こんにちは、みやけです。今回のテーマは”鬼滅の刃”!現在映画「無限城編」が前作「無限列車編」の動員数を凌ごうかという記録的ヒットを飛ばしている国民的アニメを取り上げてみたいと思います。

いきなりそんなことを書き出すと、「便乗ネタだろう」との指摘を受けてしまうかもしれません。まあ、話題になっている時期を狙ってのUPであることは間違いないのですが(笑)一応は私もこの作品がアニメ化したときからずっと追いかけおり単行本もすべて揃え、機会があれば何度も読み返しているそれなりのファンなのであります。
特に作者の吾峠呼世晴さんの心理描写の奥深さには感心させられることが多く、「この人(女性?)絶対心理学・メンタルケアについての豊富な知識があるよな~」と常々思っているいるのであります。
そして、データがすべてクラッシュしてしまった以前のこのブログでも、「鬼滅の刃」をテーマに1本書いたのです。書いた時期は2020年の夏ごろで、反応は皆無に近かったのですが、翌年映画「無限列車編」の地上波初上映の直前あたりから、急にアクセスが激増し、テレビ放映中は常に入れ替り100人以上が常時アクセスしているという、私のブログにしたら考えられない異常事態!
結果、最終15,000強のアクセスを記録し、ぶっちぎりで私の最多アクセスの回となったのです。ちなみに2位はほぼ同じ内容で新ブログでも書き直した「私の沢田研二論」で8,000アクセスくらい、今のブログの最多もやはり同じ内容を記憶をほじくり起こして書き直した同じ作品であり、3,000アクセス強となっています。

ただし、惜しむらくはこの「鬼滅の刃」の回について、コメントを一切もらえなかった事!ジュリーの回でも昭和プロレスの回でも、アクセスの多い時は(評判がいいと最終的に1000アクセスを突破する)本体や、告知しているXで何らかの感想をいただけることが多いのですが、この鬼滅の刃の回は誰もな~んにも言ってくれなかった!
なもんで、私の書いた内容が面白かったのか?全然面白くなかったのか?通りすがっただけなのか?皆目不明だったのが非常に気になるところです。ですので、他の回もそうなのですが、何でもいいので感想を聞かせていただければ非常に励みになります。批判や「全然面白くない」という素直な感想でも大歓迎ですので。。。
それでは、今回の内容の説明です。鬼滅の刃は主人公の炭治郎だけでなく、その他の登場人物も非常に含蓄があり、意味深いセリフを吐くことが多々あると思います。その中で私が印象に残った名台詞を5つほどピックアップして紹介させていただこうというものです。
ただし、ご存じかと思いますが、原作は既に連載終了しており単行本も23巻で全話収録後終了していますが、映画は18刊の途中まで。一応ネタバレを考慮し範囲は猗窩座死亡までといただきます。それでは、まいりましょう!
あ、最後に今回の映画での「冷静さを失った胡蝶しのぶ」についても分析したいと思います。サイコパス中のサイコパスである童磨相手には感情をさらけ出すのは最悪の手法、、、その点ですね。
① 富岡義勇
「生成与奪の権利を他人にゆだねるな!」
※単行本1刊第1話より
これは単行本でいうと第1刊の第1話という比較的早い段階で描かれており、炭治郎が初めて鬼殺隊と相対したシーンなので話題にもなりましたし、覚えている方も多いかと思います。しかしアニメのシーンを改めて見直すと、義勇さんが想像以上に大変激情してこの言葉を発しているのは衝撃でした。

過去に大きな悲しみを抱えながら物語の最後の最後までクールなキャラクターを貫き通した義勇さん。時には敵との戦いの中で感情を露にすることもありましたが、このシーン以上に激しい言葉を発したことはなかったと思います。しかも相手は鬼ではなく初見の炭治郎なのに。。。。
視聴可能な方は是非再確認していただきたいです。「え?これがあの義勇さんなの?」と思うはずですから。
藤襲山での最終戦別では盟友錆人に守られ自身は鬼を全く殺せないまま選別を通過、その逆錆人は異能の鬼相手に命を落としてしまうという辛すぎる過去を持つ義勇。「自分、もしくは自身の家族を殺めようとする相手にみじめな姿を見せる」というのは自身のその時のみじめな姿がオーバーラップして激情してしまった、、、そう思うのです。
言葉自体も非常に重く、実社会でも大変参考になるセリフですよね。生きていく上で他人に期待したり、責任を背負ってもらったりしても得るものはほとんどないし、ロクな結果にならない。自分の人生は自分に責任をもて!という実にあたりまえでシンプルなセリフなわけなのですが、生きていると「なんとかそれから逃れよう!誰かに擦り付けよう!」と企む人が多い事か!そしてその光景を目の当たりにすると腹が立ってしょうがない!

