全日マットを静かに去った中堅選手たち(完全版)

こんにちは、みやけです。今回はプロレスの話です。以前書いたブログの書き直し企画の回です。

このブログは昨年全ての過去データがクラッシュして再閲覧不能になったのですが、その中で自分自身気にいっていた回はできるだけ書き直してきました。今回の内容はその中でもかなりの思い入れがあり、かつ多くの方に読んでいただいた企画です。

内容は昭和プロレスの検証なのですが、選手の出入りが激しかった新日本プロレスとは逆に、全日本プロレスはその独特の閉鎖性によるのか、特に中堅選手が何の前触れもなく長期欠場しそのままいなくなってしまった選手が多いのです。そして引退セレモニーがあるわけでもなくそのまま二度と全日マットに上がらない、いや上がれない、というパターンもまた多かったように思います。

ここではその対処に該当しそうな選手について、いつが全日本マットの最終試合であるか?の確認を取り、その前後の状況を含めてそうなった背景を推測しようというものです。なお、後年かなり経ってから全日本マットに復帰した選手も含まれることはご了承ください。それでは、この選手から!

① ロッキー羽田

全日最終試合 1986年11月27日 世界最強タッグ決定リーグ戦 函館市民体育館

30分1本 〇アニマル浜口&小林邦明(15分6秒 逆さ押さえ込み)マイティ井上&●ロッキー羽田

その存在が何かと揶揄されがちな羽田選手ですが、私個人的にはそれほど悪いレスラーではなかったと思っています。羽田選手が凱旋帰国当時は私はまだ小学4年生ぐらいでしたが、天龍に続く若手の有望選手、という扱いであったのは間違いなかった印象でした。

youtubeに1977年オープンタッグでの天龍・羽田対R木村・草津組の試合が残っていますが、ヘビー級の4選手が正面からぶつかり合った迫力満点の試合を行っています。特に天龍の木村への張り手は物凄い!天龍の現役時代の凄みが垣間見られる強烈なシーンです。

その後の彼の試合を改めて確認してもそんなに悪い内容ではないのです。思うに当時の全日本の人員があまりに少なく、プッシュ出来る人員も限られていたため、いつまでたっても「期待の若手」の位置を抜け出せそうになく段々とやさぐれ、コンディションをも崩していったのではないかと思います。

私が1983年福岡スポーツセンターでの全日本の興行を観戦した際、羽田は小鹿と組み井上・越中組と対戦したのですが、あれだけの体躯を誇る羽田が越中をパイルドライバーの体勢に捉えた際、抗って振り払おうとする越中のタイツを上から掴んでTバック状態にし、館内から笑い、、、いや失笑を取っていたシーンを見て情けなくなったのを覚えています。。

当時は病気を繰り返してすっかり痩せ細り、試合がテレビ中継に乗ることもほぼ無くなっていた羽田ですが、その情けない姿を見て「何やってんだよ、、、、」とつくづく思ったものです。その後ジャパン軍参戦時も特に自分をアピールする事もなく原因がわからない欠場も増えていきます。

そんな中、1986年11月1日石川県七尾市で行われた輪島博士国内デビュー戦、シンが入場する際、サポート役が阿修羅・原と百田光だった事に違和感を覚えました。シンのサポートは馬之助でない限り羽田が担う事が多かったからです。

これはおそらく、観客のちょっかいを受けたシンがトラブルを起こさぬよう有事の際はシンを制止する腕っぷしの強さが羽田にはあったからだろうと私は推測しています。よくよく記録を調べてみると、同じジャイアントシリーズの10月20日岡崎市体育館にてサムソン冬木に反則負けして以降出場記録が無く、結局上記の函館まで欠場しているのですね。

この岡崎大会の翌日は両国国技館大会であり、「どうせ首を切るのなら大会場まで待ってやればいいのに、、、思い出つくりで、、」とも思うのですが、後述しますが全日はこのように大会場直前でサーキットから外されるパターンが多いのですよね。。。

