昭和の全日本プロレス 海外遠征前の若手を検証する!

こんにちは、みやけです。今回はプロレスの話です。昭和の全日本プロレスにおいて、海外遠征前の若手レスラーがどんな成績を残していたのか?どんな扱いをされていたのか?凱旋帰国後の扱いを含めて調べていきたいと思います。

なぜそんな地味なテーマに目を付けたのか?新日本プロレスと全日本プロレスでは色々と顕著な違いがあると思いますが、「若手の扱いの差」というのもまた相当に明白!分かりやすい例で行くと、新日本の海外遠征前の若手、、、藤波とか小沢とかキムケンとかは結構外国人選手にも勝っているし、テレビマッチにも割と出ていたのですが、全日本ではまずそんな事は無い!

それ以外にも全日本の前座の熱戦譜を見ていると95%くらい(いや、それ以上?)の確率で大番狂わせという状況が発生せず、毎回予想通りの結果となっているのです。とにかく似たような光景が延々続いていたわけですが、そのなかで極々マレに発生する”変化”が逆に興味深いのですね。

これはオーナーのジャイアント馬場が「プロレスというものはトップが1人いて、後はそれを支える中堅が2,3人居ればそれで事足りる、若手はその時居るものが随時交代すればいい」的な考え方故(決めつけですが)、「若手を育てる」という事に無頓着だったからだと思います。

専用道場も長い間無かったですしねえ。でもそんな中で微妙に抜擢されたり、ある事をきっかけに急に扱いが悪くなる、人間社会故そういう状況はやはり発生しており、それが後々のプロレス史に影響を与えたりもしているのが面白いところです。

ここではいくつか項目を挙げて川田利明までの若手全選手を検証していきたいと思います。項目としては①デビュー日時 ②海外遠征出発日時 ③凱旋帰国日時 ④遠征前の先輩越え(反則・リングアウト勝ち除く) ⑤初の外国人選手対戦日時 ⑥外国人選手からの初勝利日時 を挙げてみました。

そして人選ですが、鶴田・天龍のようにスカウトされて入団し、前座での武者修行を経験していない選手は除きました。その為百田義浩も含まれていません。更には「先輩」の定義はデビュー日時を指しますが、これは国際・日プロも含むものとします。

そして日プロデビュー組でも、海外遠征経験前に全日本に入団した選手はこれに加えるものとします。更に1970年代後半にはマーク・ルーインが主催した団体(オーストラリア近辺)、及び東南アジア・韓国への短期遠征を経験した選手もいますが、これは私の判断でカウントしていません。

そして、戦績については国際・日プロは除外させていただきます。資料不足のためです(涙)。「外国人選手の勝利はゼロ」とあっても日プロでは経験がある可能性はある、ということになります。また「勝利」の定義は基本ピンフォール・ギブアップ勝ちとします。

また④については括りなしの「初勝利」の方が妥当かも知れないのですが、当時のマット界においては「先輩から勝利を挙げる」というのは非常に重要なテーマ!敢えてこれを選択させて頂きました。それではデビュー順にならべていきたいと思います。

◎ 佐藤昭雄

① 1970年10月デビュー(日本プロレス)

② 1974年10月にカンサス地区に海外遠征(デビューから4年)

⓷ 凱旋帰国 1979年8月  遠征期間4年10ヶ月(デビューから8年10か月

④ 遠征前の先輩越え 1972年11月 対藤井誠之戦(デビューから2年1ヶ月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1972年10月 対ジェリー・コザック戦(デビューから2年)

⑥ 外国人選手からの初勝利 1974年2月 対エディ・グラハム戦(デビューから3年4か月)

後年、全日本のブレーンとして松根社長とタッグを組み、全日本プロレスの体質改善に乗り出した佐藤昭雄。Gスピリッツのインタビューの常連ですが、プロレスラーにしては珍しく自己顕示欲が強くなく、客観性の強いプロレス観にはいつも感心させられます。

デビュー日時を確認すると、百田光や桜田より先輩であったのは結構意外でした。佐藤の日プロ時代の試合ぶりの資料は動画どころかレポートさえもあまり確認できません。試合巧者であったことは多くの人が証言していますが、どちらかと言えば小柄な体形であり、正直あまり期待された選手ではなかったのではないかと思います。

全日本設立後は人員不足故、比較的早い段階で外国人選手と対戦していますね。デビュー2年そこそこで、ムース・モロウスキー、ルーファス・ジョーンズ、カリプソ・ハリケーンといった馬場親派のヘビー級外国人と普通に対戦しています・

しかし日プロ崩壊後、合流組が加入後はその小柄さ故、桜田・羽田・上田等の猛者達と対戦した場合、相当劣勢に陥ったのではないかと思います。

しかし何故か佐藤は前座時代にほとんど彼らと対戦する、というマッチメークは組まれませんでした。全く、という訳ではないのですが、基本 駒、肥後、百田光等との対戦が主体であり、その流れが遠征に出るまで1年近く続いたのです。例外的にグレート小鹿とだけはやたら対戦していましたが。

「先輩でありながら後輩のヘビー級の猛攻にアップアップ」という構図を避けるため馬場がそう仕向けたのでしょうか?この頃から佐藤は「いずれ裏方の重要な役割を巻かせうる存在」といして恥をかかせぬよう”特別扱い”されてきた感が無くもないのです。

凱旋帰国し、アジアタッグ王座についてからも、その特別扱い感は調べれば調べるほど増幅します。佐藤がハンセンのラリアットやブロディのキングコングニードロップを喰らったことがあったでしょうか?相方の石川は何度喰らったか分からないというのに。。。。

熱戦譜を調べれば調べるほど何も出てこない選手、というのが私の佐藤選手のイメージです。個人的にはジャパン軍参戦時「テレビオンエア」初回の試合に彼が出てきたのが印象的でした。

