こんにちはみやけです。今回はプロレスの話です。2024年11月に急逝された昭和の名レスラーマイティ井上さんに関する話を書きたいと思います。特に井上選手が全日本プロレスにとってどういう存在であったか?について掘り下げてみたいと思います。ちなみに私は井上選手の大ファンでした!

ご存じのとおり、井上選手はまず国際プロレスに入団。ヨーロッパ各国を中心に世界中をサーキットした後凱旋帰国、1974年10月スーパースター・ビリー・グラハムを下しIWA世界ヘビー級王座を獲得。半年ほどの期間でしたが国際プロレスのエースとしてそのアクロバティックなレスリングで観客を沸かせました。
その後ラッシャー木村にエースの座は譲りましたが、団体のNO2として君臨、ジプシー・ジョー、アレックス・スミルノフ、マットドック・バション等と抗争を繰り広げる傍ら、草津、浜口、原らをパートナーにIWA世界タッグ王者として国際プロレスのタッグ戦線を賑わせました。
1981年の国際プロレス崩壊後は 吉原社長からの「新日本プロレスとの対抗戦出場」の要請を断り、米村天心、菅原伸義、冬木弘道らを引き連れ全日本プロレスに入団します。入団後は貴重な中堅選手として、インタージュニアヘビー級王座1回、アジアタッグ王座計2回、世界ジュニア王座を1回獲得し、更に通常の試合でもそのバラエティあふれるレスリングテクニックで唯一無二の個性を発揮した選手だったと思います。

井上選手は私も非常に好きなレスラーでした。私が生観戦した試合では特にビッグマッチを行った記憶はないのですが、なんて事はない通常の前座試合にて、連続でのヘッドシザースホイップや変形の回転エビ固めを次々に炸裂させ、まだ温まっていない客席が大きな歓声とどよめきに包まれるシーンを何度も目撃し、私自身は「マイティさんのこの程度の技で驚くのかい?まだまだ引き出しはあるというのに。。。w」と一人悦に入っていたものです。
そして本題に入る訳ですが、井上選手は特に全日本プロレス、ひいてはジャイアント馬場からどう評価されていたのか?がテーマとなります。国際時代の井上選手も検証したいところですが、そもそも私の住む福岡は日中まともに国際の地上波放送はされておらず、生観戦もしていないので語る資格はない!のでありますw
では全日本時代の井上選手です。ひと言でいえば「経験豊富なベテランとして重宝されていた」という事になります。しかしもちろんここでそれだけの事を言いたいのではない!であるならば高千穂も石川も渕も、新日本でいえば星野も小鉄さんも木戸も永源もそうなる訳です。

ただし彼らの場合、「やられ役を兼務しての経験豊富なベテラン」という立ち回りであり、基本的にシリーズ参加2番手3番手あたりまでの外国人選手の標的にされがちであり、シリーズ中再三彼らの必殺技でピンフォール負けを喰らう訳です。
しかし井上選手の場合、そのようないわゆる”ジョバー的役割”は最小限に抑えられており(ケリーの来日第一戦の相手を務めたりもしましたが)、あまり負ける側には回らない、興行中盤でのタッグマッチでもチームリーダーの場合が多い。レスラーとしての”格”が落ちないようかなり配慮がされていたのです。
そして常時スポットライトを浴びているわけではないものの、団体の描く”路線が”人材不足、行き詰った場合、「温存されていた」井上選手にお声がかかり期待通りの活躍を見せる、その繰り返してあったな、と思う訳であります。
そしてこの困ったときの●●は私的にはもう一人おり、それは新日本プロレスにおいての藤原喜明さんなのであります!組長も札幌でのテロ行為事件までは、ある意味温存されていましたが、スポットライトをほぼ浴びる事なしにあの日まで来た訳です。

しかし札幌事件を経て旧UWFにて”関節技の鬼”というイメージを周りに強く焼き付けて以降は、行くところ行くところで「困ったときの藤原喜明」として、「大物喰い」「両リン・反則心中」や「伸びてきた新鋭選手のストッパー」として貴重な存在であったと思っております。
であるなら、この企画は「困ったときの組長・マイティ」としての2段構えの方がバランスがいいのですが、検証の元となる資料(熱戦譜等)が不足しており、不十分な内容になってしまうと思いまして泣く泣く断念しました。私は某人間風車や、オリャの人とは違い組長には非常にシンパシーを持っていますので実に申し訳ないのですが、、、、