このシリーズの羽田はスタイガー、ダイヤモンド、大熊、寺西といったあたりにも負け連日ピン負けの嵐!おそらくシリーズ中、(もしくはその前?)に引退を勧告され、ツアーを離脱。故郷に近い次のシリーズの函館大会を事実上の引退興行としてプロモート権を得た、、、そんな気がします。最終戦は豪華ではないですがそれなりにいいカードですものね。

ただし羽田の引退セレモニーは1年後1987年のジャイアントシリーズの武道館大会まで行われませんでした。(2度目の武道館鶴龍対決時!)このセレモニーがどんな感じだったのか?私にはその記事を見た記憶が全くありません。まあ、後年は合宿所に入り浸ったり問題行動も多かったようですが、あまりに扱いが酷いなという感じは否めません。ブッチャーやロビンソン、レイス、マードックにフォールされまくって彼らの引き立て役を担っていたわけですからね。

正にタイトルどおり、静かに全日マットを去った中堅選手、、、そんな感じがします。

② グレート小鹿

1986年9月7日 サマーアクションシリーズ2 岐阜・大和町民スポーツセンターグランド

20分1本 〇マイティ井上&渕正信(12分35秒 回転エビ固め)ハル薗田&●グレート小鹿

↑ ここで負傷?

全日本最終試合 1986年9月20日相模原市体育館 3大スぺシャルマッチ(メインは長州対マシン戦) 20分1本 ●大熊&小鹿(反則 10分2秒)寺西&仲野

実は私グレート小鹿についてはいい印象を持っていません。全日での試合は晩年に何試合か見ましたが、「自分はたいして受け身を取らず、レフリーや相手との掛け合い、会話のやり取りで適当に試合を成立させているなー」というイメージがありました。

私が生観戦したあらゆるプロレスの試合でのワーストマッチは1984年福岡スポーツセンターでの小鹿対ヒューゴ・サビノビッチ戦!試合開始前なにやら小鹿はしつこくレフリーにクレームをつけ、ゴング後1分以上経過してようやくロックアップ。

んで、かったるいもみ合いが何度も繰り返された挙句、小鹿の反則攻撃でヒューゴがダウン。そこで小鹿はニードロップ、、、というか2階席で見ていた私にとっては小鹿はただ足を曲げてヒューゴのおなかに置いただけのようにしか見えませんでした。結果、5分36秒 小鹿の勝利。。。館内もあまりのあっけなさになんのリアクションもありませんでした。

そして現役引退後、小鹿は再三過去を振り返るインタビューに登場し、ブログ「小鹿注意報」も評判を得ますが、どうもインタビュアーへの対応についてあたりが強すぎるのです。見方が偏りすぎて、自分だけは正義の側ににいる、という姿勢であるのは昭和のレスラーの定番でありますが、インタビュアーが小鹿の見解に疑問を挟むと、凄い言い方で恫喝するようなセリフを再三吐くんですよね。

小鹿氏はこの手のインタビュー内で「これが真実だ!」的な話をよくしますが、どうせ自分に都合のいい部分だけをことさら強調して話しているんだろうな、と私はいつも思っているのです。あ、それで全日本での最終試合ですが、その前に訂正があります。以前のブログでは下記の試合を最終試合としていましたが、違ってましたね。すいません。上記の相模原大会が最終でした。

 1986年9月9日 サマーアクションシリーズ2 愛知県立体育館 20分1本 大熊&○小鹿(11分27秒 片エビ固め)永源&●仲野

そして小鹿氏のブログ「小鹿注意報」には全日か首を切られる経緯の記述もありますが、微妙に事実と異なります。外套の記述があるページは以下の資料ですが

Screenshot

まずサマーアクションシリーズでは京都での興行は開催されていません。また極道対井上・佐藤というマッチメイクも一切ありません。また相模原以降は試合が組まれてはおらず、結果これが最終試合になっています。「馬場に冷たくされた」という点においては細かい点の差異は関係ないかもしれませんが、えらく細かく記述している割にはなぜここまで違うのかな?と疑問に思います。