◎ 百田光雄

① 1970年11月デビュー(日本プロレス)

② 1974年2月にメキシコに海外遠征(デビューから3年3か月)

⓷ 凱旋帰国 1975年11月  遠征期間1年9ヶ月

④ 遠征前の先輩越え 1972年10月 対藤井誠之戦 (デビューから1年11か月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1973年2月 対ボブ・ブラウン戦(デビューから2年3か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。世界ジュニア戴冠後1989年5月にジョニー・スミスから18年6か月をかけて対外国人初勝利

まだまだ引退を宣言しておらずご健在な百田選手、しかし申し訳ないのですが、ずっとその姿を見てきた私にとっては「コミカルレスラー」という印象しかありません。

百田光より身長が低い選手は過去何人もいました、しかしその事以上に下半身の細さがあまりにも顕著でレスラーのそれとは思えませんでしたし、跳躍力もジュニア選手の割には低い、、、試合運び等はそれなり技術があった選手だと思いますが、プロとしての説得力に欠けるレスラーでしたよ。

打撃を受けた際の「ギャオ!」という叫び声も昔からやっていましたが、あれもねえ。。。辛口評論家からは「なぜいつまでも現役を続けさせているのか?早めにフロントに入れるべきでは?」という声をよく聞きましたよ。

ですので、「百田ブーム」の際は苦々しく思ったものですが、更にはベルトを巻かせる、なんてありえないと思いました。本来は一切上の方の試合に登場することなくずっと前座で終わる存在だと思っていましたね。

熱戦譜を確認しても、全日本設立当初から第1~2試合出場が大半であり一番キャリアが浅い若手やミスター林、肥後あたりとの対戦が主でした。極道や桜田との対戦はあまりありませんでしたね。対外国人やテレビマッチの出場もたまに来るメキシカン相手でようやく3~4年に1回ペースで実現する、という感じでしたね。

1983年に開催された「ルーテーズ杯」に兄・義浩と一緒に参加させられたのも意味不明でした。優勝したら2度目の海外遠征が実現したのか?新日本の藤原組長が長年の前座暮らしから引っ張り上げられたのは当時でも納得できましたが、百田光がベルトを巻いたのは疑問しかありませんでしたよ。

長年の全日本プロレスへの貢献は認めますが、、、。「ジョニー・スミス相手に世界ジュニア王座防衛したのが対外国人選手初勝利だった、」というのも凄い話です。色々と辛らつなことを書いてしまいましたが、近年は健康状態がすぐれないようですね。無理せず養生されてもらいたいものです。

◎ 桜田一男

① 1971年6月デビュー(日本プロレス)

② 1976年10月に北米地区に海外遠征(デビューから5年4か月)

⓷ 凱旋帰国 1978年10月(国際プロレスの日本リーグ戦参加・終了後直ぐに再度アメリカへ)遠征期間 2年  

④ 遠征前の先輩越え 出来ず

⑤ 初の外国人選手対戦 1974年1月 対ボブ・ガイゲル戦(デビューから2年5か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 1974年8月 ロバート・ブルース戦(地元網走での大会にて)※1回のみ (デビューから3年2ヶ月)

桜田選手の若手時代の動画は確認することは出来ませんが、全日本プロレス合流時点である程度は存在が固まって来ていた選手だったと思っています。マッチメイク自体も「極道にはかなわないが、百田・肥後よりは上」という位置でしたし、日プロ時代は離脱が確定していた坂口派の大城選手の制裁試合を行う等周囲が一目置く選手だったのは間違いないと思います。

マッチメイク的にも、コックス・イヤウケア・サベージといったメインイベンタークラスの選手とシングルマッチを何回も行っていますし、馬場もその実力を認めていたのは間違いないと思います。しかしその逆その扱いは都合よく温存されていた、と思わずにはいられません。

大物外国人と頻繁に対戦しそれなりの実力がありながら、当人が目立つようなビッグマッチに抜擢されたことは一切なかったですし、勝利を奪える末端の外国人選手相手のマッチメイクもなされませんでした。デビュー3年後にようやく外国人選手から勝利を挙げますが、その場所は出身の網走での興行であり、いわばご祝儀的。その後は一切勝利をあげることはできなかったのです。

デビューから5年経ってようやく海外遠征に出発しましたが、それも後輩の羽田に2年遅れを取ってのもの、しかもプロレスに入団したての天龍の髷結いを兼ねての同行だったのですから、あまりに扱いが雑すぎです!

合流組、同郷出身、ヘビー級、相撲上がりと羽田とはかなり共通点があったのですが、何故か若手時代の待遇はかなり差があるんですよね。

桜田選手は性格的に正面から馬場に歯向かうようなタイプではなかったと思いますが、やはり中途合流組、なおかつ腕っぷしが強いという点で馬場的には扱い辛くあまりかわいがろうと思うレスラーではなかったのかも知れません。

1980年にようやく全日本プロレスに凱旋帰国。そのシリーズでは一応メインイベンターの扱いを受けていましたが、次のシリーズでの最強タッグではエントリーされませんでした。

このシリーズでは全日本日本人サイドの参加は馬場・鶴田組のみ。せっかくだから石川や羽田あたりと組ませて参加させても良かったと思うのですが、あまりにつれない扱いでした。(戸口はヨーロッパ遠征中)

そして1982年には「ドリーム・マシーン」という覆面レスラーに変身して逆上陸。しかし2度目の参戦でアジアタッグに挑戦した際は石川敬士にジャーマンで投げられて完敗しました。「桜田」であったら石川にジャーマンで投げられて負ける、なんてありえなかったと思いますが。。。。

