50歳を過ぎて日本マットを襲った外国人レスラーたち(更新版)

こんにちは、みやけです。今回はプロレスの話です。以前公開しましたが消失してしまった回について加筆して書き直した内容となります。

筆者は今年、58歳となりました。なんとか仕事は続けていますが、すっかり体力は衰え、特に今年の猛暑にはグロッキー寸前!役職定年扱いとなり勤務先からはさほど重要視されていないことを良いことに、月1~2回は有休を入れ込むことで何とか生きながらえております。

夏に限ってですが、週5日フルタイムで働くことさえもかなりキツイんですわ!しかしかつてのマット界、プロレスラーにおいてはそのジャンルの特殊性もあってか、50歳を過ぎたレスラーが普通に来日、ツアーに参加しておりましたし、若干動きは衰えながらもかつてのパフォーマンスを”それなりに”披露して観客を沸かせることも珍しくなかったですね。

しかし多くの場合、特別ビッグマッチには携わらず前座4~5試合目くらいで中堅相手に”楽しい”プロレスを披露する事がパターンだったと思います。ザ・デストロイヤーをはじめとして、マスカラス、ドリー・ファンク・jrあたりがそうなりますか。

しかし中には団体側の事情によって、戦いの最前線に送られ、20代~30代前半の全盛時の選手に混ざってハードな試合をこなした強者もいる訳でして、ここではそのタフなレスラーたちを称えよう?というものです。

私も大病を患った50歳くらいから体力的にはがっくり来ましたし、その年齢でタイツ1枚で全国回って連日ハードな受け身を取る、なんて考えられんのですよ!とりあえず偉大なその面々を順位付けしましてリストアップしたいと思うのです。

① ザ・シーク

1926年6月9日生まれ。51歳の時にオープンタッグ参戦!その後も5年連続参加。

とにかくシークは何から何まで規格外!そもそも日本プロレスへの初来日が1971年であり、この時既に45歳!馬場も猪木も引退が囁かれていた年齢です。その後、全日本、新日本への登場を経てオープンタッグ戦でブッチャーとの合体を果たした時は既に51歳だったわけですね。

彼の場合、入場時に中々リングに上がってこず、リングサイドを3分以上徘徊するなんぞ序の口。いざ試合が始まっても早々に場外乱闘に持ち込むので、スタミナなどあまり関係なかったのかも知れません。試合中も「凶器を持っている、いない」のレフリーとの駆け引きがやたら長いし。。。。

1981年、55歳でマーク・ルーインとコンビを組み最強タッグに参戦以降は馬場からお呼びがかからず、流石にこでフェイドアウトと思わせましたが、1991年になんと65歳で衝撃のFMW参戦!これには私も驚きましたが、つくづく「大仁田は頭が良いなあ」と思ったものです。

シークの場合年を取っても知名度は抜群!そこそこの集客力はあるだろうし、元々まともなレスリングはやらないのですから、外国人選手軍団のボスとして、自身はあまり試合に参加せず司令塔役としてでかい顔をしていればいいのですから、、、私は元々大仁田の事はあまり好きではないですが、この時は発想のすばらしさに敬服しましたね。

ところが、シークの奮戦は私の想像の遥か上をいっていました。大仁田のシングルタイトルに挑戦し10分以上戦うわ、挙句の果てにはファイアーデスマッチに挑み酸欠状態で命を落としかけるわ、、、すごいとしか言いようがないですよ。

その後も継続して来日し、結局1998年72歳!で引退セレモニーを行い、2003年に76歳でアラーの神の元に旅立っていきました。本名「エドワード・ファーハット」。しかし日本のプロレスファンの前では最後の最後まで”ザ・シーク”であり続けました。

「ローリングストーンズがワシの集客力に敬服して控室にあいさつに来た」だの「ブルーノ・サンマルチノをノックアウトしてベルトを奪ったが、ヤツが泣いて頼むからベルトは返してやった」」だの真偽不明のホラ話も山ほどあるシーク。そういう部分も含めて正にプロレスラーの鑑と言っていい存在でしたね。

② バーン・ガニア

1926年2月26日生まれ。1970年に44歳で国際プロレスに初来日。長らく”AWAの帝王”として王座に君臨。1976年、50歳になったばかりで全日本プロレスに初登場。ジャンボ鶴田の”試練の十番勝負”の相手を務める。

