こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話をしたいと思います。
1990年春に勃発した振興団体SWSによる全日本レスラーの引き抜き騒動、その中でやや遅れて全日本を離脱した谷津嘉章の状況について書いてみたいと思います。当時から思っていたのですが、この騒動の中で谷津の動きだけやや他とは異なる感があり、騒動の前後で幾らかのドラマがあるように思うのですよ。
このあたりの違和感について、私がある仮説を立ててみましたので今回はその内容を述べていきたいと思います。SWS騒動、およびそれとは別視点の全日本プロレス再編成について馬場社長と谷津がどんなことを考えていたのか?についての妄想です。

ただしかし、多くのプロレスファンならご存じの通り、谷津氏はまだご健在であり、糖尿病で足を切断しながらも、プロレス活動はまだ続けているようです。このブログを見てご当人が怒っててしまう可能性もゼロではないのですが、、、それでもこの件はいつか書きたかった内容ですので、それを承知で書いてみたいと思います。
今回の内容は、流用文献もやや曖昧であり、私の推測による内容が多いと思います。というか正直妄想に次ぐ妄想です。反論の意見、証拠があればすぐに見解を翻すかも知れません。更にはプロレスの”仕組”の部分にも決めつけで触れています。そのあたりをまずはご了承いただければ、と思います。

結論から言いますと、題にありますように、1990年初頭、全日本プロレス馬場社長は、天龍源一郎を正規軍に戻し、”鶴龍コンビの復活”を目論み、同時にマッチメイクにある種の”縛り”が必要になった谷津をNo2の座から降格させようとしていた、というものです。SWS騒動はそれとは別の流れで起こったのではないかと思うのです。
まず、鶴龍復活案は多くの関係者の証言ありますし、馬場も大枠で想定していたと思います。天龍自身も「1989年一杯までは自分の意見が色々と通っていたが、年が明けたあたりから『ここのところ会場がえらく盛り上がっているのは(関東地区だけでしたが)天龍だけのおかげじゃないだろう、他のレスラーも一生懸命やっているから、天龍のみを持ち上げるのはいかがなものか?』という雰囲気が出てきた」と語っています。
鶴田とのシングルもややマンネリ化しつつありましたし、他のレスラーとのバランスを考えて天龍を本体に戻そうとしたのか?そして当時あまり話題に上がりませんでしたが、レスラーのコマ不足によるマッチメイクの行き詰まり。これは相当に深刻なテーマだったと思っています、特に1989年は大会場での”セミファイナル”が異様にしょぼかった記憶があります。
とりあえず、1989年の全日本プロレス全シリーズでの”最大の山場”での大会場でのメインとセミのマッチメイクを挙げてみます。
(新春G) 大阪府立 【メイン】 天龍・冬木xキッド・スミス 【セミ】鶴田xスパイビー
(エキサイト) 武道館 【メイン】鶴田・谷津・高野xアニマル・ホーク・天龍 【セミ】スティムボートxタイガーマスク ※NWA世界戦
(チャンカン)大阪府立 【メイン】鶴田x天龍 ※三冠戦 【セミ】谷津・高野xハンセン・ゴディ
(スーパーパワー)武道館 【メイン】鶴田x天龍 ※三冠戦 【セミ】キッド・スミスxハンセン・ゴディ
(サマーアクション)札幌中島 【メイン】鶴田・谷津x天龍・ハンセン ※世界タッグ 【セミ】ジョーxディーン ※世界ジュニア
(サマーアクション2)武道館 【メイン】天龍xゴディ ※三冠戦 【セミ】 鶴田x谷津
(ジャイアント) 横浜文化【メイン】鶴田x天龍 ※三冠戦 【セミ】谷津・高野xハンセン・川田
(最強タッグ)武道館 【メイン】鶴田・谷津x天龍・ハンセン 【セミ】カンナム×キッド・スミス
コンセプトがはっきりしているのはエキサイトシリーズのNWA戦くらいで、あとは苦し紛れなマッチメイクを行っているのが察せられます。鶴田対谷津なんて急に武道館のセミでやりましたからねえ。「オー」と「オリャ」が変な盛り上がりをしていたとはいえ。天龍対ゴディでは営業的に弱いと思っての苦肉の策でしょう。
サマーアクションシリーズにおいては新春ジャイアントシリーズでのキッド・スミスとの名勝負をあれだけ腐していた馬場さんが、大会場でのセミでマレンコ兄弟対決を組まなければならなかったのは歯がゆかったのではないでしょうか?同日あすなろ杯での川田対高野も組まれており、それがセミで良いのではないかと思ったものですが。。。ターザンのアドバイスなのか???