1984年の世界最強タッグにおいて、「ミステリアスパートナー」となっていた馬場の相方ですが、候補の一人として「ケンドー・ナガサキ」も挙げられていました。確かにこの時点では日本ではまだ披露されていないナガサキを上げたくなるマスコミの気持ちは分かりますが、これだけ冷たい扱いをした桜田をパートナーに選ぶ、なんてことはよくよく考えればあり得なかったですね。

カブキの方がランクも上でしょうし。

◎ ロッキー羽田

① 1972年1月デビュー(日本プロレス)

② 1974年12月にオクラホマ地区に海外遠征(デビューから3年)

⓷ 凱旋帰国 1977年5月  遠征期間2年6ヶ月

④ 遠征前の先輩越え  出来ず

⑤ 初の外国人選手対戦 1974年1月 対ルーク・グラハム戦(デビューから2年)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。帰国後1977年6月対ケビン・サリバン戦で初勝利。(デビューから5年5か月)

晩年はコンディション不良が続き、ネタレスラー的扱いを受ける事が多かったロッキー羽田ですが、少なくともある一時期までは明らかに「全日本期待の若手選手」だったと思います。先輩・桜田には1回も勝つことのないまま、日プロから合流1年後には早くも海外遠征(桜田の遠征はそれから2年後)に出発しました。

カンサス地区という当時の全日本にとってはそれなりに縁があるエリアをサーキットした後、2年後には凱旋帰国。開幕戦のメインに起用され(自身は下痢でコンディションを崩しており内容はボロボロだったようですが)、同年天龍との”フレッシュ・ハンサムコンビ”でオープンタッグ出場

同時期、クツワダはトラブルで退団、高千穂は海外に軸を置きだし、極道はヒール街道まっしぐら。天龍も遠征期間が長くなり、事実上伸び盛りの選手は羽田一人ではなかったかと思います。それが何故失速したのか?

当人の自己管理不足によりコンディション悪化、それもあるかとは思いますが、全日本プロレス自体が会社として興行を打つパワーが衰えつつあり、羽田の売り出しに力をかける余裕がなくなっていたことも大きいのではないかと思います。

テレビ中継はゴールデンから外れ、大会場の蔵前国技館使用は日本テレビから多大な金銭援助が見込める最強タッグのみ。ただただファンクス、ブッチャー、マスカラスの人気で貯金を切り崩している状況であり、馬場は体調不良、鶴田は伸び悩みで、この時期のマッチメイクと試合結果は本当に面白くない!

意外な結果が皆無であり、大物の初来日もない、ビッグマッチは毎回不透明決着で結果の先延ばし、団体の存続が精いっぱいだったのではないかと思います。羽田は決して悪い選手ではないと思うのですがね。オープンタッグでの木村・草津との絡みを見ていると意外と気迫を前面に押し出せる選手だし。

熱戦譜を見ていると、羽田の扱いは1981年くらいまでは特に変化はないのですよ。しかし1979年のプロレスオールスター戦の際は「近年はスランプ気味」と書かれているんですよね。どのあたりでああいう感じなってしまったのでしょうか。。。。

小鹿・大熊・石川あたりとは頻繁に地方の前座でシングルで当たっていましたが、結果はほぼ反則決着か両リン。しかし、82年頃からはピンフォールで負ける事が見られるようになっていました。このあたりが御大から見切られた時期なんでしょうか?

◎ 伊藤正男

① 1972年10月デビュー(日本プロレス)

② 1981年10月に西ドイツに海外遠征(デビューから9年!)

⓷ 帰国せず

④ 遠征前の先輩越え 1973年10月 対羽田光男戦(デビューから1年)

⑤初の外国人選手対戦 1975年6月 対ビリー・フランシス戦(デビューから2年8か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 1977年9月 対マニュエル・ソト戦(デビューから4年11ケ月)

オーストラリア、東南アジアへの短期の遠征経験はあるものの、中々長期の遠征の機会が出なかった伊藤正男。デビューから9年かかって、それも最初の行先はハノーバートーナメントが行われていた西ドイツというのですから、「もう帰っても俺の居場所は全日本にない」と思っても仕方がなかったかも知れません。

前座時代もごくたまに先輩の桜田や羽田に勝つこともありましたが、ほぼ負け続き。しかし外国人相手には流石に全日本に8年在籍したためそこそこ勝った経験はあるのですね、それも同じ相手に何回も。しかしそのメンツというと、サンダーボルト・ウイリアムス、ワイルド・ドン・ウエイト、マーク・テンダー、ムース・モンローアイザック・ロザリオ等全日本の歴史の中でも中々の「食わせもの」外国人ばかり。。。。

そんな中でも、そこそこの選手といえばマニュエル・ソト!、、、、あ!そう言えばソトはその前新日本に来日した際、猪木にシングルでピンフォール勝ちしとる!ということは伊藤>ソト>猪木となり

「伊藤正男は猪木より強い説」

が立証された!(←しつこい)

しかしこの伊藤選手が海外遠征に出た時期というのは、崩壊した国際プロレスからマイティ井上ら5選手を受け入れる直前。「人員過剰になる為伊藤選手は整理された」と思いますね。後年カルガリーハリケーンズ受け入れの際も国際血盟軍の剛・菅原・高杉が退団させられましたし、この手の対処はプロレス団体のみならずプロ野球界でも頻繁に見られる光景ですよね。

ただし、伊藤の熱戦譜を追っていると、結構第1試合で大仁田、渕と頻繁に対戦しています。それはもっぱら百田光の役割と思っていたのですが、半々くらいの割合で”3馬鹿”は伊藤と対戦しているのですよね。

ですので、、、前にも書きましたが大仁田がFMW設立の際、世話になった伊藤に声をかけても面白いのではないかと思ったのですが。。。

スポットライトを浴びる事もほぼなかった伊藤選手ですが、1979年のスーパーパワーシリーズ。いわゆる”デストロイヤーさよならシリーズ”ですが、伊藤は頻繁に初来日したエリック兄弟との試合が組まれ、石川や大熊と組んで連日セミに登場。念願のテレビ初登場も果たしています。

