天龍源一郎 ~憂鬱なる男からの脱却~

こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話です。”風雲昇り龍”天龍源一郎さんについて分析してみたいと思います。全日本時代、ひねくれがちだった天龍の感情表現がどう変わっていったのか?がテーマとなります。

SWS解散後、WARを旗揚げ。アントニオ猪木からシングルでピンフォールを奪い「BI砲を倒した唯一のレスラー」としてミスター・プロレスと称されるようになった天龍源一郎。

しかし堂々と自己アピールを行うようになったのは、天龍同盟を立ち上げ、ジャンボ鶴田からピンフォールを奪ったあたりから。SWSのトップになってからは流石に積極的に気持ちを表情に表す感が出てきましたが、それまではとにかく無表情な男でした。

それでもデビュー当時のバトルロイヤルあたりでは、同僚とニヤニヤ笑いながらファイトしているのも垣間見られたものですが、2度,3度と海外遠征を重ねるも中々成果が出ず、”第3の男”の称号さえも怪しくなると段々と試合中、表情を崩すことが少なくなってきました。

1981年夏にビル・ロビンソンと組んでインタータッグに挑戦した際からブレイクが始まったのは周知の事実ですが、試合中・試合後の表情については以降も中々変化することが無かったと思います。具体的にどうかというと。。。

試合中はそれなりに闘志を前面に出す表情を見せるのですが、試合に勝った後、レフリーから手を挙げられても、首を捻ったり、痛めた場所を気にしたりして喜びの表情を表そうとしない。

そして観客にアピールする事もなく、すぐにリングを降りてしまう。必要以上に?微笑んで観客と喜びを分かち合うジャンボ鶴田とは本当に対照的でした。

それでも、長州との戦いを通して少しは変わってきたかと思ったのですが、ジャパン軍離脱後1988年エキサイトシリーズ最終戦、横浜大会(秋田でのハンセン失神直後)、ハンセンとのPWF&UNのダブルタイトル戦を制し2冠王になった天龍ですが、日本テレビの若林アナからマイクを向けられるも、額からの出血を理由に?ほとんどコメントは無し、セコンドの阿修羅・原に付き添われほとんどコメントがないまま2本のベルトを巻くこともなく早々にリングを会場を後にしてしましました

流石にこの時は若き私も「流血も大したことないでしょ?初めてハンセンにピン勝ちしたのだからもう少し喜びを爆発させればいいのに」と思ったものです。しかしこの試合の内容自体は、秋田での一件が尾を引いていたためか、双方全体的に動きが堅く、天龍的には納得しがたい試合内容だったからかも知れません。

後年、天龍はあまりコメントがない時代が続いた時の心境について「だらしない試合をした直後、のほほんとインタビューに答えているヤツの気が知れない」的な事を話していました。不遇時代が長かった天龍だけに、浮かれた顔でコメントをするのはかなり慎重になっていたのかな?と思います。

私自身もプロレス友達(主に新日本ファン)からは「天龍はいつもブスッとして辛気臭い」と良く言われたものです。マスコミからも裏で「北向き源ちゃん」等と言われていたらしいですし、、でもしかし、ひょんなところで天龍は満足そうな表情を見せたり、ガッツポーズを見せたりするのですね。

天龍ファンとしては、その姿を見るのが実に嬉しかったのですよ!「ああ、天龍が満足そうな表情を見せている、良かったなあ」という感じで。何かこう、華奢で男性ホルモンが少なそうなアイドルを応援する女性ファンのような心境でしたね。

ここではその上昇期の天龍が感情を露にした貴重なシーンを振りかえっててみたいと思います。あまり試合内容のことは書いていないのでご了承ください。まずは時系列で追っていきます。

