こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話です。
”美獣”ハーリー・レイスと”ネイチャーボーイ”リック・フレアーの全日本マットでのNWA世界戦の内容について考察したいと思います。
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実は今回の内容は以前に書いたものに大幅加筆してUPしております。全日本マットで幾多の世界戦を行った2人ですがその内容には意外な”クセ”があるのでその点を紐解いて行こうというものです。なお、他団体での実績は含まれておりません。
また例によって細かい話になるのですが、早速分析して行ってみたいと思います。
リック・フレアー
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NWA世界王者としての来日8回、それ以外の来日2回、世界戦開催数15回(+挑戦1回)、世界王者としての来日の延べ年数 5年
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※赤=NWA世界戦開催県、水=日本で試合を行った経験がある県
まず試合を行ったエリアについて述べたといと思います。上の図を見れば一目瞭然なのですが、フレアーが世界戦を行ったのは関東・東北エリアのみ(その他新潟で1回)愛知県立、大阪府立では世界戦は行っておらず、それどころか京都から西以降は試合をした経験さえもないのです。関東・東北地区限定の世界王者だったとか?(国際での初来日時は九州での試合経験はあり)
九州は田舎過ぎて行きたくなかったのか?もしや貴公子ゆえ豚骨の臭いなんぞまっぴらと思った?もしくは関西の独特の雰囲気が合わずサーキットを拒否したのか?まあ、これはフレアーの参加が比較的短期間(3日から1週間)であることが多かったこと、更には彼の王者時代は全日本がゴールデンから外れた”暗黒期”を抜け出し、「最終戦は蔵前」というパターンを確立できていた事が大きな理由ではないかと思います。
まず、参加日程日が少ない場合、どうしてもサーキットエリアが効率的で満員が見込める会場中心に参加すると思うのです。とすると全日本は集客力は中部・関西・九州は弱く、東北はまあまあ強かった。であったなら来日初戦は東北エリアで防衛戦を行い、最後は東京大会場、というパターンが安全策ですね。全日本最後の参加となった1987年の来日は完全にそのパターンですね。
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逆にレイス王者時代は全日本の興行パワーが弱くてシリーズ内にこれといった大会場を押さえられず、参加時期は適当な日にちで参加するようになり、NWA世界戦も「こんなところでやるの?」と言いたくなるような会場で開催せざるを得なかったと思います。佐賀スポーツセンターなんて相当アレな会場ですよ。
フレアーは「世界戦をやるだけ為に来日、サッと来てサッと帰る」イメージが強かったですね。そして全日本参加シリーズの内異色なのが1983年の世界最強タッグ中の参加です。生中継特番の土曜スペシャル内で鶴田とノンタイトルで戦い30分時間切れ引き分け。そして数日後蔵前でカブキの王座挑戦を受けています。
実は全日本がフレアーの参加を検討した段階では、NWA王座はレイスに移っていたんですよね。(レイスはその前の83年ジャイアントシリーズに参加済み)。全日、もしくは日テレサイドとしては「せっかくのゴールデン生中継、丸腰とはいえ前世界王者のフレアーを鶴田に挑戦させピンフォールで返り討ちにして鶴田の強さを見せつけよう」という思惑があった、という裏話があります。
しかし、参加直前フレアーがレイスに勝利し再度世界王者に返り咲いたため例えタイトル無しでも無下に鶴田に負けさせられなくなり、あのような「ノンタイトル戦で時間切れ引き分け」というよくわからない結果に落ち着いた、という事なのかもしれません。確かにせっかくいい時間帯で放映されたのに間延びして緊張感のない試合でした。
そしてフレアーは参加期間が短かったため、他の参加選手とタッグを組む機会も限られていましたね。リック・マーテルとの世界王者コンビがすぐに思い浮かぶのでしょうけど、日本で世界王者時代一番タッグを組んだのは誰なのか?
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実は”喧嘩番長”ディック・スレーターなのです。82年エキサイトシリーズで3回、83年GCCⅡで1回、85年スーパーパワーシリーズで1回、計5回組んでいます。そいうえばフレアーのセコンドにもよくついていた印象があります。フレアーはどこかのインタビューで「日本での一番の思い出は83年のツアーのサーキットで仲間と移動の車中で大騒ぎした事」と語っていたので意外とスレーターとは馬が合うんでしょう。しかし元はスレーターは”時期世界王者有力候補”と言われていた訳ですから、頻繁にセコンドについていた際はどんな心境だったのでしょうね。
それ以外でいくとノーテレビですが、ロディ・パイパー、バリー・ウインダム、ロン・フラー、ジム・ガービン、マイク・ジョージ、アート・クルーズと組んでおりマーテルと合わせて計7人しかいないんですよね。スヌーカやスレーター、タイプが違うカマタ、ブラックウエルでも普通にタッグを組むレイスとは対照的です。
86年の最後の全日本参加事ではさすがにテリー・ゴディとタッグを組ませるわけにはいかず、ジョージ、クルーズとタッグを組んでいましたが、ローカルレスラーの権化である感じの2人なだけになんとも格差が激しいちぐはぐなコンビだったのではないでしょうか?