最強タッグのセミは好勝負必須のこの組み合わせ。しかし私的には「これが最強タッグのセミ?」と思ったものです。半年前の後楽園でセミ前のカードですよ!ただし残ったメンバーを考えればこれが最善手なのですね。セミがゴディ・アーウィン×ブッチャー・シンでは今更感が半端ない。
こういう状況になったのは前年の原・輪島・石川の一斉引退、更にはタイガーマスクの長期欠場、テンタの離脱等の影響が大きいと思います。そしてその穴を埋める若手をうまく育成できなかったことが根本的な原因になると思います。
馬場さんにしたら打開策を何とか見出したいところでしょう。1989年末に新日本よりトレードでスティーブ・ウイリアムスを獲得。スパイビーの復帰やバリー・ウインダムの久々の参戦も決まり、外国人勢の底上げには目途が立っていたと思います。
3冠は3人の外国人で回しつつ、別途ある時は鶴田戴冠、ある時は天龍戴冠、みたいなイメージでしょうか?

このような頭打ちの状況であるなら、正規軍No2の谷津嘉章にはなおのことしっかりしてもらわなければならないのですが、谷津は89年夏あたりからマッチメイクに顕著な偏りが見え始めるのです。具体的に言えば①シリーズ内で鶴田とのタッグが極端に減る。②天龍との対戦が極端に減る。この2点です。
上記のあたりから、谷津の相手は外国人選手、カンナムやブッチャー絡みが中心になるのです。そして鶴田は相変わらず地方でも天龍同盟とタッグで当たり続けますが、そのパートナーは基本カブキが担うことになっていました。馬場・谷津組などという以前はまず組まれなかったカードも簡単に組まれるようになりました。谷津は普通に”王者の魂”で入場してきたのでしょうか?とりあえず数値を拾ってみました。
①=鶴田とタッグを組んだ回数 ②=天龍とタッグで当たった回数
(89サマーアクションシリーズ 全20戦)①→6回、②→7回
(サマーアクションシリーズ2 全16戦) ①→4回、②→1回
(ジャイアントシリーズ 17戦のみ出場) ①→5回、②→4回
(世界最強タッグ 全20戦) ①→20回、②→7回
(90新春ジャイアントシリーズ 全20戦) ①→3回、②→0回
(エキサイトシリーズ 全10戦) ①→2回、②→0回
最強タッグ時は他のレスラーと組むとシリーズのコンセプト的に変になるので泣く泣く鶴田とのタッグを組み続けたのでしょうかね?
後述しますが、全日本本体対天龍同盟の関係が異様ともいえるくらいピリピリしたムードが充満していた新春ジャイアントシリーズでは谷津は天龍とは1回も当たっていないのです!そして次期シリーズも!その後は3シリーズ連続で初戦、および第2戦のみ出場して最後まで欠場しています。

結果的には谷津は1989年の世界最強タッグ最終戦武道館大会で天龍と当たってからは一切絡むことなしに全日本を離脱、10か月後、翌年9月20日のSWS旗揚げで天龍と久しぶりに戦ったのです。なぜこのような状況になったのか?
原因として直ぐに推測できるのが、谷津の”顔面麻痺”からくる体調不良です。 谷津は1989年ジャイアントシリーズ開幕時、「右顔面末梢神経麻痺」と診断を受けている事を明かし、世界タッグ戦が開催された愛知県立体育館大会は出場しましたが、顔面をカバーする仕草が顕著であり、結局シリーズ後半は欠場しています。
以降の谷津の動向ですが、翌最強タッグは流石に欠場する訳にはいかなかったのでしょう。谷津は顔面を防御するため、シリーズを通してヘッドギアを装着して出場。正直この効果はどれだけあるのか?という気がしましたが、最終戦まで欠場無しで頑張りました。ヘッドギアをした状態でヘッドバットを放つというイマイチ意味が分からない攻撃を編み出していました。