このシリーズは地元北海道の興行が多かったので、おそらくプロモーター業を頑張ったご祝儀だったのではないかと思います。

◎ 大仁田厚

① 1974年4月デビュー

② 1980年9月に西ドイツに海外遠征(デビューから5年4か月)

⓷ 凱旋帰国 1982年5月  遠征期間1年8ヶ月

④ 遠征前の先輩越え  出来ず

⑤ 初の外国人選手対戦  1978年4月 対アル・マドリル戦(デビューから4年)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。帰国後1982年5月 対ロン・ミラー戦(デビューから8年1ヶ月)

大仁田と渕は同日デビューと思われがちですが、実は大仁田の方が数日早くデビューしています。しかしここでは大仁田と渕は「同期」として扱いました。2人は頻繁に対戦しましたが、勝ったり負けたり、、、、ではなく7割がた大仁田が勝利しています。

当時の動画は流石に確認できませんが、2人に技術の差があったとは思えないですけどね。しかし過去動画を見返しても大仁田はセコンドでなにかと目立ちまくっている!

馬場とエリックの試合中、アピールがしつこすぎてアイアンクローを喰らって血だるまになる、なんて事もありましたが、それ以外でも、何かこう普通にセコンドを務めていても妙に目立つ存在なのです。

ひと言で行けば「動きがわざとらしい」!これは凱旋帰国後、及びケガから復帰後もかなり感じましたね。FMWで急にああいう風になったのでは無く、元々ああいう人なのですよ。ただし渕も同様なのですが、海外遠征まで5年以上かかっており、ずいぶん我慢して前座で頑張ってきたとは思います。

同期の渕・薗田よりダントツで外国人レスラーと対戦していますし、海外遠征直前のシリーズではプリンス・トンガと組んで「PWF杯争奪トーナメント」に参加していますしね。「光るものを持った選手」であることは馬場も十分感じていたのでしょう。

後ですね、話は逸れるのですが、「大仁田の全日本での引退理由」についていま一つ原因が分からないのですよ。一応「足の怪我の直りが良くないので、引退をかけてマイティ井上のインタージュニア王座に挑戦したが、完敗したので潔く引退した」という事になるのですが、、、、まあ、それは表向きの理由ですよね?

「怪我があまりに酷いから大仁田自ら身を引いたのか?」「怪我を見かねて馬場が引退勧告をしたのか?」どちらかなのか?同時期三沢タイガーがデビューした事や、ジャパン軍参戦を考えれば後者のように思えるのですが、、、、いずれ書きたいテーマではあります。

井上とのインタージュニア戦2連戦とか、そのちょっと前のロジャー・カービィとのシングルマッチでは過剰すぎるほど足の痛みでのたうち回るのですが、渕と組んでチャボ兄弟と対戦した際は普通に試合をこなし、何気なく空中殺法をくりだしていましたからねえ。。。

ひょっとして、タイガーのデビューで危機感を覚えファイトスタイルを変えねばと思い、逆張りで「足が壮絶に痛いキャラ」で行こうとしたとか、、、、それは失礼か!

思い出せば、足への攻撃を喰らって「痛てえよ~~っ!ひい~~っ!」と号泣してましたからねえ。もちろん酷い怪我に耐え試合をしていたであろうことは認めますが、プロの選手としてこの姿はどうなのか?と当時思いましたよ。

◎ 渕正信

① 1974年4月デビュー (大仁田デビュー1週間後、相手は大仁田)

② 1980年9月にプエルトリコに海外遠征(デビューから5年4か月)

⓷ 凱旋帰国 1983年8月  遠征期間2年11ヶ月

④ 遠征前の先輩越え  出来ず

⑤ 初の外国人選手対戦  1978年3月 対テッド・デビアス戦(デビューから3年11か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。1983年8月、帰国第一戦でチャボ・ゲレロにリングアウト勝ち(デビューから10年11か月)

上に書いたように、大仁田より少しだけ遅れてデビューした渕ですが、入門した後両親の意向でいったん郷里に帰っていた時期があるので、入門は大仁田より前のようですね。

しかし外国人選手の大仁田の相手はドスとかエル・ハルコンのようなメキシカンが多かったのですが、渕はデビアスのような本格派が多かった!このあたり馬場はよく2人のタイプを見極めていたように思います。

渕も大仁田同様5年以上黙々と前座をこなしていましたが、エピソードが極めて少ないんですよね。ただし海外遠征直前に百田義浩のデビュー戦の相手を務めているのが興味深いです。組み合わせは百田兄弟対伊藤正男・渕正信。渕が百田義のサイドスープレックスで敗れています。

ちょっとたどたどしい動きだった百田義の相手を無難に務めた渕。これは大仁田でも林でも越中でもなかったというのが面白い所です。渕の試合はこの動画を見てももうそれなりに完成されており危なっかしい部分が全然ないんですね。

ただしそれが災いして、凱旋帰国してからもあまり変化が感じられず。1984年頭頃から「遠征前の方が良かった」と言われるようになり、チャボや井上に前座で普通に負けるような存在になっていました。

しかしジャパン軍の参戦時、ようやく個性を出せるようになり、色々と選手が離脱していく中、渕だけは頑なにスタイルを変えずにいたのが逆に後年あの個性を出せたのではないかと思います。昔はミサイルキックやプランチャーもやっていたんですよね。

◎ 園田一治

① 1975年1月デビュー

② 1979年9月にフロリダに海外遠征(デビューから4年8か月)

⓷ 凱旋帰国 1984年1月  遠征期間3年3ヶ月

④ 遠征前の先輩越え 1975年6月 対大仁田厚戦 (デビューから4か月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1979年6月 対スィート(ルーク)・ウィリアムス戦(デビューから4年5か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。帰国後1984年2月 対トーマス・アイビー戦(デビューから9年2ヶ月)