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マイク・ジョージはアメリカマットでは中々のタイトル歴を持っており一時は8冠王だった時期もあるようですが、基本アメリカ南部か中西部地区、AWAエリアが主戦場であり、NWA地区の総本山であるノースカロライナ地区での実績はほとんどないですからね。
プロレス評論家の流智美氏いわく、フレアーは「日本には日本向けの闘い方がある事を理解しようとしなかった」という事だそうなのですが、確かにうなずけます。鶴田をはじめ、リッキー・テリー・天龍・カブキ・レイス・長州・マーテル・谷津・輪島といった多くの選手の挑戦を受けましたが、特に「意外なフレアーのファイトスタイル」や「隠れた懐の深さ」を感じさせる試合は無かった気がします。
個人的には83年GCCでのノーテレビでのブロディ戦が気になりますが。。。個人的妄想試合を考えるなら、そのシリーズにおいての後楽園ホールを追加で入れて「鶴田・天龍・石川対フレアー・スレーター・パイパー」なんてマッチメイクを組んだら面白かったでしょうね。(パイパーが小柄なため御大には遠慮してもらいました)
フレアーは結果的に1987年の輪島戦が全日本最後の参加になってしまいました。以降も少なくとも3回は来日が予定されていましたが結局キャンセルになっています。ランク付けするなら全日本のレジェンド外人の中では特Aクラスなのか?単なるAクラスなのか?判断が難しいところです。
ハーリー・レイス
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NWA世界王者としての来日7回、それ以外の来日23回、世界戦開催数18回(+挑戦5回)、世界王者としての来日の延べ年数 5年
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※赤=NWA世界戦開催県、水=日本で試合を行った経験がある県
NWA王者でないときでも年3回平均で来日していたレイス。上記の表をご覧になっていただければわかるように、島根・福井以外の全ての都道府県で試合経験があるのは凄い事です。ハンセン・ブッチャークラスの実績でしょうね。
沖縄にも無冠時代ですが行っていますね。1975年の新春ジャイアントシリーズですが、この時は全日本本体が沖縄各所へのサーキット中に合流しています。面倒くさがりなら本土に戻ってそれなりの大きな会場から出場したいのではないかと思うのですが、そのあたりはレイス親分のプロ魂と全日本愛を感じます。
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そしてレイスの”クセ”として特筆すべきことは「蔵前国技館でのNWA世界戦の経験は一切ない」という事です。もっと言えば、日大講堂、日本武道館、東京体育館、両国国技館でも一切ないのです!(PWF戦なら東京体育館で経験あり)
結局のところ、レイスがNWA王座に戴冠していた期間は全日本が観客動員的に冬の時代だった為、最強タッグ以外では蔵前を使用することが出来ずこのような結果になったのだと思います。言い換えればレイスが蔵前で防衛戦を全く行えないくらい当時の全日本は会社としてヤバかった、とも言えるのではないでしょうか?
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レイスが挑戦を受けた相手ですが、馬場を筆頭にして鶴田・戸口・マードック・ブッチャー・マスカラス・デビアスの7人であり、フレアーと比較したら意外と少ないですね。レイスは王座期間中毎度のように”限界説”がささやかれており、1979年頃はコンディションも悪く腹が出ているのに胸板が萎んでいる様が目立ちました。
尼崎での馬場から王座奪回したした試合のフィニッシュは、あまりに不細工で見るこっちが気恥ずかしくなる内容ですし、注目を浴びたブッチャー戦、マスカラス戦もレイスにしては内容がやや薄いですしね。
しかし王座から降りた1982年にはかなり体調が回復しており、当時の雑誌を見てもハンセン・ブロディを差し置いて”レイス最強説”を主張する関係者も結構いました。鶴田のUN、馬場のPWFのベルトを文句なしのピンフォール勝ちで破ったのは大したものです。特に帯広でのダイビングヘッドバットはプロレス史に残る荒業です。
この試合は既に見れることが貴重になっていた御大の32文をスカすわ、かわず掛けをトップロープを握り締めて自爆させるはレイスの大物ぶりを如何なく発揮した名勝負だったと思います。この試合はセコンドの冬木が「ああ~っ!」」と驚いている雰囲気を見せているのもいいですね。ただし熊さんはいつものように御大が負けた瞬間もウロウロ歩いている、、、ああいう姿は萎えるんですよね。。
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これ以降、一時はWWFに参戦した時期もありましたが、1989年まで格を落とさず全日本が定期的にレイスを呼び続けたのは苦しい時期に支えてくれたという全日本側の感謝の気持ちもあったのでしょうね。結局国内でレイスがピンフォール負けしたのは1982年に鶴田にUNを奪回されたのが最後であり、以降はデストおじさんやマスカラスのように「ピン負け不可」のレジェンド扱いになったという事でしょうか?
