私の骨髄移植⑮ 骨髄移植へ向け入院・白衣の天使の羽音

こんにちは、みやけです。今回は私の骨髄移植の回想回の15回目です。紆余曲折あったもののなんとか移植のドナーさんが確定し、会社を休職、入院する運びとなりました。入院は2018年の7月中旬です。

会社に対しては1年間の休職届を提出しました。私の会社は創業50年くらいなのですが、休職は最長1年、過去そこまで休んだ人間はいなかった模様です。1年経過後復職できなければ解雇となります。前回移植が流れた時はGVHDを甘く見ており「移植後半年で職場に戻ろう」と考えていましたが、さすがにそれは考え直しました。

しかし身体が回復し復帰を希望したとしてもその前に産業医の診断を受けGOサインを貰わねばなりません。いろいろあって私は会社から好意的に見られているとは言い難い人間だっため、あまりギリギリで復職の意思表示を示したとしても健康状態ではねられるかもしれない、と考えました。

ですので、休職希望期間は7月上旬から1年間とし、体調的によくなっても翌年4月くらいまでは静養に努め、5月の連休前位に復職の意思を示そうと計画を立てました。産業医の反応が良くなくても2か月あれば色々と手を打てるのではないか?そう考えたのです。結局1年間の休職申請は受理されました。

入院した部屋は当然無菌室、個室となります。個室の場合普通は6000~10000円くらいの別途部屋代がかかってくると思うのですが、移植で免疫力が少ないため私の希望とは別に是が非でも無菌室に入らねばならないため、部屋代の請求は無しという取り決めになっていました。これは助かりました。

担当医は「移植後症状が安定すれば大部屋に移ってもらう可能性もあるが、そのような状態になるなら逆に退院してもらうだろう」との事でした。そして入院直後の血液数値は以下の通りです。

  

血液関連は相当に無残な数値です。何故か血小板は放射線治療直前まで基準値はずっとクリアしていたのですが(移植後は逆になった)、赤血球・白血球・ヘモグロビン値は基準の半分程度ですからねえ、、、まあ良く持ったものですよ。この時期はビダーザ治療もあまり効かなくなっていましたから。

そしてこの後本格的に移植へ向けての準備が始まる訳です。今後はその時の状況、心境を書いていくつもりなのですが、今回は入院中私が関わった看護師さん達の事を書いてみたいと思います。私は医療関係者のたくさんの人たちに助けられ、感謝してもしきれないのですが、その機会もないのでここに記したいと思うのです。

元々私はあまり外交的な性格ではありません。特に若い頃は相当に人見知りが強い人間でした。結婚してからはそれなりに改善されましたが、やはり会話するしっかり相手の目を見て話ができるタイプではないのです。女性の兄弟がいなかった事もあって異性と話すのも直ぐに身構えてしまいます。

しかし、長期入院するにあったって「それではダメだろう」と考えるようになりました。治療においては放射線を浴び髪の毛をすべて失うという容姿の変貌もありますが、更には強い吐き気・高熱・下痢・倦怠感等で周囲に相当に情けない姿を露にすることになります。

その場合、看護師さんに全面的に自身の体調をさらけ出し、ケアしてもらわねばならないわけであり、「気恥ずかしい」等と感じて遠慮していてはかえって自分自身に悪影響になる、と思いました。ですので医療関係者の方たちには全面的な信頼を置き、その気持ちが伝わるようこちらからその意思を示そう。話すときは口角を上げ笑顔で会話をしよう!と考えたのです。

要は看護師さんたちには味方になってもらおう、と考えたです。もちろんあの人たちは仕事でこの職業をチョイスしているわけですから、業務以上の事を求めるのは間違いです。でも”心からの好意的な気持ち”というのがあれば、間違いなくそれは伝わるはずだ!と確信していました。後日仲良くなった複数の看護師さんに対してその事を聞きましたが皆「とは言っても皆生身の人間なんだから確かにそうだ」と答えてくれました。

入院以降、関わった看護師さんたちは20人近くになると思いますが、私は心を開放しなるべくあの人たちの立場に立って体調の変化や辛い点を遠慮なく話そう、感謝の気持ちも照れずに伝えよう、と心がけました。肉体的にきつくても投げやりな態度にならない様に。結果大半の看護師さんの方と良好な関係を築けたと思います。最初は照れて仕方がなかったですが、自分の命と引き換えだ、と思ったらすぐに慣れました。

