ジャイアント馬場 事実上の引退試合 回想と妄想 IN 福岡1985

こんにちは、みやけです。
今回は以前に書いたブログの書き直しの回になります。内容は全日本プロレスの話であり、1985年夏ジャイアント馬場は自身が保持するPWFヘビー級王座の防衛戦を福岡スポーツセンターにて前王者のスタン・ハンセン相手に行ったのですが、ハンセンのトップロープ越しのバックドロップを浴びて完敗し、王座転落してしまいました。今回はこの試合について書こうと思います。

この試合後、馬場はリターンマッチに挑もうとはせず、そしてシングルタイトルには2度と挑戦することは無かったので、事実上馬場のメインイベンター引退試合とも言われている試合です。そして私はこの大会、リングサイド2列目で生観戦したのです!(1列目はスポンサー関連の席だったので事実上最前列!)

この試合はそれこそ40年前の出来事なわけですが、私は例によって自分が印象深かったことはえらく細かい事でもいつまでも覚えているたちなので、当時の心境を思い出しながら振り返ってみたいと思います。この試合、馬場の記念試合、というだけでなく私の周囲の客の雰囲気も大変印象深く、私のプロレス観戦歴のなかでも一番の思い出の試合な訳です。

当時私は19歳、浪人生時代だったわけですが、全日本プロレス中継を行う日本テレビの系列局である、FBS福岡放送について、現役で大学生活を送っている高校の同級生からのコネがあり、スポーツ中継におけるハンディカメラのケーブル裁きのアルバイトの口について頻繁にその声がかかっていました。

そして、この大会もバイトの誘いがあったのですが、「馬場のPWFタイトルマッチ初観戦、しかも相手はハンセン!」長州力率いるジャパン軍福岡市内初登場!」という魅力的な付帯事項があったため、「これは仕事しながら横目で見る大会ではないバイ!」と、バイトの誘いは断り、予備校をさぼってチケット発売初日の朝10時にチケットセンターに並んで(並んでいたのは私だけ!)リングサイド最前列をゲットしたのであります(笑)

まあ、浪人生のくせにそんなことやっているから翌年の大学受験結果は1勝7敗という無残なものに終わったのですが(笑)、それはそうと息が詰まる浪人生活のうっ憤を晴らすべく当日はスポーツセンターに単身乗り込んだ訳です。

当日の観客数発表は5700人。満員マークはつきませんでした。私が見た目でも6割程度の入りでしたね。しかし私が観戦した福岡大会の中では良い方だったと思います。(スターレーン除く)福岡スポーツセンターは結構2階席の席数が多く(ただし椅子設置は3面のみ)詰め込めば1万近く入ります。

この日はフロアは7~8割がた埋まっていましたが、2階席は4割程度といったところでしょうか、、、私は試合開始1時間前から会場入りし館内をウロウロしていました。福岡SPSは冬はスケート会場として使用される会場でしたので、1階はミニリンク的な小部屋(壁は無く柵のみ)がいくつもあったのですが、そのとある小部屋の前に人だかりができていました。

何事かと思い、人込みをかき分けて前進すると目に入ったのは向き合ってスクワットを行う大柄のレスラーと、えらく華奢な若者。グレーのTシャツ姿の大柄の男は誰が見てもジャンボ鶴田小柄な坊主頭の若者はデビュー直前の小川良成でした。

両者汗だくでしたが、ジャンボは「ホイッ!ホイッ!ホイッ!」とのんきな掛け声をかけながらお気楽に膝を曲げ伸ばししていましたが、小川の方は息も絶え絶え、今にも倒れこみそうな感じでした。ジャンボが小川に練習をつけているというよりは、既に試合前のしごきでふらふらになって控室に帰ろうとしていた小川に対して、試合前の軽い整理運動を目論んだジャンボに運悪く捕まってしまった、そんな感じでした。

