こんにちは、みやけです。今回はプロレスの話です。元プロレスラーの小橋建太さんに関する内容であり、以前書いたものを大幅に加筆しております。(尚、小橋建太さんは過去小橋健太→建太に改名を行っていますが、ここでは今の名前の「小橋建太」で統一させていただきます)

これまで散々書いてきましたが、私は昭和プロレスマニアであり、そして全日本プロレスのファンです。ジャイアント馬場にシンパシーを持っていますが、別に新日本プロレス、猪木さんが嫌いな訳ではありません。「全日本のダメさ加減も十分認識した全日ファン」と自負しております(笑)
ではその全日本の過去のレスラーの中で、”誰に一番思い入れがあるのか?”と言えば、、、それはジャイアント馬場でもなく、ジャンボ鶴田でもなく、三沢光晴でもなく、
小橋建太
なのです!それはなぜか?小橋(以下敬称略)が私にとって色々と共通点が多く、私の人生の節目節目で彼の行動に大きな影響を受けたからです。まず共通点を挙げてみたいと思います。
① 同学年で生年月日も近い
2人とも1967年生まれ(丙午)。小橋の誕生日は3月28日、私は4月1日
② 関西生まれだが、関西人のイメージが無い
小橋は京都府福知山生まれ、私は実は大阪の寝屋川の生まれ、しかし私は生まれて半年で両親は福岡に引っ越しており、全く”関西人ヅラ”する気はないのですが。。。。
③ がんを克服
小橋は39歳の時に腎臓がんに罹患、しかし懸命の治療で寛解、リングにもカムバック。私は51歳の時に骨髄異形成症候群(血液のがん)罹患、寛解済み。
④ 真面目で嘘が付けない誠実な人柄 (→ これはまあ、笑うところ)
こういう共通点がある為、デビュー時から私は小橋の事を密かに注目していました。全日本の新弟子には珍しく「女性にも受けそうなマスクであり、野暮ったさが少ない」事も珍しかったですからね。「将来エースの一角を担うかも?」と感じていました。
そして、私が小橋の試合を初めて観たのはデビューから約1年後の1989年世界最強タッグ決定リーグ戦。福岡・北九州市的場池体育館という、おそらくプロレスの興業が行われたのは後にも先にもこれ1回限りでは?と思うくらいマイナーな会場であり。その時の観客数もおよそ5~600人程度という非情に厳しい環境での大会でした。(発表は1800人)

その前にデビュー前後の小橋の立ち位置です。当時の記事では「デビューまでは中々馬場さんに存在を認めてもらえず冷たくされ辛かった」という記事をよく見ましたが、しかしファンからしたらタッパが明らかに185くらいはある精悍な顔つきの青年は否が応でも目立っており、「久々にヘビー級の新弟子、上手い事育ってくれよ!」的な見方をされていたと思います。
そして2月のシングルデビューから半年もしないうちに、フットルースとのタッグ戦や、馬場とタッグを組んだり、渕・高木・田上とのシングルマッチが組まれていたのですから、やはり並みの新弟子ではなく、それなりの特別扱いを受けている印象でした。
そしてその大会は11月24日に行われ、小橋は石川敬士と組み、タイガーマスク・ジミー・スヌーカ組と対戦したのです。もちろんテレビ放映も無かったので細かい攻防までは覚えていないのですが、かなりの集中攻撃を受けたにもかかわらず、相手の隙を見てドロップキックや巻き投げで反撃、石川のフォローも素晴らしく、元から期待値の高かった館内を十分に盛り上げた印象がありました。
会場内のガラガラ具合もあってか、非常に緊張感のない興行であり、メインの輪島・カブキ対ハンセン・ゴディ組の試合最中に、館内の整備員がフロアの折りたたみ椅子をかたずけ始める始末!ハンセンのウエスタンラリアット予告のウィ~も椅子が積み重ねられる金属音にかき消されるような緩慢な雰囲気の中、小橋さんの躍動は唯一の良かった点でした。