そして現代の看護師さんたちは昔と変わらぬくらい大変に多忙になっている事を痛感しました。私はこの20年近く前、30歳の頃糖尿病が悪化し某大病院に1ヶ月程入院しましたが、生命の危険とかは無かったので気楽な入院でした。そして大部屋に回ってくる看護師さんたちも割とのんびりしていて、世間話が弾んで15分くらい話し込むことも稀ではなかったと思います。

しかし今回入院してみると、見回りに来る看護師さんたちは全てキャスターに乗ったパソコンを帯同、その場で私の状況を入力しテキパキと忙しそうに動いていました。こちらから積極的に口を開かなければ世間話をする雰囲気ではなかったと思います。就寝前の最終回覧も多忙故22時を回ることも多々ありました。

そんな中でも私は心に決めた上記の行動を心がけていたので特に数人の看護師さんとは本当に良い関係を作ることが出来ました。今でも本当に有難かったと思っています。

まず最も感謝しなければならないのは、私の専属看護師となってくれた Iさん です。Iさんは30代前半の独身女性、病院には1時間近くかかる場所から通勤していました。元々は一般企業でOL(その会社も私が最初に務めていた会社と大きくかかわりがあった会社!)をしていましたが、訳あって看護師を志し退社して今に至ったとの事。

ただし十分な医療知識を取得しており、処置に不安感を覚えたことは一度もなく実に誠実で真面目に対処してくれる人でした。20代半ばで急に看護師を志したのだから色々な事があったんだろうな、と思ってしまいます。とにかく少しの変化も見落とさないよう常にアンテナを張り巡らしてくれている方でした。

Iさんはそれ程多弁な方ではないのですが、いつも優しく落ち着いており私の話も大変親身になって聴いてくれました。私はとにかく自分語りが好きな人間ですから、何かあると色々なジャンルの持論・世間話を偉そうに語っていたのですが、Iさんはいつでも辛抱強く(笑)私の話を最後まで聞いてくれました。

おそらく「また始まったよ」と思いながら聞いていたと思うのですが、それでもいつも私の機嫌に合わせながらリアクションを取ってくれ、承認欲求の強い身としてはIさんに話を聞いてもらうと心が休まりました。

更にIさんに素晴らしいところは対処の迅速さ!後に詳しく書きますが、私が移植を終えて数日後朝起きると喉の奥が大変腫れ、朝食も全く呑み込めないような状況になっていました。その日Iさんは朝9時から私についてくれたのですが、その事をぼやくとすぐに食物のサイズがどのくらいなら呑み込めるか私にヒアリングを行い、それが終わると直ぐに調理の窓口にその連絡を取ってくれたようで、次の昼食にはしっかり食物がそのサイズに細かくカットされた(パンや肉、野菜等)献立になっていたのにはびっくりしました。おそらく間に合うのは早くて夕食、まあ明日の朝からだろう、と私は思っていたので。。。。

惜しむらくは私の喉の腫れは想定以上に悪化してしまい、カットされた食事さえも喉を通せなくなっていました。それでも私は食事を残すのは努力してくれたIさんに申し訳ないと思い、無理やり食物を喉に通し腫れをさらに悪化させてしまったのは苦い思い出ですが。

またIさんは2日に1回は見舞いに来ていた私の妻に対しても非常によくケアしてくれました。不安を隠せない妻に対して「大丈夫です。●●さん(私の事)は本当にストイックに真面目に治療に向き合っています。辛くてこれが出来ない人が多いんです。こんな人はそういません。なのできっと治ります。」何度も励ましてくれたようです。

自分で言うのもなんですが、私は相当に真面目に治療に向き合っていましたので、担当医や看護師に対しても何事も隠すことはありませんでした。24時間点滴に繋がれいくら苦しくても自主的に決めた日三回の運動(スクワットと腹筋)は欠かしませんでした。そんな私の姿をIさんはちゃんと把握してくれてとても嬉しかったのを覚えています。