では、その「困ったときの」とはどのような状況か?を検証していきたいと思います。
まず、井上選手の全日本時代の最初の脚光は、入団直後の1981年全日本10周年記念蔵前大会、”蔵前4大決戦”と銘打たれミル・マスカラスの持つIWA世界王座(勿論国際の看板タイトルとは別物!)に挑戦したことです。これはもちろん馬場が困って井上を抜擢した訳ではなく、「猪木をガイにして馬場を選択したご褒美」として丁度いい塩梅の晴れ舞台を与えたという訳でしょうね。流石にフレアーの持つNWA世界王座に挑戦!なんて事にはなっておりません。
その後、1982年は中堅としてやや大人しくしていたようですが、翌1983年最初の「馬場が困った事」が発生します。
① 佐藤昭雄が王座返上したアジアタッグ王座を阿修羅・原をパートナーに奪取!
まあ、実際の所、この件では馬場は特別「困っていた」訳では無かったと思います。ただし原・井上の加入、大仁田・渕らの凱旋でレスラーとしての立ち位置が微妙になり、マッチメイカーの仕事も多くなってきた佐藤昭雄はアジア王者から外したかったのだろうな?という考えはあったと思います。
そして原は馬場夫妻のお気に入りでしたから、いずれ原・井上組は引っ張り上げようという心図つもりではあったと思いますね。ただし元国際のエースであった井上をアジアの王者に押し込める、というのも中々エグイ発想ですよね。

しかしこの元国際コンビ、結構面白い対戦相手に防衛を果たしてきたと思います。振り返れば、極道コンビとの王座決定戦を制した後、極道、石川・羽田組、石川・佐藤組、越中・三沢組、ジョー・モロー組、石川・佐藤組、ジョー・鶴見組という中々面白いメンツ相手に防衛を行っています。
その間、GCCⅢにてノンタイトルで天龍・石川組との白熱の名勝負(時間切れ引き分け)もありましたし、バランスの取れた非常にいいチームでしたね。しかしこのコンビ、井上選手がチャボ・ゲレロが保持し続けるインタージュニア王座奪取に専念するため、王座返上という事になります。
② 右ひざの怪我で再起不能となった大仁田厚の代役としてジュニア王者に君臨!
1982年春にインタージュニア王座を獲得し凱旋帰国した大仁田厚。当時全日本は明らかに大仁田を過剰にプッシュしていました。新日本で空前の人気を誇っていたタイガーマスクへの対抗もあったと思います。原・井上・石川らを押しのけて”4番手”扱いだったと思います。

しかし、ご承知の方も多いかと思いますが、大仁田は致命的に動きが悪かった!技の精度も粗すぎた!東京体育館での怪我は不幸でしたが、それまでのあまりに強引な技の仕掛け方を見ていればあんな事故が起こるのも納得というものです。
結果、1983年のグランドチャンピオンカーニバルⅡでは大仁田対チャボの遺恨対決が予定されていたのですが、それがケガで流れ、ジュニア王座決定リーグ戦が開催されます。しかし日本陣営の二番手はウルトラセブン!彼を蔵前でのビッグマッチの目玉にするには腰が引けたのでしょう。チャボ戴冠の後、蔵前で井上選手が減量して王座に挑戦する、という処置がとられました。

大仁田の怪我はもちろん想定外だったと思います。この頃の井上選手はややウエイトオーバー気味でしたので、リミットが適当な当時の全日本とはいえやはり見た目の”ジュニア感”が必要だと全日本側は思ったのでしょう、この時の挑戦では引き分けに終わり、渕の挑戦を挟んで翌年井上が2度目の挑戦でチャボに勝利することになるのです。
おそらく前年8月に渕が凱旋したあたりから、大仁田の怪我は重傷で今後第一戦での活躍は厳しいかもという状況は馬場も把握していたのではないかと思います。かといって凱旋帰国当時の渕はテクニックは磨かれているもののあまりに地味過ぎ!(「遠征前の方が良かった」と陰口をたたかれていました)、新星となるなる若手(三沢、川田)が伸びてくるまで、想定外ではあるがとりあえず貫禄のある井上にベルトを任せようとなったのではないかと思います。これが最初の「困った事」だという訳です。
③ ジュニア王座はタイガー・小林邦の元へ。中堅人材不足で再度アジアタッグ戴冠!
1985年井上選手はジュニアのベルトを巻いたまま長州率いるジャパン軍を迎え撃つことになるのですが、この奪回では「いずれベルトは(2代目)タイガーが巻く」事は既定路線だったと思います。井上は2月にチャボの挑戦を受けた後、5月にダイナマイト・キッドに逆さ押さえ込みで破れベルトを失いました。以降、ジュニア戦線からは一時撤退することになります。