思えばジャンボは、この頃右ひじを痛めており、数か月後には肝炎のキャリアであることが判明してしまうのですが、この時は私のイメージ通りの雰囲気でなんともお気楽な感じでしたね。そしてこの日のマッチメイク及び結果は以下の通りとなります。

(第一試合) 〇 T後藤(9分34秒 体固め)● 笹崎

(第二試合) 〇 保永(8分56秒 逆さ押さえ込み)● 高杉

(第三試合) 羽田・〇 渕(11分58秒 体固め)百田義・● 百田光

(第五試合) 園田・〇 小鹿(10分3秒 エビ固め)栗栖・● 新倉

(第六試合) 〇 小林邦・寺西(8分46秒 綱打ち式原爆固め)デストロイヤー・● ジプシージョー

(第七試合) 〇 原 (2分6秒 体固め) 仲野

(第八試合) 〇 木村・鶴見 (11分46秒 体固め) 井上・● 佐藤

(第九試合) カーン・〇 谷津 (7分25秒 原爆固め) レッド・● リーガル

(第十試合) 鶴田・● 大熊(7分58秒 体固め)〇 レイス・ブラックウエル

(第十一試合) 天龍・石川(15分27秒 両者リングアウト) 長州・浜口

(第十二試合) ● 馬場(13分50秒 体固め)〇 ハンセン  

この中で未だ印象に残っている試合をいくつかあげるならば、、、

第六試合。かつて国際プロレスのエース外人として、ラッシャー木村やマイティ井上らと長年血で血を洗う抗争を行ってきた”放浪の狼”ジプシー・ジョー!全日本に移籍後もその存在感は健在でしたが、この年の新春シリーズでの来日時は「いったい何が起こったんだ!?」と思いたくなるような激ヤセ!

動きにも元気がなく、永源・栗栖・マジックドラゴンといったあたりまでに完全ピンフォール負けを許していました。そしてこのシリーズも全く精気は回復しておらず連戦連敗していたのです。この大会のマッチメイクも5年前ならそこそこ興味深い組み合わせだったと思います。しかしもうセミリタイア状態のデストおじさんはあくまでマイペースなので、ジャパン軍の攻撃を受けまくるのはもっぱらジョーに役目が。。。

50歳を超え、衰え切った肉体をさらしつつ、ポンポンと自分の子供と同じくらいの選手から投げられけられまくる姿は物寂しいものがありました。しかし、それでもジョーは感情を露にすることなく、立派に役目を果たし上げていたと思います。”受け”も彼の真骨頂でしたからね。

私はやはり衰え切ったキラー・トーア・カマタが最後の来日で若手からボロボロにされる様も目撃してきましたが、かつての大選手がしっかり自分の”今の役目”を全うする姿は何かこう、当時無知の私でも心に刺さるものがありました。試合は小林邦が回し蹴りからのフィッシャーマン1発という、格下相手のフィニッシュホールドであっさり勝利を奪いました。

「当然だ」と言わんばかりにそっけなく退場するジャパン軍、方やデストの肩を借りそれも周囲を威嚇しつつ退場するジョーの姿には彼のプロ根性を改めて見た思いがしました。そう言えばあの椅子たたかれパフォーマンスもこの頃は中々見れなくなっていたっけ。

第八試合。なんてこたあないカードだな、と思っていました。木村と井上の絡みは因縁の対決言えばそうなのですが、既に年頭の両国こけら落としでじっくり見ているし、そもそも国際時代から何度も絡んでいる2人。特に面白いシーンは無いだろうな、と思っていたのですが。。。。

何度目かの木村と井上の絡みのなかで井上が木村に対し執拗に張り手をくらわします。ラッシャーは2度、3度と顔面を張られても平然とした表情、、、というのはお決まりのパターンでしたが、井上は更に執拗に5度、6度と、回を重ねるほどに強めの張り手をくらわします。場内も「オイオイ、、、」という雰囲気に変わってきていました。