① 1984年エキサイトシリーズ 蔵前大会 リッキー・スティンボートとのUN王座決定戦に勝利。プロレス入り7年目で初のシングルタイトル戴冠。

天龍にとって初の大舞台での勝利。しかも念願のシングルタイトル獲得ですので、歓喜の表情を爆発させても良かったと思うのですが、、、、

勝利した一瞬は「やったぞ!」的な表情を一瞬見せましたが、直ぐに下を向いてしまい、リッキーに促されてようやく手を挙げる程度。観客にベルトを巻いてアピールする姿も恐ろしく控えめでした。疲れもあったでしょうけど、徳光アナのインタビューでもうつむき加減で声が途切れがちであるし。。。

ただ、この時の天龍は相手のリッキーのチャラチャラした試合ぶりにカチンときていたようで、勝利も複雑な心境だったのかもしれません。更にはデビッドの急死で急にチャレンジャーに抜擢されたリッキーのコンディションはウエイトダウンが顕著でしたしね。。。

当時リッキーはプロレスからやや距離を置いていたようですし、体重はおそらく前の試合に出場したチャボ・ゲレロより軽かったのではないでしょうか?天龍的には「こんなやる気のない相手に勝ってヘラヘラできるか!」という事なんじゃないかと思います。

② 1984年グランドチャンピオンカーニバルⅢ 蔵前大会。アレックス・スミルノフとのシングルマッチ。延髄切り3連発で快勝。

ほとんど振り替えられることが少ないこの試合。同大会では馬場がハンセンから約1年ぶりに虎の子PWF王座を奪回、逆に鶴田はマーテルに奪取されたAWA世界の奪回に失敗してしまいました。そして2代目タイガーマスク(三沢光晴)の披露も行わています。

その中で行われたこの試合の注目度は当然非常に低かったのです。既にスミルノフは馬場、鶴田、そしてカブキにまで再三ピンフォール負けを喫していましたしね。しかし実際試合がはじまると、名勝負とはいかないまでも、ヘビー級で動ける両者が真正面からぶつかり合った大変迫力ある試合でした。

試合中盤、天龍がスミルノフをロープに振りカウンターのエルボーを放つのですが、これがモロに顎に入ってしまいます。スミルノフが失神してもおかしくない強烈な一発でしたが、カバーされてもなんとかカウント2で跳ね返すのです。

一念発起したスミルノフはリープフロッグからのカウンターキックにかわず掛けとこれまでのシリーズには見られなかった積極的な攻撃を見せるのです。しかし天龍は冷静に相手の動きを捉え、一瞬のスキをついて延髄斬り!さらに2連打。全てが鮮やかに決まり、延髄斬り3連発で快勝するのです。

そして特筆すべきはその後のシーン、勝った瞬間「ヨッシャ~ッ!」という感じで両手を叩き、顔を上げて勝ち名のりを受け、しばらく満足そうにリング上をたたずむのです。こんな上機嫌な天龍を見るのは初めてでした!

この頃の天龍はフィニッシュホールドの模索期、まだまだパワーボムには手を付けておらず、延髄もそこそこの大物相手には決め技にはならず、ショルダーバスターやDDTを試していた頃です。そしてUN王座決定戦でもそうだったように、大一番での決まり手は首固めやスキをついてのエビ固めといった”クイック”に頼っていました。

結果的にはこの「延髄3段斬り」は必殺技に昇格するまでには至らなかったのですが、自身で納得できる流れでフィニッシュまで持ち込んだのが嬉しかったのではないでしょうか?更にこのシリーズふがいなかったスミルノフの良さを引き出したという点でも。

そのあたりから、天龍のファイト内容は格段に良くなっていき、翌1985年には最後まで自身のフィニッシュホールドとなったパワーボムを使用し始めます。しかしビッグマッチでは不完全決着の連続で特に感情をさらけ出せるシーンは訪れなかったのですが、1986年初頭ようやくその機会が訪れるのです。

③ 1986年 新春ジャイアントシリーズ 東京体育館大会 鶴田と組んでのインタータッグ戦にて長州・谷津組の挑戦を受け、。谷津をパワーボムで完全ピンフォール!