この時キッドを挟んだのは「後輩の小林に負けるのは納得しがたいのでは?」と馬場が井上選手に配慮した結果ではないかと思います。その時阿修羅・原が正規軍を既に離脱、佐藤もアメリカでの生活を優先させるようになったため、アジアタッグを再度狙う石川敬士のパートナーが不在になります。
困った馬場は、ジュニアのベルトを失ってアジア王座を遠慮する理由がなくなった井上を再度チョイスしたという訳です。まあ、この時の井上の抜擢は自然な流れだったと思います。他にベルトを巻いてしかるべき中堅には全日本サイドにいなかったですから。1985年ワールドチャンピオンカーにバルにおいて寺西・保永組から王座を奪取。その後約1年に渡ってベルトは所持します。
この間いまひとつ挑戦者にも恵まれなかったため、記憶に残るタイトル戦というのは無かった気がします。しかし石川とのコンビは非常に安定感があり、双方プロレスが巧い!なんだかんだ言っても井上にとっては全日本時代は石川がベストパートナーだったように思うのです。

その後1986年ジャイアントシリーズにてマシン・原組にベルトを攫われます。この後もそうなんですが、全日本時代の井上は原の動向に左右されることが多かったんですよね。しかし翌1987年にジャパン軍が分裂。紆余曲折を経て再度アジアタッグのベルトは井上・石川組に戻ってきます。そしてその後1年に渡ってベルトは保持し続けます。
しかし1987年秋に新たなライバルが出現します。冬木弘道&川田利明の”フットルース”です。11月の初の王座挑戦時にはまだキャリアの未熟さが感じられた2人ですが、その後急速に成長。1987年3月には3度目の挑戦にてベルトを奪取することになります。
この2組の抗争は実に面白かった!時に井上と石川のヒールっぷりが実に際立っている。特に井上のテクニックとラフの使い分けが見事というしかない!ただしかしこの2組の抗争はフットルースの王座奪取で終わってしまうんですよね。実にもったいなかった!
④ マンネリが目立つ?渕に変わって再度ジュニア王座戴冠!百田ブームの火付け役となる?
アジアタッグ王座から転落以降、石川は鶴田・谷津・輪島等のタッグパートナーとして相変わらず活躍しておりましたが、井上選手に至っては徐々に活躍の場を中堅もしくは前座に近い選手に緩やかにシフトしていった感があります。
動き自体は衰えていなかったと思いますが、決起軍・フットルース・テンタ・高木・田上等全日本は未来を見据えて若手を積極起用していたため、そのような状況に陥ったと思います。この頃の井上選手は前座の2試合目くらいに登場することも珍しくなかったのですが、それでもあまり負け役には回らず格はギリギリ保っていた印象があります。

そして1989年1月、しばらくジュニア無敵の存在であった渕正信(というか1988年は2回しか防衛戦を行っていない!)を2度目の全日本登場であったジョー・マレンコが破り、その挑戦者に井上選手が指名されます。それだけでもやや驚きだったのですが、バリバリ全盛時であったマレンコを井上は地元大阪で破ってしまうのです。
この戴冠には結構驚きましたね。ただし試合内容的もマレンコと対等に渡り合っており、「お情けで勝った」的な印象は皆無でした。後になってから、なぜこの時井上選手に白矢の羽が託されたのか考えたのですが、渕の王者時代がややマンネリになりつつあり、存在も相変わらず地味であった為、一旦王座から引きずり降ろしてテコ入れしようと画策したのかもしれません。