また、退院直前、退院後の日常生活の指針的なマニュアルを担当看護医師から確認する必要があるのですが、それの説明がIさんの勤務時間中に間に合わず、シフト終了後私服で資料のコピーを数十枚取って私にそれを持ってきてくれプライベートに時間を割いてまで私と読み合わせを行ってくれたのも非常にうれしく思いました。

50歳のガン患者と、30歳の担当看護師、私的にはその関係は双方依存しあったものではなく、「信頼し合ったチームメイト」という風に捉えていました。私は野球経験者なものですからそういう発想になるのです。「病状を軽くして少しでも早く日常生活を送る」という共通の目的に関してお互い真摯に努力していった結果です。

最後はお礼を言って握手してお別れする事が出来ましたがIさんにはいくら感謝してもしきれません。何年か前に確認した時にはまだ同じ病棟におられるようでしたが。

また、別の看護士のAさんにも本当にお世話になりました。Aさんはやはり30歳くらいの小柄な女性でしたが、Iさんとは対照的にノリがよく大変話しやすく私のボケにもしっかり乗ってくれる人でした。大人数の兄弟の長女、という感じの方でしたね。私には異性の兄弟がいなかったのでとても新鮮で楽しく会話が出来た人でした。

例えば、、、私が入院している病棟は6階でしたがたまに検査とかで1階の一般診察室にしばらく行ったりする訳です。その事をAさんに伝える際は「帰りにちょっと近所のパチンコ屋さんにも寄って行きますわ、夕食の18時までには帰るけんね。」と言ってボケる訳ですが、Aさんも「ん~、じゃあチョコレート貰ったら少しくださいね~」としっかり乗っかってくれる方でした。

私は移植後は強い頭痛と喉の腫れで会話をするのも億劫になり非常に辛い日々でしたが、Aさんが担当の日だと「楽しいやり取りができるから頑張って会話せねば」と自分を奮い立たせることが出来たものです。ただしAさんは明るさだけの人ではなく真剣な話をするとしっかりした答えを返してくれる人でもありました。割と裏情報的な話もしてくれました。

自分の事も良くしゃべってくれる人で、「彼氏はいるが中々結婚してくれない。もう5年以上付き合っているのに」とよくぼやいていました。退院後Iさんの事を聞いた時にAさんの事を聞くと「結婚して病院をやめられた」との事でした。

子供を育てるのを夢見ていた方なので幸せな結婚生活を送っていればいいなと心から思っています。Aさんの明るさにはとても助けられました。そして最後に忘れられないのがBさんという看護師さんです。

Bさんは多分40歳くらいの凛とした感じの女性でした。Iさん以上に冷静で真面目な感じの方でしたが、とっつきにくいということはなく、会話すると大変優しさに包まれた返事をする方であり、大きな母性が感じられる方でした。Bさんには大変印象深かった出来事がありました。

骨髄移植手術後、その日の夜間に担当してくれたのがBさんだったのです。「移植後の夜は間違いなくかなりの高熱が出るであろう」と担当医から予告されていました。他人の造血細胞を取り込んだのだからその反発が来るのは当然なのですが、ただでさえ私は放射線治療で白血球・赤血球がほぼゼロになって体力的にボロボロの状態でしたので、その熱が来るのが大変恐怖ではありました。

移植は18時頃終了し、20時頃には担当医も帰宅し見舞いに来ていた妻・実母・義母も家に戻りました。しかし22時頃から一気に頭が痛くなり検診してみると熱は39度を超えていました。人生でこれほど高い熱を出したのは初めてです。

基本的に、移植をしたがどうも具合が悪くその日のうちに命を落とす、なんてことはまずないのですが流石にこの時は生命の危機を感じました。ロキソニンを飲んでも全く効き目はなく私は絶望的になりました。ナースコールを鳴らすとBさんが直ぐに飛んできてくれました。その時の私は、間違いなくすがるような表情でBさんを迎え入れたと思います。

Bさんは私の訴えに対して、笑みを浮かべながら次の事をゆっくりと説明を始めました。「ロキソニンは服用したばかりなのですぐに何らかの解熱剤を追加するのはやめた方がいいでしょう。とりあえず30分おきに私が見回りに来て氷嚢を入れ替えます。その都度キツさを確認します。それでもどうしても耐えられなかったら、◎◎時まで我慢してもらって時間を前倒してロキソニンを服用しましょう。」