大仁田、渕から約9ヶ月遅れてデビューした園田。「九州の3馬鹿トリオ」とも言われていたようですが、(大仁田は長崎、渕は福岡、園田は宮崎出身)薗田が一番不遇だったと思います。

前座時代はほぼ負けっぱなしであり、大仁田・渕相手でも5回に1回程度の勝率。特に怪我をしたわけでもないのに3大会に1回は試合が組まれないような時もあります。更にはレフリーも兼務していた時もあったようで国際の若松市政的な存在だったのかも知れません。

薗田については(無理やり?)スキンヘッド、更には眉毛も剃った風貌の写真も見受けられ、色々と(悪い意味で)かわいがられる存在のように思えました。薗田のみ前座時代の動画を確認できませんしレスラーとしての期待とは正直低かったんでしょうね。

大仁田・渕より先の海外遠征に出たのに、帰国は一番後。東洋テイストの覆面レスラー「マジック・ドラゴン」に変身して凱旋しましたが、その正体は薗田であると初めから明かされていました。そして凱旋帰国第一戦の相手は遠征直前の越中詩郎!いやいや!これはあんまりでしたよ!

それまで全日本で遠征からの凱旋帰国第一戦が外国人でなかったのは百田兄弟だけですからね。ミスター林だってタンク・パットンと両者リングアウトに持ち込んでいます。馬場夫妻は薗田を可愛がってはいたようですが、レスラーとしての評価は厳しいものでした。ただしコーチとしては有能だったようですね。

そして物腰の柔らかい薗田の人間性は誰からも高く評価されており、マスコミを含めて悪く言う人を聞いたことがありません。同僚だけでなく三沢や川田、小橋・菊地といった後輩も薗田のことは「大変お世話になった」と何度も感謝の念を語っています

薗田が若手をコーチしていた時期はまだまだ体育会系しごきの全盛の頃。ジャパン軍の大半が離脱して選手が手薄になった1987年ごろは薗田は前座第一試合に出ることもありました。それでも腐らずに、後輩からも慕われるような対応を行っていたのは、大変な人格者だったのだと思います。

あまりに不幸な事故で太平洋に夫人とともに散ったハル・薗田。超世代軍誕生まで健在だったらどんな立ち位置だったでしょうね?

◎ 越中詩郎

① 1979年3月デビュー

② 1984年3月にメキシコに海外遠征(デビューから5年)

⓷ 全日本には帰国せず  

④ 遠征前の先輩越え  1983年4月 対百田光雄戦(デビューから4年1ヶ月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1981年8月 対アニバル戦(デビューから2年5か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 1984年3月 対トーマス・アイビー戦(デビューから5年)

デビューから2年後に後藤政二が初舞台を踏むまで2年間「たった一人の若手」として孤軍奮闘した越中詩郎。デビューから半年後には大仁田・渕が海外遠征に出ましたから、同世代の若者は一切おらず(入門しても数日でトンズラ)、連日百田兄弟、林、伊藤といった日プロの香りを残す超ベテランにもまれていたわけです。

彼もまたよく我慢し耐えたと思いますよ。そしてこの時期は全日本も経営的に厳しい時期で参加外国人も厳選され、越中と対戦可能な選手も少なかったですから、新鮮さを感じることも少なかったでしょうね。

そんな中でも地道に自身の個性を磨き、ルーテーズ杯の公式戦では、それまでどうしても勝てなかった百田兄弟からしっかり勝利をあげたのは立派なものです。特に百田光とはデビュー後は連日当たっていましたが、国際勢合流あたりからその頻度は減っていました。

それでもたまにあたって、時間切れ引き分けはあっても勝利には結びつかなかったのですが、このイベントで勝利を挙げると、その後のシリーズでも再三百田兄弟から勝利を挙げています。キャリアを考えれば、遠征直前は若手扱いはちょっとかわいそうなくらいでした。

詳しく見てみると、1982年に入ると、シングルでアレックス・スミルノフやアルフォンソ・ダンテスとあたり、タッグでリッキー&ジェイ組と絡んだり、明らかに対戦相手がグレードアップしてきます。試合内容が良くなっていたと思うのですよ。

予想するに、前年の国際プロレス崩壊のより菅原・冬木の合流やヒップアタックを参考にしたであろうチャボ・ゲレロの全日本再登場等刺激を受ける出来事が多かったですしね。三沢との対戦が「前座の名勝負」と呼ばれるようになったのも1982年夏ころからだと思います。

1983年にルーテーズ杯で優勝し、念願の海外遠征に旅立つわけですが、行先は本来AWAゾーンだったはずなんです。それも1983年年内に。それがいろいろあって年明けのメキシコ行。三沢はともかく越中のファイトスタイルはメキシコはフィットしなかったでしょうね。

あれがAWAゾーンだったら越中のプロレス人生は変わっていたのでしょうか?

◎ アポロ菅原

① 1979年9月デビュー

② 1984年9月に西ドイツに海外遠征(デビューから5年)

⓷ 凱旋帰国 1984年11月 遠征期間2ヶ月  

④ 遠征前の先輩越え 1981年10月 対越中詩郎戦

⑤ 初の外国人選手対戦 1981年10月 対マスクドX戦

⑥ 外国人選手からの初勝利 全日本では無し

菅原は国際経由の入団の為他の若手との位置関係がピンと来ていなかったのですが、改めて見てみると越中よりは半年遅れでデビュー、意外と冬木とはキャリアが8か月しか違わないのですね。ただし社会人経由という事もありかなり年長に見えます。

菅原の若手時代は国際・全日とも苦難の連続だったと思います。国際時代はミスター珍、冬木、米村あたりと順繰りで対戦。全日本移籍後は早々にキャリアが長い越中を撃破したかと思ったら、デビュー2ヶ月の三沢に初勝利を献上。この時点で菅原はデビューから2年を経過していましたから相当な屈辱だったのではないでしょうか?