その後。小橋は順調に成長。馬場と組んでフットルースの持つアジアタッグに挑戦したり、翌年夏には後楽園ホールで鶴田と組み天龍・ハンセン組とメインでぶつかる等団体側のプッシュも顕著になっていました。1990年春に勃発したSWS 騒動においても当然全日本に残留、一歩一歩メインイベンターの道を歩んでいました。
一方、私は1991年に大学を卒業し、ブラインドメーカーに就職。大分営業所に配属され6月から営業としてルートセールスに勤しんでいました。しかし私は元々人見知りでどう考えても外回りには向かない性格、「自社商品をアピールして顧客に買ってもらう」という基本の事でさえもどう話をしていいかわからず躊躇してしまい、一層他人と喋れなくなってしまっていました。未だに「なんであの時営業を志したのか?」と不思議に思います。
思い返せば、敢えて逆境に身を置くことで自分の殻を突き破りたかったのかも知れません。しかし勤務先は計6人の小規模な営業所だったので年齢が近い仕事仲間もおらず、いつも孤独に苛まれていた私にとって、唯一の息抜きは録画していた全日本プロれ中継を見る事でした。
そして年2回全日本は大分で興行を行っていたので、何とか都合をつけて観戦するのを心待ちにしていました。当時の全日本は超世代軍ブーム真っ最中、大分荷揚町体育館は古びた会場でしたが、いつもビッシリ超満員。客の大半は私と同世代の人間であり、女性客も多数来場。目を覆いたくなるような惨状だった2年前の的場池体育館の光景を思い出せば隔世の感がありました。

そんな隆盛を誇っていた全日本プロレスですが、意外にも当時小橋はややスランプ状態にあったと思います。菊地選手やジョニー・エース選手とアジアタッグを奪取したり、最強タッグに出場したり実績を積み重ねてはいましたが。ハンセン・ゴディ・ウイリアムス・スパイビーのいわゆる”外人4強”の牙城は中々崩せませんでした。三沢・川田は順調に実績を積み重ねていただけに、やや足踏みしている感がありました。
またファイトスタイルにしても、まだラリアットは未開発でしたが、他の選手の技を頻繁に、それも単発で使用しており、「個性が無い」「人まねばかりしているから強くなれない」「技のつまみ食いをしている」とデビュー後初めて批判を受けていた時期だったと思います。
そんな中、入社2年目の夏に観戦した大分大会、日付は1992年9月2日。小橋はセミ前でトミー・エンジェルという外国人選手とシングルマッチを組まれていました。エンジェル選手は小橋とほぼ同じ体格の白人選手、ただし上半身は当時の小橋以上に鍛えられており、かなりの筋肉質のレスラーでした。
アメリカ本土での実績も特になかったこの選手は試合がテレビにオンエアされることもなく、シリーズ後のアメリカでの活躍も聞かれず、再来日も叶わなかった選手です。技の迫力はあるものの、攻撃が単調で動きもぎこちなく、当時の”四天王プロレス”に割って入るには厳しそうな選手でした。(当初「トミー・アングル」名で参加したが、来日後「エンジェル」に改名)

しかし小橋はそのエンジェル相手に実に”丁寧な”戦いを繰り広げ最後には大盛り上がりで大熱狂の中最後はムーンソルトで試合を〆たのです。具体的に言うと、まずエンジェルの攻撃は単調ながらも体全体でぶつかって来るものが多かったのでまともに喰らえばかなり迫力があったのです。
その手の攻撃を序盤小橋は全て正面から受け止め、マットを軋ませ徐々に館内のどよめきを誘いました。しかしエンジェルの攻撃が枯渇し手つまりになりと小橋さんは猛然と反撃、当時は例の水平チョップは未開発でしたが、ブレーンバスター、ボディスラム、タックル等はかなり厳し目の”あたり”の技を連発しエンジェルを追い込みました。
エンジェルは流石に息岐が上がってきた感があったのですが、その都度小橋はフォールに行かず、「立ってこい!」という感じでエンジェルを鼓舞、エンジェルも意地を見せフラフラになりながらも反撃していました。

