ・ブルックス」とかどうでもいいようなマッチメークのオンパレードだったのでいくらでもねじ込めたと思うのですが。。。

ちなみにこの試合後、シンは「足を負傷した」として緊急帰国してしまうのですが、実はインド人主催のスポーツイベントに急遽呼ばれ参加するためだったことが判明します。この年の世界最強タッグに不参加だったのはこの件が理由であったのかも?

その他、アジアタッグ戦は決定戦を含めば5試合開催されていますが、石川・佐藤対浜口・寺西戦を除いて4試合はすべてノーテレビ!更には

8月5日 大阪城ホール インタージュニア戦 〇小林邦明 (11分54秒 脳天砕き固め)●新倉文裕 ※小林が王座防衛

4月25日 長崎国際体育館 PWFヘビー級戦 〇 G・馬場(13分1秒 反則勝ち) スタン・ハンセン ※ 馬場が王座防衛

このあたりもノーテレビとなるのです。そしてこの「収録ナシ」は世界最強タッグにまで及び

12月2日 大阪城ホール △ 鶴田・天龍(13分10秒 両者リングアウト)△ハンセン・デビアス

12月3日 愛知県体育館  △ 馬場・ドリー(時間切れ引き分け)長州・谷津

このあたりも収録ナシとなってしまいます。この頃になるとこのパターンも慣れっこになってしまいました。最強タッグ最終戦の武道館は相当に空席があったようですが、それもやむなしですよ。内部的な「何か」を優先させた為、それなりに新鮮味もある豪華メンバーを揃えたにも拘らず、注目試合は放映されないわ、あると思ったらことごとく不透明決着だわではね。。。

その他にもコンビを結成したばかりのハンセン・デビアスが大宮スケートセンターで急に馬場・鶴田の指定コンビに完敗したり良く分からないマッチメイクが多々あるのですが、きりが無いので得意の?演繹的推理、妄想に参りましょう(笑)なぜこんな現象が発生したのか?

この「全日本がジャパンプロレスに屈した」といってもいい状況は翌1986年にはある程度収まります。ご記憶の方も多いかとは思いますが、新春ジャイアントシリーズはツアー帯同外国人はほぼ3人で回し、徹底的に日本人抗争が行われました。

今でも語り草となる鶴田・天龍x長州・谷津の東京・札幌2連戦、翌エキサイトシリーズは6対6の対抗戦!全日本の興行内で普通に日本人対決のビッグマッチが行われるようになったのです。そういえばシリーズ名が「~ウォーズ」に変更されたのも85年のみだったっけ。。。そしてジャパンの主催興行も大幅に縮小されるのです。

ここまで露骨だとですね、馬場会長はジャパンの大塚社長から「1985年はこちらのやりたいようにやらせてもらう」的な確約を飲む、、、というか飲まされていたようにしか思えないのですよ!ですので、元々温めていたタイトルマッチ開催や地方での興行をいびつな形でしか開催できなかった、そんな気がするのです。でもしかしビンス・マクマホンジュニアのお誘いでさえも自分を貫き通した馬場会長が大塚社長に助けを請うような状況ではなかったはずなのです。なぜ飲まなければいけなかったのか?

上でも書きましたが1984年の全日本は上昇傾向。1980年頃は税務署から怒られて、日テレから社員を送り込まれ会長職に棚上げされたのですが、ハンセン移籍以降は観客動員もジリジリ上昇。通常シリーズでも普通に蔵前国技館を使用できるようになっていました。それまではシリーズ最大の山場が後楽園ホールだったですからね。。。。

ただし、歴史をよく見ると「①馬場の会長棚上げ」→「②佐藤昭雄のマッチメイカー就任」→「③鶴龍路線確立」→「④ジャパン大塚会長接近」→「⑤2代目タイガーマスクデビュー」→「⑥佐藤マッチメイカーを降りる」→「⑦ジャパン軍参戦」という流れの中で③から④の間に何事かが起こったとしか思えないのです。

佐藤昭雄は若手のプッシュに大きく力を注いでいました。なもんで、2代目タイガーマスクもその一環と思われがちですが、あれは当時を思い返してみても馬場・大塚ラインから作られたものなんですね。佐藤はGスピリッツのインタビューは何度も受けていますが、三沢については色々語っても、タイガーデビューについてはあまり語らないんですよね。そしてジャンボ鶴田!1984年に東スポMVPを受賞したのですが、快進撃は4月ころまで、下期は結構辛らつに叩かれていたのです。

GCC2では格下のケリー・フォン・エリックとのNWA戦で引き分け、馬場が返上したインタータッグに天龍と組んで決定戦に挑むもシン・上田と連続引き分けで王座預かり。峠を越したビル・ロビンソンの来日第一戦でピンフォール負けし、インター初戦では引き分け防衛。翌GCC3では体格差が歴然のリック・マーテルからAWA王座を取り返せず。ジャイアントシリーズの再戦でも同様。イメージダウンになるような出来事の連発でした。

2代目タイガーマスクがデビューした8月の田園コロシアムではセミながらも天龍と組んでクラッシャー・ブラックウエル&ジム・ガービンとの試合でお茶を濁すというとてもエースとは思えない扱いを受けていました。ジャパン・大塚会長の馬場会長への接近と時を同じくしてジャンボへのプッシュに歯止めがかかったとしか思えないんですよね。上に書いたようにジャンボがAWA世界王座を手放したあたりから、どういう理由かは分かりませんが(日本テレビ&佐藤昭雄)と(ジャイアント馬場&大塚直樹)のパワーバランスが逆転したのではないかと思うのです。

そして熱戦譜を見ていくと、その時期は馬場会長が巻き返しを図り、一時的にエース格に返り咲いていたのではないか?というのが私の見立てです。1980年のテリーの引退発表から約3年、全日本はテリーの引退ビジネス?である程度の集客に成功しました。そして1984夏から約1年かけてジャイアント馬場もまた「馬場メインからさよならシリーズ」的な発想のマッチメイクで花を飾り、テレビ中継でのゴールデンタイム復活を前に静かに身を引いた、というのが次回の妄想です。

ひょっとして馬場会長は今後の全日本を鶴田・天龍ではなく長州一派に託そうとしていたのか??その検証も次回です(笑)

なんだか「ノーテレビのタイトルマッチ」の話からずいぶん脱線してしまいましたが(笑)馬場と大塚氏の接近により1985年の全日本プロレスはテレビの流れ・ファンの期待を無視して団体のメンツ・権力闘争を優先した!というのが私の見解です。

今回はこんなところです。それでは、また。

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。