2025年秋 ジュリーが博多で語ったコト

こんにちは、みやけです。今回は沢田研二さんの話です。

去る10月24日に沢田研二さんのライブが福岡市民ホールにて行われました。今年3月にオープンしたこの会場では初の開催です。会場は超満員!ジュリーも大変元気&ご機嫌で素晴らしい時を過ごさせて頂きました。

今回は例によってこのライブ中語ったジュリーのお話を全て文字に起こしてUPさせていただきます。今回も私の衰え行く記憶力を最大限駆使して脳に叩き込んでまいりました!

本当は私の感想とかも色々語りたいのですが、それは一切無!それではどうぞ!

2曲目 ダーリング 終了

ありがとう!ありがとう!福岡市民ホール!2度目の福岡だ~ッ!元気だった?こっちはまだ暑いね?もう関東はよう、さっぺえよ!寒すぎて皆風邪ひいてるべよ。もうたまんね。みんな元気で良かったね(拍手)

元気がなによりだ!新しいメンバーです~~~!もう二度目だからおなじみだね。そういうことだから、最後までごゆっくり(拍手)

~休憩開け~

ありがとうございました!ありがとうございました!2度目の福岡で、新しい福岡市民ホール、前のところより川に近いんでしょうけど大丈夫なの?横の川溢れないの?よくこんなとこ建てたなあって思って。

まあ、使える土地は限られてるから、市民ホールと言うんだから福岡市のものだと思うんですけど。まあ、こうやって新しいホールを作っていただけるのはうれしい限りなんですけど、(拍手)まあ、なんか、間に合ったなあ、という(笑)

なんか色々聞いている、6万人収容の屋根付きのドームみたいなのをどっかでもう着工したという、、、それにはもう間に合わねえだろう(笑)だってよく考えてくださいよ、昭和42年デビューですよ、ソロになったのは昭和46年ですよ。

だからもう、全然時代が違ったからね。だから皆さんもういいお年を召されている訳じゃないですか(笑)そういうような感じでいらっしゃいますけど、それはお互いさまで、僕はもうシャキシャキしてますよ!(拍手)

その頃(のライブ)で思い出す事と言えばね、どん帳を使ってたのよ、どん帳。どん帳の中で用意しないといけない訳よ。ましてやお客さんをほとんど入れて、そのほとんどが女学生なのよ(笑)覚えてます?(爆笑)

どん帳の中で音合わせする訳よ。で、1曲やったりする訳じゃないのよ、ほとんどぶっつけ本番。よくそんな事してたと思うけど、言われるままだもの、その頃。で、どこだか忘れましたけどねえ、それでねえ、暗転で幕が開くわけよ。暗転で客席を真っ暗にして、それでパアッっと幕が開く前におっこったことあるのよ。

で、真っ暗なままなんだけど、何か感じたんだろうねメンバー、タイガースのメンバー。「沢田どっか行った!」(笑)で、分かってたから上がって来たのよ。何とかね。

それで、ようやく上がってきたときに「プイ~~ン」で「オウ、プリイイ~~ズ」(爆笑)まあ、そんなこともありましたけどね。でもそれはカウントされてないんだね。

で、そんなことばかりやってて、1日2回というのが普通だったんだよ!そのころ「許されない愛」という歌を出して、ヒットして紅白初めて出たのかな?そうすると箔が付くのよ。そうすると渡辺プロもね、(年)120日僕らにやらしたんだよ。120日。

ねえ、それも1日2回だから。気絶しちゃうよね。でさ、年月が経ってニューミュージックというのが出てきたわけよ、ユーミンとかさあ。そいう人たちはさあ、1回しかやんないの。

吉田拓郎さんとかさあ、井上陽水とか。1日1回しか!(笑)何で?「1回の方が集中して出来る」そしたら博多座とかどうなるの?必ず2回やるじゃん。でもね今は名前変わりましたけどジャニーズ事務所とは1日3回とかやってたんだよ。そういう話知ってます?知らない?

40分くらいを3回やるのよ。で、タイガースの場合は1時間とかはやったことないわ。で、だいたい基本が新宿ACB、池袋のラブ、それがせいぜい30分なの。でも人気が出すぎて他のバンドとは(一緒に)やらなくなったのよ。

女の子がたくさんキャーキャー言うって。それが嫌でいったん(もうひとつのグル^プが)外に出るという。で、タイガースだけでやるんだけど、それでも45分ですよ。で、僕が初めてソロになった時に、どうやって一人でやったかというと。。。

越路吹雪さんが日生劇場というところでリサイタルをやることになった訳よ、何日か。で、僕はその越路さんが休み、開いている日の時に借りてやらしてもらう事になった訳よ。「沢田研二、初リサイタル!」って(笑)

その時、前半45分、休憩入れて1時間。終わった時腰抜けそうになりましたもん。で、どっかで通し稽古するとか、リハーサルする、とかそういうのが無かったのよ。何でもぶっつけ本番なのよ。頭の中でやっとくのよ。

