さようなら テリー・ファンク! フォーエバー!テキサスブロンコ!

こんにちは、みやけです。今回はプロレスのお話です。

本当は話を書こうとある程度下準備をしていたのですが、急遽変更する事にしました。最近高齢者の芸能人が介護施設に入っている、というニュースをよく目にしますが、Nというタレントさんの報道の仕方があまりに酷かったのでペンを取ろうと思ったのですが、やむなく別の機会に書くことにしました。待ってろよ!女性自身

私にとって少年時代から心に燃える太陽のような存在であった元プロレスラーのテリー・ファンクさんが亡くなったというニュースを木曜に聞きました。ショックでしたね。近年は認知症を患い介護施設に入っている、という噂もあったので覚悟はしていたのですが現実になるとこんなに悲しいことはありませんでした。

私は自分の感情を素直に出すことがとても苦手な人間です。少しずつ改善はされてきているとは思っているのですが、根本的な部分はそう変わるものではありません。そんな私にとってはテリーは私の対極ともいえる感情をとっても素直に出すことが出来それが彼の大きな魅力になっているという非常に羨ましくあこがれの対象でした。

私がいつからプロレスファンになっていったのか?以前も書きましたが亡き父が全日本プロレス、というか馬場ファンだったので、促されるようにプロレス中継を見ていたのです。見れば見るほどプロレスに引き込まれており、父がまだ帰宅していないのにプロレス中継にチャンネルを合わせたのは1971年エキサイトシリーズ開幕戦後楽園ホール大会。別に怪覆面”ブルー・シャーク”に戦慄をうけとかそんなことはなく、テレビ中継最初にオンエアされたサムソン・クツワダ対マーク・ルーインの結果に衝撃を受けたのです。ブルー・シャークについては記憶の片隅にもない!w

中継では「クツワダはルーインのスリーパーホールドで”落とされ”担架で控室に運ばれた」というような伝え方をされたと思うのですが、小学校2年生の私には”落とされる”という概念が良く理解できず「クツワダはルーインに首を絞められて殺された!」と思ったものです。そして死んだと思ったクツワダが翌週の中継で普通に登場した事でなんだかプロレスは悪役の怪人が倒されても普通に”再生”されて復活するようなイメージを重ね傾倒を深めて言った記憶があります。

そんな中テリーは全日本マットにたま~に登場しました。テリーとドリーのザ・ファンクスは日本人にとって実に”兄弟”のイメージとして実に分かりやすいキャラクターの持ち主でした。兄ドリーは常に冷静沈着。ちょっとのんびりやさん過ぎるところもあるが、責任感は誰よりも強く起こると誰よりも怖い。あらゆる能力が弟よりちょっと優秀。逆に弟テリーは屈託ない笑顔が魅力の破天荒キャラ。激情型で無鉄砲な行動が多いが、人情に厚くその飾らない人柄で誰からも愛される、、、日本の兄弟象でもまさにこのイメージのパターンは多いでしょうし、ひょっとして世界的に普遍なものなのかもしれません。

そして迎えた、1977年オープンタッグ選手権。その頃私と父は揃って全日本プロレス中継を見るのが常となっていました。ポイントになったのは開幕戦でカードは馬場・鶴田対ブッチャー・シーク組だったのですが、史上最凶悪コンビが凶器を使って馬場にピンフォール勝ち!それを見て怒ったテリーが乱入してくるも逆に凶器で大流血させられトップロープに宙吊り。そのシーンがドアップでテレビ画面に映し出されたので、我が家も全国3000万人のプロスファンも最終戦のファンクス対ブッチャー・シーク戦に注目する運びとなったのです。

最終戦のこのカード、何が起こったかは今更語るまでもないのですが。私も親父もこの試合を見て双方何も言わず涙を流していました。しかしどこで涙を流したのか?けっしてテリーがドリーを救出するために包帯でグルグル巻きにした左手でスレートをシーク・ブッチャーに見舞ったシーンではないのです。確かにあおの場面では狂喜乱舞していましたが。