 

全日本プロレス史上においてもトップクラスに入る名勝負として名高いこの試合、天龍は谷津からフォールを奪った瞬間、「やった~ッ!」と自ら左のこぶしを上げ、観客にアピールするのです。レフリーに促されではなく自身からアピールするのは本当に珍しい!

更には、自分自身を褒めるよう、左手を握りしめ何度も前後に動かし「ヨッシャ~ッ」的な独り言?更にはリング下でマイクを持ち、次の試合での雪辱をアピールする谷津に対し、トロフィーを掲げ「いくらでも吠えろ!勝ったのは俺だ!チャンピオンだ!」と言わんばかりに、勝ち誇る天龍。本当にうれしかったのだと思いますね。

ただし、惜しむらくは「やった~ッ!」と叫んだ瞬間、駆け寄ったジャンボが祝福の為?天龍に覆いかぶさってしまい、館内には天龍の動作があまり見えていなかったであろうことは可哀そうでしたが。。。

実は天龍はパワーボムについては前年頭から使用し始めており、6月の武道館での長州とのシングルでも披露しています。しかし若干手が滑り決まり方はイマイチであり、3カウント奪取には至りませんでした。

また、1981年インタータッグ戦以降も「勝ったとしても首固めか、逆さ押さえ込み、もしくはクイック系のエビ固め」がパターンでした。

フィニッシュホールドの会得に四苦八苦していた天龍にとって、「大一番で自身の十八番で完全ピンフォール勝ち」というのは、おそらく一つの目標としていたはずであり。試合内容も素晴らしかったのも相まって満足度は高かったろうな、と思うのです。

いや~、返す返すも、ジャンボの無意識での「いいとこどり」には閉口しますな(笑)

次の試合は、天龍自身の試合ではないのですが、彼が全日本在籍中非常に印象深かったシーンです。

④ 1986年5月 後楽園ホールでのジャンボ鶴田対スーパーストロング・マシン戦。試合後ヒロ斎藤と2人がかりで鶴田を攻撃している状況において、既に試合を終わった天龍が椅子をもって駆け付け、マシン・ヒロを蹴散らすシーンです。

この前のシリーズから念願の全日本参戦が実現したカルガリーハリケーンズですが、基本標的はジャパン軍であり、なぜ唐突に鶴田とマシンのシングルが組まれたのか?イマイチ理由が分かりませんでした。

この時期はプロ野球のシーズン中であり、午後7時からの全日本プロレス中継はやったりやらなかったりの時期。この日は貴重な生中継の日ですが、シリーズの合間であり、外国人は帰国していたのでなんとか無理やりにでも目に付くカードを組みたかったのかもしれません。

しかし必然性の乏しいカード、更にはセコンドにヒロ斎藤が付いたこともあって「どうせ不完全決着になるんだろうな」という緩慢な雰囲気が館内に漂っているのは感じられました。試合の方もマシンは果敢に攻め込みますが、鶴田とのスタミナの差は歴然であり、マシンが勝つ雰囲気は微塵も感じられませんでした。

そして案の定、ヒロ斎藤が乱入しマシンの反則負け、しかし見どころはゴングが鳴った後でした。ハリケーンズの狼藉を阻止するため天龍がタイツ姿のまま椅子をもって乱入、2人をしばきまくりリングから追い払うのです。

またその叩き方が非常に感情がこもっており、物凄い勢いで連打!連打!連打!マシン・斎藤が黒コスチュームの為、まるで台所に突然姿を現したゴ●●リをスリッパで殴打しているようにしか見えませんでした。(笑)

そこそこの攻防がありながら、密度の低さで凡戦にしか見えなかったこの試合の最大の見せ場と言ってよかったと思います。

この試合を「このシーンだけは印象深かった」という全日ファンは多いのですが、それは何故でしょうか?それは当時の全日本、そして天龍を取り巻く環境が大きかったと思います。

