50歳を越えて日本マットを襲った外国人レスラー達 〜昭和プロレス検証企画〜

こんにちは、みやけです。

今回は待望の?昭和プロレス検証企画です!題名にありますよう50歳を越えてまで日本のプロレス団体に来日した外国人レスラーの活躍の度合いを検証していこうというものです。括りは「昭和」の日本マット限定!

昭和の時代は流石に50過ぎのレスラーの来日はある程度限られていたように思うのですが、インディ団体の乱立により往年のレスラーの高齢でのカムバックが続出しました。特に引退後の生活を確立できなかった?日本人レスラーは引退↔︎現役復帰を繰り返すのがその人の芸みたいな感じなっており、近年では60歳どころか70超えレスラーも珍しく無くなってしまいました。

私自身も今年で54歳を迎えたのですが、数年前にはがんを経験しましたし、40代半ばからは肩は上がらないわ、夜眠れなくて夜中に何回も起きちゃうわ、本を読んでも手元の文字は見えにくいわ、、、と老いを感じない日は無いのですよ!最近はもう仕事で30分間以上人に監視されて動き回るなんてあり得ないですね。全体作業するときなんぞ、何とかしてうまいことショートエスケープの機会ばかり探ってますし。。。

それを考えると、特にジョバークラスの選手は、態々外国からやってきて20〜30代の屈強なレスラーの中に混じって、一人だけ”負け役”として高度になっていく一方の相手の得意技を連日食らう。。。相当にハードだったと思います。

今日ここであげる全てのレスラーが鬼籍に入ってしまいましたが、その葬いを込めて私の駄文で彼らを思い出していただけないか?という企画です。

現在50〜60代の昭和プロレスファンなら共感いただけるはず!と力んだこの企画ですが、地味すぎるだろうか。。。。まあ、細かいことは気にせず進めてまいりましょう!一応ランクづけみたいなことをしていますが、完全に私の独断ですので。

(1)最優秀選手  ニック・ボックウィンクル 

(1934年12月6日生まれ) 受賞シリーズ  全日本プロレス 1984年世界最強タッグ決定リーグ戦。当時50歳 パートナーはハーリー・レイス

個人的にはダントツの1位がニックです!蔵前で鶴田にAWA世界王座を明け渡したのは49歳ということになるのですが、その動きはとてもそう見えないですね。

これがニックの日本でのベストマッチだと思います。試合開始ゴング直後のフライングボディアタックの奇襲も見事でしたし、鶴田に試合の流れを引き戻されそうになると高度なテクニックから反則攻撃まであの手この手を使って自分のペースに流れを引き戻してしまうコントロール術は本当に見事でした。

これが鶴田対フレアーなら「普通に戦えばフレアーは鶴田の敵ではない」という印象があるのですが、ニックだと「何か奥の手がありそうで侮れない」という印象がありました。50前の高齢にも関わらず当時全盛時のジャンボに主導権を握らせなかったのですからニックは本当に大したレスラーだと思いました。

 

そしてこの年の年末レイスとの”ミスタープロレスコンビ”に最強タッグに参加する訳ですが超獣コンビに力負けする風でもなく互角に渡り合いました。翌年の最強タッグでも全盛時の長州力と夢の対決でシングルマッチを行いましたが一進一退の攻防となりペースは握らせませんでした。

高齢者レスラーになると顕著に目立つのが「ふくらはぎの細さ」ですが、ニックはこれは回避できていました。更に体全体の厚さも程よい体型をキープしており、これも日々ストイックな生活を送っていたであろう事が察せられます。

選手生活の大半をチャンピオンとして過ごしたはずですが、引退までいいコンデションをキープし続けたのは本当に立派です。最優秀選手はニックで意義ないかと思います。

(2)優秀選手  バーン・ガニア 

(1926年2月26日生まれ)受賞シリーズ 全日本プロレス 1981年新春ジャイアントシリーズ 当時54歳 ジャイアント馬場とAWA&PWFのダブルタイトル戦にチャレンジ