1981年に54歳でAWA王者として来日し、ジャイアント馬場の3000試合連続出場記念試合の相手を務め、東京スポーツ主催のプロレス大賞、年間最高試合賞を受賞

もともとあまり受け身は積極的に取らず、ノラリクラリと相手の技を受け流すスタイルが功を奏したのか、長年に渡りトップレスラーに君臨したガニア。というかレスラーとしての実績のほとんどが「AWAの帝王」であった印象です。

馬場との試合は55歳を迎える直前だったのですが、ドロップキックをいきなり繰り出し、世界の16文を翻弄。年明けの試合というハンディを背負いながらも年間最高試合を取ってしまうのですからたいしたものです。

身長180㎝そこそこのガニアと馬場では試合がかみ合わないかと思いましたが、今見返すと背後から飛び乗ってのしかかる様なスリーパーホールドは中々理にかなっていて見ごたえがある!

ただ、私的には16文に対してダメージが極力残らない様滑り込む様に受け身を取るガニアにカチンときた馬場さんが、かわず掛けの際は右手でガニアに肩を掴み受け身を取りにくいよう引きずり倒して嫌がらせ?をしているシーンが印象的でした。

晩年は少し気の毒な人生を歩んだガニアでしたが、あの身体でマット界に睨みを利かせる存在となったのは大したものです。まあ、ドリーやシンのような受け身を最小限に抑えるプロレスを行っていれば長いレスラー生活を送ることが可能、といういい例のレスラーだった、という印象です。

③ ニック・ボックウィンクル

1934年12月6日生まれ。49歳の時にAWA王者として来日、鶴田の挑戦に破れ王座陥落。同年最強タッグ参戦中に50歳を迎え、53歳時にAWA王座に復帰、鶴田のインター王座にも挑戦

一応ニックは第3位としましたが、試合のクオリティの高さでは1位でないかと思います。特に鶴田にベルトを奪われながらも試合中常にペースを握らせず観客にその秘めた実力を見せつけた1984年2月の蔵前・大阪の試合は見事というしかない!

この試合は49歳ではありましたが、蔵前での試合開始直後のフライングボディアタックなんぞほれぼれしますね!その若さに。同年の最強タッグにてレイスとの世界王者コンビで参戦した際は50歳を迎えていたわけですが、衰えは全く感じられなかった!

ニックの場合、普段は大学教授のような温和な表情をしているのが、試合中ヒール的ファイトに切り替えてくると、実に残忍な表情に変貌していくのが魅力的でした。ヘアスタイルが乱れてくるのがそのきっかけだという印象があります。

1987年にも来日し鶴田のインター王座に挑戦。この時は若干下半身が細くなっていたのを気にしてか、えんじ色のロングタイツを装着していました。しかしファイトに衰えは感じられなかったですね。惜しむらくはこの試合が生中継だったためか9分少々でアッと言う間に終わってしまったのが残念ではありました。

その後新日本プロレスに初登場し、マサ斉藤をエキビジションマッチを行いましたが、相変わらず衰えは感じさせませんでした。

長らく「マネージャーのボビー・ヒーナンが試合中ちょっかいを出すことで長らく王者で居続けられてている」という見方をされていましたが、結局ヒーナンを帯同しての来日は一度もなかったのが面白い所です。

④ ルー・テーズ

1916年4月24日生まれ。50歳の時に日本プロレスに久々に来日し、馬場のインター王座に挑戦(馬場は王座初戴冠直後)。57歳の時に新日本プロレスに初登場し、ルー・テーズと組み、世界最強タッグ戦に挑む。

馬場さんの出世試合と言われている東京体育館のインター戦時にテーズはもう50歳だったとは驚きです。その後も幾多の団体と関係を持ったテーズですが、新日本マット登場時の最強タッグ戦、および猪木に挑戦したNWF戦でも、見た目のジジイ感は感じられたものの、バックドロップ他技のキレは見事なものであり、メインイベンターとして十分なコンディションを保っていたと思います。

その後、国際・全日本にコーチとして招聘されエキビションマッチにも出場。全日本の道場で三沢に決めたバックドロップは恐ろしい切れ味でした。そして1990年新日本プロレスの浜松アリーナ大会に74歳で参戦し、蝶野正洋とエキジビションマッチを敢行。敗れはしたもののバックドロップもそれなりの説得力を保っており、生中継での”鉄人”の健在ぶりを遺憾なく見せつけましたね。

今現在では色々な”レジェンドマッチ”が行われているようですが、70代のレスラーでこれほどしっかりしたバックドロップを打てるレスラーがいるのかどうか?晩年の私生活では色々不遇な面も多かったようですが、日本マットへ蒔いた種は非常に意義があったと思いますね。

