ジュリーが博多で語ったコト2025年早春(前編) 

こんにちはみやけです。今回は沢田研二さんについて書きたいと思います。

2月22日(日)に福岡市民会館で行われたライブ「霜柱と蝋梅の森」に行ってまいりました。「ジュリーの声は絶好調らしい」という噂は聞いておりましたが、期待を上回るどころか、あまりにすばらしい内容にひとりで感極まってしまいましたよ。

当然、私の思いをウダウダと語りたいところですが、ここはグッと我慢し、(笑)今回もジュリーのMCの内容について、私の急速に衰えゆく頭脳をフル回転させてすべて記憶に叩き込んでまいりましたので、例によってその内容を文字起こししたいと思います。今回はこれのみです。私の感想は次回書きますのでどうかそれも読んでくださいね!

当然、企画の性質上実際にジュリーが語った内容と異なる点は多々あると思います。記憶が頼りですので。その点はどうかご了承ください。更には意味が伝わるよう私の主観でカッコを付ける等多少修正しております。またMC後半ジュリーが「ここだけの話しやぞ!」とおっしゃられた部分については文字起こしを自粛させていただきます。(笑)結構この尺も長かったんですけどね。ジュリーの身の安全の為ご理解いただきたく存じます。

それでは行きましょう!

ダーリング・熱唱~

ありがとう!サンキュー!ありがとうね!福岡市民会館!さようなら!福岡市民会館です!また10月来るけどね。新しいとこに。今日はね、博多!スッキやで!いっぱいやったとこやけど、僕らがタイガースの頃はまだなかった。フハハハ。タイガースの頃は九電(記念)体育館やね。

まだあるの?ない?無い無い無い無い。 いやあもう、ホンマに長い事やってます。えらい事です。 まいど!まいど!まいど!まいど!ありがとう。(拍手)新しいバンドです。改めて紹介します。。。。。(メンバー紹介) それではどうぞみなさん、最後までごゆっくり。

憎みきれないろくでなし へ

休憩終了

気絶してました。(笑)え~、6月の25日で77歳になります。(拍手)20歳の頃の時僕らに(取材に)来た大人の記者さんたちに「60歳になっている時にどうなっていると思いますか?」と聞かれて。その頃なんてねえ、ホントにこんな仕事で、長く続けられるという世の中じゃなかったんですよ。

芸能界って認められていない時代で、今なんかのユーチューバーとかじゃなくて世間に口にできないんやった訳ですから。それでもそうやって聞かれるから一生懸命できない頭で答えましたよ。ええ学校にも入ってたんですけど、勉強が難しくてなあ。もうチンプンカンプン、カンプンチンプンよ。

それでも頑張ってやってたんですけど、その頃ロングヘアでね。それでね、コールユーブンゲンちゅうのがあるんですよ。でも何がうれしくてそんな勉強せなあかんっていう感じだったよ。一応ね、いろんなこと言う人が居る訳や、芸能界は。

そういう人が「譜面くらい読めないとダメだよ。」言うけど、譜面読めないまま今日まで来ましたけど。(拍手&かなり場内ざわつく)だって、ね?譜面を見ながら演奏する人達はいいよね?クラシックの人たちとか。でもそのコールユーブンゲンの最初の方に書いてあるのが「優秀なミュージシャンは暗譜をすべき」と、、、フッハハハ(笑)

でもそういうのをやってるとさあ、ビートルズがベートーベンを越えたとか言い出す人がいたりしてさあ、今で言う炎上とかしてた訳や。それでコールユーブンゲンをちゃんと読み終えて楽譜を読めるように成りたい、と。そういう生活を送ってきたのよ。

でも60になった時はロングヘア―じゃなかったよ。そんなねえ、先の事なんかねえ、自分が分かっていないんやから。今日の自分、、、僕だけじゃないでしょ?皆さんだって想像してないんだもの。だから、今、皆さんが朝、顔を洗う時に鏡を見ましたよね?(笑)そのお顔で私に会いに来る、という(笑)かつてはそう思ってましたか?という(爆笑)

