サムライ ~ジュリーは何処へ旅立とうとしたのか?~

こんにちは、みやけです。今回は沢田研二さんの曲についての検証企画です。

今回は作詞・阿久悠、作曲・大野克夫の黄金コンビが作り上げた名曲「サムライ」の歌詞について検証してみたいと思います。現在開催中のジュリーのライブでのセットリストにも入っており、ファンの皆さんにも思い出深い曲だと思います。

この「サムライ」ですが、如何にも昭和チックな骨太の歌詞であり、過激な衣装、最後の「アアア~」の連呼も含めて「ジュリー劇場の集大成」を思わせる作品となっています。作詞した阿久悠さんは「“やせがまん”が格好悪くなっていた時代に対して“やせがまん”を格好良く思わせたいという意図で書いた」と語っているのですが、、、私にはその解釈が正直イマイチピンと来ません。大ヒットしている当時から「この主人公は女性を置いてどこに旅立とうとしているのだろう?」と思ったものです。

一応この歌のコンセプトは「愛し合った女性に後ろ髪惹かれる思いで別れを告げ、厳しい現実社会に没頭しようとする男性の心境を歌った歌」という事ではないかと思います。男の人生はそれほどまでに過酷なものだ、と。   

しかし、それにしては使用している単語が仰々しい!「ピストル」だの「火の酒(強い酒?)」だの「サムライ」だの。。。。私も色々と他の方のブログやコラムを読んでみましたが一部「家庭を捨てリアルな戦場に向かう男を描いた」と見る向きもあります。

とりあえず歌詞を文字起こししてみますね。

片手にピストル、心に花束、唇に火の。酒、背中に人生をアアア、アアア、アアア、アアア

ありがとう ジェニーお前はいい女だったはんぱなワインより酔わせてくれたよ。だけど ジェニー あばよ ジェニー。俺は行かなくちゃいけないんだよ

寝顔にキスでもしてあげたいけど、そしたら一日 旅立ちが延びるだろう男は誰でも、不幸なサムライ。花園で眠れぬこともあるんだよ。

片手にピストル、心に花束、唇に火の酒、背中に人生をアアア、アアア、アアア、アアア

ありがとう ジェニー、お前はいい女だった。お前とくらすのが、しあわせだろうな。だけど、ジェニー あばよ、ジェニー。それが男にはできないのだよ。

部屋から出たならつめたい木枯らしお前の体のぬくもりが消えて行く。男はいつでも、悲しいサムライ。しあわせに照れてることもあるんだよ。

片手にピストル、心に花束、唇に火の酒、背中に人生をアアア、アアア、アアア、アアア

この歌のリリースは1978年1月ですが、前年11月発売のアルバム「思い切り気障な人生」の中にもこの曲は先行収録されており、これでは一番最初の「片手に~」のフレーズは無く「ありがとう」から始まります。更にシングルバージョンではジュリーはかなり激しく追い詰められたような感じで歌っていますが、このアルバムバージョンではやや柔らかい感じ且つ緩やかなリズムで歌っている印象があります。シングル発売日から逆算すると、ちょうど「勝手にしやがれ」が大ヒット中に「サムライ」は制作されたのではないかと思います。

以下がアルバムバージョンです。

この曲を分析されている方は他にもたくさんいらっしゃいますが、いずれも「ただ単に男女の別れを歌っただけでなく、男には過酷な生きざまがある、という事を阿久悠さんは訴えたかった」という見解が多いような気がします。しかし私にはその意見も何かこう芯をくっているようには思えないのです。

前に上げた「戦場行き」も少し違う気がします。確かに主人公が過酷な状況に向かおうとしているのは間違いないと思いますが、、、いやいや、それではない!女性への未練が強く感じられるこの歌詞、それはもう「二度とこの状況に戻ることはない」事が察せられるのです。戦場行きなら帰って来て元の関係に戻ることは可能ですからね。

そもそも最初のフレーズ、これが相当にインパクトが強いのですよ。ジュリーは「このように物事を強く断定するような歌は嫌だ」とはじめは歌う事に難色を示した、という話もあります。確かにそう思いたくなるのも分かるような気がします。以下は私なりに考えたこのフレーズの分析です。

「片手にピストル」→強力な武器を持たねばならぬほど今から行く世界は恐ろしい。「心に花束」→その世界で頑張っている自分には最大限の賛美をあげたい。「唇に火の酒」→そして自分を最大限鼓舞しないと心が折れてしまう。「背中に人生を」→その世界に突入するのであれば自分の人生を背負う、その世界の住人になり、染まり切らなければならない。

少々強引ですが、そのように思うのです。では「その世界」とは何なのか?

