こんにちは、みやけです。今回は6月3日に20年近い闘病生活の末ついに天に召された長嶋茂雄さんについて話をしたいと思います。私もまた長嶋さんが好きでした。

私は1967年生まれですので長嶋さんの現役時代は知らず、第一次政権時の90番の長嶋監督に大変思い入れがあります。そしてですね、現在では長嶋=ミスターの表記が多いのですが、私的には当時の主流の呼び名だった「チョーさん」の方がぴったりはまる!ですのでこのブログ、この回では長嶋さんの事は「チョーさん」で統一したいと思います。
逝去以降、チョーさんの写真は、例の空振りしてヘルメットが吹っ飛んだ(吹っ飛ばした?)画像が使われることが多いですが、あれはチョーさんという野球人の一部の姿。90番時代の長嶋さんは「監督なのに天真爛漫、屈託がない」印象が強く、そこに憧れていたので、私的には上のように末次選手を両手を広げて満面の笑みで迎える画像(後述)が大好きなのですよ!
私がプロ野球に興味を持ち始めたのが1975年(小学校3年時)からですので、上にも書いたように当然チョーさんの現役時代については全く知りません。1974年の引退試合については(平日開催だったと思いますが)生放送なのか、ワイドショーの録画だったのか、おぼろげながら見た記憶はあります。

チョーさんの引退セレモニーを見た後、野球というものに大変興味を持ち始め、特に20代前半まで、私の興味は「プロ野球(巨人)」「プロレス」「沢田研二」の3台巨頭が支配しておりました。(+ビートたけし!)特に一番熱を入れていたのが「プロ野球」です。元来おとなしく運動神経も悪い私は小学生時代は友達も少なく引きこもりに近い生活を送っていましたが、一念発起し中学・高校では野球部に入部しました。
その部内では一時は50人近い部員の中で実力的に最下位に近い存在でしたが、当時巨人に在籍していた早大出身の俊足内野手、松本匡史さんが足を活かすためチョーさんのアドバイスで左打ちに転向、血のにじむ努力を経てブレイクし始めたのに感化を受け私も目立つために私も左打ちにチャレンジしました。部内に左打者がほとんどいなかったので個性を出そうと考えたのです。

かなり追い込まれていた私は少ないお小遣いをはたいて通販で1.2キロ重量の素振り用金属バットを購入。学校から帰宅した後毎晩1時間程度の素振りを日課としていたました。元々左利きの素地はあった為か恐ろしいほどのパワーが付き、中学・高校と準レギュラーで終わったものの、「長打力を秘めた不気味な存在」として、時には3番、5番で先発で出場したり、ホームランも何本か打つことが出来ました。
しかし、私としては尊敬の対象となる存在の野球人は王貞治さんでした。王さんに興味を持ち出したのも、丁度王さんがアーロンと日本でホームラン競争を行ったイベントを何かで見たのがきっかけだったと思います。ベーブルースの記録に並び、ハンク・アーロンの世界記録を抜く渦中が私の小学生時代でしたから、王さんは”聖人”たる存在だったですね。王さんは多くの子供たちから”尊敬”される存在の人でした。

では長嶋さんは私にとってどう映っていたか?まず当時の監督って、今よりももっと「チームの顔」としての存在が大きかったと思います。”上田阪急”とか”野村南海””古葉カープ”みたいに監督=チームみたいな印象が強くありました。今はだいぶそれは薄まりましたが、野球中継でベンチの監督の表情が何度も何度もアップされていましたし、、最近は個々の選手チーム優先ですよね。それはマスコミ側の考えもそうだったと思います。
そんな中でも長嶋さんはどうだったか?世間的には「”あの”長嶋が監督になっても目立ってばかりいるよな」という、リスペクトされつつも、当時は氏の庶民的な雰囲気が強い故やや軽く見られて、頻繁に弄られていたような気がします。「王は完璧すぎてヤジりにくいけど、長嶋は遠慮なくヤジれる」みたいな。そして巨人で何かあれば「長嶋巨人がどうのこうの」と長嶋を絡めて報道されていた気がします。
特に印象深かったのが昭和51年(初リーグ優勝時)の公式戦初勝利のスポーツ紙の報道についてです。開幕戦は引きわけ、第2戦は期待の若手左腕新浦が先発するも打ち込まれ途中降板、その後阪急から移籍してきた水谷孝投手が好リリーフし6-2で勝利するのです。
水谷投手は昭和40年代に阪急ブレーブスに在籍し、米田・梶本・山田・足立らとともにローテーションの一角を担い昭和43年には15勝をあげました、しかし40年代後半には徐々に成績が降下し、この年から島野修投手とのトレードで巨人に移籍していたのです。