しかし、耐えに耐えていた木村はいよいよ反撃に転じます。頭突きで井上の攻撃を止めると、逆水平の体制から右手を実に重々しく井上の胸板あたりに振り下ろします。私は木村の逆水平は突き上げるタイプよりも下に振り下ろす形の方が好きなのですよ!あまりカッコよくはないですが木村らしく重厚でハンマーを振り下ろすような感じで。

これを鬼の形相で隙を与えず、6発7発と振り下ろす訳です。既にこのころからラッシャーはコミカルファイトに移行しつつあったと思いますが、このシリアスな攻撃には場内もどよめきが起こりました。井上も最初は歯を食いしばって耐えていましたが、最後の方は腰が砕けてしまい意地だけで片膝をつき、ノビてしまうのを踏ん張っている感じでした。

これは今思い返してもド迫力の攻撃でしたね。ただしかし、「木村がキレた」とかそういう事ではなく、「井上ならなんとか大丈夫だ」という信頼関係の下、かなり本気度を高めてチョップを振り下ろした感じでした。

なんとか逃げおおせた井上選手、半失神状態というか本当に苦しそうでした。プロレスブームの際は何かと嘲笑の的になることが多かったラッシャーさんですが、この時の鬼のような攻めの感じは正に金網の鬼そのものでした。

そして、メインイベントです!それまで館内は全日本本体を応援するファンと、ジャパン軍、もっと言えば長州力を応援するファンに2分されている感じでした。エリア別に固まっていた訳ではないですが。特にセミではその状況が顕著になり、圧倒的に声援が大きいのはジャパン軍のファンたち。

全日本ファンも声は出ているのですが、長州・浜口に対して罵声を飛ばすには至らない。その逆ジャパン軍のファンたちは相当に攻撃的で、天龍が延髄切りをはなっても「猪木の真似するな!」「全然飛び上がってないじゃね~か!」という野次が容赦なく飛んでくる、、、石川のサソリに至っては文字にするのもはばかられるような汚い言葉が飛び交っていましたね。

しかし、セミが終わるとジャパンファンは急に静かになりました。彼らがどのような雰囲気でメインを観戦していたかは分かりません。しかし雰囲気的にハンセンに肩入れしたかという事も無かったように思えます。

いよいよ御大・ジャイアント馬場の入場になると、俄然全日ファンの声援の音量が上がりだしたのです。気が付けば私の周囲は馬場ファン一色!小学生5年生くらいの男の子を連れた自営業風のオールバック頭のオッサンは2人で「馬場!行けよ~!」と大声を張り上げます。牛乳瓶底メガネの小太りの大学生(?)は柄にもなく「バ、馬場ぁ~~!」と絶曲。その他60を過ぎているであろう初老角刈りの男性、サラリーマン風の華奢な色白青年、、急に私の周囲の観客はテンションが高揚してきたのです。

そしていよいよ御大はリングイン!選手権認定宣言を経て運命のゴングが鳴るのです。あとからテレビ放送を確認すると倉持アナ、解説の山田さん共「馬場の王座転落濃厚」と盛んに煽ります。何かこう試合前からこうなることを見越していたようなやり取り訳です。

試合前半はしゃにむに攻め込むハンセンをうまくいなし、グランドでの右腕攻めに引きずりみます。特に長い足を使ってのアームバーでハンセンの動きはピタッと止まってしまいます。長年培ったグランドテクニックでハンセンを逃しません。私の周囲の客の歓声は一層ボルテージが上がります。「馬場行け~!!」「やれ~っ!」どこからか野太い声で「レフリーストップだぁ~!」とジーさんんの叫び声も聞こえます。

この時の馬場の表情、これもまた最後と言っていいくらい、攻めながらも苦しそうな体力的に余裕がなさそうな表情なのです。後年、札幌で天龍にピン負けしたとき、新装東体でゴディにピン負けしたとき、ハンセンとのタッグ、、、いずれも試練の戦いを強いられましたが、いずれの時も試合後は「やれやれ、負けてしもうたわい。」という感じで追い詰められた感じはなったですよ。

やはり馬場ファンとしては、「馬場が心から苦しそうな表情」を見るとキュンと来るのです。馬場は手を替え品を替えハンセンの右腕にダメージを与えます。そして10分が経とうとする頃、スタンドでの攻防に移動し、脳天空竹割、河津落とし、そして必殺のランニングネックブリーカードロップ!