ね~。もっと若いうちに。もっともっと見たかったわ、という。あるでしょうけど。でも僕の場合、映像が残ってますからね。(拍手)なんか、思いもかけない事なんだけど、長く続けているうちにねえ、山があったり、そして必ず谷が訪れる。で、それで、持ち返すこともあるかもしれない。僕はその一例やった(笑)(拍手)

でも、、、、二度も山があったとしたら、また谷底まで落ちて行く訳ですよ。でもどうやってか谷に落ちてしまった、もう二度と戻れない、そうはならなかったのは、、、なんか、、、小学校の時はね、短距離早かったんですよ。(笑)でも中学になったら早い奴が周りにいっぱいいるから長距離に変えてみた。そしてら1着にはなれなかったけど4着になった事がある。

長距離も大丈夫なんだ、と。粘り強いんや。長い方が向いている。気は短いよ(爆笑)長~いとこがあったから良かったんや。2度目の底や底やという時や!テレビに出なくなる訳や。でもそれは呼ばれなかったわけじゃないんや。まだまだ声はかかってた。でもそんなに出ずっぱなしじゃないわけや。だから地方を周る訳や。行っちゃあ帰ってきて行っちゃあ、いろんなところから呼んでもらって。

でも僕なんかほら、ご覧の通り大都会向きじゃん(笑)その頃行ってたのはねえ、東北。で~、山陰、山陽、で九州はねえ、そんな弱くはなかった。で、東北ですよ、東北。それと北陸。そういうところをずっと周っては「しばらくもうテレビには出ない」という事になって、でも事務所からはそれしか言う事ないのか?というくらい「テレビに出ましょうよ」と言われて。

「テレビに出る事でお客さんがまた会場にみえてくれる、という事があるんですよ」と言われて。でも僕はね、そう言われてね、シビアにみたって知名度はある。それは言い方の名前と悪い方の名前(爆笑)両方あって人間的な人なのよ、と。(笑)

たとえばね、(お客様が)大都会まで出ていくのはね。仙台とかはね、毎年行く訳ですよ。でも(もっと地方になると)仙台まで出てきてくれる人も少ないわけですよ。だから細かいところまで行く訳。三沢(青森県三沢市)とかそういうとこね。そうすると地元まで行くと見に来てくれる、という。

で、そういう頃にテレビにもちょっと出てみたんだわ。そうするとね、なんかテレビの世界ってどうも自分に向いてないように思えたのよ。要するにタイガースが出た頃ってテレビの成長期ですよ。その時いっぱい出ていった訳や。その前の3人娘さんとかはテレビを使ってでも売れるとかだったけど、そういう気持ちまでは無かったわけですよ。

僕らの世代からや、テレビに出てバカ売れしだしたのは。それで、ティーンエイジャーがお小遣いでレコードを買う、という。それからチョコレートのCMやってそれに売れてる歌手のいろいろおまけをつける訳ですよ。なんかシールとか写真をね。テンプターズと競ってたんですよ。(笑)

で、そういう事が過ぎて、その後に(テレビに)出てきたときにどうも違う。何が違うんやろ?と思ったら、答えを出してくれた人がいたんですよ。あの~、飛行機のちょっと前の方の席があるじゃないですか。ファーストクラスまで行かない席で。それで、あの番組作った人、横沢さんというフジテレビの有名な人。(故・横澤彪氏僕らのライバルとなるたけちゃんマンとかさんまさんとかそういう凄い番組を作った人が居る訳よ

その人の番組で世代交代が起こった。で、何度か(僕も)番組も作ってもらった訳ですよ。「俺が沢田だ!」みたいな(笑)でも僕らも昭和生まれ昭和育ちですからいろんなことをしゃべるのは気恥ずかしい、「何を言うとん、自分で自分の事を褒められるかい!」と、ま、今は冷静になっていろんなこと言うてますけど。(笑)

で、そういう事で言ってくれたのが「これからはね、テレビは出たい人が出るものなんですよ。」でもね、僕の事を当てつけで言うてるわけやないんや。でも、多分察してるわけや。大プロデューサーの横沢さんがね。