同時期長年前座暮らしであった百田光雄がシングルで連勝街道を走り「百田ブーム」が巻き起こっていたため、馬場も百田の格上げを考えていたと思います。その場合、やや意地の悪い部分がある?渕よりどんな相手とも個性をうまく引き出せる井上の方が相性がいいのでは?と考えたような気がします。
結果、2月のエキサイトシリーズ開幕時に百田光は井上に挑戦、惜しくも敗れますが「あと少し」という感触をいただかせます。後年菊池の挑戦をバックドロップ8連発で完膚なきまでに叩きのめしたような渕相手だったら、ブームはここで終わっていたかもしれません。
結果、井上は最終戦の武道館で渕にベルトを戻し、その後仲野信市が渕を破り、その仲野を百田が下し見事王座奪取する訳です。百田の負け役を回り回して外様の仲野にやらせるなんぞ「馬場さん、えぐいな~」と思いましたよ。百田ってネタ選手に近い存在でしたからね~。
⑤ 人材不足故、天龍との抗争に突入!
世界ジュニアのベルトを落として以降、井上選手は大きなスポットライトが当たることもなく徐々に前座の2~3試合目に出場する事が増えてきます。1989年のジャイアントシリーズにおいて、ジョー・マレンコが保持する世界ジュニア王座の挑戦者を決めるリーグ戦が開催されますが、井上選手は寺西・百田光・小川には勝利しますが、仲野・渕に破れ挑戦権は得られずに終わります。
ここで渕に負けるのはともかく、今まで負けた事は無かった仲野に普通に負けてしまったことで、私は「マイティ井上の終焉」を感じたものです。しかし翌年早々井上選手は意外な抗争に身を置くことになります。何か悩みでもあるのか試合後異様なテンションで荒れ狂う事が多くなった天龍源一郎に対し「あれはやりすぎやろ!」という事で抗争の仲間入りをする訳です。
1990年新春ジャイアントシリーズ郡山大会にて鶴田・高木と組み、久ぶりに天龍同盟と相対した井上選手は、試合の権利があるのにリングサイドで全日本のセコンドの動きに気を取られていた天龍に対してフライングショルダーアタックを決め見事リンアウト勝ちをもぎ取ります。試合中の動きも見事なものでした。

しかし殊勲はこれだけでは終わらず、翌日の後楽園ホールのメインの6人タッグではサムソン冬木に飛びつき回転エビ固めを決めフォール勝ち。そして翌エキサイトシリーズ後楽園大会のセミでは川田利明からもサムソンクラッチでフォール勝ちをするのです!
見過ごされがちですが、これってなかなかすごい事なのです。というのも井上選手は1989年秋ごろにはそれまで負けた事は無かった寺西勇や鶴見五郎あたりに前座2,3試合目で負けるようになってきていたのです。単発的でしたが。

考えてみれば、1年前最強タッグ武道館メインを張った川田が、つい2,3か月前寺西や鶴見に負けていた井上選手に負けたのです。おそらく前年とは違い、前回の谷津選手に関するブログで推測したように全日本サイドに何かマッチメイク的に困ったことになっていたのではないかと思う訳ですよ~っ!
しかしこの時、井上選手のファイト内容が見るも無残に衰えていたらファンの共感を得なかったと思います。急に頼られることになってもしっかりその期待に応える井上選手は見事というしかないと思います。
⑥ 正規軍の重鎮として超世代軍の壁になる!
しかし天龍同盟との抗争はあっけなく幕が引かれます。3月のチャンピオンカーニバル中に天龍同盟が解散。更にはSWS移籍の為天龍が全日本を退団してしまったためです。これにて井上選手は元の中堅の鞘に納まるかと思われましたが、その後大量8選手が後を追って退団したため、全日本プロレスは一気に選手不足になります。
特に鶴田を筆頭とするベテラン中心の正規軍は谷津・カブキが退団したため渕しかいなくなり、やむなく超世代軍から田上を強奪!それでも”かき回し役””切込み隊長役”が圧倒的に不足していた為必然的に井上がその役を担うことになります。
本来なら前年ブレイクの兆しが見え始めていた小川良成がその役を任せられるところですが、当時再三悩まされていた右ひじの怪我でこの時も長期欠場中。井上は初来日の外国人のポリスマン役を担いつつ、正規軍対超世代軍の6人タッグに頻繁に駆り出されることになります。