おそらくこういう事ではないでしょうか?雨天での試合で負傷ということで、おそらく野外会場かつ雨天の岐阜・大和町大会で負傷。数試合欠場した後、なんとか大会場の愛知県体に興行には出たがやはり負傷箇所が思わしくなく以降再度欠場。

ワンマッチ興行の相模原大会に馬場から呼び出されなんとか試合には出場するも、その際しばらく休んでいい事を言い渡されそのまま放置状態になり、結果引退となった。。。こんな感じでしょうか?しかし小鹿の引退興行は1年後の1987年世界最強タッグ最終戦武道館大会で予定されていましたが、何故かセレモニーは延期。

結果、更に1年後、最終試合からは2年後の1988年7月31日に故郷函館で行われるのですが、ここまで2転3転しているのはさぞ色々と揉めたのだろうな?と勘繰りたくもなります。引退興行があるだけましなのかもしれませんが、テレビでもダイジェスト的に触れられただけで、特にねぎらいのメッセージが無かったですからね。

おそらく色々と顔の広い永源の加入により、小鹿の存在が必要でなくなったので自ら辞めるように仕向けられたのではないかと思いますが、現場組のトップ的な存在で長年働いてきたのは間違いないわけで、もう少しどうにかならなかったのか?という気はしますね。

③ ターザン後藤

全日本最終試合(事実上) 1985年10月31日 ワールドチャンピオンカーニバル 鶴岡市体育館

30分1本 タイガーマスク&●ターザン後藤(11分8秒 フィッシャーマンスープレックスホールド)〇小林邦&栗栖

デビュー当時は「元力士」以外特に取柄となるものもなく、後輩の三沢にもあっさり白星を献上、このまま埋没しかねない雰囲気でしたが、1983年夏、その頃体調を壊し欠場がちとなっていた大熊をフォローするため、髭を生やしワンショルダータイツにイメチェンし(ヒョウ柄タイツになったのはその少し後)「ターザン後藤」に改名。極道コンビの客員扱いになってからは少しだけ脚光を浴びるようになりました。

しかし全日時代は後年FMWで”鬼神”とよばれた高圧的な雰囲気は皆無であり、どちらかと言えばコミカルファイトの選手でした。その後やはり相撲界から転出した泉田純に似たキャラクターだったと思います。そして泉田同様、完全なヘビー級選手なのにあまり重たく見えないのですね。

1985年に入るとテレビマッチでの試合がオンエアされだしました。しかし小林邦明のフィッシャーマンにあっさりに投げられるのを見ると、それが後藤の器用さでもあると思うのですが、もう少し重厚さを見せられないものか?と当時感じていました。

後藤のテレビ登場では松戸で石川と組んでのロード・ウォーリアーズ戦が有名ですが、この際も後藤が放った攻撃はヘッドバットのみであり、それも受けたホークはのけぞりもしないという実にかませ犬としか言いようのない扱いでした。

また後藤の海外遠征にしても特別大きく取り上げられることはなく正に「いつの間にかいなくなっていた」という印象がありました。上記の試合が遠征前の最終試合でもあるのです。以降、高木・田上という力士上がりの同系統の選手が入団してくるので、後藤がなんとか凱旋帰国できたとしても存在感を示せそうな状況は極めて少なかった気がします。

後年FMWでブレイクするのは皆さんご承知の通りかと思いますが、体形が年々肥大化していたのはちょっと見るに堪えなかったですね。もともと器用でしっかりとしたプロレスが出来る選手のはずなんですよ。後藤がなぜ一時全日本と音信不通になったか証言が分かれてはいますが、インディーへの転身が彼にとって良かったのか?悪かったのか?

