「馬場戦記 第4巻」栄光と苦難の十六文

こんにちは、みやけです。今回はプロレスのお話、今月発売されましたプロレス評論家の流智美さん著『馬場戦記 第4巻 世界最高峰王者編』についての感想文をまたまた書かせていただきます。

ただし、まだ発売されて間もないこの本の細かい部分を公開するのは申し訳ありませんので、私がグッと来た部分についてポイントを絞って感想を述べていきたいと思います。それでもそれなりにネタバレしており流先生のご承諾を取っているわけではないのですが、、、、

掲載期間は1974年から1979年まで。ジャック・ブリスコを破り日本人初のNWA世界王座を奪取した時期から腰痛の悪化によりキラー・トーア・カマタに虎の子PWFヘビー級王座を明け渡したあたりの期間となり、栄光と加齢よる屈辱が交互に訪れた期間ではなかったかと思います。

それでは、私が気になったポイントを書かせていただきます。事件の大きさとは比例しておりませんので。。。

① 1974年サマーアクションシリーズ エース外国人のボブ・ループにジャンボ鶴田とのアマレススパーリングを依頼。

これは初めて聞く話だな、と思っていたらループからの証言を得られたのが2018年にアメリカで行われたプロレスの表彰式でとの事。たまたま出席していたループから話を聞くことが出来たとか。ここは流石に流先生の面目躍如!令和の時代でも新情報を入手できるというのは、本当に素晴らしいです!

ボブ・ループ。昭和プロレスファンならご存じかと思いますが、アマレス出身でメキシコオリンピックにも出場した猛者であり、プロレスでは思ったほど大成しませんでしたが”ガチンコ野郎”としてこの後新日本プロレスにも登場。猪木とのNWF戦でもピンフォールを許さなかった曲者です。

このシリーズの参加外国人はループの他、ミル・マスカラス、あのダニー・ホッジ、更にはジョージ・スチール、サンディ・スコット、そして若き日のボブ・バックランドという実に個性的でガチにも強そうな異色のメンバー。

なぜかシリーズ中「ホッジ・ループ組」という相当手強そうなタッグは実現していないのですが、大衆受けはしないながらも、マニアならどの組み合わせも狂喜しそうなメンバーですよね。

そのメンバーの中から馬場はループに鶴田とのスパーリングを依頼し、それは1時間近くも行われたとの事、インタビューの中でループは流氏に対し「どちらが優勢だった等は一切伝えなかった」というのがリアリティがあります。陳腐なインビューだったら「何もできない鶴田をボコボコこにしてやった!」という内容になりがちですからねえ。

選ばれたのがホッジではなくループだというのも興味深いですね。

当時の雑誌等を見るとこの年の鶴田はまだUN戴冠前で、ルーク・グラハムと両リンに持ち込まれたりしてやや「スランプ」と言われていたようです。試合内容も冴えないという読者のコメントもチラホラ見え、馬場的には「シングル王座に就かせる前にもう少しスキルアップを」という心境だったのかも知れません。

個人的には「このボーナスは別途最終戦にて追加で支払いがなされた」という点。こういう話は大変興味深い!もちろんこのようなオフ返上の業務にはコストを支払って当然!(ジャンボにも手当てがあったかどうか不明ですが)。私としては「他人の試合への乱入」にも特別ボーナスが支払われているのでは?と推測しているのですが、、、、いずれにしてもその手の話はどんどん聞きたいですね。

② 1975年 チャンピオン・カーニバル。ブルーノ・サンマルチノから全日本プロレスへの一通の手紙。

このシリーズの最終戦・日大講堂で馬場のPWF王座に挑戦したサンマルチノですが、この時(当時)国鉄のストライキが起こっており全ての電車が止まり移動手段が無かったため観客はガラガラだったとか。。。なぜか今はストライキってほとんど発生しなくなってしまったのですが、当時はたまに起こっていましたね。

この話は薄々は聞いていたですが、この本では「2日前に発生したストがこの日でも解決しなかった為」と書かれております。そしてその時の流先生のエピソードも。こういう話は好きなんですよね~。単に試合がどうのこうのより当時の時代状況、そして各々zがどう感じていたか?という話はどんどん書いてもらいたいです。

そして本題ですが、このシリーズに来る直前のブルーノ(おそらく前年12月頃)が全日本オフィスに対し、自分を慕うレスラーの招へいを依頼する手紙を出していた事が、実物の手紙の画像と共に書かれています。そして希望のファイトマネーの額までも!