昭和50年は故障の為登板なしに終わっていましたが、実績のある投手ですからチョーさん的には期待していたと思います。しかしこの開幕2戦に勝利を挙げた以外は目立った活躍は出来ず翌年阪急に復帰しています。問題はこの開幕第2戦を報じたスポーツ紙の見出し(東京スポーツ?)、そこには
「水谷、ありがとう!」
と書かれてあったのです。私は当時小学4年生でしたが、なぜここでチョーさん目線での記事になっているのか変に思いました。「新天地で活躍した水谷投手を普通に褒める見出しにすればいいのに」と感じたのです。しかしこれは序の口でした。結局一事が万事メディアの巨人の記事は「長嶋」というフィルターを通し、長嶋が感じたであろう事を推測した形となるのです。
例えるなら「長嶋、痛恨!」とか「長嶋、狂喜!」とか「長嶋、錯乱!」とか、、、王さんが決勝ホームラン打ったってそんな感じなのです。プロレスだったら「馬場、血だるま!」「猪木、瀕死!」とか選手が主体の見出しになるんですけどねえ、、、(笑)

しかし、段々と私は「長嶋茂雄とは、普通の人とは違う、何かを超越した存在なんだ」と捉えるようになりました。そしてその上をいくようなチョーさんの言動・行動を体感し「この人はそのような扱いを受けるべくしてそうなった稀有な人なんだ」と思うようになりました。当時のチョーさんはかなり弄られることが多かったと思いますが、それも含めてすべてを包み込むような存在だったと思います。
私は少年時代、他の友人と同じように少年ジャンプを愛読していましたが、一番のお気に入りは「サーキットの狼」でもなく「進め!パイレーツ!」「亀有」でもなく「1・2のアッホ!!」(作・コンタロウ)でした(笑)。学園漫画という体裁を取りながらも当時話題の有名人をパロディとして毎週登場させるというどちらかというと大人向けのシニカルなギャグ漫画でしたが、私的にはそのひねくれた作風が大好きでした。ただし周囲に「アッホが好きだ」という仲間は誰一人いなかったですが。。。

そして、その中に出てくる「流目茂雄」というキャラクターが本当に実際のチョーさんのおとぼけぶりととってもシンクロしており、かえって親近感を深めていった感があります。しかし「流目茂雄」って凄いキャラ名、、、ちなみに王さんは「陽打春(よう打ちはる)」でした(笑)
そんな中、私にとってチョーさんの最も印象的なシーンは昭和51年夏に阪神戦で末次利光選手が打った逆転満塁サヨナラホームランを迎えるシーンです。末次選手は昭和40年代主にONの後の5番打者を任され勝負強い打撃でV9に大きく貢献した熊本県出身の外野手です。
しかし典型的な”肥後もっこす”タイプの末次選手は無口でひたすら地味。タイトル獲得歴もなくこのシーンが現役生活唯一の晴れ舞台ではなかったかと思います。しかし下の写真で分かるように末次を出迎えるチョーさんは両手を広げる派手なパフォーマンス、そして末次には脇目触れずチョーさんにレンズを向けるカメラマン、、、、