 パット・オコーナー

1927年8月22日生まれ。1973年に46歳で全日本プロレス初登場。PWF王座争奪戦に参加し馬場と名勝負を見せる。1978年エキサイトシリーズに50歳で再登場。中堅どころは総なめ。1982年にも54歳で参戦しニックとタッグ結成。馬場・鶴田組と対戦。健在ぶりを見せる。

正直な話、50代中はそれほど日本でビッグマッチに絡んではいないのですが、色々と”高齢レスラーにしては頑張っていた”ポイントが数多くありランキングに入れさせていただきました。

まず、PWF争奪戦での仙台での試合は(46歳ですが)プロレス評論家の流智美さんが「ジャイアント馬場のベストマッチ」と評するくらいオコーナーの良さが十分に発揮された試合だったようです。残念ながら私は未だに動画を確認できていない!

オープン選手権にも参加し実力者ぶりを発揮。50歳を過ぎた1978年の参戦でも鳥栖大会で急にマッチメイクされた試合、オコーナー&ネルソン・ロイヤル対ジノ・フェルナンデス&アル・マドリルという異色のマッチメイクでも”魔術師”のテクニックを存分に披露し、最後はオコーナーズ・ロールアップでジノを葬りました。

1982年での来日でもメインに登場し健在ぶりを見せつけましたが、一番プロレスファンに残っているのは、1986年59歳の時にプロレス入りした輪島博士のコーチに指名されつきっきりで横綱を指導していたシーンではないでしょうか?

ウエイトは若干アップしていましたが、動きは59歳とは思えないキレの良さであり「まだまだ現役でも行けるのでは?」と思ったものです。

オープン選手権にも参戦していますし、1982年の来日も同時期に新日本に来日していたカール・ゴッチへの対抗策だったと見る向きもあるようです。あまり表面には出ませんでしたが、御大的にはオコーナーは全日本の”裏ポリスマン”的存在だったのではないでしょうか?

⑥ ブルート・バーナード

1921年6月6日生まれ。1968年に47歳で日本プロレスに初来日。大木金太郎相手に”耳そぎ事件”を起こす。1975年に54歳で新日本プロレスに初登場。最後の来日は1978年、坂口・小林が保持する北米タッグにキラー・カール・クラップと組んで挑戦するも敗退。

バーナードについては一時年をごまかしていたようですが、それにしても新日本ではもう50代半ばの登場でありながらも、それなりに外国人側エースとして活躍していたのだから大したものです。私も見ていた頃は小学生でしたが、シン・バーナードは本当に頭がおかしい人だと確信していた!

よくよく見れば、表情といい体形と言い50過ぎと言われれば確かにそうなのですが、あのサイコパスキャラの印象が強すぎて「実は結構高齢なのでは?」という印象を挟ませなかった気がします。

彼が全日・国際に行かず新日本に上がったのは正解だった気がします。猪木や坂口のような「シュッとした」レスラー相手だったが故 バーナードのサイコパス性が受け入れられた、御大相手だったら双方フリークス的な世界が強すぎて、、、、これくらいにしておきます(笑)

山本小鉄さんからは「実はレスリングは上手い」と評価されていたようですね。私はバーナードのファイトはうろ覚えではあるのですが、自身の長所と短所をよく分かっており、それでトップレスラーとして生き延びることに成功したような気がします。

最後はピストル自殺という悲劇的結末でこの世を去ったのも色々と考えさせられます。

番外 ジャイアント馬場

1938年1月23日生まれ。52歳の時にアンドレとのコンビを実現。同年1月にはタッグで天龍からランニングネックブリーカードロップでフォール勝ち。4月には新装東京体育館のメインでテリー・ゴディにピンフォール負けを喫するも同年の最強タッグで返り討ちのピンフォール勝ち。

56歳ではハンセンとの”夢のタッグ”で武道館のメインに登場。三沢光晴のトップロープからのネックブリーカードロップでピンフォール負け。

もちろん、御大は全日本プロレスのトップであり、”外国人”と括っている以上、このランクに入れるべきではないのですが、色々と記したい案件もあり”特別枠”として掲載させていただきます。

52歳の時の同年世界最強タッグでアンドレ・ザ・ジャイアントと”大巨人コンビ”を結成。トップを独走していましたが、函館大会でのファンクス戦で試合中左大腿骨を骨折。復帰まで半年を要する痛恨の結果となりました。