年が明け、ヘッドギアは外したものの、新春Gシリーズ、エキサイトシリーズとビッグマッチに絡まぬ地味な立場を貫きます。新春ジャイアントシリーズは中堅の高木功やマイティ井上が天龍に抗争を仕掛け、かなり殺気立った全日本正規軍対天龍同盟の構図が描かれましたが、谷津は試合にはもちろん、天龍が試合中、もしくは試合後大暴れしたとてセコンドとしてその姿を現すことは有りませんでした。これは当時谷津と行動を共にしていたという高野や仲野も同様でしたが、見てる側としては「彼らはやる気がないのかな?」と思ったものです。
そしてチャンピオンカーニバルの開幕戦。当初谷津・高野xゴディ・ウイリアムス戦がマッチメイクされていましたが、ゴディの乗った飛行機が成田に到着せず欠場。代わりに谷津とウイリアムスのシングルマッチが組まれました。
この試合中、谷津はウイリアムスの強引なバックドロップを喰らい頸椎捻挫、肋骨骨折のケガを負います。これによりこのシリーズは第2戦から最終戦まで欠場。鶴田とのコンビで出場予定だったWWFを迎え撃つ”レスリングサミット”についてもその役をキング・ハクに譲る羽目になりました。

翌スーパーパワーシリーズは開幕戦の東京体育館大会から出場。復帰試合は谷津・冬木対タイガー・川田戦。そう、三沢タイガーが試合中にマスクを脱いだ試合です。しかしあまり語られることはないのですが、谷津は試合中「前シリーズに痛めた首と肋骨を再び痛め」またもや最終戦まで欠場するのです。
ここまで連続した欠場が続いてくると、実際の所全日本ファンも週プロのように「お前もか?」なんて思っておらず、翌サマーアクションシリーズに出てきても「まあ、いずれいなくなるんだろうね」と大半の人が思っていたと思います。1990年に入ってからの谷津の精彩の無さは酷かったですよ。
ちなみに大量離脱後、サマーアクションシリーズで谷津は2試合だけ復帰しています。後に出版されたプロレス本では、復帰第一戦の鶴田・谷津対三沢・川田戦では「三沢組が客に分かりにくいように谷津にシビアな攻撃を仕掛け、ローンバトルを強いらせ、声を上げた谷津が離脱を決意した。」的な記事を見ました。

しかし、後日この試合を改めて見ましたが、谷津は確かに長時間捕まっており、スタミナ切れで息も上がっていましたが、三沢組のは「シビアな攻撃」というほどでもなかったですが。。。
経過はこのような状況なのですが、その原因として、好意的に考えるなら「顔面麻痺の回復が思わしくないが、そうそう休めないので年明けは騙し騙し試合をやっていた」という事なのかもしれません。それが動きの悪さにつながり、その後の怪我にも繋がったと。
谷津も全日本離脱の際の会見の際に「ケガして完治していないのにタイトルマッチをどんどん入れられちゃって。。。」と語っていたのはその事なのかもしれません。そういえば谷津は同じ会見時に「(全日本は)治療費をくれなかった!」と怒りをあらわにし大きな話題になりました。これに対する馬場の回答はやや曖昧でしたが、私の個人的感想としたら、「個人事業主の怪我の保証はまず交渉なのでは?怪我して病院に行ったら、すぐ入院費全額を調査もせずに支払う、なんてことは無いだろう。そもそも谷津は請求したのか?」と感じましたが。
それにしちゃあ、前年夏あたりからの①と②が顕著になっていたのが腑に落ちません。その前のシリーズはずっと地方でも常にジャンボと組み、天龍同盟と連日戦っていたのです。顔面麻痺発覚から2シリーズ前くらいからマッチメイクの”緩さ”が露骨すぎるのですよ。
そういえば、SWSによる全日本レスラー大量離脱の際、鶴田は谷津に対してかなり辛らつに批判していました。曰く「谷津が週2,3日でもいいから道場に来て練習していいコンディションを保っていたら保障に関する発言も説得力があったと思うんだけどね」という内容の発言でした。

これからは大胆な推測になるのですが、谷津はこの時期くらいからサイドビジネスに手を付けていた事を後年語っていたと思います。(輸入業?)ジャンボはこの点を揶揄したのではないでしょうか?更に大胆な仮説ですが、顔面麻痺はガチにせよ、サイドビジネスの関係があったから、肉体的ダメージが大きい天龍との対戦はできるだけ回避するよう馬場に頼んでいたのではないでしょうか?それが上記にあるようなマッチメイクの”緩さ”です。
あくまで推測ですがね!そして馬場も全面的にそれは飲むことはないが、人員不足故多少そのことは了承したものの、「そこまで言う事を聞いてやらねばならんのか?試合のクオリティは随分落ちているのに」という考えになってもおかしくないと思います。