同シリーズ、マスクドXと対戦するも、以降は外国人との対戦はほぼ無し。ルーテーズ杯でも越中・三沢を破るも百田兄弟には連敗するという、選手間の軋轢を呼ばないよう都合よく扱われた感は否めません。なぜかロッキー羽田との絡みが多く頻繁に戦い再三タッグも組んでいます。性格が合ったようには思えませんが。。。

菅原の全日本時代はほとんどチャンスらしいチャンスを得られませんでしたが、2度プッシュされかけた時期があったかと思います。一度目は全日本合流直後で、頻繁にマイテイ井上とタッグを組み、極道や石川・佐藤あたりとの中堅相手のマッチメイクが再三組まれています。馬場はこの時点では菅原の力量を計っていたのでしょうか?

2回目は、1984年末の国際血盟軍結成直後。序列的には鶴見・剛の下でしたが、ラッシャー木村と2人でタッグを組んでファンクスと闘ったり、剛や鶴見を押しのけて6人タッグに組み入れられたりしています。しかし2回ともいつの間にかじり貧になって前座試合専門の立ち位置になっています。

菅原選手は流石に現役は引退したようですが、現在でも飲食店を運営し奥様と共に元気な姿をSNSで発信しています。実直な反面、あまりおべんちゃらを言わなそうですし、大仁田のようにバカになり切れるタイプでもないようですね。御大的には「かわいいやつ」と思いにくかったのかも知れません。

ただし、国際血盟軍結成の際、剛竜馬が全日本に参加しなければ菅原の人生も変わっていたのではないか?と思います。木村が旧UWFを経由して全日本に参加する際、時を同じくしてUを離脱した剛を見捨てることは出来ず、馬場に頼んで契約させてもらったのではないかと思うのですが、元々木村と剛の関係はそれほど強いものではないはずなので単独入団でもよかったと思うんですけどね。

新日本時代2人でロスに遠征した際も、試合後は別のホテルで暮らしたそうですから、そもそも国際を一方的に離脱した剛が木村と組んで「国際血盟軍」を名乗るのはおかしい!と当時思ったものですよ。鶴見だって当時は「吉原社長に反旗を翻した」と認識されていましたから、国際的観点からもアウトローの集団に見えました。

剛は後年、新日本の思い入ればかり語っていましたし、参加しながらも全日本の事は下に見ていたのではないかと思います。

そのあたりが試合内容に現れるのか、試合中解説の佐藤昭雄から「もうヘビー級の身体なのに自分の事をちゃんと理解していない動きをしている。」と言われていました。その後の両国国技館こけら落としでの馬場・井上・石川対木村・鶴見・剛の6人タッグでも剛は一人だけ浮いた動きをしていました。

剛の繰り出した技は、バックドロップ2発、ミサイルキック、サイドスープレックスにネックブリーカードロップ、、、、もうただただベビーフェイスのカッコいい動きがしたいだけであり、馬場をつけ狙うヒール軍団の切り込み隊長としての認識は微塵もない!これが全盛時のジミー・スヌーカのようにヒールファイトをベースにしてポイントポイントで鮮やかな空中殺法を入れ込む、というのではないですからね。

剛は国際時代対抗戦で全日本マットに上がっていましたから、そういうレスラーだと馬場も分かっていたはずなんですよ!うまい事獲得したラッシャーから懇願されて断われなかったんでしょうかねえ。

国際血盟軍のベースメンバーがラッシャー・鶴見・菅原だったら新鮮味もあったと思うのですが、、、菅原の試合は何度も見ましたが、基礎ができて技も正確なしっかりしたレスラーなんですが。。。しかし蔵前での乱入が菅原、というのは無理があったかもしれないですね。

◎ サムソン冬木

① 1980年5月デビュー

② 1984年11月にプエルトリコに海外遠征(デビューから4年6ヶ月)

⓷ 凱旋帰国 1985年11月  遠征期間1年  

④ 遠征前の先輩越え  無し

⑤ 初の外国人選手対戦 1983年3月 対マイク・デービス戦(デビューから2年10か月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 無し (凱旋帰国後1986年10月 対カール・フォン・スタイガー戦で初勝利。デビューから6年5か月)

私が始めたプロレスの興行を生観戦した時の、最初に目にしたのが菅原対冬木の試合でした。会場に入るや否や、冬木が例によって「フギャ~ッ!」と叫びながらスピンキックを放ち、早速館内から「小林邦明の真似やろ~っ!」突っ込まれていました。

冬木の若手時代は、どうにもこうにも個性がない選手であり、よくもまあアジアタッグを巻いたりあの位置まで上り詰めたと思います。前座時代は三沢にも川田にも勝ったり負けたりであり実に不思議な立ち位置の存在でした。

海外遠征もいつの間にかいなくなった感じでしたが、1年だけで遠征を切り上げ帰国後は中堅の上の方の位置まで上り詰め全日本対ジャパンの6対6にも抜擢されましたからねえ。

それと冬木については「リング外ではうまい事立ち回っていた」という印象が強いですね。入場選手のエスコートにしてもファンが殺到しがちなファンクスやマスカラスの入場は、なんとなくですが越中・三沢・川田ばかりやっていた印象ですし、冬木は後ろからのこのこついてくる印象が強い!

更にはハンセンの試合後のとばっちりラリアットです!(笑)ご承知かと思いますが、ハンセンの試合が不完全決着に終わった際、怒りが収まらない不沈艦がセコンドをリングに上げラリアット葬する場面ですが、越中・三沢・後藤・菅原が喰らった記憶はありますし、原・井上も珍しく福岡で喰らっています。大熊・小鹿・薗田も記憶にありますが、、如何にも喰らいそうな冬木は全く記憶がない!