この負傷はアクシデントである事は間違いないとは思うのですが、その裏には確実にこの年での”勤続疲労”が大きかったと思います。すでに52歳を迎えていたこの年、正月のシリーズで天龍からピンフォール勝ちを奪ったのは「大人の事情」が大きかったと思いますが、同時期の「日米レスリングサミット」でのWWFとの交渉及び新日本との共闘。

更にはメガメスーパーの引き抜きによる、離脱者の法的対処と団体の立て直し、結果自身も再度上の方で試合をすることが多くなり、秋にはデビュー30周年記念イベント開催、そして最強タッグではアンドレとのコンビで出場。どう見ても働きすぎでしたよ!

「大巨人コンビ」については「自分はゆったり構えて入ればいいから楽だ」と言ってはいましたが、実際のところはそうでもなかったと思います。というのも当時のアンドレはかなり動けなくなっており、試合を作るというのはほぼできない。結果御大があの年で先兵役となってとりあえず動き回らねばならないのが現状だったと思います。

結果、殺人魚雷、三沢川田組、鶴田田上組と言ったバリバリ全盛時のコンビ相手でも自身が前面に出なければならず、あのような怪我を負ってしまったのは自然な流れだと思うのですよ。

結果復帰はしましたがロープに振ってのカウンター16文は打てなくなり、相手が突っ込んくるところに左足を上げる、というパターンへの変更を余儀なくされましたからね。代償は大きかったと思います。

しかしその後、デビアスの負傷というアクシデントを経てハンセンとタッグ結成。56歳で武道館のメインを張り、30分を超えるロングマッチをこなしたのは馬場さんの最後の意地だったと思います。

というところで、頑張ったレスラーはこれくらいにして、以降は「50過ぎて態々来日したのにひどい目に逢った男たち」をリストアップしたいと思います。正直こちらの方が個人的には共感できる。。。

◎ マリオ・ミラノ

1935年5月13日生まれ。1985年、50歳の時に久々の来日。後楽園ホールでシンと組んで馬場・石川組と対戦。石川のトップロープからのギロチンドロップをもろに受け失神。悪質ファンからの「死んじゃった」コールを受ける。後日のインタビューで「日本人がそんなことをコールするとは思わなかった!」と激怒した。

馬場からは「イタリア系レスラー・木偶の坊3人の中では一番マシ」とされていたミラノ(あと2人はドン・デヌーチとバロン・シクルナ)。若い頃は猪木からも「タッグを組んでみたい」と請われる等有望なレスラーでしたが、今一つ勝負への執着心が薄かったようで大成には至らなかったと思います。

しかし、馬場からは評価されていたようで、全日本の準レギュラーとして来日を重ねていました。そして1985年の4年ぶりでの来日では他にいわゆる”やられ役外人”が不在だったため、外国人トリオの先兵役を全面的に背負い込む羽目になりました。

この時ジャスト50歳。血気盛んな天龍、石川、長州、谷津といったところの得意技を連日受けるのは相当にハードだったと思うのですよ。

件のギロチンドロップもミラノの受け身のタイミングを取り損ねた感はあるのですが、それにしても「死んじゃった」コールはあまりに酷い!当時のモラルの無い一部のファンだと思うのですが、これがあったから今に至るまで私は長年のプロレスファンでありながら後楽園ホールに行く気にはならなかった!

確か当時の「デラックスプロレス」か何かでこのコールについて怒りを露にしていましたが、それは分かりますよ!

◎ ジン・キニスキー

1928年11月23日生まれ。1979年に50歳で全日本プロレスに再登場。鶴田のUN王座に挑戦するはずがコンディション不良で辞退する。代わりに?馬場とシングルマッチを行うがリングアウトで敗れこれが最後の来日となる。

全日本には計3度登場。2回の登場でもややしぼんだ印象がありましたが、3度目の登場では胸板、太もも、肩の筋肉がゴッソリ落ちており激やせ!動きはそれほど悪くなかったのですが、シリーズ終了後はプロレスマスコミからも酷評され、以降は「久しぶりに来てみたら無残な衰え方をしていた代表」みたいな扱いになってしまいました。

ただし元々キニスキー親分は筋骨隆々のタイプではなく全盛時も肉付きの良い方ではありませんでしたからこの扱いはちょっと酷でしたね。日本プロレス時代の1970年、馬場からにインター王座を奪った際も画像で見る限りはやや痩せた感じですもんね(この時42歳)