で、言うてくれて。でね、アマチュアの頃はテレビ出るのが最終の目標やった、ところが(自分が)テレビに出てた頃は大したことじゃなかった。まだタイガースの4人のメンバーは「これから日本一になるんやで!」という訳や。「え?僕もう目標達成してますけど」(笑)

で、話が前後しますけど、横沢さんに言うてもらって、テレビには出なくていいんだ、と。だって出たくないんだもん、僕には過去の映像があるんだから(笑)なんか季節ごとに、(テレビで)お盆の頃と年末年始の頃に次の世代に伝えたい歌で出てくる訳や。

でもそれも2曲くらいしか入られへん訳や。「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」。それ以上僕にはヒット曲が無い、みたいに世の中の人が思うよ、と。(笑)だったら「たまにはTOKIOもいかがですか?」と言いたくなるわけや(笑)

で、もっと古いのでいいのがあるんですよね、「立ちどまるな、ふりむくな」とか。(笑)(拍手)自分のは結構振りが長い訳よ。で、映像を出せる訳よ。だから、もう僕はテレビではなく、何が好きかと言うとライブが好きやねん。(大拍手)

元々ライブが好きで、僕はこのところまで来ることが出来た。それが、そう思えたのが50過ぎてからですよ。遅いねん!遅いんやけどまだ先があったから。で還暦の年にドームでやって「これが最後だろう。そろそろ皆飽きるで」と。「いくら好きっていうたって飽きるで!」って。でも

何で飽きなかったの?(爆笑)

やめられんのじゃない?いやいや(自虐笑)、ありがとうございました。ありがとうございました(大拍手)。僕はねえ、飽きさせないように、とかそんな事を思いながらやったことは無いんだけど、よくよく考えると飽きさせないようにしてたのかなあ?(拍手)

ヒット曲なんか毎回歌わないんだから。毎回歌ってるとこれしかない、と思われるやん。かと言って知らない人は中ヒット位とかヒットもしてない後半の歌とかやると、知ってる人は「あ、歌い方が変わって来たんだな」そういう風に思ってくれるかも知れないけど、そうじゃなくて何の歌か分からないままの人もおる訳よ。

そういうのもあって、自ずと飽きられないために色んなことを思いついてたんだなあ、というのがつくづく思うんですね。(拍手)お客様に、ファンの人たちに鍛えられ磨かれて今日があるんですよ(大拍手)

でもね、これが終わりじゃないのよ。で、みんなまた生きていくつもりでしょ?(笑)生きてたら来れるやん!ですから元気でいてくださいよ(拍手)今日はそれをお願いするために延々としゃべりました。(拍手)

元気でいてください!元気で!元気でいるのには、チャリンコは止めてください。危険だから。毎日歩きましょう!歩いて、効率よく行くところを順番に決めてではなく、遠いところから行くとかじゃなくていいの。行って戻って行って戻って、戻って行って。どうせ時間はいっぱいあるんだから!(笑)(拍手)

そんな働かなくてええんやから!あと、年金ね。少ないよね。

あの~●●●と●●●●●が●●●みたいなことして、ホント、、、ショ~~~~もないっ!(笑)

以下自粛

、、、だから今の話はここだけの話(爆笑)(拍手)命あってのライブやで!(拍手)

おねがい!おねがい!おねがい!おねがい!

また、会いましょう!そして次は10月25日!やりますので!

ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!

~ メンバー再紹介 ~

以上のメンバーでございます、、、、、、、、、今日は凄く、、、、うん、、、、

気持ちよかった!(大拍手)

以上でございます。いかがでしたでしょうか?ジュリーのリラックスぶり、ご機嫌ぶりが少しでも伝われば嬉しいです。「ジュリーの歌を聞けた」というよりは「楽しそうなジュリーと同じ空間を共有できたのがうれしかった」というファンが結構多いのではないか?そう思います。

次回は私の感想書きます。下のは去年のライブの同じ企画です。まだの方は是非ご覧になってください!それでは、また。

「ジュリーが博多で語ったコト2025年早春(前編) 」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: ジュリーが博多で歌ったウタ 2025年早春 後編 – CMBO相談室

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