以下のセリフもそうですが、鬼滅の話は誠実でまっとうな人生を歩んでいる人が感じる不条理を描いたものが多いのですよ!だから日本の多くの誠実な人たちには(私を含めてw)グッとくる!そして作者の吾峠呼さんもまじめで誠実な人なんだろうな、と強く思うのです。
余談ですが、鬼滅の刃は当初、義勇さんが主人公で話を書かれたようですね。(キャラは今とは少し違う)しかし地味な義勇さんを編集部が危惧してサブキャラであった炭治郎を主人公に昇格させたようです。すべての話の部分部分で義勇さんが絡んでくるのはその名残なのかも知れません。
② 竈門炭治郎
「俺は長男だから我慢できた。次男だったら我慢できなかった」
単行本3刊24話より

これはあまり読者から気を留められていないセリフではないか?と思います。また、炭治郎はこの趣旨のセリフをこの後も何回か口にします。そして現代では時代錯誤のセリフなのかもしれません。ただでさえ少子化の時代で兄弟の頭数が少なくなり、遺産相続でも兄弟は均等割りの分割となりましたから。。。
しかし、いくら時代が代わろうが「長男の苦悩」というのはそうそうクリアされるものではないのです!いくらシステムを替えようとも人の心がそれに合わせて変わるのは何年、いや何十年かかるものですよね?
仕事に関して言えば、バブル崩壊以降、各企業は一斉に年功序列を無きものにしようとし、盛んに”実力主義”を煽り、社員の給与をコントロールしました。しかし、ではそれに合わせて社員も勤務先への想いをドライなものに変革したかと言えば、中々そうはならなかった!ここ10年くらいでようやく務め先と距離を置いた関係を構築できる時代になった感がありますが、そうなるまで20年近くかかった気がします。

話は逸れましたが、長男の私も、そして長女である私の妻もこのセリフにはグッと来たのです。長男長女は下の子が生まれた瞬間、親の代理を要求され甘えることを許されません!常に身内の揉め事が起こると「ああ、最終的には俺が全責任を背負って処理しなければならないんだろうな」といつも思うのです。
逆に、次男、更に下の兄弟は「親から愛されていないかもしれない」という孤独感があるのは分かります!分かっているんですよ !何のかんの言いながら、兄弟の中で誰かを一人選ぶかとなれば長男になるのですから、、、しかしそれを踏まえてでも長男長女は家族の中で行動・思考を制限されて常時生きているんですよ!
その分、「少々の事では泣き言を口にしない」という自負はあります。その場限りの嘘をついて誰かのせいにする、なんて事は長男にはできないんですよ!なので、何気なくしゃべっている炭治郎のこのセリフが痛いほど分かるのです。
鬼滅の刃の上映にはもちろん、子供さん・家族連れが多く見受けられます。しかし今回の「無限城編」には50~60代の中高年が1人で見に来られているパターンも多いそうです。察するに結構長男・長女が多いのでは?「色々な長男の責任を背負ってこれまで生きてきたが、それを蔑ろにされる世の中になった。でも炭治郎ならこの長男の気持ちを理解してくれるのではないか?」その人たちはそう思っているようにも見えるのですよね。
③ 煉獄杏寿郎
「己の弱さやふがいなさにどれだけ打ちのめそうと、心を燃やせ!歯を食いしばって前を向け!」
※単行半8巻第65話より