その当時練習スタジオというのもあったっけど、高かったからなあ。でも今はもう日本全国乱立してるから安くなっているだろうし、ピンからキリまであるんでしょうけど。そういう時代をねえ、乗り切ってここまで来たわけですよ(拍手)

もう50年とかいうのは過ぎてんだよ。(笑)ソロ活動もそうだし、そういうのは意味がある事でもないよね、という。どういうことでもさあ、くじけないでやってくと続けられるのよ(拍手)

まあ、それやれたのは僕の場合特殊だから。特殊、、、メチャメチャ売れた時期があるから。(笑・拍手)例に出して悪いんだけど(内田)裕也さんみたいにパッとしない可能性があるから。(笑)で、そいう人は普通にやっていけるのよ。

だから、ああいう人は言わないじゃん、わざわざ「デビュー何周年」とか。「恥ずかしいよ、人気出た覚えもねえしよう、なんだかんだやってたら、すぐグループサウンズになっちゃったしよう、だからいい事なんかほとんどなかったよなあ、だから態々いう事じゃねえんだよ」とか言うから「そのとおりですよ!」って(笑)

で、僕も色々プロモーターの人たちとの関係の話の中で、「もうレジェンドなんですから!」とか言われて。でも嬉しくないじゃん!あいつがレジェンドなんだよ?あいつもレジェンドなのよ!あいつもレジェンドなのよ!あいつもレジェンド!あいつもあいつもあいつもみんなレジェンド。。。(笑)

その中でさあ、レジェンドって言われたってさあ、値打ちないじゃん。(拍手)だから俺はそういうことを思う訳よ。だからそれはここだけの話だけどね(笑)大きな声では言えないけれども、思っている事は皆その通りなんだよ。

「あの人は違う」と思ってくれてるから。

私が一番だとは決して思えない、でもここまでやってこれたのは、言うたら、あきらめなかったからかなあ(拍手)あきらめなければ夢はかなう、じゃないの。僕はどこまで行っても夢は無いのよ!

でもね、夢がこうね、かないかけている時期に来ているかもしれないのよ。というのはね、僕は若い頃にね、凄い経験をね、させられちゃったわけよ!もうね、僕はもうテレビ出たら夢はもうかなった訳ですよ。

でも僕の周りにいたタイガースのメンバーはそれだけが夢じゃないのよ。「日本一になる」という夢があった訳よ。それもみんなに黙ってついて行って、黙々やってたら、ホントになっちゃったのよ!タイガースが日本一に!

それでこう、みんなこれでやるのかなあ、と思ってたら、一人かけ二人欠け、それがはっきりした時にはそれぞれがそれぞれの道を決めてて、自分だけがどうしようかな?と。

でも世の中の週刊誌、週刊平凡とか明星とかは「沢田研二はソロになるぞ」と大文字で書いてある訳よ。でもこっちは誰からも「ソロになるからな」とと誰も言ってくれない、みんな自分の事で一生懸命だからさあ。

でもサリーがやろうとしてたことが上手くいかなくて、で、どういう風にしたかというと「スーパーグループを作ろう」という。スパイダースから大野さんと井上さん、テンプターズから、、、「え?なんでテンプターズ?」って思いましたけどね。

でも大の大人が考えてよ、サリーもOKなのよ、大野さんもOKなのよ、井上さんもOK、だからこれはいいんじゃないかと思ってたら、全然ダメでした(笑)でもその短い期間の中で僕は凄い勉強した訳だ。

で、その後PYGをやりながらも、ソロでレコードを出さされて「君をのせて」という歌を出して。今考えれば贅沢な考えかもしれませんが、その時はそういう気持ちだったわけよ。

この歌(君をのせて)も布施さんが歌った方がもっともっといい歌になる、僕に向いた歌じゃないと。でもその後加瀬さんがついてくれたりして、僕に合う、誰も歌ってないような歌を僕に与えてくれて今日まで来ているわけだけど、その当時は夢なんかゼロだったんだけど。

でもそれが日本一の証ではないけれど、レコード大賞を頂いた、ということ。これは逆に言うと終わりでもある訳だ。で、後は何が目標かと言ったら続ける事しかないじゃん!