馬場の3000試合連続出場突破記念試合に参戦するため来日した”AWAの帝王”ガニアはこの時私と同じ54歳だったとは!毛髪がすっかり無くなってしまった頭頂部や細くなったふくらはぎを見ると確かに54歳のおじいちゃんなのです。

しかし動きに関しては馬場の隙を見てその場跳びのドロップキックを繰り出したり、動くべきポイントでは俊敏な動きを見せており、技を食らってからの立ち上がり方もシャキッとした感じでとても54歳には見えません。さすが帝王です。ガニアの場合、業務上の優位性もあるので選手生命を脅かすような無茶な投げ技・落下技を仕掛けてくる選手はあまりいなかったのではないかと思います。

そしてガニア自身も受け身を取る際はドリーのように打撃技を食らっても滑りこけるような感じで受け身をとっていました。なるだけ自分の身体への負担を減らしていたと思います。そのため見る側の技のインパクトは薄れるのですが、でもそれが長い間トップで現役を続けられた大きな原因だったのではないかと思います。

いくら忖度があったとしてもこれからまた3年近く現役は続けたようですので大したもんです。54歳と言えば私が今同い歳なのですが、とてもこんな動きは出来ない。。優秀選手はガニアでいいかと思います。

(3)敢闘賞  ザ・シーク 

(1926年6月9日生まれ)受賞シリーズ 全日本プロレス1977年オープンタッグ選手権 当時51歳(特別表彰 FMW 1992年5月 ファイアーデスマッチ 当時65歳

シークの場合、初来日が1972年ですから当時46歳。当時から既にかなりのジーさんだった訳ですね?

オープンタッグにてテリーをフォークで切り刻んだ時はもう51歳だったわけで、その遅咲きぶりには敬服します。
馬場が著書やインタビュー等でいつも嘆いていましたが、シークがマットの上にいるのは極めて短時間であり、大抵は単身で場外を彷徨い不可解なパフォーマンスを繰り返します。

相手の技を受ける展開もほとんど作りませんから、あのそれほど大きくない体で長年戦えたのだと思います。ただし彼が額をセルフカットする際はあまり隠そうともせず、露骨にゴリゴリやるのでこちらの方が目のやり場に困るのですが。。。

1982年、スタン・ハンセンが全日本マットに再登場すると、入れわかるように来日が途絶えてしまった
シークですが、1991年大仁田厚がインディ団体FMWを旗揚げすると、しばらくしてシークの参戦が決定しました。私は正直いまも昔も大仁田にはいい感情を持っていないのですが、この時は流石に「さすが大仁田!素晴らしいセンス!」と思いました。

この時点で60歳をとうに越えていたシークがまともな試合ができるはずはないのですが、知名度に関してはマードックを遥かに上回る訳ですから彼は若手の軍団を率いて試合には参加せず、悪の総帥として存在すれば事足りる訳ですからね。いい活用法を考えたものだと思ったものです。

しかし、シークは私の予想を裏切り、試合にもフル参戦。大仁田の持つシングルタイトルにも挑戦するかと思えば、1992年には甥っ子のサブーと組んでファイヤーデスマッチにて大仁田・後藤組と対戦するというところまで行き着くのでした。

そしてご記憶の方も多いと思いますが、この試合で使用する火力の勢いを設営スタッフが見誤り試合開始と共にリング外は大きの炎で囲まれ、リング上は水分が蒸発して酸欠状態。危険を感じた大仁田・後藤そしてサブーは早々に脱出しましたが、シークは立ち往生状態となりかなりギリギリの場面で救出されるという体を張りすぎた大仕事を行いました。

なお、FMWでのファイトは平成に入ってからですので、この賞の括りで言えば対象外となってしまうのですが、50どころか60越えでここまでのファイトを演じたシークには敢闘賞を授与させていただく次第です。凄い!