エンジェルは無表情な印象の選手で中々感情移入がしにくいタイプでしたが、肩で息をし片膝をつきながらも小橋さんの身体にしがみつき必死に「負けるか!」という表情で試合を続行する表情に館内は徐々に熱狂していきました。スリンガーのような留学生タイプの選手ではなく、エンジェルのような「いがちな地味な中堅外人レスラー」相手にこのような”魂の”試合をやってのける小橋に私は感銘を受けたのです。後年の小橋からしたら良く見られた光景でしたね。
1992年大分荷揚町体育館 30分1本 〇 小橋建太(11分6秒 体固め) ● トミー・エンジェル
まだテレビマッチではこのような試合を披露することはなかったと思うのですが、いろいろと言われながらも小橋は一見埋もれてしまいそうな中でこのような熱い試合を展開しているんだ、と痛感したものでした。そして迎えた翌年1992年のチャンピオンカーニバル。大分でも興行が行われ、小橋はメインで未だ乗り越えていないテリー・ゴディとの公式戦が組まれたのです。
実はこの時期、私は務めていたブラインドメーカーを退職し、福岡に帰る事を決意し会社の承諾を得ていました。きっかけは工事現場のブラインドの発注ミスを続けざまに起こしたことですが、それ以上に自分自身の営業としての行き詰まりを感じたからです。5月の連休前には大分を去る予定でしたので、「大分でプロレスを見るのも最後になるだろうな」と思い、傷心の観戦でした。
そして小橋です。エンジェル戦から半年間、それ程大きな実績は残しておらず、このリーグ戦でもスティーブ・ウイリアムスにピンフォール負け、パトリオットに時間切れ引き分けとやや苦しいスタートになっていました。しかし、十分にメインイベンターとして修業はこなしており、そろそろ大金星をGETしても不思議はない、そう感じていました。直前のリーグ戦で川田利明がハンセンからピンフォール勝ちを奪っていましたからね。

会場は2800人の超満員。ノーテレビではありますが、まだまだ超世代軍ブームは衰えておらず二十歳前後の若者を中心にかなりの熱気でした。普段、気難しい建築現場のオッサンばかりと会話している私にとっては非常に心躍るような雰囲気でした。
さあ、試合開始!ノーテレビ故細かい展開は覚えていないのですが、小橋はゴング直後から積極的に攻めいきなりゴディを追い込んだ記憶があります。それまで私は小橋に関して「技が軽いなあ」という印象がありました。ドロップキックにしてもフライングショルダータックルにしても見栄えに気を取られ地に足がついていない感じがしたのです。
しかしこの試合をじっくり見ていくうちに、その点が少しずつ改善されていたのに気づいたのです。一つ一つの技に対して腰を落とし重厚感あふれるものになっている。無駄な動きが少なくなった。いろいろと批判を受ける中小橋なりにファイトスタイルを修正してきたのかな?と感じました。

そして技の決まり方も精度が高まっており、ゴディは中々反撃の糸口を掴めません、盛り上がる館内!「これは今日は勝つぞ!」という声が各所で上がります。しかしトップロープからのミサイルキックを躱されてから形勢逆転、ゴディの反撃がはじまります。串刺しラリアット!フライングボディアタック!ブレーンバスター!一つ一つが重い!
そしてゴディはとどめのパワーボム!1回目は足をばたつかせて躱しましたが、再度のラリアットからの試みで完璧に決まり万事休す!と思いきやカウント2でキックアウト!館内は足踏みとため息が交差します。そして意表をついてのDDTからいよいよ小橋の再反撃!まだ剛腕ラリアットは未開発だったものの、このあたりでラリアットを披露し館内がどよめいた記憶があります。

そして25分を超えたあたりから、両者の動きもやや緩慢になりだしますが、それでもラストスパート!双方交互に得意技を繰り出すもギリギリ3カウントは許しません。小橋のムーンサルトプレスも寸前でかわされ、逆にカバーに行かれた際は館内女性ファンの悲鳴が一斉に交差しましたが、なんとかカウント2!
28分過ぎにはゴディの動きが止まり、小橋は最後の追い込みをかけます。脚がフラフラになりながらも10発以上のヘッドバットを連打、再びどよめく館内!更にかわず掛けからギロチンドロップ3連発!それでも3カウントは奪えません!更には意を決してのボディスラムはゴディが抗い中々打たせませんが、気合と共に何とかマットにたたきつけます。
そして「残り時間1分!」のコールと共に小橋はトップロープに上りムーンサルトプレス!完全に決まった!位置も文句なし!私もこれまでのプロレス観戦歴から「これは決まるヤツ!ついにゴディ越え!」大分で大殊勲!」の文字が頭をよぎりました。