惜しくもカウントは2で返されると間髪入れずギロチンドロップ!この時期多用してた馬場の秘密兵器!馬場の攻撃で館内がもっと沸いた瞬間です。しかしやはり惜しくもカウント2!ハンセンもそうやすやすとピンフォールは許しません!

次は何か、もしかして32文か!それとも奥の手アトミックボムズアェイか!しかし、ハンセンは馬場の一瞬のスキを突きカウンターのウエスタン・ラリアットを馬場の喉元に叩き込みます。一転、馬場大ピンチ!

しかし馬場はなんとかロープエスケープし、場外に逃げます。再び盛り上がる馬場コール!馬場のダメージは意外と少なく、ほどなく戦闘態勢に入り追ってきたハンセンを逆に鉄柱にたたきつけ主導権を奪い返します。そして更なる右腕攻め!「馬場~、リングアウトで負けるぞ!いいから早くリングに戻れ!」との多くの声が聞こえたのか再度リングイン、右腕攻め続行です。

ラリアットを耐えしのぎ、グランドでハンセンを攻め続ける馬場、我々リングサイド集団も馬場の勝利を確信しだしました。親子連れを二人そろって両こぶしを握り締めて声援を送り続けます。瓶底メガネはいてもたってもいられずリングサイドに駆け寄ります。

しかしハンセンは巧みにエスケープ!馬場を再度場外に誘い出し、意表を突くドロップキック!馬場はヨロヨロと斜めに倒れこみます。館内は大きな悲鳴!ハンセンリングイン!「馬場~!はよリングに戻れ~!」ファンの声援の後押しを受け馬場はなんとかエプロンにカムバック、ハンセンへの右腕攻撃を再開します!

しかし、3度目の馬場の水平チョップを空振りさせたハンセンは、トップロープ越しに馬場のバックを取り、豪快に引っこ抜いてのバックドロップ馬場が頭を打った場所はほぼリング中央!これはまずい!

「馬場返せ~~~~っ!」館内の絶叫をよそに無上の3カウント!馬場、王座陥落!ハンセンが新王者となったのです!

悲鳴と歓声が交差する館内。ハンセンへの声援も大きく聞かれます。ジャパンファンはハンセンも応援していたのか?ハンセンファンも結構いたのか?しかし我々馬場ファンは茫然。。。間違いなくいい試合だったのですが、まさかピンフォール負けを目の当たりにするとは。。。

正に絶句状態のリングサイドの私の隣人たち、、、瓶底メガネはパンフレットを丸めそれをバシバシ自分の手にたたきつけております。レンズの奥には光るものが、、、(かどうかは不明)しかし周囲の大半が「嘘やろ~~~あんだけ攻めとったのに」という心境だったと思います。

ようやく皆が我に返りトボトボと家路につこうとしていたその際、親子連れの子供がつぶやいていました「リターンマッチ、するよね!」父は返します「するくさ!ハンセンを倒せるのは馬場しかおらんめーもん!」周囲のみんなは「そうだ!そうだ!」と言いたかったに違いありません。

以上、これが私の観戦記であります。しかし皆さんご存じのようにリターンマッチは行われませんでした。以降はその雰囲気さえも感じられませんでした。実はその兆候は開幕戦から感じられました。開幕戦は馬場はメインイベントに出場したのですが、結果は下記のとおりです。

1985年6月28日後楽園ホール  馬場・●石川(6分48秒 体固め)〇ハンセン・ブラックエル

なんてことは無い結果です。ただしこの試合、馬場がブラックウエルの大きなおなかの上でピョンピョン飛ぼうとして、スっ転んでしまったシーンがあり、そのことで記憶にある方がいるのかもしれません。