もちろんここで、はしゃぐチョーさんの悪口を言いたいわけではないのです。当時の事とはいえそれが普通だと思わせるようなチョーさんの人間的魅力があったのだと思うのです。私は承認欲求の強い人間故、このような天真爛漫で自分の気持ちを素直に表現できる人間が非常に羨ましいのですね。そして世間にはそういう人もまた大勢いるのではないでしょうか?
この頃までのチョーさんは本当に感情を全身全霊でさらけ出していたと思います。そして私はそんなチョーさんに自然と憧れを感じていました。自分にはないものを持つことへの憧憬でした。野球人としてよりもその人間的魅力が好きでした。
しかし、チョーさんは昭和55年の秋、成績不振で事実上巨人軍を解任されていしまいます。そして長い浪人期間を経て平成4年に巨人に復帰。第2次政権を敷き、平成6年の中日ドラゴンズとの優勝決定戦をいわゆる「国民的行事」と称し相変わらず世間の注目の的となりました。
そして私もこの頃は相変わらず巨人を応援してはいましたが、何となく巨人にもチョーさんにも冷めつつあった気がします。チームの巨人については、地元・福岡に「福岡ダイエーホークス」という球団が誕生したことが大きな理由だと思います。しかしチョーさんについては。。。。

推測ですが、第1次政権時の退団の際のイザコザはチョーさんに大きな心の傷を残したと思います。そして監督復帰後、私にはどうしても心に影が出来たように思えたのです。もちろん年齢的にいつまでも天真爛漫な感じではいられなかったとは思いますが、何かどこかで深い影を引きずっているようにしか思えなかった。表情もどこかひきつったような部分があるような気がしてなりませんでした。
そして、復帰に至るまでの巨人との確執。それを乗り越えて巨人に戻ってきたとは思うのですが、私には「プロ野球を超越した存在」から「読売という枠の中の偉い人」に格落ちした感が否めなかった。その為私的にはチョーさん、およびプロ野球への興味がだんだん薄れていった気がします。
しかし2004年に脳梗塞に倒れ入院、それからのリハビリ姿には流石に私も心を打たれました。あれだけ「人からどう見られるか?」を常に意識して生きてきた方が、右手が不自由となり、「長嶋語」で世間を虜にしてきた方が、言葉が自由に発せられないという。。。
最初、チョーさんのそのような姿を見るのは正直痛々しいものがありました、しかし私は2006年頃今の妻と交際を初め結婚に至るのですがその際、妻の父がやはり50代半ばに勤務中脳梗塞に倒れ、奇跡に近い状態で命は取り留めたもののチョーさんと正に同じような状況にある事を知りました。

義父は私と初めて会った際は右手の麻痺は賢明なリハビリでほぼ回復していたのですが、言葉の不明瞭さは充分には回復しておらず晩年のチョーさんとほぼ同じ状況でした。人の良い義父は何かと私を気にかけ、会うと色々と話しかけてくれ、お互いに野球が好きなものですからその話題を懸命に話すのですが、私はどうしても義父の言葉を聞き取ることに難儀し、何度もその内容について聞き返してまっていました。
その都度私はちょっとしたプレッシャーに襲われるのですが、逆の見方をしてみれば義父のほうこそもどかしく辛いのだろうな、とグッと来たものです。
義父は倒れた当時は自治体の要職についておりお人好しで皆からちやほやされることが好きな性格、機会があればカラオケで美声を披露していた人ですので、声が出なくなるのは本当に辛かっただろうなとつくづく思いました。妻に聞くとそれが一番堪え、死のうかと考えたこともあったとの事です。
そして、当然その姿はチョーさんと重なる訳です。何度も放映されるリハビリの姿を見て義父は自らを鼓舞し懸命に取り組み相当の回復を見せたとの事です。逆の見方をすればチョーさんもまた義父と同じように絶望を感じながらイチからリハビリに取り組んだであろうことは鈍い私にもようやく理解でしました。「チョーさんのような何もかも手に入れた人でも健康を害するとこのような試練に立ち向かわなければならないのか!」そう思ったものです。