歯を食いしばってカバーに入る小橋!ジョーさんのカウント1!2!しかし弱弱しくもゴディの身体がピクリと動き2.99999で跳ね返すのです!怒号・悲鳴が交差する館内!初心者でも長年のプロレスマニアでも完全に決まったと思わせた一発!それほどまでに説得力があった一撃でしたが、ゴディは3カウントを許しませんでした。
そして無念のタイムアップ。時間切れ引きわけです。館内は一瞬失望のため息に包まれましたが、数秒後割れんばかりの大拍手に包まれました。両者の健闘もそうなのですが、ノーテレビの大分大会という地方で三冠戦レベルの大激闘を見せてくれたのは皆感謝してもしきれない感動があったと思います。
1993年4月7日大分荷揚町体育館 30分1本 △ 小橋建太(30分時間切れ引き分け) △ テリー・ゴディ
私は以前天龍同盟が地方の数百人の観客の中でシビアな攻防を見せつけ、唖然としたこともありましたが、今回はそれとは違った感動がありました。雑誌・テレビでは全日本の戦いが誠実なものであったことは十分伝わってきましたが、スポットライトが当たっていない地方でその事を体感できたのは本当にうれしかったのです。

そして、無念の退職を決意し大分を去ろうとしていた私にはこれが小橋からの「餞別」のようにも感じました。自分自身がこのように無心で物事にぶつかってきていただろうか?と考えさせられました、年明けから鬱状態になり、営業に行く振りをして公園の木陰の駐車場でサボることを繰り返していた私にとって考えさせられる試合でした。
その後も、私はプロレスの色々な名勝負を体感しましたが、この時の状況も相まって、これがもっとも印象的な試合となったのです。そしてその後、ほどなくして小橋はシングルでダニー・スパイビーを下し”外人4強”の一角を撃破、その後まもなく3冠王者に君臨する事になるのです。
それからは皆さんご承知のように全日本でエースの一角としてひと時代を築いた後、三沢光晴を追ってNOAHに移籍。”絶対王者”としてそのキャラクターを如何なく発揮しました。しかし再三怪我に見舞われた後、2006年に腎臓がんにり患。私もそのニュースにはショックを受けましたが、小橋は不屈の闘志でがんを乗り越えマットにカムバックしたのです。

そして冒頭の写真はがんから復帰後、2012年ごろの写真です。その頃は私もプロレスの会場に行く事は無くなっていたのですが、ヤマダ電機が店内で小橋との写真撮影会を企画しており、某日に私の住まいの近くの店舗にも来ることを知ったのです。
その日は平日の夕方だったのですが、「そうそうこんなチャンスはない」と思い、私は半日有休を取って妻と会場に向かいました。当時はもうプロレス人気もかなり下がっていましたので、どれだけ客が集まっているかかなり不安だったのですが、撮影会開始前には既に30人くらいのおっさん、女性も少々ですが集まっていました。
そして定刻丁度に小橋がテーマに乗って店舗正面入り口から登場。普通に買い物している客をすり抜けながら、地味なグレーのポロシャツでゆっくりと歩いてきました。撮影会は当日のヤマダ電機で購入した1,000円以上のレシートがあればだれでも参加可能でした。
撮影は先着順だったのですが、私は動きが遅れて20番目くらいの位置でした。撮影においてのポーズは特に設定は無かったようですが、小橋は自分から横に並んで相手の肩に手をまわしてくれていたので、皆そのパターンでポーズを撮り、撮影後小橋と一言二言話して去って行っていました。
しかし当時30年を超えるプロレスファンだった私は「そんな構図は面白くないな」と感じました。順番待ちの間、色々と考えたのですが、フットルースだか、カンナムエキスプレスだかスタイナーブラザースだか忘れましたが、タッグチームが一人は座った状態になって縦に並んでピンナップになっているカットが流行っていた!と思い出し、それで行こう!と思いました。