しかし馬場の引退興行の際は久しぶりに来日し、ドームのスクリーンの過去動画に大きなリアクションを取っていたのは微笑ましかったですね。

◎ グレート・アントニオ

1925年10月10日生まれ。1961年に日本プロレスに来日しバスを引っ張るパフォーマンスで大ブームを巻き起こした後(当時36歳)、1977年に52歳で新日本プロレスに16年ぶりに来日。蔵前国技館で猪木とのシングルマッチに臨みKO負け。

この回では新日本系レスラーがあまり登場していません。あえて避けているわけではなく、新日本プロレスはそういう方針だったのかは分かりませんが、高齢レスラーはあまり招へいに積極的ではなかったのです。

上記バーナードだけが例外と言ってもいいかもしれません。ただし怪物系レスラーに関しては新日本の方が積極的に招聘していた印象です。

創世期にはジェシー・ジェームス(来日時55歳)とかジョン・ハイドマン(同50歳)とかの老雄を呼んでますけどね。それからハンス・シュミット(同50歳)!印象的なのは上の画像で挙げている49歳でアンドレと組んでMSGシリーズで奮戦したスェード・ハンセンくらいでしょうか?

しかし怪物系レスラーは全日本より呼んでいる印象があります。アントニオが招へいに至ったきっかけは、前年カナダに遠征した国際プロレスのマイティ井上がアントニオがまだ現地で細々レスラー生活を送っている事をマスコミに話し、新日本がその記事をヒントに声をかけたようです。

しかしもう既に実力のほどはとうにバレているアントニオを蔵前のメインで使うってねえ、、、、同じシリーズにはアンドレも来ているのに。同時期の全日本はオープンタッグを開催しており豪華メンバーを揃えていただけに、逆にヤケクソでゲテモノレスラーで逆張りしたとしか思えないんですよね。

まあ、アントニオの場合「当人がかなり変人で同業者への変な噂が広がりにくい」「元々引退同様でありKO負けも今後のプロレス活動に大きな影響があると思えない」「レスリングテクニックに乏しく反撃してくる可能性が低い」等成立させるに色々な好条件がそろっていたとは思いますが。

◎ ジプシー・ジョー

1933年12月2日生まれ。1975年に42歳で国際プロに初来日。国際のエース外国人として木村・井上らと抗争。その後全日本プロレスに移籍。最後の全日登場は当時51歳。G浜田、栗栖、永源、小鹿と言った選手からにもピンフォール負け。

ジョーもまた、40過ぎてから初来日したクチなのですが、それから「椅子叩かれパフォーマンス」に代表する身体を張った試合を続けていたのは見事なものです。しかも米中央マットでは無名でしたから日本で開花した訳ですし。

全日本には1981年に47歳で登場。最初は鶴田の持つUNヘビー級王座位に挑戦する等それなりの扱いを受けていましたが徐々にじり貧となります。それでも1984年までは石川・井上クラスとは同格扱いにみえました。

しかし1985年の新春シリーズで激やせして来日。雰囲気にも覇気が無く、流智美氏のインタビューでは「当時主戦場のカンサス地区のギャラが安すぎで飯が食えてない」等と愚痴っていたらしいですが、とにかく上記に記したように今まで負けたことが無かった選手からことごとくピンフォール負けを喫する惨状でした。

この年は夏にも参戦を果たしますが、コンディションは回復しておらず、「椅子パフォーマンス」もなんだかやる側がほどほどに加減していた感もありました。「これでジョーも見納めか」と誰もが思いましたが、1991年にW★INGに57歳で久々の参戦!この時はもうちょっと見るのが痛々しい感じのヨレヨレの肉体でしたね。

それもほどなく参戦が終わりましたが、不死身のジョーは2010年に77歳で久々に来日してTAJIRIと試合を行った模様です。

◎ キラー・トーア・カマタ

1937年3月9日生まれ。国際プロレスに38歳で初来日、全日本には41歳で登場。馬場からPWF王座を奪う等エース外国人として頻繁に来日した。1985年の来日まではギリギリ2,3番手の位置を保っていたが1987年に50歳で久々の来日時はすっかり悪役オーラが消え去っており石川、仲野クラスからもピンフォール負けを喫する。

カマタの場合全日本ではエース格としての来日も多く、正直優遇されていたと思います。以前も書きましたが馬場がカマタにPWFのベルトを任せたのは「巨人は初物に弱い」という当時のプロ野球でのあるある?を流用して、ハプニング的な敗戦を印象付けたかったのではないかと思います。