その他、ブッチャーテーズ等表彰に値すべき50越レスラーは数々いるのですが、あまり褒めてばかりでは面白くないので(←出た!)思わずもらい泣きしそうな姿を見せてしまった50過ぎレスラーをあげて見たいと思います。

(4)スウェード・ハンセン 

(1933年3月27日生まれ)受賞シリーズ 新日本プロレス1983年第4回MSGタッグリーグ戦 当時50歳

この大会、アンドレ・ザ・ジャイアントは優勝経験もあるレネ・グレイとのコンビを解消してのハンセンとのタッグ結成だったのですが、テレビのラテ欄等には「アンドレ・ハンセン組と表記される事が定番ネタとしてちっちゃな笑いをとっていました。

ハンセンは元来職人タイプのレスラーであり、長年リップ・ホークとのコンビで全米を股にかけて活躍しました。レネ・グレイと比較すると僅差でハンセンの方が格上なのではないでしょうか?なぜアンドレがハンセンをチョイスしたかというと、アンドレと懇意であり意思の疎通がよりスムーズにいく事で戦力UPを図る、というような説明がされていたと思います。

確かにアンドレとハンセンは仲が良かったようです。ただしかしアンドレとグレイの仲も別に悪かったわけではなくコミュニケーションは取れていたように思えました。グレイはハンセンより1歳年上、彼には限界が見えていたかもしれませんが、年齢・力量・相性ともグレイと同等のハンセンがチョイスされたのは未だよくわかりません。

アンドレが恩義があったハンセンに対し「思い出作り」という訳でしょうか。。。 

ハンセンのファイト内容はあまり語られることはなかったのですが、成績的にはアンドレとのコンビという事もありリーグトップで決勝戦進出を決めていました。しかし、終盤の大阪大会でマードック・アドニス組と対戦の際、場外で合体パイルドライバーを食らって首を負傷、そのまま戦線離脱し決勝戦を辞退するという悲しい結果に終わりました。

リーグ戦に参加したものの、終盤怪我をして欠場のまま帰国」というのは新日本ではよくあるパターンでしたが、その怪我の直後の写真では死刑を宣告されたような強張った顔で場外マットに横たわるハンセンの姿が印象的でした。

鉄壁の連携を誇っていたスーパーバイオレンスコンビですが、流石に場外合体パイルドライバーというような荒っぽい攻撃まではそれまでやったことはなかったので、結構ガチの怪我ではなかったのか?と思ったりもしています。

でもきつかったと思いますよ。最後はアンドレがどうにかしてくれるとは言え、働き盛りの新日本日本人外国人両サイドから連日標的ににされるのですから。。。50過ぎで良く頑張ったと思います!この時のハンセンの外観は完全に老人そのものでしたから。。。

(5)マリオ・ミラノ 

(1935年5月15日生まれ)
受賞シリーズ 全日本プロレス1985年サンダーウォーズ 当時50歳(シリーズ中に誕生日を迎える!)

ジャイアント馬場の著書「16文が行く」では”ドン・デヌーチ&バロン・シクルナと合わせたイタリー系木偶の坊御三家の中では一番マシ”などとひどい言われ方をしていたマリオですが、それでも温厚な性格により全日本の常連外人として長年活躍してきました。

1975年には「ザ・バラクーダ」というマスクマンに変身し、チャンカンリーグ戦最終日まで優勝争いをするという活躍もありましたが、以降は徐々に扱いが悪くなり、85年は4年ぶりの来日でした。

このシリーズの他の参加外国人はシン・ゴディ・キッド・スミス・に初来日のカナディアン・ルイスにR・ウォリアーズという面子。本来ならやられ役はどん尻のルイスが担うところでしょうけど、彼はスキンヘッドに水色のロングタイツというキッドのフォロワー。

手グセも悪かったという噂もあるのですが、キャラ的にシンやゴディとは組ませにくかったのかもしれません。結局ミラノがその役を担う羽目となり、連日メインやセミで全日本正規軍本体やジャパン軍のトップどころからフォールを喰らいまくりました。記録を調べてみるとこのシリーズのミラノは12回もピンフォールを取られています。身体や動き自体はそれほど衰えを感じさせなかったと思うのですが、外国人削減のあおりをもろに食らったというか。。。。