年明けの時点ではウイリアムスの参加は確定していましたから、それで鶴龍コンビの復活を構想し、谷津のNO2からの”降格”を考えてもおかしくないと思います。そしてそれはエキサイトシリーズから実行されていたように思います。
中盤戦の露橋大会、鶴田と組んで殺人魚雷コンビと対戦した谷津は、ウイリアムスのオクラホマスタンピートを喰らい完敗してしまいます。正規軍最強コンビなのにいわば武道館メインの咬ませ犬的扱いを受けたわけですが、これは良くある話です。
しかし翌チャンカン開幕戦で谷津はシングルでもウイリアムスに完敗!急なマッチメイクとはいえこれはエグい!あえて言いますが、全日本は昔からトップレスラーに対しては連続で完敗を強いるようなことは中々無い団体です。いってこいが基本です。しかしこのような問答無用の連続完敗はもう谷津が見切りをつけられていたと思うのですよ。
ウイリアムスの相手は無難に高野か小橋、田上あたりでよかったのです。ただでさえクラッシャーのウイリアムスに態々コンディション不良の谷津をシングルであてるなんぞ、制裁に近い気がするのですね。案の定本当の負傷を負ったという事ですかね。私個人的には当初予定の谷津・高野対殺人魚雷の組み合わせでも谷津がピン負けしたのではないかと推測しているのですが。。。

そして天龍離脱後の東京体育館大会、ここでは天龍対ラッシャー木村のシングル戦がマッチメイク予定だったのは知られた話ですが(ラッシャーが前シリーズ謎の抗争を仕掛ける)、ではこの日のメインは元々なんだったのか?と推測すれば、残ったメンツを考えると殺人魚雷コンビに鶴田・谷津組が挑戦する世界タッグ戦、と考える方が自然です。実際の御大登場は天龍離脱というスキャンダルがあった為ですよ。
休養十分の谷津が3度目の完敗、とういうことになれば「オリンピックスはもうダメだね」という事になり、鶴龍再結成の流れが作りやすくなります。長丁場であったスーパーパワーシリーズは天龍の葛藤のドラマを作ったうえで後半の札幌中島あたりで、ハンセン・Dスミス組あたりに試運転。最終戦武道館で殺人魚雷対鶴龍コンビの世界タッグ戦、でうまくまとまる、というものですw

谷津にはそれまでカブキが担っていたような中堅勢のまとめ役、更にはかつてのサンダー杉山のようにサイドビジネスでちょくちょく欠場、という目論見だったのかも知れません。ただし、杉山やクツワダかつてそうなったようにそのような立場は居づらくなりがちですどね。
かなり話が横道にそれましたが、私の推測をまとめますと
① 谷津は自身のプライベートの事情と健康面により、1989年夏あたりから、肉体的ダメージの多い天龍との対戦をできるだけ避けるよう馬場に要請していたのではないか?
② たまたま全日本内の組み合わせの再編を目論んでいた馬場が、それを良いことに谷津の降格を考えた。
③ 谷津はそのことを薄々察知するも、自身のレスラーとしての価値を落としたくない故、再三欠場を繰り返し降格を先延ばしにしたのではないか?
④ 同時期、SWSの設立、引き抜き攻勢が判明し、「これに乗っかった方が自身の価値を高められる。欠場の件も治療費と絡めれば全日本は反論しにくいはず」と判断した谷津が自らSWSに入団を直訴したのではないか?
以上が妄想となります。最初にお話ししたように根拠となる証言が、曖昧もしくは乏しく、あくまで私の妄想が主体です。谷津さんには極めて失礼な内容ですが、あの当時はあまりにも一斉退団の衝撃が強すぎた故、個々の状況を掘り下げることが少なかった!
そんな中、一足遅れて入団を表明した谷津は、第三者の紹介でなくあくまで自身が動いたゆえの別ルートであることを当時から強調していました。そして当時から前年夏あたりからの谷津の試合が精彩を欠きがちであることを強く思っていた私にとっては「プラスアルファの事情があるのではないか?」と思っていました。今回の内容がその検証・推測結果となる訳です。
ただし、”鶴龍コンビ”復活にしても、SWSが無くても天龍が了承したかどうかは分かりませんし、渋々受け入れたとしてもその後ひと悶着あったのは間違いないでしょうね。
谷津の話は以上となるのですが、この話をするのであればもう一つ書いておきたい推測があります。それは三沢光晴、三沢タイガーの怪我から復帰後の冷遇についてです。三沢がマスクを脱いだのは自身のマスクマンとしての行き詰まりであったからのようですね。