その中に記載されていたのが、マニュエル・ソト、スチーブ・ボラス、更にキラー・コワルスキー、そしてボビー・ダンカン(2026年1月21日没)。彼らはこの年次々に来日する事になります。

そして興味深いのが、ブルーノが書いている「希望のファイトマネー」ですが、決して高圧的な物言いではなく、「●●●ドルなら✖✖は要らない、というのであれば私に連絡が欲しい、本人にそう伝える」と表現している事。

本人がリベートを取る訳でもなく、双方にフェアな橋渡しをしているというサンマルチの常識的な人柄がしのばれます。この種の手紙は何でもかんでも公開していいとは思わないのですが、これは明らかに「誰も嫌な思いをしない当時の極秘資料」であり、そのあたりをうまくチョイスした流先生のセンスもまた素晴らしいなと思うのです。

③ 1976年エキサイト・シリーズ サンダー杉山造反!来場しながらも開幕戦をドタキャン!そのまま退団!

サンダー杉山の突然退団につきましてはデータが消失してしまった以前のブログに推測を書きました。

「杉山との契約は元々3月更新だったが、その直前の2月にこの口論が発生した」「契約内容の履行には細かそうな杉山がその途中での解雇は受け入れるはずがない」「口論を目撃したマスコミが極めて少ない(竹内氏のみ)」「契約解除後も杉山は半年程度全日本のプロモーター業を継続。1試合だけ試合も行う(同シリーズの愛知県体育館大会」

以上の点から「馬場と杉山の不仲は事実だったが、元々3月の契約更新を待って退団は合意済み。ただし、”クビ”の印象を与えるとその後の杉山のレスラーとしての価値が下がりかねないので、口論は出来レースだった」と推測しました。

流石の流氏もこの場にいる事はなく、この件は竹内氏の後日談を紹介するにとどまりました。実に興味深い内容のトラブルでしたが、竹内氏亡き後この件の真実を語ってくれる人はいないでしょうね。

ただし、第4試合から戻って来たグレート小鹿が、突然杉山の代役として第5試合のシングル戦(対 テリー・マーチン)にも急遽出場した、というのも凄い話です。そして以前も書きましたが、私が”自分の意志で最初から最後まで全日本プロレスをテレビ観戦した最初の興行”であり、兎に角興味深いんですよね。

④ 1976年 サマーアクションシリーズ ビル・ロビンソンを10年契約で獲得!

ロビンソンが後年日本在住時代に流氏が全日本への移籍についてインタビューを行い、「10年契約」であったことが判明しました! ロビンソンの最終全日本登場は1985年であり、最後の方はかなりの衰えを見せながらもキッチリジャスト10年間連続で来日し続けたので「やはりか!」という印象でした。(83年のみ家庭の事情で来日せず)

個人的には、前にも書いたように「その間一切のピンフォール負け無し(シングル3本勝負の1本は除く)」の付帯条件もあったと勝手に推測しています。馬場戦でのピン負け以降、1982年天龍と組んでのインタータッグ挑戦に至るまで、地方興行・タッグ戦の3本勝負に至るまで一切のピン負け無し!という事実があるので。

そしてロビンソンが猪木戦以降、全日本に戦いの場を移してた事について「引き抜き」として語られ続けていましたが、ロビンソンの話で行けば猪木戦以降、「また招へいしたい」といいながら3月まで具体的なオファーは無かったとの事だったそうです。

同時期アリ戦への奔走で新日側は多忙を極めていたとはいえ、その当時エース外国人のメンツとしては盤石だったわけではなく、ロビンソンを加入させればその一角として十分すぎるはずだと思うのですが、やはり猪木さん的には「あいつは新日本には合わね~な」という感じだったのではないかと思います。

流先生は馬場対ロビンソン戦について「時間には物足りない印象があり、名勝負の範疇に入るレベルの一戦ではなかったと思うが、それでも互いの持ち味を殺すことなく、結果的に及第点の評価はできると感じた」と結んでいます。

猪木ファンからしたら、この馬場xロビンソン戦は非常に評価が低いんですよね。しかし私的には、自身がシュートとか関節技の応酬には全く興味がない事もあって、結構面白い試合なのですよ。なので、酷評が多い中、慎重な言い回しながらも流先生がこの試合の良い点を評価してくださっているのはうれしい限りですね。

結果としてロビンソンは、「逆エビ固め」という彼としたらトリッキーな技でしか1本とれていないのが、なんとも馬場側との力関係を感じさせます。雑な「16文キャッチ」はロビンソンの精一杯の抵抗だったのでしょうか?