チョーさんが倒れた当時、無責任なマスコミたちはアテネ五輪の監督復帰を模索し、「ベンチに入らなくても看護師付のゲストルームで采配を振るえばよい」等と勝手な報道を垂れ流していましたが、実情はそんなどころではなかったと思います。
そして私的には、ここにおいてようやくチョーさんへの想いが蘇ってきたものです。あれだけ天真爛漫だった方が「身体を動かす」という人間の基本的行動に制限がかかった状態をさらけ出し取り組む姿。アントニオ猪木さんもそうでしたが、そこで”狂わず”原点に立ち戻れることはなんと尊い事かと思いました。
NHKが報道したチョーさんのロングインタビューでは「長嶋茂雄でずっといる事は辛いこともあった」と語っておられました。それでも「練習は人目を避けたが、リハビリは敢えて公開しよう」と考えたのは、ファンに対しての「礼儀」と考えたのかな?と思いました。
今回チョーさんの逝去に際し、色々な方がコメントを発していましたが、私にとっては糸井重里さんがXで呟いた「長嶋茂雄という人はあれだけ大病をしても、いくら年齢を重ねても、不自由になったけど、みっともない老人にはならなかったなあ。なるんだよ、多くの人はみっともない老人に」というコメントです。

一見、ちょっと突き放したようなコメントですが、老人との付き合いが多い人にはとても共感できる話ではないでしょうか?糸井さん自身も高齢者の範疇に入ると思いますが、そう感じることの連続なのではないかな?と思うのです。
私たち一般人が思いつくだけでも、80歳を過ぎてまで権力の座にしがみつく政治家、明らかに厄介者にしかなっていないのに地上波のMCの座や特別扱いに固執するタレント・大御所歌手、スポーツ界の重鎮、教育者、宗教家。。。。まあ、いるわいるわ!
何度でも言いますが、80を過ぎて不特定多数の中の中心になろうなんて行為は自分が客観的に見たらどう見えるのかが分かっていない証拠!ホントみっともない!ジュリーのように自分の事を理解した上で集まってくれる人達の中で自分を表現するのが理想ですよ!

そしてチョーさんは、泣き言をいう訳でもなく、”長嶋茂雄”というブランドを全うしてこの世を去っていきました。その際ご当人は何を感じたのか?僭越ながら私が声をかけさせてもらえるとしたら、「本当にお疲れ様でした。」そんな月並みの言葉しかないかなあ、と思います。「長嶋茂雄」を続けることのプレッシャーは本人にしかわからなかったと思います。
私としては王さんの弔辞の最後の部分「長島茂雄に戻ってゆっくりとお眠りください。さようなら。」、、、ここは泣けてしょうがなかったですね。特に最後の「さようなら」というのが色々な思いが含まれているようで。

チョーさんは天国でゆっくりしてほしいですし、王さんはできるだけ長生きしてほしい。心からそう思います。王さんは福岡で結構小さな地域イベントにも顔を出し、相変わらずちびっこ相手に何やら指導してたりしてます。元気ですよ、相変わらず。話も明瞭で危なっかしくないし、たけしさん・王さん・ジュリー、この3人が私の最後の砦です。

まとめるとですね、今回の訃報、チョーさんの状態からして近いうちにこのようなことになるであろうことは皆薄々とは感じていたと思います。ただし改めてその現実を突きつけられると、チョーさんの足跡には自身が体験した挫折、悩み、失敗がオーバーラップしてきてしまう、、そんな事はないでしょうか?
”天才””スーパースター”と言われながら私生活を含めたその生き方は実に人間くさい味のある人だったなあ、とつくづく思います。
長嶋さん、色々楽しませていただき、本当にありがとうございました。
最後に曲を紹介して終わりたいと思います。ビートたけしさんが若い頃にリリースした「おれに歌わせろ!」とうアルバムがあるのですが、その中に「いじけ、いじけて」という歌があります。この歌の中で長嶋さんの名前が出てきます。

この歌はたけしさん作詞の歌で、うだつの上がらない中年男性が何をやってもうまくいかない自身の事を仲間に愚痴り、最後に「オイッ!今日もまた長嶋の話をしよう!」と叫び、悪酒を飲んで憂さを晴らそうとするという内容です。
たけしさんがチョーさんの信奉者であることは良く知られた話ですが、最後のサビの歌詞は泣かせる!当時の男性にとってチョーさんがどんな存在であったのか?チョーさんの話さえすれば日々の嫌な事も忘れられる、そんな存在だったんだあなあ、と思う訳です。
初見の方も、聞いたことがある方も是非聞いてください!
今日はこんなところです。それでは、また。