煉獄さんのこのセリフは鬼滅の刃の中でもダントツに認知度が高いセリフであり、「何をいまさら」と思う方が多いかもしれません。ただ、それを踏まえても改めて噛みしめたい素晴らしいセリフだと思います。この5選の中でランク付けをするならやはり1位のセリフだと思います。
人生なんてほぼほぼ毎日同じことの繰り返しで、”楽しくてしょうがない時期”なんてそうそう巡ってくるものではないですよね?そしていくら準備を怠っていなくても、定期的に想定外のトラブル・不幸な出来事は襲ってくるものです。
でも長年生きてきて知恵がついてくると、その事の対処を先送りしたり適当に胡麻化し正面から向き合わなくなりがちです。多くの人は。でもそればかりやっているとどこかでツケを払わなくてはいけなくなる。。。健康や自分自身の物理的環境、交友関係、仕事。。。

逃げる事はたいてい自分にとって苦手な事、興味が持てない事。中途半端な意気込みでその様なことに関わろうとしても直ぐに辞めたくなります。大人になればなおさらです。特に中年になれば、人から聞いたり、何度も失敗したりしてその事を克服しようとは思わなくなるものです。本当はそれが成功の最大の秘訣なのに。。。
煉獄さんのこの言葉が当てはまるのはも戦いに限っての話ではないではないと思います。惨めな思いをしたときに、そのことを認め、正面から相対したときには、時間がかかったとしてもいつか必ず乗り越えられる時が来る!そこに到達する通過儀礼として心を燃やし歯をくいしばって前を向かねばならんのです!
特に「心を燃やす」というワードがポイントだと思います。実に能動的なセリフであり、人から背中を押されるのではなく、自身で誰の力も借りず立ち上がるイメージですからね。私的には②の「長男の責任」という言葉に連動している感じがあります。
まあ、この言葉は実にシンプルなセリフであり、まごう事無き正解なのですが、世の中には実際こうやろうとすると冷や水ぶっかけたり、チャチャを入れる人は山ほどいますからねえ、、、それが親しい友人だったり、身内だったり。。。
それゆえ、それを明確に言語化してくれた煉獄さんには皆感謝しているのではないでしょうか?
④ 愈史郎
「人に与えない者はいずれ人から何ももらえなくなる。欲しがるばかりの奴は結局何も持っていないのと同じ。自分ではなにも生み出せないから。」
※ 単行本17巻146話より

善逸に負けた鬼の獪岳は善逸の治療に駆け付けた愈史郎からこの言葉を唐突に語り掛けられ、そのまま粉々に砕け散ります。一見地味でスルーされてしまいがちなこのシーンですが、この 愈史郎のセリフは大変心に染み入りました。
世の中には獪岳のような”さもしい”人間は一定数いるものです。「自身に欠点・足りない点があるという事実を受け入れることが出来ない」「そのことを正当化するため、自身に都合のいい存在の他者を悪者にし、至らなさはその人に責任をおっ被せる」「真っ先に攻撃(口撃)する事で自分のペースに持ち込むことを生き方としている」等々
結局そういう人間は常に「優しい人」「人が良い人」の寛容さに付け込む毎日を送っており、普通のコミュニケーションを取ることが出来ない。いや、耐えられない!なのでそういう状況に陥りその対応が取れなくなった際に決まって周囲とトラブルを起こすのです。

そして面白い事に、たいていの場合獪岳タイプの人間は、本当は各種能力が低いかと言うとそんなことは無く、やろうと思えばちゃんと自分ひとりでできるのです。なんならそれでも他人より卓越した能力を持ってたりする。
当然のように獪岳は善逸に敗れてしまう訳ですが、「現実社会でもこういう人はこのような結果を迎えるよな。。。」つくづくそう思いました。現実、特に自分自身の”負”の点(しかしそれが負かどうかは見る人によって異なる)を直視せず認めようとしない人、、、
テレビの討論番組で”論客”と言われたり、”毒舌”をウリにしている人はこのようなタイプが多いと思います。全員がそのタイプとは言いませんが、自身のダメな点のエピソードトークを認めない人、批判を受けると異様な怒りを見せて反論する人はこういうタイプかな、と思います。どこぞのタレント弁護士とか。。。
私自身の周囲でもこういう人は沢山見てきました。最後獪岳は愈史郎から「一人で死んでいくのは惨めだな」と突き放されますが、実に痛快なセリフです。こういう人は最終的には孤独になります。でも「そこだけは絶対に認めたくない」部分は譲ろうとしないので、それから抜け出せることは無いのです。今の言葉で言うと「非を認めると死んでしまう」人なのです。
急に登場したと思ったら、柱でもない善逸一人にやられてそれから話題に上がる事も無かった獪岳、、、扱いが雑に感じたのは私だけでしょうか?作者の方がこういうタイプが一番嫌いなのかな?と思ったりもしましたね。
⑤ 猗窩座
「そうだ、俺が殺したかったのは。。。」
単行本18刊168話より