全日本対ジャパン軍の抗争も決定的な区切りがつかず、更には3月にカルガリーハリケーンズの加入。そして4月には青天の霹靂であったろう元横綱・輪島の入団発表。闘うテーマが混とんとしており、天龍としても今一つどこに向かってい良いか分からない状況。全日本ファンもおそらく特別扱いされるであろう輪島の入団に戸惑っていたと思います。

そんな中の、天龍の椅子攻撃はやり場のない怒りを苦し紛れに表明した感が合って、全日本の共感を呼んだのではないかと思います。ファンも「これから全日本はどうなるんだ!」と叫びたかったのではないかと思います。目立つのは後から加入したレスラーばかりでしたからね。

その半年後、天龍の憂鬱さに更に拍車をかけるシーンが見られます。

⑤ 1986年世界最強タッグ決定リーグ戦、最終戦武道館大会。メインの優勝決定戦の鶴龍対ハンセン・デビアス組。鶴龍コンビがリングアウトで僅勝。表彰式で満面の笑みで大小切手を掲げる鶴田に対して天龍の表情は。。。

この時の天龍の浮かない表情は、かのターザン山本氏も週刊プロレスにてリアルタイムで指摘しておりました。2年ぶりの優勝を飾ったにも関わらず、なんとまあ天龍は冴えない表情をしているのか!と。

この時の状況を説明すると、、、まずセミで輪島博の都内デビュー戦、馬場・輪島対マーテル・ジンク組が行われ輪島がゴールデンアームボンバーを炸裂させ快勝!予想外のバックドロップも披露し上々の戦いでした。ただし、この輪島目当ての招待券客も多かったようで、この試合終了後会場を後にした観客も結構いたらしいのです。

その公式戦ダブルメイン第一試合の鶴龍対ハンセン、デビアスは両者リングアウト。そして勝った方が優勝となった長州・谷津対ファンクスの試合もテリーが長州と場外で心中し双方無得点試合。その結果最高得点の鶴龍とハンセン・デビアス組において、最強タッグ初の優勝決定戦が行われることになったのです。

しかし1試合だけのインターバルを置いて行われたこの試合は凡戦。(というか第一試合も結構な凡戦でした)。最後は場外でデビアスに羽交い絞めにされた鶴田がハンセンにラリアットを喰らいかけるも寸前で回避して、デビアスに誤爆。

返す刀で天龍がハンセンにバックドロップをかけ、その間に鶴田がカウント10ギリギリでリングに滑り込み、リングアウト勝ちで優勝!というありきたりの内容でした。

試合後、日テレの倉持アナがリングにあがりインタビュ-を試みます。ジャンボは顔を上げ、にこやかに答えますが、隣の天龍がずっと下を向いて額を押さえているせいか、今一つ歯切れが悪いコメント。で、天龍はマイクを向けられてもずっとうつむき、顔を背け最低限しか回答しません。インタビュ-は早々に終了してしまいます。

そして、動画には映っていませんが10万ドル小切手を掲げての記念撮影。満面の笑みで白い歯を見せるジャンボに対して、天龍はうつむき、口角も下がり、一応手は掲げているも小切手に指が届いていないというテンションの低さ。。。。。

いや、プロであることを考えれば、ジャンボの対応の方が正しいのかも知れません。年の締めの晴れ舞台で大物チームを抑えて優勝したのですから、、、、でもやはり天龍にとっては納得しがたい結果だったのではないかと思います。全てを捨てて優勝という称号だけ手にした、、、という。

「来年は上場の滑り出しを行った輪島中心で全日本は回していく。ただし鶴龍の上に置くわけにはいかないので、一応忖度で”最強タッグ優勝チーム”の肩書きだけ与える」みたいな感じなんですよ。ただしこの年の長い長い葛藤が翌年の「天龍革命」に活きてきたのではないか?」と思うのです。

