⑨ 父の絵 ~築35年の実家と母の引っ越し~

こんにちは、みやけです。

今年に入ってからこのブログではずっと母の引っ越しと思わぬ死去について書いてきました。私自身の心を整理するためにもほぼリアルタイムで書き続けてきました。前回でそれは終了したのですが、今回は番外編として8年前に亡くなった父が描いていた水彩画を紹介させていただき本当の結びとしたいと思います。

父はどこにでも良くいる極めて普通のサラリーマンでした。いや、どちらかと言えば人づきあいが下手でストレスをため込んでしまうタイプの人だったので営業とかその方面はまったくできず、専門知識もないのにずっとシステム系の部署で勤め人生活を過ごしました。

60歳でずっと勤めていた会社を定年で退職。その後再就職の意思はあったのですが、直後に大病を患い、激しい運動や肉体に負荷がかかる仕事は出来なくなったので、特にどこかに所属する事もなく静かに余生を過ごすことになりました。そんな中、父は学生時代に興味を持っていた「絵」に没頭するようになっていきました。

人生の後半戦に大きな重荷を背負ってしまった父は、それを振り払うように絵に没頭していきました。日中、ご飯を食べる時以外は自室にこもりっきりで筆を握っている事も珍しくはなかったのです。ただし父は誰かに教えを乞う訳でもなく、ひたすら自己流で絵を描き続けました。

父は人物画はほとんど書きませんでした。元来の恥ずかしがりやでしたので、モデルを見据えて自分を描くなんてことは到底できる人ではなく、写真でさえも無理だったようです。一度孫の顔を書いた事があったようなのですが、父的には満足の行く出来ではなく、それ以来人物を描いたとう話は聞いたことがありません。

私は絵については全く知識がなく、父の絵について「良い」とか「悪い」とかいう見解は全く述べることが出来ないのですが、残した作品たちを見るにつけ「性格が本当によく表れた絵を描くよな」といつも思っていました。植物や食べ物、そして冬の光景を描くのが好きで、それも何か一点にピンポイントを絞ったものではなく、全体像を描くのを好んでいたような気がします。

父の絵はなんだか寂しさを感じる反面、心の安定をもたらしてくれるような気がします。

父は頻繁に自身が住む市や区の展示会に自分が描いた絵を出品していました。なんどか賞を頂いたこともあります。長年本格的に絵を描き続けてきた人からしたら稚拙な部分が多いのは間違いないでしょうけど、何人かに一人の心を捉える力がある絵、そんな気もします。

おかげさまで父の絵は生前絵色々な知人にプレゼントしていました。死後も母を通じて「譲ってくれないか?」という申し出は多々あり、父も母も喜んで「作品」をプレゼントしていました。ですので、私自身「良い絵だな」と思っていた作品はほとんど残っていないのです。

そして迎えた実家の取り壊し。まだまだ父の絵が多く残したままの実家は3月には業者による解体作業が始まります。父の絵は非常に大きな額の中に飾られており、「処分」するのは非常に難しい状況です。

結局は「廃棄」することには変わりはない父の絵ですが、私は後を継ぐ者の責任として、まだ残っていた絵はすべて自分の手でハサミで裁断して「成仏」してもらおう、と考えていました。しかし電撃的に訪れた母の死。色々な対処に追われ、引き渡しの日程が迫り、そのような「弔い」は断念せざるを得ませんでした。今現在、そんあ気力は微塵も残っていないのです。

という事で、残った絵で完成しているものは、撮影してこのブログで紹介しようと思った訳です。もう実家のカギは業者に渡してしまい、基本的に家の入出は出来ません。でもよくよく見ると画像に結構影が映ってしまっており「もうちょっとちゃんと撮影すればよかった」と悔いています。

間もなく父の絵は自身が愛用したソファ・テレビ・椅子と一緒に取り壊し業者にとって処分されることになります。でも私はこの半年精いっぱい実家を畳むことに力を尽くしました。父も許してくれるでしょう。

父は人生の大半を福岡で過ごしました。東日本、いや東京に行ったことさえも人生で10回もないと思います。でも描く絵は雪の景色が多い。なぜなのか?非常に興味がある部分なのですが、それも永遠の謎です。

こうやって、私も日常を取り戻していきたいと思います。

電撃的な母の死。これは父が「もうよかろう!」と半ば強引に母を自分の元に引っ張っていったのだと理解しています。

いかがでしたか?

次回からはプロレスや昭和歌謡曲、そしてジュリーの事をガンガン書いていきたいと思います!

そして3月30日はジュリーの福岡サンパレスライブ参戦ですたい!

それでは、また。

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