私の骨髄移植⑱ ついに骨髄移植!しかし、、、

こんにちは、みやけです。今回は骨髄移植の体験記の18回目です。

2018年8月某日、ついに骨髄移植が実現する運びとなりました。当日は妻・実母、そして鹿児島在住の義理の母も立ち会ってくれることになりました。ドナーさんからの骨髄の採集方法は「末梢血管細胞採集」です。これは採集数日前から、まず注射でドナーさんの白血球を増やし、採血で骨髄を採集する方法です。

この方法ですと、大きな注射を背中に刺す骨髄採集ではないのでドナーさんの負担は軽減されますが、一気に採集できないため、数日間かけて処置が行われることになります。すでに移植日の数日前から、ドナーさんが入院し採集が開始された、という情報が入ってきていたので私はホッとしていました。

というのもドナーさんからの「急なキャンセル」というケースはまれにあったりするのです。その理由になるのはドナーさんが急に健康を害したり、もしくは家族から猛反対されて泣く泣くキャンセルするという、、、「骨髄移植のドナーになって骨髄採集中亡くなったケースがある」という根も葉もない噂が一部で流れており(少なくとも国内でそんな例は確認されていない!)それで断念するケースもあったとか。。。

もちろん骨髄移植は商取引ではないですし、あくまでボランティア活動。受ける側としてはただただ待つわけしかないわけですが、日程が決まっていた場合患者側は放射線治療で体内で白血球をほぼ死滅させ待機している訳であり、そこでキャンセルとかになってしまうと命に直結するのですね。免疫力がほぼ0の状態なのですから。

という事で、ドナーさんからの骨髄採集もはじまりいよいよ移植手術を受けるだけ、という状況になった訳です。移植手術までの数日間は土日を挟んだこともあり、先生との会話もあまりなかったので普通に静かに過ごしていた記憶があります。「いよいよ移植が実現するのだ」と一人こっそり涙ぐむ、なんて気持ちにもなりませんでした。

当時書いていた日記を見返してみると、放射線照射の影響か倦怠感、若干の身体のかゆみはあるものの後は普通に過ごしていた、とあります。

やはり、移植後の副作用=GVHDの過酷さが最大の関心事であり、それが具体的にどんな状況になるかはその時になってみないと分からないので、見えない不安をじっと待つ心境であり、正直移植自体は単なる通過点でしかない感覚でした。

ただし骨髄を提供していただいたドナーさんには毎日感謝の気持ちを天に向けて捧げていました。骨髄バンクとの取り決めでドナーさんがどういう方なのかは知ることはできません。関東圏に住む中年の女性だとは教えてもらいましたが、、、術後1往復だけ手紙のやりとりはできるのですがそれ以外交流は持てないのです。

後日ゆっくり書きたいと思っていますが、その方からいただいた手紙は退院後、更には今に至るまで私の自室に額に入れて飾ってあります。机に座ると必ず目に入る位置にあります。「この方がドナーに登録してくれたからこそ、ようやくこの日を迎えることが出来た」本当に心からそう思いますし、自分にとって一生の宝物、というかうれしい出来事でした。

そして移植当日となりました。まず関東エリアの病院でドナーさんから骨髄採集終了後(数日に渡って採集している)ただちに骨髄バンクの社員が輸送、車で空港まで運び飛行機に搭乗、更に福岡到着後車で私が入院している病院まで届ける、というかなり人力に頼ったスケジュールです。そのため移植時間の予定は16~17時頃と言われていました。

その時間に合わせて私の妻、実母、妻の母が病院に来てくれることになりました。義母は数日前から私の家に泊まりスタンバイしてくれていました。そして当日の担当看護師は私の専属担当看護師でもあるⅠさん。。たまたまだと思うのですが、私的には「すべて理想的な準備が整った!」と悦に入っていました。やはりⅠさんが当日見届けてくれるのはうれしかったですね。

しかし当日朝10時過ぎ、急に担当医のC先生が急に私の病室に姿を現しました。その時間は外来診療でかなり忙しいはずなのです。私は少し、いや、かなり嫌な予感がしました。先生曰く「ドナーさんの骨髄採集は順調に進んでいたが、その量が今一つ少なかった。明日まで採集を続ければ十分目標量に事足りる。ドナーさんの承諾を得て、採集をもう1日延期し、移植も1日延期することになった。」とのことでした。

私はある種の覚悟をもって先生の話を聞いていたのですが、少し聞いただけでそのことは推測できたのでホッとしながら聞いていました。受ける側の1日延期なんぞなんてことはありません。これが「諸事情で移植は取り消しになった」なんて言われた日には、、、錯乱して点滴引っこ抜いてそのまま頭にチューブ巻いて大暴れしてたのではないでしょうか。。。