後年、その言動についていろいろ言われるようになりましたが、全日本時代の彼について特に悪く言うような証言はないだけに、性格が変貌していったのかな?という気がします。鶴田がニックとのAWA王座防衛戦での入場直前、ニコニコと後藤とじゃれ合っているのを見ると、いい奴にしか見えないんですよね。

④ 伊藤正男

全日本最終試合 1986年9月4日 スーパーパワーシリーズ 大阪府立体育館

20分1本 〇ロッキー羽田(11分4秒 体固め)●伊藤正男

以前このブログで伊藤正男についてで丸々1本書いた事がありましたね。とてつもなく地味な回でしたが、妄想をこれでもかと散りばめた甲斐あって?結構な方に読んでいただけました。また書き直したいという思いはありますが。。。

個人的には伊藤が海外遠征前、猪木をシングルマッチで破った経験がある(しかもピンフォール勝ち!)マニュエル・ソトについて勝利した経験がある事を基に、伊藤>ソト>猪木の構図から

「伊藤正男は猪木より強い説」

を唱えたのは中々の傑作だったと自負しております(←どこが!)

しかし、初の本格的海外遠征を前に(短期の遠征はオーストラリア等あり)この雑なマッチメイク、、、このシリーズのメンバーならアニバルあたりに勝利する、もしくはドスあたりに玉砕、くらいあってもよかったかもしれないのですが、相手は散々やりつくした後輩の羽田、しかもこの頃は羽田も凋落気味であり、こんなマッチメイクしかできなかったのかな?と不憫に思います。

そもそも遠征地が西ドイツ(当時ハノーバートーナメント開催中)というところが既に帰国の可能性に疑問符がついていたのではなかったかと思います。まあ、あの風貌・ファイトスタイルでは「ジャーマンくらいできて当然」という感じの当時の日本マットのトレンドスタイルにはまるでハマらなかった気がします、

伊藤は既に1985年頃には「凱旋帰国が見込まれる遠征レスラー」の括りではなくなっており、「アメリカに定着しているフリー選手」的な扱いのような気がしました。少なくともマスコミの報道的には。

私も彼の生のファイトは見た事がありません。「きれい好き」というエピソードは聞いたことがあります。いまだ健在というのであれば現在75歳。日プロ崩壊及び全日本創立時の状況を知る貴重な人材だけに話を聞いてみたい気もするのですが。。。。

⑤ アポロ菅原

全日本最終試合 1986年3月2日 エキサイトシリーズ 陸前高田市体育館

30分1本 〇井上&冬木(10分6秒 逆さ押さえ込み)鶴見&●菅原

菅原選手は全日本時代結局一度もテレビの本放送で試合がオンエアされたことはありませんでした。バトルロイヤルを含めて。(フレッシュプロレスは別として)もっと言えば国際血盟軍時代を含めて、ルーテーズ杯以外チャンスを貰った事さえもなかったと思います。

そのテーズ杯では優勝した越中からはフォール勝ちを奪い、準優勝の三沢とは時間切れ引き分けですから、全日本サイドもそれなりに強さを認めていたと思います。しかしアマレスをベースとした硬めのファイトスタイル、そして生真面目だがおべんちゃらを言わなそうなそのキャラクターが馬場と合わなかったのが大きな要因かなと思います。

そんな菅原選手ですが、一瞬だけプッシュされかけた時期がありました。1984年秋短期のヨーロッパ遠征後帰国するや結成されたばかりの国際血盟軍に加入。最強タッグ岡山大会ではラッシャー木村と組みファンクスと対戦するという抜擢を受けます。

その後翌新春オールスターウォーズでは再度木村とのタッグを結成したり、6人タッグに組み込まれることもありましたが、徐々に埋没。前座1,2試合目に登場する事が多くなり海外遠征もいわば「なかった事」にされてしまった感がありました。この人のプロレスは特に何か大きな問題がある訳ではないのですが、動きがなかなか印象に残らないんですよね。

結局、カルガリーハリケーンズ登場の事前準備として?剛、高杉と共に1986年3月2日までで全日本との契約を切られてしまう訳です。しかしこのシリーズの次の興行って鶴龍対長州・谷津のインタータッグ戦が行われた大阪城ホール大会なんですよね。。。