サマーアクションシリーズ中に開催された後楽園ホールでの”ブロディ・メモリアルナイト”ではメインの6人タッグに出場し見事前アジアタッグ王者の小橋健太をフォール!更にこのシリーズでは待望の初来日を果たしていたテリー・テイラーと最終戦でぶつかり見事フォール勝ちを奪っています。(テイラーは2年後、新日本のG1クライマックスに参戦)
更には秋のジャイアントシリーズの最終戦相模原大会のメイン。井上選手はジャンボ鶴田と組み、三沢・川田組と対戦。惜しくも三沢のタイガードライバーに沈みましたが、テレビでも放映されたこの試合はこの1年の大活躍の集大成、井上選手への労いと言ってもいい好試合だったと思います。
そして翌年も引き続き井上選手は正規軍の重鎮として頻繁に超世代軍の面々と対戦。あのブラックハーツの初来日の相手を務める等奮闘していましたが(無茶な合体技であわや大怪我!)、小川選手がケガから復帰しメインに登場するようになると井上選手はそれと入れ替わるように前座試合に戻っていきました。

しかしこの時も井上選手は「衰えたから前座に戻った」のではなく「若手に道を譲った」という状況だったと思います。コンディション・ファイト内容のアクロバティックさは相変わらずでしたし、1992年の世界最強タッグにも2年連続でラッシャー木村選手と”国際プロレス最強コンビ”で出場しています。以降、すこしずつ前座、ファミリー軍団対悪役紹介の流れに身を置くことになり、糖尿病が悪化し長期欠場後1998年の引退につながる訳です。
こうしてみてみると、井上選手は外様でありながらも生え抜きと同じレベルで馬場から信頼されていたのだなと思います。そもそも入団の経緯からして経営者のプライドをくすぐるものであったのは間違いありません。馬場は”元IWA世界王者”という井上の価値ある肩書を利用しつつも、決して使い捨てにはせず、前座に戻す際も丁寧な扱いをしていた、と私は思うのです。

井上選手もそれにこたえ、常時良いコンディションを保ってきた。最後の超世代軍との抗争の際も「年老いた老レスラーが人員不足で引っ張り出された」感は無く、長年築き上げたその持ち味を十分に発揮していた感があるのです。
ただししかし、そのことを思えば馬場が最後に引退する井上選手を無碍に放り出そうとした、、、餞別の金封の中身が新聞紙であり、レフリー転向の希望をいつまでも回答を出さず引退式当日まで放置するという、、、(やむなく井上はセレモニー中、独断でレフリー転向を宣言)
まあ、これは馬場さんが他のレスラーにもしてきたことであり、あのジョーさんでさえ「金封の中身は新聞紙」事件を味わっているのですから井上選手にも普通の対応だったのかもしれません。全日本の観客動員も超世代軍ブームは過ぎ去り観客動員が厳しくなってきていましたしね。
でもやはりこの対応は酷かったと思いますよ!井上選手は国際プロレス在籍期間が14年、全日本プロレス在籍期間が17年、全日本の方に長く在籍したです!。その間いつ、何があってもいいようにず~っとスタンバイし続け、その役が回ってくれば十分にその役割を全うして静かに去ってゆく、、、なんとレスラーとして格好いい姿でしょうか!こんな人を冷たくあしらってはいかん!

私は馬場シンパではありますが、この井上選手の対処については「馬場は間違っていた!」と声を大にして言いたいです。健康状態が悪化した選手に引退勧告を出すのは団体のオーナーとしてやらなきゃいけない仕事だと思いますがこんな曖昧な対応はダメでしたよ!困ったときにあれだけ助けられたんですから。。。
最後にまとめたいと思います。井上選手のプロレスとは何なのかひと言で言うと、、、
サイケで思い切ったデザインのタイツをまとい、甲高い声で観客を引っ張り込みながら、会場の隅の客にもよくわかるような派手な技を繰り広げる”明るさ”
悪役紹介、ファミリー軍団、そして癖のある外国人選手相手にもそつなく対応する”楽しさ”
そして天龍同盟やジャパン軍との抗争、アジアタッグをめぐりライバルの中堅選手とのシビアな戦いにであっても、しっかりとした自分のプロレスを体現する”激しさ”

そうです!一時全日本プロレスが標榜していた
「明るく、楽しく、そして激しいプロレス」
というのは正に井上選手が一番ふさわしいんじゃないかと思います。ジャンボや天龍、そして馬場さんでもなんか違うような気がするのですよね。
今日はこんなところです。それでは、また。