一度だけ冬木がつかまりロープに振られたシーンの記憶はあるのですが、冬木は直ぐに(わざと?)つんのめり、転倒。転がってリング下に転落していきました。(笑)すかされたハンセンは更に激怒し、結構遠くの方にいた川田をわざわざ追いかけて捕まえラリアットで葬った、、、、事があったはずです。

冬木らしい姑息さ(笑)が象徴されるシーンだと思いました。ただしなんだかんだ言っても全く格闘技経験がないのにあれだけ印象が残る選手になったのはプロレスのセンスがあったんでしょうね。藤波とかマイティ井上とかのように格闘技経験があまり無い方がプロレスへの順応が早い気がします。

◎ ターザン後藤

① 1981年2月デビュー

② 1985年9月にテネシーに海外遠征(デビューから4年7か月)

⓷ 全日本には帰国せず

④ 遠征前の先輩越え 1981年10月 対冬木弘道戦(デビューから8か月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1984年2月 対 トーマス・アイビー戦(デビューから3年)

⑥ 外国人選手からの初勝利 無し

後藤はデビューから8か月で早くも冬木相手に”先輩越え”を果たしているものの、前座時代はいばらの道だったと思います。菅原が三沢に初勝利を献上した直後、後藤も三沢にピンフォール負けしています。更に対三沢戦に関しては徐々に徐々に三沢が勝つ事が多くなってきており、メキシコ遠征直前はもう完全にランクが入れ替わっていました。

そして川田にも初勝利を献上します。川田は後から後輩が定着しなかった事もあり、デビューから205連敗を喫します。後楽園ホールには「目指せ初勝利!川田」という垂れ幕がデカデカと貼られていたのご記憶のファンも多いかと思います。

しかし、その川田の初勝利の相手が、外様の冬木でも、後藤よりデビューが遅い三沢でもなく、デビュー3年が経過していた後藤からとは!ただししかし、彼は便利屋的扱いが多く使い勝手が良かったようですから仕方がなかったのかも知れません。

デビューからしばらくは、プヨプヨの上半身をさらけ出したショートタイツでファイトしており、どうにもイメージがわきにくい選手でしたが、1983年夏ごろ佐藤昭雄のアドバイスでワンショルダータイツを着用、顎髭を生やし、リングネームも「ターザン後藤」に改名します。

そして極道コンビの客員的存在となり、ヒール的なファイトを試みるようになりました。ただこれは大熊元司がその頃コンディション不良で欠場しがちになったことへの対応策という意味合いもあったのですが、しかしこのイメチェンでようやく後藤もキャラクターが確立してきた感がありました。

後藤のファイトは意外と器用であり、身のこなしも結構軽いのですが、逆にそれがあだとなり重厚さを感じさせられなかった気がします。前にも書きましたが、ジャパン軍との抗争においての小林邦明との絡みで何度かテレビに初登場したのですが、小林邦のフィッシャーマンで簡単に投げられてしまうのはねえ。。。

それが後藤の「上手さ」でもあったと思うのですが、身長が無い分”軽い”レスラーに見られてしまっていた感がありました。後藤の遠征後、高木・田上といった同タイプのレスラーが入団してきましたので、帰国できたとしてもあまり居場所がなかったような気もします。

◎ 三沢光晴

① 1981年8月デビュー

② 1984年3月にメキシコに海外遠征(デビューから2年6ヶ月)

⓷ 凱旋帰国 1984年7月  遠征期間 4ヶ月

④ 遠征前の先輩越え 1981年10月 対菅原伸義戦(デビュー2ヶ月!

⑤ 初の外国人選手対戦 1982年7月 対ジェリー・オーツ戦

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。凱旋帰国初戦のラ・フィエラ戦で初勝利

三沢に関してはスカウトされて鳴り物入りで入団したかと思うくらい前座の実績は規格外に素晴らしいものでした。デビュー2ヶ月で菅原から初勝利を挙げるや、その後も後藤、冬木を次々撃破!流石に勝ちっぱなしとはいかないまでも、イメージ的には1982年中ごろには越中のすぐ下まで上り詰めた感がありました。

デビュー1年もたたない1982年サマーアクションシリーズではチャボ・ゲレロ、ドスカラス、ジェリー・オーツ、スティーブ・リーガルら著名外国人選手と次々と対戦。年末の最強タッグ最終戦蔵前ではジェイ・ヤングブラッドとシングルでぶつかる等明らかに突出した実績を残していました。

私も三沢の若手時代のファイトは何度も見ましたが、運動神経と技のキレが他の選手と比較しても突出しているのはひしひしと感じられました。1983年のルーテーズ杯開催の時点ではまだデビュー1年半だったわけですが、普通に「対抗馬」的存在でしたし、しっかり準優勝しているのは大したものです。

実は意外と百田兄弟とはデビュー以来当たることは少なかったのですが、久々に絡んだテーズ杯では両者からしっかりフォールを奪いサラッと”超えて”いるのですから凄いです。ただし意外にも再三対戦した外国人選手からの勝利は無し。そして「前座の名勝負」として称賛されていた越中とのシングルマッチは計30回を超えて対戦しましたが、三沢は越中に勝利する事はありませんでした。

流石に御大も「越中越えはまずい」と思ったのでしょうか。もう一つ言えばタイガーマスクとなっての凱旋帰国もたった4ヶ月のメキシコ滞在でしたから、正体はバレバレとかいう以前に誰もが三沢と認識していましたよね。

逆言えば、ずっと越中に勝てなかった男がなぜ急に4ヶ月やそこらでタイガーマスクとなってメキシカンの大物を次々撃破し、小林邦やキッド・スミスと対応に戦えるのか?という疑問はありましたね。でもそのあたりは三沢のセンスで徐々に克服したのはこれまたすごい事だと思いました。