⑥ 1987年スーパーパワーシリーズ 福岡国際センター大会。ジャパン軍分裂。長州・マシン・小林邦ら全日本離脱を受け、輪島は早くもマンネリ化。沈滞化する全日本の活性化のため、天龍がライバル阿修羅・原と共に「天龍革命」を訴える。

なんといってもこの試合の名シーンはイキる輪島を見る天龍の表情ですよ!「オッさん!まあ、今のうちにカッコつけるだけつけとけ!」といった、いわば輪島を鼻●ソを見るよう不適な表情!ついぞ2週間前くらいまでは、何かを悩んでいるのが明白であり、本当に憂鬱そうな表情だった天龍が、原とのタッグが認められるや、こんな腹をくくった表情を見せるとは。。。

革命開始直前の天龍は投げやりな態度が目立ちました。「天龍も長州に続いて全日本を離脱するのでは?」と思ったファンもいたのではないかと思います。

福岡での試合は同盟結成後長門での輪島・大熊戦を消化して2試合目でしたがこれほどまでに吹っ切っているのか?と感心する変わりようでした。この大会は私も生観戦したのですが「天龍の隆起は直近過ぎてファンにまだ伝わっていないのではないか?」と心配していました。この時点では輪島が福岡初登場だったので来場したとしてもそれが目的だろう、と。

しかし観客動員も前年最強タッグより上回りました。(4400人→4700人)今でもこの試合はyoutubeで視聴可能ですが、館内は天龍に温かく大きな声援を送り、十分に革命開始が伝わっていたと思います。やはり全日本ファンは輪島の奮戦を喜びつつも、「本当はこれではいけない」と心の片隅で感じていたのではないかと思います。

その館内の期待を瞬時に嗅ぎ取った天龍は輪島を小馬鹿にする表情を作って見せた、、、、いやいや、それは考え過ぎかなと思いなおしました。天龍は試合で勝つ負ける云々より「横綱!悪いがプロレスの奥深さを思い知ってもらいますよ。耐えられますか?」みたいな感じなのかな?と思うのです。

改めてこの試合を見ると、その後のえげつない攻めと比較するとまだそこまでシビアではないのですが、それでも両軍の気迫は十分伝わってきますよね。原も石川もいい動きをしています!

試合後、客席のいたるところで「これからの天龍は何かやってくれそうだ」的なささやきが多く聞こえてきたのが今でも記憶に残っています。

⑦ 天龍、ついに三冠戦で鶴田にピンフォール勝ち!1989年スーパーパワーシリーズ、武道館大会。

天龍革命の集大成と言える試合、私はこの回のブログを書くにあたっての構想として、「天龍同盟で試行錯誤するうちにレスラーとしての自信が芽生え、鶴田に勝った時には素直に喜びを表現するレスラーにようやくなり得た」と結論づけるつもりでした。

試合後、ハンセンと両手を掲げて笑顔で武道館のファンにアピールするのが強く私の印象に残っていたからです。しかし、しかししかし、、、改めて動画を確認すると、、、、う~~ん、喜びをあらわにしていると言えなくはないが、、、それほど変わったわけではないな、、、という印象でした。

この試合を迎えるにあたっての天龍はというと、前シリーズ最終戦の大阪大会でジャンボのパワーボムで失神させられて首を負傷、その影響でシリーズ前半は欠場していたわけです。なのでベストコンディションとは言い難かった!

しかし、試合敗戦後直ぐに立ち上がり天龍に握手を求めるジャンボ、対する天龍はコーナーにへたり込み、ジャンボの握手を拒否。「負けたのにそんなピンピンされちゃあ、勝った俺の立場がないだろ!」そんな心境だったのでしょうか。

天龍は勝利者アピールを行ったものの、若林アナのインタビーには両ひざに手をつき中腰で回答しながら、話の途中でロープをまたぎリングを去ってしまうというそっけなさ。正も痕も尽き果てていたとは思うのですが、「あれ?こんな感じだったんだ」と思いましたよ。ブログの内容も軌道修正せねばと!