最後くらい大会場で思い出つくりをさせてもいいと思うのですが、、、全日本ってこういうの多いんですよね。もちろん剛・高杉も同様な訳だし、前年同時期マッハ隼人が全日本登場した際のエキサイトシリーズ、基本全日程参加したにもかかわらず鶴田がAWA王座を奪取した蔵前国技館大会とそれを防衛した大阪府立大会のみ欠場となっていました。なんか意図的というか。。。

そして解雇組3人が不出場となった10日後の武道館大会では残った国際血盟軍にも屈辱的な結果が待ち受けます。これは全日本対ジャパンの6対6の対抗戦が行われ、馬場は相手の寺西が怪我で出場を棄権したため、存在が宙に浮いてしまっていたのですが。。。

30分1本 〇馬場・大熊・小鹿(10分59秒体固め)木村・原・●鶴見

・・・・国際最強トリオ(といっても3人しかいないのですが)が馬場&極道組に完敗するという非情な結果!まさに国際プロレスに引導を渡した3日間のように感じます。この組み合わせだったら普通に「大熊か小鹿が木村か原にフォールされて終わりだろうなあ。。」と予想すると思うのですが、、、

まあ、それはそうと菅原選手はその後SWSからインディーを放浪し、一時はマット界とは疎遠になりサラリーマン生活を送られていましたが、現在はそれなりにマット界と関わりつつ、熊本で奥様と飲食店を経営されています。

健康的にすぐれない部分もあるようですが、しっかり元プロレスラーという肩書に固執することなく自分の力で生きようとされている部分はアポロさんらしいダンディズムを感じますね、いつまでも頑張られてほしいものです。

⑥ 高杉正彦

全日本最終試合 1986年8月23日 サマーアクションシリーズⅡ 平塚青果地方卸売市場 

 30分1本 〇鶴見&高杉(11分48秒 体固め)小林邦&●仲野

アポロと同じタイミングで全日マットを解雇された高杉ですが、実は地元平塚のプロモートに関わったため、その時の夏に全日マットに上がっています。それが上記の試合です。

しかし高杉のWIKIには以下の記載があります。

「全日解雇後は、フリーランスとして全日本の前座で様々な謎の覆面レスラーに扮したり、地元である平塚市で行われる試合にスポット参戦するなど時折活動していたが、、、」

この内容、、、眉唾、というか正直虚偽ですね。記録をすべてチェックしましたが高杉が全日マットに再登場したのは上記1回のみ。覆面レスラーに変身して前座にあがるなんぞ、国際ではあったようですが全日ではありえない!意外とこういうところはきちっとしているんですよ。

このwikiの内容、高杉本人が編集しているのではないか?と思ったりもしたのですが、それにしちゃあ屈辱的な話もしっかり書かれているのですよね、、、事実だから仕方がないのですが。。。

セブン時代の高杉はそれなりにプッシュされてはいましたが、試合内容は大仁田以上に良くなかった!マッハ隼人もそうなんですが、彼の空中殺法は雑というか、強引に飛んだあと相手が受ける位置を慌てて調整しなければならないパターンが多くヒヤヒヤするんですよね。

しかし、大仁田がひざ負傷後、翌シリーズに開催されたインタージュニア王座決定リーグ戦ではチャボ・ゲレロと決勝でぶつかりましたが、実力の差は歴然。セブンは右手を負傷しており、流れについていくのがやっとの状態。。。

私的には解説の佐藤昭雄が「箸も持てないくらい傷みが酷い」と語っていたのが印象的です。セブンは一応は”国籍不明の宇宙怪人”という設定なのに箸って、、、しかし高杉はどうごねたたのか、こんなコンディションなのにこのシリーズ、チャボからタッグマッチでピンフォールを奪います。

5月14日 平塚市地方卸売市場  45分1本 鶴田・井上・〇セブン(18分15秒 回転エビ固め)スレーター・パイパー・●チャボ

高杉の地元なので彼がプロモートしたのでしょう。高杉時代を含めて全日本時代唯一のセミファイナル出場!それだけでも図々しいのにチャボからピンフォール勝ち!それ、やりすぎでしょ!後年GSPIRITSにて「セブンはハンセンやマスカラスより人気があった」と得意げに語るくらいですから、このくらいは当たり前とでも思っていたのでしょうか?