50歳で1シリーズの負け役をほぼ一人で担うというのは相当しんどかったのではないかと思います。疲れも溜まっていたでしょう。

そんな中、中終盤の後楽園ホール大会でシンと組み馬場・石川組と対戦したミラノは石川のトップロープからのダイビングギロチンドロップをもろに喰らい大の字で失神しばらくリング上でピクリとも動かなくなる悲しいシーンが全国放送されてしまったのです。

そしてこの時、一部の悪質ファンから「死んじゃった」コールが起こったのですね。これは日本プロレス史に残るファンの暴走の最大の黒歴史と言ってもいいのでは?と個人的に思っています。


新日本では何度も暴動騒ぎがおきましたが、あれはまあ新日サイドの仕掛けにも問題がある部分があります。しかしこれはマリオがどんな状態であるのかハッキリわからない状態なのにあのコールですからね。。。しかも結構な大コールでした。

そしてミラノはこの事を後日耳にし激怒し「もう日本には行かない!」と断言したそうです。

私はこのインタビューはハッキリ覚えていて、確か別冊ゴングの外国人インタビュー企画だったはずです。ミラノは「日本人は誠実な人種だと思っていたが、そんな野次を大勢のファンが飛ばしたのは許せない!」と。。。。正直、どちらにしたってマリオはこれが最後の来日だったと思うのです。馬場にしてみれば永年全日に尽くしてくれた功労賞的な来日だったのではないでしょうか?

彼にしてみればいい思い出が詰まった日本で最後の最後で嫌な思いをさせてしまったのは本当に腹が立ちます。ナイスガイらしいですからね、ミラノは。だから一層増長したこの時の後楽園ホールのファンには今でも説教したい気分です。

話が大きく逸れてしまいましたが、マリオは1986年に引退。事実上これが最後の現役の姿だったのではないかと思います。それがこんな思い出を作ってしまったのは本当にに申し訳なく思います。

(6)キラー・トーア・カマタ 

(1937年3月9日生まれ 受賞シリーズ 全日本プロレス 1987年スーパーパワーシリーズ 当時50歳

1981年にグレート・マーシャルボーグという迷パートナーを帯同して来日以降、なぜかカマタ自身も
その後来日する度に何がしかの凋落傾向をイメージする出来事が発生していたカマタ。それでも1985年の2年ぶりの来日時はギリギリメインイベンターの扱いを受けていました。しかし1987年にまたも2年空いて来日したカマタの顔を見て私はちょっと驚いてしまいました。

よくあるパターンの激ヤセではありません。体重は若干スリムになった、程度でした。ただし顔の表情が悪党レスラーのそれでは全くなくなり、縁日の屋台かなんかで金魚すくいか何かを開いている人の良さそうなおっさん、、、、顔の筋肉が緩み切っていたのです。

   今回残念ながらその画像は調達できなかったのですが、カマタと言えばこの表情ですよ!

カマタは顔を捻じ曲げて得体の知れない表情が一つのウリだったのに。。。。おそらくもうセミリタイヤ状態であり試合自体もこの年はこれが初めてだったのかも知れません。動きも緩慢でしたがこの試合はなんとか両リンに持ち込みました。 


しかし以降はボロボロ。天龍や谷津に負けるのならともかく、石川や仲野信市にまで黒星をつけられます。50歳越えとは言え、かつてPWFヘビー級王座を奪取したレスラーに対してあまりにひどい扱いでした。

私はこのシリーズの終盤戦、福岡国際センターの大会に観戦に行きました。ここでは永源遙対カマタのシングルマッチが組まれていました。既にカマタが連戦連敗している、という情報を得ていた私は「ひょっとして永源にも負けるのか?」と思ってしまいました。

そして試合開始。この試合の内容はハッキリ覚えています!