そしてここでは挙げませんしたが、翌年東京ドームでの日米レスリングサミット、ランディ・サベージに勝利した時も同じ感じなのです。

再三ちょっかいをだしたシェリー・マーテルには「どうだ!」的なリアクションを見せましたが、レフリ-から手を挙げられるや否や、そそくさとリングを去ってしまいました。天龍同盟を解散した直後なだけに何らかのパフォーマンスがあっても良かったのですが。。。

あの時、見る側は「この組み合わせがまさかこんな面白い試合になるとは」という印象だったと思うのですが、なぜ天龍のテンションはそれほど上がっていないのか、、、それ以外の大一番の試合も確認しましたが、それなりに感情を表している時もあるのですが、正直大差ないのです。

しかし、SWS、それを経てWARの大将となった天龍は以降イメージするような、堂々と自己主張するレスラーになったと思います。ただし、例に挙げるにしても新日本の試合は決着がついた瞬間乱入・乱闘でグダグダになる場合が多かったので、UWFインターにおいての高田延彦との試合を挙げてみます。


天龍は勝った瞬間上を向きガッツポーズ、「どうだ!」という表情を館内全体に分かるように表し、顔を下げることはしません。動画ではここで切れますが、その後も同じテンションです。新日本での試合もだいたい同じ感じであり、勝った直後、うつむきっぱなし、なんてことはまずないのです。

なぜ、全日本時代とそれ以降はこうも違うのか?色々と私なりに考えてみました。ひとつは「経営者」「雇われレスラー」との差でしょうか?誤解の内容に言っておきますと、天龍は全日本時代、誰よりも「団体が反映する事を考えて」ファイトしてきたと思います。

ただし「雇われレスラー」だったら「自分のキャラ」を大事にすると思うのです。経営者だったら、自身及び配下のレスラーのキャラについてはいくらでも変えたり強化することが出来ると思うのですが、雇われの場合、ある程度の位置にたどり着くまでは、自分自身でそのキャラをイチから構築せねばならんと思うのです。

そうすると、自分のファンというのは、自身が作ってきたキャラに愛着を持っているだろうから、それを無碍には出来ない、という気持ちになるのでは?と思うのです。そうなると、天龍は自分のファンというのは「陰キャ」を愛でていると感じ、中々世間に迎合するような動きはしずらいのかな?と思うのです。

そしてその逆「経営者」だったら、マスコミのみならず、そこに見に来ている後援者・スポンサー・マスコミを意識するので、まずそういう礼儀的な部分はきっちり抑えておくのかな?と思う訳です。

もうひとつは、全日本離脱においてSWSに離脱後ファンが一定数減ってしまったことにはやはり天龍もショックだったと思うのです。それどころか天龍の反対側に回りましたし。その状況があったからこそ、「ファンの顔色を気にしていたってしょうがない。これからは自分の好きなように生きよう、気持ちもしっかり現わそう」と考えたのではないかと思うのです。

全日本時代感情を抑えがちだったのは、やはり常にファンが心の中にいる天龍だからこそ、ファイト内容が客観視でき、そうそう浮かれた表情は出来なったのはないかと思います。

今日はこんなところです。近年の天龍さんは体調がすぐれず、入退院を繰り返しているようですね、今年NHKで放映された「ハートネットテレビ」に出演した際は、健康の話になり思わず涙を流されインタビューに答えていました。グッときましたよ。

Screenshot

あれだけ、身を削ったファイトをしてきたのだから、身体がボロボロになっているのは間違いないと思います。少しでもお身体が回復し、元気に余生を送られればいいな、と念じております。

どうしたことか、全日本を背負った馬場、鶴田、三沢が次々に早世してしまっただけに、天龍さんには一日も長く生きていただきたいですよ!。

今日はこんなところです。それでは、また。

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