ただし、直ぐに「ドナーさんに申し訳ないな。せっかく自分の時間をつぶして何日も骨髄採集に協力してくれているのに。。。」と思いました。もちろんドナーさんが悪い訳ではないのです。おそらく体質的に白血球を増やす薬の効き目が弱かったのかも知れません。「あと一日だけ!なんとか頑張ってもらい、早く日常に戻ってもらえれば」そう思わずにはいられませんでした。

とりあえず妻に連絡し延期の事を伝えました。妻は「せっかくだからお見舞いに行こうか」と言ってくれましたが、皆の負担を考えその日は自由に過ごしてもらうようにしました。そして夕方当日担当看護師のⅠさんがシフトに入ってきました。移植延期の情報は既に入っていたようで「1日だけ我慢ですね~」と言って笑っていました。

聞くと明日の夕方のシフトは別の看護師のMさんとの事。Ⅰさんに看取って?もらえないのは残念でしたが、MさんもⅠさんに近いレベルで私が信用している人でしたので私はややホッとしました。前にも書きましたが私はⅠさん、Ⅿさん、そしてAさんが一番心が安らぐ看護師さんだったので移植当日はこの中の誰かが担当してほしい、そう願っていたのでホッとしました。

当日夜はぐっすり、、、と行きたいところですが、既に24時間点滴は始まっており、連日消灯時間になっても私のベッドの横の点滴の機械は不気味な赤いランプを煌々と照らして稼働しています。運動量も減っており日中それほど疲れた事をしているわけではないのでとても寝付けることはできませんでした。

翌朝、昼前には「ドナーさんからの骨髄採集がすべて完了した。骨髄バンクの輸送の人がもう出発したころ」との報告が病院から入りました。いよいよ移植実施です!まず妻に電話し予定通り本日夕方に移植が行われることを伝えました。それからは急に変なことをして体調が変化するのも嫌なのでボーっとして過ごした記憶があります。当時の日記に記されていた当日の状況について転写します。食事は完食したようです。

朝食=ロールパン、牛乳、人参シリシリ、サラダ、バナナ。昼食=焼き飯、餃子スープ、青菜、プリン。夕食=ごはん、チキンチョップ、カボチャ、オクラ。運動→腰ストレッチ、スクワット30x6回実施(夕食は移植前に済ます)

写真は移植前日の晩御飯

そして夕方18時半頃、予定時間から少し遅れて、「骨髄液が病院に到着した」との連絡が入りました。その少し前に妻達も病院に到着していました。骨髄投入の準備は既にできていたのでそれから30分もしない内に骨髄液のパックが点滴器具にセットされました。色は輸血のように濃い赤ではなく、ピンクというかやや黄色味を帯びた色だった記憶があります。

私は入院中の想いでは極力スマホで撮影するようにしていましたが流石にこの風景をベッドから起き上がって撮影する事はせず大人しく身を任せていました。そして担当責任者のC先生が恭しくスイッチを入れ、骨髄投入が始まりました。

19時よりいよいよ投入開始!時間は1時間30分程かります。通常の輸血と同じ時間ですね。私の血管内にドナーさんの骨髄が入ってきた瞬間、私はある種の感動の気持ちがこみ上げ思わず涙した、、、ドナーさんには申し訳ないですが実はそんなことはなく、ただ冷静に骨髄が移動しているチューブを眺めていた記憶があります。

順調に骨髄が流れ出すと、C先生は出て行ってしまい 30分おきくらいに様子を見に来るだけでした。担当看護師のMさんともう一人の方の看護師さんもいつものように15~20分おきくらいに様子を見に来るだけでしたね。妻達も病室内は狭いし、無菌室故マスクを含め仰々しい格好だしやることもないので1階のイートインスペースにお茶を飲みに行ってもらったりしました。

このようにそれほど濃密な時間が流れていたわけではないのですが、30分を経過したあたりからやはり今までの出来事が頭をよぎりました。初めてこの病院で病名を告げられた瞬間日にちまで確定し休職届を作成していたのに移植が流れた事いなくなっていくドナーさんドナーさん確保の為20キロ以上のダイエットに挑戦、成功そしてこの瞬間、、、数々の思い出が胸の奥をよぎりました。

そしてすべての骨髄液が私の体内に入り切ったのは20時半を回っていました。先生から「ついに終わりましたね。」というねぎらいの言葉をもらいました。そしてようやく帰宅されたようです。「先生もご苦労だな。」とつくづく感じました。妻達も安どして家に帰っていきました。しかし試練はこれからです。「おそらく今夜は確実に高熱が出るだろう。」と宣言されていました。

病室からすべての人がいなくなり、一人ベッドに横になって21時半ごろになると頭痛が襲ってきました。熱を計ると37.5度。 「いよいよ来たか!」という心境でしたが、とりあえず私はロキソニンを服用し再度横になりました。22時の消灯時には看護師のMさんから声をかけられ、その時はまだ良かったのですが、以降急速に熱が上昇するの感じられました。頭が揺さぶられ、割れるような痛みです。私は頭痛持ちではあるのですが、人生の中でこれほどひどい痛みに襲われた事は有りませんでした。髪の毛を鷲掴みにされ枕に頭部を叩きつけられている、そんな感覚でした。