自身の最期にひっそりと呟いた猗窩座のこのセリフ。もちろん殺めたかったのは自分自身です。記憶を失っていた猗窩座の戦いを極めようとする原動力は”弱者”=何をやっても周囲の期待を裏切ってしまう自分自身への怒り・恨みを抹殺する事でした。
これは心理学においての基本中の基本、あるある中のあるあるなのですが、「他人の特定の性格について異様に毛嫌いする人は、自分自身が思いっきり同様の性格を有している事が多い」「その人を見ると自分自身の嫌な部分を直視する事になるので異様に毛嫌いしてその存在を否定する」というものです。
正に猗窩座の本質はそれだよな、と思う訳です。彼の育った環境については充分同情すべき点はありますが、だからと言ってその報復行為は限度を超えている。窮地に追い込まれた際最悪の手段を選択してしまう猗窩座、自分自身が一番腹立たしい存在なんでしょう。「すぐ自暴自棄になる」というつぶやきが印象的です。

猗窩座は煉獄さんや義勇さんに対して何度も「鬼にならないか?」と誘いかけます。これがかなりしつこい!それは鬼側の陣営の強化を目論むというよりは、無意識に”鬼”である自分を正当化する為にそうしているように思うのです。
柱を「一人の敵」として認められない。自分を脅かしそうなものは自身の配下においてマウントを取らないと安心できない。ここにも猗窩座の心の弱さが垣間見えるのですね。周囲の人間をランク付けしないと収まらない人は心が弱い人。コンプレックスの裏返しです。
思い返せば、猗窩座は「無限列車編」では炭治郎を執拗に「弱者!」と罵っていました。この時点では猗窩座と炭治郎では比較するのも無意味なくらい圧倒的な力の差があったと思うのですが、なぜそこまで罵声を飛ばさねばならないのか?
これは猗窩座のコミュニケーション能力の低さを象徴していると思います。世間一般でもそうですが、人の気持ちが分からないコミュ障の人は「相手が怒る」というのは非常にわかりやすい反応の為、常に人を怒らせる物言いをします。そういう人が皆さんの周囲にいないでしょうか?

「俺はしゃべるのが好きだ」と嘯いていた猗窩座ですが、実は人と仲良くするのは苦手なことは過去エピソードからも明白です。上弦の参の鬼であるなら黒死牟のごとくもう少し論理的な物言いをすればいいのに、と思うのですが、コミュ障故差別的な言い回ししかできないのだろうな、と思いました。
しかし、無惨の恫喝を払いのけ、恋雪の訴えに殉じた猗窩座は最後の最後で素直になれたのだな、と思いましたね。
追加考察~冷静さこそ鬼滅の刃の戦いの神髄

最後に、鬼滅の刃の戦いにおけるパターンについて私なりの見解を述べさせていただきます。
無限城戦で気になったのが、童磨に敗北した胡蝶しのぶが相当に冷静さを失っていたことです。両親、そして愛する姉を鬼に殺されたしのぶとしては、正に加害者の鬼と相対するのですから、興奮するなという方が無理なのかもしれません。
しのぶは修業時代の炭治郎から「怒ってますか?」とつぶやかれ、常に絶やさぬ笑みの下に激しい怒りを押し殺しているのを見破られてしまいます。そしてしのぶはその事を認めます。毒を注入し相手の鬼を倒すという独特の戦い方は、体力に恵まれないしのぶが編み出した已むに已まれぬ戦法でした。
しかしサイコパス気質全開の童磨に対して、しのぶは己の心を燃やして精一杯の戦いを挑むも正直子供扱いされ、あえなく敗退してしまいます。実力的に見れば仮にしのぶが冷静であったとしても上限の弐である童磨には勝てなかったかもしれません。