思うに、ウルトラセブンは非常に良い待遇を受けていたが、高杉になってからは急に冷たくされた印象ですね。百田光に負ける事も多々ありましたし、、、どうもセブンのマスクを脱いだのは高杉の意思であり、馬場夫妻は納得していなかったようですね。

ただしかし、あの当時のジャパン軍が闊歩する全日本マットでセブンが生きながらえたとは思えないですが。。。未だ健在であり現役レスラーでもあるようです。まあ、ある意味ブレがない、と言えばブレがない人なんですよね。

⑦ 百田義浩

全日本最終試合 1986年5月17日 スーパーパワーシリーズ 横須賀市総合体育館

20分1本 〇大熊・小鹿(17分48秒 体固め)羽田・●百田義 

凱旋帰国以来、前座2~3試合から全く抜け出せず、怪我をしているわけでもないのに欠場する事も珍しくなかった百田義浩。結局アポロ同様チャンスらしいチャンスを得る事もなく現役生活に幕を下ろしました。

上記の試合で怪我をしたようですが、その後何のアナウンスがされる事もなくいつの間にか引退扱いになったという訳です。私自身が百田義が既に引退状態であると認識したのは、2~3年後の百田光ブームが起こった際、タイトルマッチを迎え、コールを受ける光雄のセコンドに義浩が付いた時ですね。

百田義の試合の印象、、、、何試合か見た記憶がありますが、本当に可もなく不可もなく、、、。。。という感じですね。アマチュアスポーツの大きなバックボーンが無く年がいってからプロレス入りしたので輪島のような危なっかしさがあるかと思ったのですが、それほど動きは悪くなかったです。

逆に百田光の方が貧弱な下半身、特にふくらはぎが気になって仕方がないという、、、ただし百田義の方はレスラーの色気というか、この人ならではという動きが感じられないんですよね。攻めていても淡白でやはりプロレスラーにはあまり向いていなかった気がします。

私は百田義対マイク・ショーという中々レアな試合を観戦したことがあります。何かアピールしたかというとそんなことは全くなく、ショーは自身の巨体で押しまくり、百田義は単発的にチョップやキック、エルボー等で反撃するも直ぐ切り返され結局6分強で圧殺されてしまいます。

しかし6分も戦ったのですが、何かしら彼独特のパフォーマンスがあったはずだと思うのですが、全く覚えていないんですよね。その前の試合のターザン後藤対エヒプシオでは、後藤が「なんだこの変なマスク!」とエヒプシオのマスクをいじってそれなりに盛り上げていたのによけいそう感じました。

やはり貧弱な身体ながらも百田光の方がプロとしてアピールする部分があったと思います。馬場逝去後兄弟でNOAHに移籍しましたが、百田義は病気で早くに亡くなられてしまったのは残念でしたね。

⑧ ミスター林

全日本最終試合 1982年6月2日 エキサイトシリーズ 秋田市体育館

20分1本 〇林(13分11秒 首固め)●百田光 

林の不遇ぶりも中々のものでした。日プロ経由で全日入りしましたが、とても馬場とウマが合っていたとは思えません。むしろそれまでの経緯から馬場がよく帰国を受け入れたな、という気がします。海外遠征の果て凱旋帰国第一戦ではシリーズNO2外人のタンク・パットンと引き分けましたが、次の試合から早速前座に埋没。

極道と絡むこともまれであり、もっぱら百田兄弟、伊藤正男、越中詩郎あたりと前座1~2試合で奮闘していました。フィニッシュホールドは急所打ちからの反則負け、と言ったところでしょうか?