で、続けると言っても変なレベルじゃなくて、ある程度のレベルを保って続ける、という事だろう、と思いながらやってきて、でもその中で思いもよらない良いことが合ったりして、、、それで化粧したり、色々な事をやってたら、それもまた世の中を喜ばせる事になって、「気持ち悪い」も喜ばせたうちだと思うんですよ。

で、そういうことをやって来ていると、テレビというのは味方よりも敵が多い世界だと若い時から分かっていたんだね。分かっていたからアレが出来たんだね。だから自分自身を大切にしよう、と思うよりも「当たって砕ける」で若さで乗り切った事がいくつかあってたね。

それで、その途中でもずっと思ってたんだけど、ある程度のレベルを保っていたとして、ファンの人たちがどんどん減っていったとして、そして最後の一人になってしまったとして、「そのおひとりの為に僕は歌います」という、、、、

というタイプの歌い手ではないんですよ!(爆笑)

で、何が夢だ?と思ったら、このステージの上で超満員のお客さんの前で歌う、という事が夢なんですよ!(拍手)これだけ、頑張って来た人間として、その命を懸けて、そう思う訳です。

でも夢というのはそれを口に出した瞬間から崩れるものでもあるし、だけど僕にとっての良い条件というのが、こういう歌というのは同じ世代のものでしょ?で僕らの世代は団塊の世代と言われるけど、要するにベビーブームの時に生まれた人間だから、めちゃくちゃ人数が多い訳よ。

だから(ここも)高齢者だらけなんだけど(笑)自分も含めて。だけど、じゃあ、同じ楽しくやるんだったら、「皆さん元気でいてくださいよ」と口にして言うようになってきた訳であります。

で、今年は年2回来れましたけど、毎年それが出来るとは思いませんし、自分自身の健康もありますね。もう最近ね、普段喋ってるとね人との会話がね、何言ってるか分かんないのよ(笑)

で、1回は聞けるわけよ。「え?え?え?」って。2回目言われてそれが聞こえなかったときに「う~~ん」って。それが親しい人だったらまだね、「なんて言ってたの?」ってそれが出来るんだけど、、、、

音楽とか演奏はね、大きい音だから聞こえるのよね(笑)で、今は若いアーティストの人は前にモニターっていうのかな?あつけたりしてる人がいるんだけど、それは一切やらないのよ。

僕の場合、僕の方に向かっているのはこの両サイドの長いスピーカー、この音が皆さんの方に行ったあと、それを跳ね返ってくるのを聞いて歌ってるわけよ。で、自分の声もそれで聞こえている訳よ。

で、これはずっとそうだったから、途中で転向しなかったから、こういう将来を見越した行動よね。革靴を履いてステージに上がるにもやめてクッションのある靴を履いて膝に負担がかからぬよう。最初の方は革靴はいてましたけどね。

色々な事を考えて今日までやってきたわけですけれど、とりあえずの目標として今、77ですよ。77だよね(笑)で78でしょ、79でしょ、80。。。ん~~~。

とりあえず80だな!(拍手)

80まで行ったらその時また考えよう。そんなことを思っているんですけどね。いかがでしょうか?(拍手)

で、皆さん、もしかして「新しいホールも入ったし、これを最後にしようかな?」と思ってる方はですね、ちょっと、、、、マッテクダサイ(笑)

ちょっと、、、、マッテクダサイ、「ちょっと待ってください~♪」(笑)まあ、皆さんも元気でいていただいてね、僕なんかもおかげさまで健康でね、母親なんか60過ぎで亡くなっているんだけど、父親は101まで生きました

そういう父親に似たところがあるのかも知れないし、それだといいんだけど、とにかくこうして今日までやってこれてます。でもね、表情とかはね、変化しにくくなってます。(笑)

こないだ久しぶりにね、仕事の関係でね、写真撮ることがあったの。それで出来上がったのを見てね「もっと笑ってると思ってたんだけどなあ」(笑)でもしょうがないや!しょうがない事はしょうがないんだけど、歌えるうちは僕はもう歌いたいと思っていますんで。(拍手)

皆さんは沢田研二の生きがいになってるわけや!もうね、ライブを止めたとしたら、、、毎日どうすんだろ?毎日酒飲んでるしかねえな(笑)人の観に行こうかな?”推し”始めようかな?(笑)

とりあえずはね、80まであと3年、頑張りますんで皆さんも元気でいてください!(拍手)そしてまた福岡に来たときは是非是非元気なお姿をね。という事を心より平身低頭、ひざまずいてお願いを申し上げます(大拍手)

※ジュリー・片膝をついて頭を下げる、そして左右を見回す

それで皆さんにアドバイスしますとねえ、里芋はいいよ。里芋はいい。あとねえ、良く眠れる「BAKUNE」というね(疲労回復パジャマ?)、いろんなとこから出してるのよ。そういうのは投資だねえ、投資。

サプリメントもいいけど、美味しいもの食べて、自分の歯で噛んで、、、無い人はしょうがないよ!飲みこんじゃおう!舌はあるでしょ!舌は!(爆笑)そんなことですね。冗談じゃないですよ!本気ですからね!(笑)

そんなことで、よろしくお願いします。(大拍手)

以上でございます。いかがでしたでしょうか?会場は非常にきれいで椅子もゆったり目の設置で私のような大柄な男性には非常に助かりました(笑)あと、お客さんは結構若い人(30~40くらい?)の人も多かったような気がします。

後ろから見たら、飛び跳ねる姿が高齢者のそれではない、、、、そんな方が多数いらっしゃいました。微笑ましいです。

こんなところですね。それでは、また。

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