「その間40度を超えるようでしたら別の薬を服用します。もしそれでどうしても耐えられないようでしたら、血液の専門ではありませんが当直の先生に相談してもらいます。●●さんには今晩私がずっと気を付けていますので頑張ってください」と。

このセリフを聞いて私は心からホッとしました。Bさんとしては基本的な対処パターンを話しただけかもしれませんが、私にとっては「これから何があるかわからない」状況からこうなったら、こう対処する」というパターンをすべて提示してくれたのは、すごく救われた気持ちになりました。

そう感じたのは私の性格によるものが大きいと思いますが、医療従事者側が対処パターンをすべて提示してもらったのだから、私的には「そうか、ではあとはなんとか頑張って、その後は病院に任せるしかないな」と開き直ることができました。これがただ黙々と処置だけされたら不安感は全く収まらなかったでしょう。

Bさんは言った通り30分おきに私の具合を確認しに来てくれ激励の言葉をかけてくれました。熱もそれ以上は上がることはなく午前3時過ぎにはようやく私は睡眠に落ちた様です。結局入院中それ以上の高熱を出すことはありませんでした、

入院中最もつらかったのは長期的に悩まされた喉の腫れですが、やはりこの夜の高熱が一番強く印象つけられていますね。ただしこの夜をなんとか乗り切ったことで「これはもう勝ちパターンに乗った!今後もなんとか切り抜けられるのでは?」と自信を持つことができました。

私にしっかりと寄り添ってくれたこの日の夜のBさんの対処には本当に感謝しています。後日直接そのことを話すと笑いながら「全然普通の事ですよ」と話していました。でも私にとっては最も苦しい時に自分にとって最もベストな対応をしてもらった、というのは本当にありがたかった!後日Bさんの事を聞くと、理由は分かりませんが、病院を辞められたとのことです。残念でしたが、ご健闘を祈っています。

※写真はプロレスラーの小橋建太さん

退院の日、たまたまですが病棟を去る時間その3人は全員勤務中でしたのでそれぞれの方に挨拶することができました。スポーツ選手が長期入院して退院する際は花束が用意されていて、看護師の方たちと写真を撮る、というのが定番だと思うのですが、別にそんなシーンは設けられていませんでした(笑)看護師長さんからはお褒めの言葉をいただきましたが。

私は「今後月2回のペースで病院に行くのだから、ちょくちょく会う機会もあるだろう」と考えていたのですが皆さんがいるのは無菌病棟なのでズカズカ入っていくわけにはいきません。そうこうしているうちにコロナ過が訪れそんなことをするのは全く不可能な状態になりました。

でもコロナがなかったとしても、皆さん忙しい中「OBヅラ」して訪問するのは失礼だったでしょうね。結局お世話になった方々には退院以来お目にかかる事が出来ずにいる訳です。ただしかし、今に至るまで私の身体が順調に回復しているのは素晴らしいプロ意識を持った看護師さんたちが周りにいたからだ、と確信しています。

文中全然出てきませんでしたが、病気が良くなったのは私の担当医、そしてサボートしてくれた他の先生の努力があってこそです。随時私の治療方法はどうすべきか血液外来先の生全員で打合せを行っていたようです。ただし、担当医のC先生は現在進行形で私を担当しているので今いちウエットな気持ちになりません、申し訳ないですが。

私的にはメンタルの面で看護師さんたちの存在が大きかった!なんの医学的根拠もないのですが、強い気持ち、信じる気持ちを持つことで、絶対に病気は治る、とまでとは言わないものの治る方向に導かれる、とそう確信しています。

という事が今回の言いたいことです。次回から入院生活について書いていこうと思いましたが、もう一度同様の訴えをしたいのです。

それは若者たちへのエールです。私が入院していた部屋は児童病棟の横だったので、子供さんそして親御さんたちの様子がリアルに感じられ、色々と感じる事がありました。私みたいな人生を折り返した中高年にはただただ治ることだけを考えていればいいが、彼らは治った後でもその後の人生設計がある!それはあまりに過酷である!ということ。そして親御さんたちの精神的疲労。

そして私より後に入院したのにあっという間にこの世を去っていった青年もいました。それらのことについても思い出して書いてみたいと思います。

今日はこんなところです。それで、また。

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