そして天龍離脱後の武道館大会にて鶴田とのシングル戦がメインを張ったのは当時馬場のブレーン的存在であった週刊プロレス(当時)編集長のターザン山本氏の助言が大きかったようです。しかしそもそも御大は三沢を若手のトップとして鶴龍再結成後重宝しようとしていたのでしょうか?
文献を引っ張り出せなくて申し訳ありませんが、鶴龍再結成後、馬場は以下のような対立構造を作ろうとしていた、という話を複数件見た記憶があります。それによると①外国人勢 殺人魚雷およびハンセン・スパイビー、その他 ②正規軍 鶴龍及び谷津、カブキら中堅勢 ③若手軍 川田・高野・小橋らいわゆる”あすなろ杯”メンバー。そしてタイガーは②の正規軍に組み込まれるはずだった、というものです(ついでに言うと冬木も。冬木は天龍同盟解散後は主に鶴田とタッグ結成)
たしかにその話を裏付ける状況はいくつかあります。まず三沢タイガーの1年間における欠場からの復帰時の”雑な扱い”です。1989年の世界最強タッグ最終戦武道館大会で復帰の挨拶を行った三沢は翌新春ジャイアンシリーズ第一戦からサーキットに参加します。復帰戦のカードはタイガー・仲野組対キッド・スミス組、、、普通にキッド組が勝利しています。
三沢の右膝の怪我が相当に深刻なものであり、過酷な治療を行っていることはそれなりに報道されていたと思います。私はこの復帰戦をテレビでも見ましたが、全日本側も日テレも「お帰り!タイガー!」的な煽りはしているもののそれほど熱狂的なものでは無いように思えました。
また試合内容にしても、結果もエース外国人のブルドックスの強さの披露試合の雰囲気が強いもので、「三沢タイガーが長期の治療を乗り越えてリングに返ってきた!」という雰囲気には程遠いものでした。負けるのは仕方がないです。しかし私は当時「人員不足の全日本にとっては貴重な戦力の復帰なのに、えらく冷たい雰囲気だな」と思ったものです。
そして当時も違和感アリアリだった、小橋と組んでのアジアタッグ王座戴冠です。復帰後は小橋、もしくは北原とのタッグが多く組まれるようになり”小橋の後見人”的なイメージが大きくなりました。エキサイトシーズ最終戦武道館大会では唐突に小橋とのシングルマッチが組まれ(しかもセミの三冠戦の前!)三沢はかなりの急角度のタイガードライバーで小橋を葬っています。

そして翌チャンカンでのカンナムへのアジアタッグ挑戦。小橋の格上げ、と考えれば非常にわかりやすいですが、3年前鶴田と組んでPWF世界タッグ奪取済みの三沢にとって、今更アジアのベルトを巻くことに何の意味があったのでしょうか?ただでさえメインイベンターの壁を打ち破れずにいた三沢にとっては”中堅”のイメージを更に増幅させるものではなかったでしょうか?
私的には天龍離脱が判明するまで、鶴龍が復活していたとしても三沢タイガーは相変わらず彼らのサポート役の予定だったのではないかと思うのです。三沢自身が語っていたようにマスクを被ったままでは大会場のメインを任せるには無理があると思うのですよね。
1990年のチャンピオンカーニバル中も、三沢はファミリー軍団とタッグを組んだり、違和感ありありの寺西と急に連続で組んだり、、、とても温存されている存在ではなかったと思います。ただし川田、高野らのあすなろ軍にしても①②の対抗勢力の位置づけにはならなかったと思います。まだ若手には3冠の挑戦できるような選手はいなかったですからね。”決起軍”よりはちょっとまし、程度の扱いだったでしょう。
ただし、この案がどの時点まで有効であったのかよく分かりません。高野俊二なんかはSWSの存在が判明しする直前、1990年の3月末に全日本に辞表を提出していたことがゴングにすっぱ抜かれましたからね。直ぐにひっこめたようですが。
結果的にはSWSの侵攻、天龍の全日本離脱により三沢がマスクを脱ぐ必然性が高くなり、その後”超世代軍”結成、そして三沢の身を削った”四天王プロレス”はプロレスの歴史を大きく変えることになったと思います。”鶴龍コンビ結成”だったら全日本はジワジワ衰退していたのではないかと思います。
三沢タイガーは”売り出し中の小橋の兄貴分”としてアジアタッグ防衛線を重ねていったのか?谷津はファミリー軍団入りしたのか?

後年谷津さんは、全日本離脱の理由について「俺がいる事によって三沢や川田が伸びずらい環境にあったので敢えて身を引いた」的な発言をし、「後付けの自己弁護の発言だろう」と大いに批判されたものですが、でも冷静に見れば当たらずとも遠からず、だったんですね。
今日はこんなところです。それでは、また。