細々と現役生活を送っていた林ですが、1981年秋、国際プロレス崩壊にあたり、全日本は原・井上・菅原・冬木の受け入れを決断します。こうなってくると明らかに所属レスラーに余剰が生まれ林が首を切られるのは自然な流れだったと思います。

林は上記の試合で足を痛め、そのまま現役引退となってしまいます。しかし百田のようにいつのまにか姿を消す、という事にはならず、シリーズ後半にはレフリー転向が全日本よりアナウンスされなんとか団体に残ることが出来たわけです。

レフリー転向後のこの年、林は結構目立っていました。誤爆とはいえハンセンのラリアットをモロに喰らったり大仁田対チャボ戦でダブル―フォールの一端を担ったり。。。しかし林は「レフリーの方が動きっぱなしでキツイ」とこぼしていたようですね。

私個人としては、林のレフリングについて、「できれば見たくない」という印象でした。なんというか、、、、技の攻防を棒立ちでジーっと見ている事が多く、選手がフォールに入るとカウントを数えるのがワンテンポ遅れる感があったのです。

この当時の和田恭平は選手がフォールに入ると即座に飛び込んでカウントに入っていましたし、ジョーさんもなんだかんだ言いながら結構小刻みに動き回っていますもんね。林の場合「ありゃ、フォールに入ったのね?数えなきゃ!」という感じでゆっくりと膝を曲げてフォールに入るんですよね。。。

その反面、月刊時代の「プロレス」誌にて「牛之助の寄り道談義」という日プロ時代の思い出をまったり語る、というコラムを連載したりして秘めたる芸達者ぶりを披露していましたが(私はこの連載は結構好きだった!)ジャパンプロレスの参戦によりレフリーの職さえも追い出される事態となります。

そりゃあ、ジョー樋口、タイガー服部、和田恭平とそろっていればもうレフリーはいらないですよね。当時は10~11試合くらい組まれていましたから、4人体制の場合レフリー1人あたり2~3試合しか裁かないわけですから。。。。

こうしてみると全日本は、マシン・ヒロ・俊二のカルガリーハリケーンズ3人を受け入れるために国際血盟軍の剛・菅原・高杉を切った印象でしたが、よく考えればそれだけでは釣り合わず、全日本側からも小鹿・羽田・林の3人をこの年切った訳ですね。しかも全員日プロ崩壊時に受け入れた人ばかり、、、キラー馬場。。。。

レフリー全日本最終試合 1986年3月29日 チャンピオンカーニバル 後楽園ホール

30分1本 〇デビアス(7分53秒 反則勝ち)●カーン 

下の動画は林のレフリー最終試合の動画です。テレビでは特に「ミスター林の最終レフリングとなります。」的な紹介はされておりません。注目なのは解説席にいた馬場のコメントです。カーンが不可抗力で?レフリーにぶつかってしまい、林はカーンの反則負けを宣告します。カーンは「ワザとじゃない!」的な抗議を行いますが、林は受け付けません。

この時馬場は若林アナウンサーから「このレフリング、どうなんでしょう?」と振られ、「どうなんですかと言っても、、、カーンが当たったのは間違いないんだからレフリーは反則負けにするしかないんじゃないですかね?」と林をかばうのです。

実は馬場さん、解説では結構レフリーに関しては辛辣なのです。たとえそれがジョーさんであっても。この手の流れで反則裁定になった場合「確かに反則かもしれませんが、もう少し待ってもいいんじゃないでしょうか?」みたいに観客の気持ちに寄り添うような発言が多いのです。「でも、それってあんたが、、、」と突っ込みたくなるところですが(笑)

しかし、今回馬場さんは林をかばいました。武闘派という側面もあるという林に気を遣ったのでしょうか?でもこんなちっちゃな場面で気を遣われてもねえ。。。

全日本を退団した林はその後ジャパン女子プロレスのレフリーを務めたりもしましたが早々に退団、しばらく消息が途絶えていましたが、1999年に亡くなられています。力道山とのエピソードが多い人だけにもう少し色々と話を聞きたかった気がします。

今回はこんなところです。もう少しネタはありそうですので、いつの日か続編にもチャレンジしたいと思います。それでは、また。

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