⑤ 1979年 チャンピオンカーニバル ゴールデンタイム陥落!しかしV・ガニアの見解は。。。

この年のチャンピオンカーニバル新潟大会(メインは馬場対スレーター公式戦)をもってテレビ中継がゴールデンタイムから撤退し土曜夕方に移行。全日本にとってはかなりの衝撃だったのと思いますが、実際その影響はどうだったのでしょうか?

ちなみに私氏自身は、ゴールデンタイム期間中も野球で放映が深夜に追いやられた頃はまだ小学校4~6年の頃でテレビも親の部屋にしかなかったので基本無念の見送りになっていました。そして少学5年から塾に行き始め、中学に入ると野球部に入ったので、放映時間が夕方に移行した際はほぼ視聴不可能になりました。家にビデオデッキが来るのは5年後でしたからね。

ですので、1979~82年くらいまでは全日本プロレスの中継は年に4,5回くらいしか見れておらず、正直中抜け期間だったのです。その頃初来日を果たしたブルーザー・ブロディに関しては、視聴を復活するまで存在を知りませんでした。ワープロの中継は家と中学が直ぐ近くだったこともあってなんとか見れていましたが。。。

そして流先生の本には、全日本中継のみならず、他団体(主に国際)の放映に関しても「なんとか中継を視聴するため日々の行動を逆算して行動し観戦可能にする」様が再三書かれており、ここは非常に共感するところです。というか私生活を絡めたエピソードは毎回かなり期待しております!

私も高校時代も野球部に所属していましたが、冬季の土曜の練習は比較的早く、、、午後4時過ぎには終わるので駅3つ先の自宅まで中継に間に合うようダッシュで帰宅していました。しかし色々な誘いを振り切って帰ったら臨時のゴルフ中継が入って中継が飛ばされていたり、そうかと思えば帰宅するとテレビのある部屋で父と母が派手な口論をしていてとてもテレビをつける雰囲気でなかったり、、、思い出は尽きません(笑)

話を戻すとプロレスの放映時間について、たまたま流氏が国際プロレスに来日していたバーン・ガニアとの話の中で話題上がり、ガニアは「馬場の時間帯の方が(新日本の時間より)ベター」と語ったそうです。その根拠として

「アメリカでは金曜の夜は勤務先の残業や週末の準備でリラックスしてテレビを見る家庭は少ない。土曜の夕方なら普通の家庭ならば終日のんびりしている人が半分だし、朝から外出する家庭でも戻ってテレビをつけている場合が多いから」との事でした。

これはこれで一理はあると思いますが、日本の事情というものがあり、まず「金曜夜8時」というブランドがあると思いますし、更には当時はまだ週休2日制は大企業を中心にボチボチ始まりだしたレベル。勤め人には視聴はかなり厳しい状況であり、この時点ではやはり大きなデメリットだったと思います。

あと5年後だったら、それなりに土曜夕方でももっと存在感を示していたかも、新日本も80年代後半やはり土曜夕方に放映時間が変更になりましたが、これは16時台というなんとも中途半端な時間だったため、悪評プンプンだった記憶があります。

結果として、このシリーズ以降、ハンセンが全日本に再登場するまでは、世界最強タッグの決勝戦以外では蔵前・武道館といった都内の大会場では興行が打てなくなるほど興行会社としてのパワーが損なわれていました。

しかし今歴史を振り返っても、1979~1981年の間の全日本プロレスはパワーダウンする一方だったかというと、そこまでではなく、あの手この手を使ってしぶとく生き延びてきたと思います。御大の体力は損なわれる一方、ジャンボはマンネリ、天龍他若手は伸び悩みファンクスやブッチャー、マスカラス兄弟への依存は強かったですが、それでも懸命に新日本に抵抗していたと思います。

このようなヤバイ状態の中、ブッチャーを引き抜かれれば、とどめを刺されたに等しかったと思うのですが、逆にハンセン、シンを引き抜き返し一時は新日本を抜こうかと(1984~5年頃)いうところまで迫ったのですから物事の流れというのは分からないものです。

プロレス以外のどの業界でも結構あるのですが、どうみても劣勢で逆転する要素がほぼ皆無だった状況下、ひょんなことが理由で奇跡的に持ち直す、というパターン、これは日本人の心に訴えるものですよ。SWS騒動もそうだと思います。

今日はこんなところです。いろいろとネタバレだったかもしれませんが、その他全シリーズごとに発生した出来事はきっちり抑えつつ、先生の感想も述べられている貴重な本です。おざなりで書いている部分がないのがいいですね!どの項目をチョイスするか悩んだものです(笑)

最終号となる次巻もたのしみです!それでは、また。

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