しかし、この「感情が入り込み過ぎた側が敗退し、冷静に戦った側が勝利する」というのは鬼滅の刃において何度も繰り返されてきた必勝パターンではないか?と思うようになりました。重要ワードである「全集中の呼吸」は集中力を極限まで高め、己の持つ能力の限界を突破できるように戦う、という事ではないかと思います。
しかし、チープな子供向けのヒーローものにおいて、正義の味方は悪役から色々なひどい仕打ちを受けながら、それをひたすら我慢し耐えに耐え、いざ決戦の舞台になるとその怒りの感情を爆発!戦いで窮地に追い込まれると、その悔しさを改めて思い出し、怒髪天の怒りで大逆転勝利!というパターンが多いような気がするのです。そういえばプロレスもそうかあ。。。

しかし、鬼滅の刃においては”勝者”は戦況を冷静に分析し感情を殺して戦ったものであり、”敗者”は感情が入り込み過ぎているのです。そしてそれはスポーツにおいも相手に打ち勝つ姿勢として基本中の基本だと思います。更に言えば人生においてもそうなのではないでしょうか?物語を思い出してみれば、、、、
(鼓屋敷)自身の小説?が認められない怒り・憤りを侵入者にぶつけているといしか言いようがない戦いを仕掛ける響凱に対し、炭治郎は連の女の子をまず無事に屋敷から連れ出すことを第一と考え、鬼に爪の軌道を冷静に分析し勝利。
(那田蜘蛛山)自身が理想とする家族の定義の矛盾を突かれ、それまで冷静であったのが感情的に炭治郎を殺そうとする、累。炭治郎も禰豆子を傷つけられ動揺し窮地に追い込まれるも、助けに来たきわめて冷静な義勇が一瞬で累の首を刎ねる。。。。
(無限列車)家族が惨殺され自分だけ生き残る、という心の傷を弄ばれ炭治郎は動揺。相手に騙され、自身の首を刀で切り落とす寸前まで追い込まれる

(刀鍛冶の里)日の光を浴び命を落としかける禰豆子と里の住人を喰おうと追いかけまわす半天狗のどちらを選択すればいいか迷い錯乱する炭治郎。しかし禰豆子に半天狗の所まで蹴飛ばされ腹をくくり戦に集中、冷静に半天狗の本体の居場所を割り出し勝利。
(無限城編)戦いの最中、断片的に封印していた記憶を思い出してしまい、動きに感情が入ってしまう猗窩座。炭治郎は激闘のさなかに伊之助との会話から「闘気」を消すことのヒントを得、見事猗窩座の首を落とす。
例に挙げるのはこれくらいにしますが、他にも非常にこのパターンが多い! そして鬼滅のみならず「大衆から多くの支持を受けている”戦闘”マンガは意外とこの勝つ側が熟考して思いもよらぬ行動をする、というのが一つのウリになる気がしますね。
ジャンルは大きく異なりますが、私がこれまた大好きなギャンブルマンガ「カイジ」についても、主人公カイジは絶体絶命の窮地に追い込まれながらも、何か突破口がないか冷静に考えに考え抜き、結果思いもよらぬ反撃で相手に逆転勝利を収める、というのが作品のウリになっていたと思います。

まあ、カイジと鬼滅では対比するのがどうか分かりませんが、鬼滅の刃は主人公サイドの怒りをため込む度合いは相当に高い作品。それゆえ、その主人公が怒りを最大限に爆発させてエンディングを迎える方がカタルシスの解放にはベストなのかもしれません。
しかし、その怒りの爆発でも鬼の成敗には届かず、結果一旦冷静になって対処法を考えて鬼に勝利する、という2段構えのパターンが垣間見られ、その点が人気を呼んでいる秘訣なのでは?と思います。
現実の人生でもそうですものね。怒りに任せて相手をやり込めようとしてもたいていの場合いい結果は生まないし、一見「勝った」と感じたとしても後々揉め事の発端になる。怒りを全開にして相手を叩き潰すより、冷静に論理的に相手を倒すことは後々に相手の”復活”を削ぐような抑止力になる。そんな気がします。

いずれにせよ、この鬼滅の刃には「普通の人が生きていく上において、頻繁に感じる人との交流におけるむつかしさ」が凝縮されているから共感を呼ぶのだなあ、と感じました。
今日はこんなところです。それでは、また。