先に永源が入場。後から登場したカマタがロープを潜ってリングインしようとした瞬間、永源が急襲!ストンピングの連打でカマタをダウンさせます。カマタは隙を見て急所打で窮地を逃れますが、永源はすぐに復活!まだ中腰で勢藤体制に入れないカマタにチョップを叩き込み、またも優勢に立ちます。

そして例によって「行くぞー!」と観客席にアピールするのですが、カマタから背中にパンチを入れられ永源はダウン。すかさずカマタはロープに飛びジャンプしてのフライングソーセージであっけなく3カウントをもぎ取りました。。。。。。。。ってこれ、完全にベビーフェイスの勝ち方じゃないですか!ポッチャリ系の。。。

後年は本人のいないところでとんねるずの番組に取り上げられたりしたようですが、実績のある50代レスラーの扱いとしては一番酷かったのでは無いかと思います。  

本文としてはこんなところですが、50代に限らず、高齢レスラーの印象的な出来事をいくつかあげてみますね。

   ● チコ・ガルシア

日本プロレスの1970年第二次ゴールデンシリーズに初来日。その時はなんと53歳!現役はとうの昔に退き、10年近くバイオリンを引いて暮らすような生活だったらしい。左ひざがガタガタであったが、相手に悟られないよう右ひざにサポーターを巻いていたが、優しい某荒鷲こと柔道王が気を遣って左ひざを捻ったところ一瞬で膝が抜けたらしい(門 茂男著 場外乱闘だ!プロレス  より)

 ● ジン・キニスキー

ガルシアのような紛い物の後に荒法師大先生を紹介するのは気が引けるのですが、紹介せざるを得ません。馬場の最大のライバルとして日本プロレス史に残る名勝負を何度も繰り広げたキニスキーですが、1979年全日本プロレスのNWAチャンピオンシリーズに来日した際は、胸板や太ももの筋肉がゲッソリ無くなってしまったガリガリのコンディションで来日しました。

当時はすでに51歳、元々筋骨隆々のタイプの選手では無いのでやむを得ないのかも知れませんが、当時でも味方であるプロレスマスコミからでさえも「こんな姿は見たく無かった!」と指摘されるというなんとも衝撃的な姿でした。

昭和プロレスの話題が出る際も、このキニスキーの激ヤセはよく取り上げられる話題で、本来なら本文に組み入れるべき話ですが、肝心の画像が手に入らなかったので、欄外の掲載となりました。

 ● グレート・アントニオ

そんな事を言いつつもふたたび超紛い物を紹介してしまうのですが、力道山と戦った男が1977年闘魂シリーズ第二弾に日本マット再上陸!この時既に52歳だったようで、猪木もよくこの男を蔵前のメインで使おうと思ったものです。

どうもこの年カナダに遠征した国際プロレスのマイティ井上がたまたまアントニオと遭遇。その事を紹介した記事を見て新日本が起用を考えたようですが、まさか国際プロレスもアントニオを横取り?されるとは思っていなかったかも知れません。

でも猪木も大した度胸です。ミスターXのような全く正体が割れていないというならともかく、「俎上が分かっていて」「負けて価値が落ちていて」「50歳を超える高齢」というマイナス条件が重なりながらも、その男と蔵前のメインで戦ってしまうのですから。。。。逆に言えばそれだけ自分に自信があったのかも知れません。

今回はこんなところです。いかがでしたか?もちろんまだまだ該当するレスラーはいるのですが、興味深いエピソードがあるレスラーを中心に選んでみました。

現在の日本マットでは60代、更には70代のレスラーまでリングに上がってしまっていますが、そうなってくると、あまりに馴れ合い的要素が強すぎ、複雑な気分になりますね。やはり50前後のレスラーが働く盛りの30代半ばのレスラーの中には放り込まれ奮闘する、というのがなんとも哀愁がありますし、きょうかんがもてますね。

またこういう試みはやってみたいと思います。

それでは、また。

#昭和プロレス

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#ニック・ボックウインクル

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