既にロキソニンを服用したばかりなので、あとはどうする手立てもありません。室内は十分にエアコンが効いていましたが、私の身体はびっしり汗だらけになり、とにかく頭が締め付けられるような苦しい状況でした。頭以外の部分に異変を感じる事は無かったのですが、、、、

あまりに辛いので妻に電話しようかと思いましたが、夜も遅いしただ心配させるだけなので自嘲しました。妻もようやくひと段落してホッとしているでしょうし。。。。私は「おそらくなんの対処法もないだろうけど」と思いながらもナースコールを押しました。すると看護師のMさんがすぐ来てくれました。あの時のMさんのいつも通りの冷静かつ柔らかな表情は今でも私の記憶に強く残っています。

その時の私は相当に情けない表情だったと思います。そしてすがるような声で「このきつさ何とかならいでしょうかっ!」と声を絞り出しました。絶叫したい思いでしたがギリギリそれは踏みとどまりました。するとMさんは柔らかな笑みを浮かべながらこう言うのです。

「ロキソニンは服用したばかりなのですぐに何らかの解熱剤を追加するのはやめた方がいいでしょう。とりあえず30分おきに私が見回りに来て氷嚢を入れ替えます。その都度キツさを確認します。それでもどうしても耐えられなかったら、◎◎時まで我慢してもらって時間を前倒してロキソニンを服用しましょう。」

「その間40度を超えるようでしたら別の薬を服用します。もしそれでどうしても耐えられないようでしたら、血液の専門ではありませんが当直の先生に相談してもらいます。●●さんには今晩私がずっと気を付けていますので頑張ってください」

この言葉、本当に救われました。熱が下がった訳ではないのですが、これで不安感が吹き飛んだのです。私は性格的に「このあとどうなるか分らない」「想定外の事が起こった場合こう対処することになっている」事が分かっていないと異常に不安を感じる性格です。どんな方法で対処するか分かっていれば冷静になれるのです。

Mさんは普通にマニュアル通りの対処法を伝えたと思うのですが、それをすべて教えてくれたのには非常に有難かったです。思えばMさんには以前私がそんな性格であることを話していたような気もします。結果、私は「そうか、では処置は病院に任せて後は何とか痛みに耐えるだけだな」と腹をくくれました。

私はMさんにナースセンターに帰ってもらい、耐えがたきを耐える状況に突入しました。熱は収まった訳ではなかったですが、何というか、、、座禅を組んでいるような心境でひたすら耐えていました。頭の中で誰かの手が私の頭を力いっぱい押さえつけてくれたのが原因で熱を吹き飛ばすイメージを持ち続けていた記憶があります。

なんでそんなイメージを持ったのか分かりませんが、フロントヘッドロックで”落ちれば”眠りに入って痛みを感じなくて済む、無意識にそう思ったのかも知れません。阿修羅・原が高野俊二を絞め落としたように。。。

結果、Mさんが30分おきくらいに見回りに来てくれましたが、私からはコールをすることなく3時過ぎには眠りに落ちた様です。あまり覚えていないのですが、熱もその時間くらいまでは38.5~9度から中々落ちなかったようですが、徐々に下がっていったようです。

そして目が覚めたのは翌朝5時半ごろ。熱を計ると37.2度くらいでまだ頭の痛みは残っていましたが、昨晩の悶絶していた状況と比較すれば格段に快適でした。朝日を浴び部屋の中を見回すとようやく移植というハードルを乗り越えたことが実感できました。

「勝った!」

何に勝ったのかよく分かりませんが、間違いなくその時そう思いましたね。私の基礎体力が副作用に勝利した、という事でしょうか。。。とりあえずまた一歩前進した訳です。

しかし、これですべて解決、そんな事は無いのです。まず、移植してもらった骨髄が私の体内で正常に稼働するのか?それが最初の目標となります。そしてそれは100%確実ではないのです。稼働することを「生着」と呼ぶのですが、これがそうならない「生着不全」という状況は5%くらいの確率で発生するそうです。その場合、緊急で再移植が必要となる訳です。

そして生着していない以上、外部からくる病原菌から身体を守る白血球もほぼない状態ですから、極力菌を取り込まないよう外の世界から遮断されたこれまでの生活を続行する必要があります。また、他人の身体に取り込まれた骨髄は居心地が悪いと感じ、自分自身の身体を攻撃する事は普通に起こります。

これがGVHDと呼ばれる拒絶反応です。ドナーさん由来の細胞が患者さんの体を他人と認識して起こす免疫反応・合併症です。ホッとしたのもつかの間、これからはこれらの試練と闘う必要があるのです。実際のところ私にとって最大の試練はこれから後だったのです。それは直ぐに襲ってきました。

今日はこんなところです。それでは、また。

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