順番が回って来て、そのことを小橋に説明すると最初はキョトンと私の話を聞いていましたが、直ぐにその希望を理解してくれ、「OK!」と笑って中腰で私の後ろに回ってくれポーズを撮ってくれました。その瞬間、他の人の撮影も見守っていた10人くらいのプロレスおたくっぽい観衆から少しだけ「おお~っ!」という歓声が上がりました。(笑)今思い出しても中々センスのある構図だったと思います。(笑)
今見返しても、以上にいいショットだったと自画自賛しております。私の宝物ですね。惜しむらくは私がかなり太っている時期だったのが悔やまれますが、、、、
しかし、それから約5年後、今度は私がガンにかかってしまいました。「骨髄異形成症候群」という血液のガンです。最初は経過観察だったのですが、病状はあれあれよという間に悪化し、骨髄移植というかなりリスクのある手術を受けなければならなくなりました。
私は最初この病気を受け入れられませんでしたが、「小橋はこの病気より、もっと治癒が難しいすい臓がんを乗り越えたのだ!」という事を思い出し、病魔に立ち向かう決意をしました。上に挙げたうち2つ、、、いや3つの小橋との共通点について私は結構まじめに信じており、「また共通点が増える訳だ」と訳の分からぬ受け止め方をしていました。
骨髄移植のドナーさんを見つけるのには非常に時間がかかりましたが、2018年8月になんとか骨髄移植が実現。その後のGVHDには非常につらい思いをしましたが、私は無菌病棟の病室内に上の小橋とのツーショット写真を目立つところに掲げ、自身を鼓舞しました。小橋が見守ってくれるような気がしたのです。
惜しむらくは、私の部屋に出入りした約30人近い医療従事者、看護師さん達がこの写真を見て「あ!この人プロレスラーで腎臓がんを克服した小橋建太さんだ!」と気づいてくれた人が誰もいなかったことです(涙)
思わず私は「確かにプロレスは落ち目かもしれんけどなあ!小橋健太は腎臓がんを克服したんじゃあああああああっ!なんでがん専門病棟の医療従事者が誰も知らんのじゃあああああっ!」と思わず叫びそうになるのを我慢しておりました。(笑)

そして私は無事に退院し、その後の経過も順調。その後間の無くコロナ過に襲われましたので、常時慎重な生活を送ってはいますが、なんとか社会に復帰する事が出来ました。小橋さんも術後20年近くが経過し、その後の再発はない様であり、そのことは大変励みになりました。
こうなってくると「やはり何か縁があったのか?」と思いたくなります。 まあ、それは私の勝手な思い込みですが、確実にいい影響を与えましたね。私は近い関係の中で「心から尊敬している人」にはあまり出会えなかったので、小橋の存在は大きかったです。
現在の小橋さんはジム経営に穏やかな50代を送られているようです。私も仕事ではすっかり役職定年となり気楽な毎日です。お互い激動の20代~40代を過ごしたが、その分中高年期はのんびりと生きるべき、という天からの導きかなと思ったりもします。
小橋の激しいプロレス人生は皆さんご存じでしょうけど、私も2度目に勤務した会社が超ブラックな会社でした。文具の問屋だったのですが、残業代は一切無し!倉庫管理業務でしたが、繁忙期になると深夜11時過ぎに出来上がった荷物を社員5人くらいで分散して運送会社の営業所に持ち込む、なんて事はしょっちゅうやっていました。勤務中物が落ちてきて怪我して医者に行こうとしたら、支店長から「労災扱いにする気か?俺の顔をつぶす気か!」とすごまれるし。。。
17年勤めて、今の会社に転職すると給料が2倍近くに上がり「俺の人生,一度くらいいい事があってもいいだろう」と思ったものです。ちょうどその頃は小橋が絶対王者としてプロレス界を席巻していた時期でした。

小橋も私も現在58歳、まだまだ老け込む年ではないし、これからでも人生の未知の新たな展開が見えてくることはないわけではないと思います。でも静かに暮らしながら自分がやりたいことだけやればいい、そう思っています。小橋はこれからの人生についてどう思っているのか?いつか聞いてみたい気持ちがあります。
小橋の師匠ジャイアント馬場さんは生前「余生はハワイで絵を描きながらのんびり暮らしたい」と語っていたようですが、なんかその気持ちは分かるのですよ。まあ、今日はこんなところです。
愛すべき同級生、小橋建太さんのこれからの活躍を期待しております!