あえて言えば、前座時代は感情を顔で表現するのはあまり得意でなかった気がします。なんだかんだ言いながらそれは冬木の方が上だった!それ故タイガーのマスクを被るとその傾向が顕著になった気がします。

ただそれは、白けてファイトしていたわけではなく、内に秘めた闘志を表現するに至るまでの余裕が無かったからなのかも。マスクを脱いで三沢となってから、急にオーバーなリアクションをし始めたわけではないですが、微妙に見せる感情の表現に何とも色気を感じました。

そのあたりは怪我を含めてタイガー時代色々な試練・屈辱を乗り越えたからかなあ、という気もするのですね。

◎ 川田利明

① 1982年10月デビュー

② 1985年11月にカナダに海外遠征(デビューから3年1ヶ月)

⓷ 凱旋帰国 1986年11月  遠征期間 4ヶ月

④ 遠征前の先輩越え  1984年1月 対ターザン後藤戦(デビューから1年3ヵ月)

⑤ 初の外国人選手対戦 1984年8月 対ヒューゴ・サビノビッチ戦(デビューから1年10ヵ月)

⑥ 外国人選手からの初勝利 遠征前は無し。(凱旋帰国後1987年7月 対デニー・ブラウン戦で初勝利。デビューから4年9か月)

インタビューや自著では自身の前座時代について否定的な発言が多い川田ですが、実際はそれなりに御大から認められており、+本人の努力でランクアップしていったと思っています。

後藤の項で記したようにデビュー後は205連敗を喫しましたが、初勝利後直ぐに冬木も撃破、両者とはそれ以降勝ったり負けたり、とまではいかないまでも「たまに川田も勝つ」レベルまで持って行っています。

両者のキャリアの差は2年近くあるのですから、並びかけたのは中々のものですよ。また三沢タイガーデビューにあたっては、川田も「タイガーマスク2号」としてデビューする案もあったようですね。しかしこれは頓挫。正直レスラーの序列では最後尾の当時の川田がタイガーとしてデビューして急に勝ちだす案は無理があった気がします。まだ遠征前でしたしね。

実は私は若手時代の川田はあまり買っていませんでした。1984年頃までひょろひょろの身体でしたしね。しかし1985年の5月のシリーズ、愛知県体育館にてタイガー・川田組対キッド・スミス組の試合がマッチメイクされ、川田がテレビ中継初登場を果たしました。

その中で川田の身体を見て驚きましたね。胸板がおそろしく厚くなっており、さすがにキッド・スミスレベルとまではいかないまでも三沢の胸板の厚さよりは明らかに上回っていました。前年末の福岡でピラタ・モルガン戦を見た際は特にその印象はなかったのですが、半年間でかなり努力したのだな、と感心しました。

その年の末、海外遠征に出発。1年後帰国するも大舞台は与えられないどころか、正月に不整脈を起こしいきなり数週間欠場。ジャパン軍離脱の後は人員不足もあってか馬場のカバン持ちを再び任せられ、前座のの第一試合も再度経験する等不遇の連続だったと思います。

しかし、その秋天龍同盟に加入の後は徐々にその素質が開花。アジアタッグを巻いた後、やむを得ない事情とはいえ、1988年の世界タッグ決定リーグ戦では退団した阿修羅・原の代役として天龍のパートナーを務めました。ここでのチョイスが先輩の冬木でないのがすごいんですよ!

結果、デビュー6年で武道館のメイン出場を経験。翌年は「あすなろ杯」で優勝し、シングルマッチで後楽園ホールのメインを務めました。①武道館メイン と ②シングルメイン はこの時点で三沢はまだ無しえていなかった実績であり、一気に後輩の川田が抜き去ったような状況になった訳です。馬場の目の確かさに驚かされます。

その後の活躍はプロレスファンにはご存じかとは思いますが、正直私は彼がこれほどまでのレスラーになるとは思っていなかったですね。あの性格だと色々と誤解されることが多かっただろうとは思いますが、非常にストイックで真面目な人であることは間違いないと思います。

以上となりますが、いかがでしたか?まずは越中以降は若手への扱いが若干変わってきた感がありますね。それまでは「将来のエースを育てる」という発想は無かった気がします。羽田は少し期待されていたかもしれませんが。。。

しかしそれ以上に感じたのは、「デビュー後すぐに廃業した選手はゼロ。特に大仁田以降全日本でデビューした選手は全て何らかの形でプロレス史に名を残す選手になっている」ということです。

細かく言えば、1981年のチャンピオンカーニバル中に滝川・高野という新人がデビューしていますが、数試合消化した後シリーズ後退団しています。

しかし、それ以来力皇、KENTAの時代まで下ってもデビュー後怪我で退団した選手がいないという事は、デビューまでのトレーニング及びデビューするにあたっての見極めは正しいものであったと思うのですよ。インディはその手の退団は頻繁に発生していますからね。

特に越中以降それまでの流れが変わってきたのは佐藤昭雄の功績なのかな?と思います。

それと確かに昭和のプロレス界は他の業界と比較しても、相当に前近代的なジャンルではあったと思うのですが、しかし未だ持ってあの時代の出来事について多くのファンが語り懐かしく思っている、という事はそれなりに理屈にあった高いハードルがあったという事ではないかと思います。

新日本の熱戦譜を見ていると海外遠征前の若手が結構外国人レスラーを破ったり、格に差がある選手の対戦成績もそれなりに勝ち負けがばらけているんですね。それもまたいろいろな意味での全日本と新日本、馬場と猪木の考えの差かなと思う訳です。

どっちがいい、とか、悪い、とかではなくこれもまた面白いんですよね。

今日はこんなところです。それでは、また。

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