直近、そして過去のライブでもそうですが、ジュリーのMCの話の中で「ただ単にチヤホヤされたくて芸能界に入った訳ではない」というニュアンスの語りをされていると思います。更には”テレビ”というメディアの違和感については再三話していますし、「自分にとって今一番大切にしたいのはライブである」という事は何度も力説されています。

ジュリーの辿った奇跡を思い返してみても、「多くの人の前で自分の歌を歌う事」が心からの願いであり、上っ面だけチヤホヤされる事には何の興味もないように思えます。その考えは段々と構築されたものかも知れませんが。

「サムライ」や「勝手にしやがれ」を歌っていた頃のジュリーの周囲にいた関係者、もちろんその中に阿久悠さんも含まれますが、ジュリーのその本質の部分は当然見抜いていたのではないかと思います。ジュリーは「プロとして周囲の期待に最大限応えているが、その中身はただの浮世離れした世間知らずの人間ではない」という事を。

他を見てみれば、70を過ぎた過去の大物芸能人が、知識もないのに政治家になってみたり、サイドビジネスにハマってみたり、いい年をして若手に交じってバラエティに出て突っ込まれたり、、、以前の状況を知っているものとしては眼をそむけたくなる光景です。

芸能界にはそのような人は山ほどいます。そんなにまでしてチヤホヤされたいのか!そんな事にはわき目も触れず、事務所の電話番を務め、ポイ活にいそしみ、キャベツの芯の美味しさを愛で、野菜の値段も熟知しているジュリー、本質の部分は「まともな人」なのです。

そして私の推測を言わせていただくと、この歌の主人公が旅立とうとしていた先は

「芸能界」

でなかったか?と思うのです。ただし地方住まいのカップルの男性側が芸能界に憧れ地元の彼女を捨てようとしている歌、なんだか「木綿のハンカチーフ」的な小さな括りの話しをしようとしているわけではありません。

ご承知かと思いますが、現在進行形でも色々と醜聞が報道されているとおり、芸能界は魑魅魍魎の世界です。しかも反社会勢力の後ろ盾が今とは比べ物にならないほど強かった当時は常識、いや法律よりも「芸能村の掟」がまかり通っていた世界だったでしょう。

その異様な世界でのし上がっていったジュリー、そして色々な芸能人を見てきた阿久悠さんは「ジュリーは根っからのこの世界の人間ではない」と見抜いていたのではないか?と思うのです。そしてその世界でもがきながらトップを射止めようとしてたジュリーにエールを送る意味でこのような激しい歌を作ったのではないかと思うのです。

全ては私の推測です。阿久悠さんがそのようなことを思った、とかそのような文献は全くありません。そしてこの説自体も昔から考えていたわけでは無く、このブログの回を書きだした時に思ったことです。

思い返してみてください。この「サムライ」のサビの部分は何だと思いますか?「片手にピストル~」の部分でしょうか?いや、それでは不十分です。思うにサビは「アアア~」の部分だと思うのです。「アアア~」も含めてサムライの歌詞なのです。

もちろん他にも「アアア~」が入るジュリーの歌は沢山あります。いつぞやのライブのMCで「いつからかアアアのジュリーと呼ばれるようになりました。」と冗談交じりに語っておられましたが。しかし「勝手にしやがれ」にしても「君をのせて」「危険なふたり」にしても「アアア」は本歌詞に延長線上、余韻的なものではないか?と思います。

しかし「サムライ」の「アアア」については「背中に人生を」の後の続きの部分だと思うのです。そしてその部分は、グロすぎて?文字にするのはためらう?まさに芸能界の闇の世界!なので「アアア」という抽象的な表現にしたのではないか?と。「アアア」には芸能界での苦しみがすべて詰まっている!「アアア」は各々で察して欲しい、と。

「勝手にしやがれ」」でレコード大賞を受賞し、歌謡界の頂点に立ったジュリー。結果論ですが、本当はその世界に相いれない性格であるジュリーへのねぎらい、激励の歌が「サムライ」であった。私はそんな気がするのですね。

シングルバージョンがやや激しい歌い方なのも、これが男女の別れがメインの歌ではない、という事を匂わせたかったのかもしれません。男女の別れが主題だったら、もっとバラード調にしたでしょう。

今日はこんなところです。それでは、また。

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