しかし重要なのはですね。「全日本プロレスのシリーズ開幕戦メイン、馬場は出場したが鶴田はセミ以下だった」のは実に1980年秋のジャイアントシリーズ以来約5年ぶりだったのです。(チャンカン、最強タッグ等のイベント時、および新春バトルロイヤル開催時は除く)

1980年10月9日後楽園ホールメイン 馬場・桜田(2-1)ブッチャー・カマタ  セミ 〇ロビンソン

・マクダニエル(1-0)鶴田・●小鹿

この試合、一応桜田の凱旋帰国試合であり、微妙な関係であった鶴田と組ませるのは憚られてのマッチメイクだったような気がします。

そして言い換えれば、全日の通常シリーズのメインはこの5年間必ず鶴田はメインに出場していたが、馬場は出ないこともあった、という訳です。同時期の新日でいえば猪木がメインに出ない、という事はあり得なかったと思います。やはり開幕戦のメインというのはその団体の顔が出場するものですからね。

松根~佐藤昭雄ラインによる「鶴田エース路線」が始まったのは1982年からだったと思いますが、そのもっと前から、実質シリーズを引っ張るエース的存在だったのは鶴田であったと言えなくもないのですよ。

そして5年ぶりに開幕戦で鶴田をセミ以下に抑え、メインに出場した馬場が最終戦で自身の看板タイトルを失ったとという訳です。何やら自身の去り際をしっかり作った感があるのですよ。そしてこれからは私の妄想になるのですが、馬場は1年かけて大会場で思い出作りをしてきたと思うんですよ。

思い出して見てください。ちょうどこの1年前は「思い手がいっぱい詰まった蔵前国技館」でハンセンから初ピンフォール勝ち!)、この年の1月には「ハンセンとの名勝負の思い出が詰まった東京体育館」でシンをコブラツイスト葬。そして6月には「エリック戦で満員にした思い出深い日本武道館」でラッシャー木村に完全ピンフォール勝ち!

まだまだこの時期の全日本は不透明決着満載の頃ですが、エース外人相手に次々に完全勝利。そしてハンセンに敗れた3か月後には全日本プロレス中継はゴールデンタイムに復活するも馬場の主な役目は放送席での解説者。ゴールデン復帰にあたって半分引退を勧告され、渋々1年かけて思い出作りを行った、という気がしないでもないのですよ。ジャパン軍参戦は前年末に決まった事ですが、ゴールデン復帰はもう84年中ごろには既成事項だったという話もありますしね。

しかし、馬場的には第一線から外れた事を大々的には書かれたくなったのかも知れません。なのでその終焉はひっそりと辺境の地?福岡で行われた、と。

そういえば、この時の馬場さん、控室に変える際は特段アピールをすることもなく、セコンドの肩を借りて目立たぬよう帰って行った気がします。老兵は去るのみ、と考えたのか?それともここはおとなしく引き下がっておいていずれ復権することを目論んでいたのか?

ただしかし、いずれにしても長年の馬場ファンとしては御大の最後の雄姿を結果的にせよ体感できたのはいい思い出です。あの時のリングサイドの不思議な一体感はその後のプロレス観戦でも得ることはできませんでしたし。

瓶底メガネは無事就職できたのか?(大きなお世話ですが)、「リターンマッチ、するよね!」と涙目で語った男の子は無事成人したのか?そして「「レフリーストップだぁ~!」と叫んだジーさんは無事天に召されたのか、、、いやいまだ健在!?

数々の思い出が胸を熱くよぎります。馬場さん、私の目の前で最後の熱い戦いを見せてもらいありがとうございました!

今日はこんなところです。それでは、また。

※ 2024年11月27日、マイティ井上さんが逝去されました。突然の訃報を聞き残念でなりません。ご冥福を心よりお祈りします。

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