今回の検証はこんなところですが、最後にNWA世界戦とくれば、私がどうしても語らずにはいられない組み合わせがあります。それは1984年のグランドチャンピオンカーニバルⅡにおいて現世界王者のケリー・フォン・エリック、元王者のリック・フレアー、ハーリー・レイスが勢ぞろいしたシリーズです。
このシリーズ、当初は田園コロシアムでケリー対ジャンボのNWA・AWAダブル世界戦が開催される予定でしたが、シリーズ直前の海外遠征で鶴田がAWA王座から陥落したため、単なるNWA世界戦になりケリーが引き分け防衛。セミではレイスとフレアーが見事なアメリカンプロレスを展開しました。
翌横須賀ではケリーにフレアーが挑戦し見事王座奪取、次の船橋では新王者フレアーにレイスが挑戦し、引き分けで王座防衛に成功しています。このポイントはですね、馬場の政治力を駆使して3人の大物にうまい事アメとムチを与えている点です。
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このシリーズそれぞれの「良かった点」と「悪かった点」を列記してみます。
◎ ケリー
(良かった点) 格上の鶴田相手に田コロという大会場でNWA世界王座防衛
(悪かった点) フレアーに完敗してNWA王座から転落(以降返り咲きならず)
◎ フレアー
(良かった点) NWA世界王座奪取
(悪かった点) 田コロのノンタイトル戦でレイスに完敗
◎ レイス
(良かった点) 田コロで宿敵フレアーに完勝
(悪かった点) 肝心の世界戦では王座奪取ならず
「三方一両損(徳?)」というか3人の大物にうまい事「良かった事」「悪かった事」も与えつつ調整を計るという、、、、さすがNWA副会長の気配りというか、、、、しかし一両どころか10両くらい損した人物がもう一人いるのを忘れてはいけません!ジャンボ鶴田です!
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ジャンボは同年エキサイトシリーズにてニック・ボックウインクルからAWA世界王座を奪取以降、シリーズの合間にアメリカ遠征を行い王座防衛戦のサーキットを行う、というハードスケジュールを2回こなした訳ですが、最後の最後に伏兵リック・マーテルに敗れ王座転落したばかり。
それだけでも傷心状態だったと思うのですが、このシリーズでは格下ケリーに引き分けに持ち込まれ王座奪取ならず、更には馬場とのコンビ解散で宙に浮いたインタータッグ王座を天龍と組みシン・上田組と王座決定戦に挑むも連続引き分けで王座預かり。
更に自身の持つインター王座にはすっかり衰えたビル・ロビンソンの挑戦を連続で受けるも初戦の成田では引き分けに持ち込まれ、「鶴田スランプ説」が流れるという体たらくでした。2戦目の大阪では完全ピンフォールで王座防衛しますが。
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これまで1年半近くの間、日テレ・松根氏と佐藤昭雄による絶大の「鶴田推し」によりエースに向けて爆進してきましたが、ここにきて急にストップしてしまった感がありました。ただしかしですね、この時期はジャパンプロレスの全日本接近により馬場の権力が復活しだしてきた時期でもある訳です。
佐藤昭雄がマッチメイカーを降りたのもこの時期だったらしいですし、この露骨な「鶴田下げ」は御大の密かな、いや明白な反撃の狼煙だったのかもしれません。元々ニックへの挑戦相手は馬場に指名が来た話だったというし、さすがにこれを鶴田に取られた事で「今に見ておれ。。。」と呪ってのこの結果なのかもしれませんね。
このシリーズ以降長州率いるジャパン軍の参戦のインパクトもあり、「鶴田上げ」は天龍革命が本格化するまで保留扱いされた感があるのですよね。御大の策略だとしたら見事にハマったという事でしょうか?
今日はこんなところです。それでは、また。