しかし、グレート・マーシャルボーグを帯同してきたあたりから一気に扱いが悪くなった印象があります。同時期、ブッチャーが新日本に移籍し、シーク・コックス・ルーインといった全日本創世期を支えたレスラーの来日が途絶えだした時期でした。ハンセン・ブロディらの台頭もあって昔の血をピュンピュン流しながらラフ一辺倒の選手は淘汰したかったのかもしれません。

であったとしても、カマタは元PWF王者であり、全日本への貢献度も高かかったと思うのに最後の来日の扱いは酷かったと思います。連日ピンフォール負けしていましたからねえ、、、確かに動きはかなり緩慢になってはいましたが。

私はこの時の福岡国際センターでのカマタの試合をはっきり覚えています。相手は永源遥。連戦連敗のカマタはひょっとして永源にも負けるのか?と思ったものでしたが、、、、試合内容を書いてみたいと思います。

先に永源が入場。追ってカマタが例の不気味な例のテーマに乗って入場するも、リングインする瞬間に永源がパンチで襲い掛かりカマタはたまらずエプロンでダウン!構わず永源は連続のストンピング!&例によって「いくぞ~!」の雄たけび!しかし同じ行動を2度繰り返す際にカマタが下から急所打ちを放ち永源はたまらずダウン!

悶絶する永源にカマタは地獄突き?を放ちカマタは自らロープに飛んでフライングボディプレス!で3カウント!1分35秒、体固めでカマタの勝利でした、、、しかし永源相手ならもうちょっと強い勝ち方をできなかったものか?「お前はグレート・マーシャルボーグかっ?!」と言いたくなるようなしょっぱい試合でしたね。

後、個人的には1978年の世界最強タッグにて、シークが負傷しカマタがブッチャーのパートナとしてリーグ戦を急遽引き継いだ訳ですが、シーク負傷の2日後には福島での興行に出場していた、という驚異的フットワークの軽さも評価したいところです(笑)

最後に、日本で昭和期に活躍した日本人レスラーが50歳の時にどのような状況だったのか?記してみたいと思います。

・アントニオ猪木 

 1993年に50歳を迎える。湾岸戦争終結に関わったのち、スポーツ平和党所属の参議院議員として活躍中。プロレスは将来の引退を視野に限定出場。

・坂口征ニ

1992年に50歳を迎える。その2年前に現役引退。社長就任3年目。大都市重視型のサーキットを拡張。同年新日本プロレス設立20周年記念大会でストロング小林とタッグを組み限定復帰。シン・上田組と対戦。

・大木金太郎

1979年に50歳を迎える。5年近く全日本プロレスの外国人サイドから出場していたが、この年より国際プロレスのマットに上がり始める。翌年入団し保持していたインターヘビー級王座の防衛戦を行うも1年で退団。

・ラッシャー木村

1991年に50歳を迎える。前年に天龍がSWSに移籍し全日本を退団。時を同じくして三沢光晴を中心とする”超世代軍”がブームとなり、ほぼファミリー軍団としての試合が主体となる、この年まで世界最強タッグに出場。

・ジャンボ鶴田

2000年に49歳で没

・天龍源一郎

2000年に50歳を迎える。WARはほぼ解散状態でフリーとして活動中。新日本の登場も一段落していたが、全日本プロレスの大量離脱を受け、馬場元子夫人から請われ、約10年ぶりに全日本復帰。

・藤波辰巳

2003年に50歳を迎える。前年に社長就任。多忙を理由に現役生活は一時休業状態。

・長州力

2001年に50歳を迎える。1998年にいったん引退していたが、2000年に大仁田厚に挑発され、現役復帰。その後限定で試合出場。52歳でWJ旗揚げ

こうしてみるとバリバリ現役だったのは、大木・天龍くらいだけかな?という気がしますね。大木も2年後には日本での試合は終了してますし。天龍が長年トップで戦い続けられたのは、プロレス入りが26歳と遅かったのが理由かもしれませんね。

今日はこんなところです。今現在では50どころか、60歳、70歳のレスラーでもリングに立てる場があるようですが、流石にそれは見ようという気になりません。単純にイベントの延長でも試合は勘弁してほしいですね。

逆に言えば、説得力の動きが可能なのは50代が限度かな?という気もします。

あ、それから日本プロレス、および国際プロレスにまで範囲を広げるとまだまだ出てきそうですが、そうなるともう手に負えなさそうなので程ほどにしております。それでは、また。

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