私が今思い出してもグッとくるのは試合終了後、表彰式の場面。流石に疲労困憊の2人でしたが、各レスラーにねぎらいの声を掛けられると流石に笑顔に。そして関係者の判断で彼らのテーマ曲”スピニング・トー・ホールド”が再び館内に流されたのです。当時としては異例、というか試合後に曲が流されたのはおそらく初めてだったでしょう。サプライズ的に気分が高揚したテリーは喜びの感情を爆発させます!私たち親子が泣いたのはこのシーンなのです。

それまで私はプロ野球や大相撲、ボクシング等で勝利者が表彰されるシーンを見てきましたが、ニッコリ笑顔で観客に頭を下げるというのがせいぜいでした。感情を露出するなんてシーンはそうありませんでした。それが昭和というものです。方やプロレスでも馬場さんは苦しそうな表情で両手を上げるのは精一杯でした。ジャンボは勝った後ガッツポーズを良くやっていましたが、なんか心がこもっていなかったというか。。。w

それと比較すると猪木さんは観客の心をコントロールするのに長けていたと思うのですが、どちらかといえば「怒りをあおる」という感じであり、喜びの感情を露出するというのはそうそうなかったと思います。しかしこの時のテリーは以降の大仁田選手までは行かないものの顔をくしゃくしゃにして感情を露にしていた、、、ここに我々親子はハマったのです。

何故か?私も父も真面目で普通の人ではあるのですが、抑圧された親(父は祖父、私は母親)の元に育ち、自己主張する事を「悪」と教え込まされてきた長男です。本来なら兄のドリーの行動に心頭するところなんでしょうけど、人は自分にないものを持つ人にあこがれるものです。「ああ、いいことをした時にはこんなに心から喜びその事を相手に伝えられるになりたい!」二人の涙はそんな意味だったと思うのです。

以降も私はコミュニーケーションという点で苦労を重ねるわけですが、「自分を素直に表現する」というのは長年のテーマでした。

そしてその後も私はテリーを追い続けるようになりました。”好感度”では馬場、鶴田やマスカラスを上回っていたと思います。ただし新日ファンからは「無駄なオーバーアクションが多すぎ」という批判が頻繁に飛び交っていました。それは私もそう思います。でもそれがテリー・ファンクというものですからそうは気になりませんでした。

その後、テリーは引退してみたり、復帰したり、映画に出てみたり、ヒールとしてWWFに乗り込んでみたり、周囲から何と言われようと自分のやりたいように人生を謳歌していきました。これもまた私をあこがれさせました。私はテリーが強いとか弱いとかそういう部分でなく人間の本質の部分にあこがれていたのだと思います。

テリーが衰え戦いの最前線から外れつつある中、非常に思い出深いシーンがあります。1986年世界最強タッグ決定リーグ戦開幕戦、後楽園大会リーグ戦、ファンクス対リックマーテル・トムジンク戦です。

その年の両国での長州戦や七尾での長州・谷津戦でのグダグダな内容で当時のプロレスファンの不評を買い始めていたファンクス、特にテリーですが、この試合でそれが露骨に判明する結果となりました。攻撃の休みを取ることなくガンガン攻め立てるマーテル・ジンクに対し、ファンクスはそれをいなす様なノラリクラリファイト。もともとファンクスはヒールですのでそんなファイトはお手のもの、マーテル組がそのような攻撃をすればするほど試合展開はそうなるものです。

そんな中館内のファンは「もういいんじゃないか?」という感じで「マーテル」コールを送り始めたのです。そて断片的に入ってくるテリーへの罵声。かつて、たった4,5年前は蔵前国技館にボンボンを持った熱狂的チアガールから大声援を受けていたテリー。それを思い出すとあまり残酷な光景でした。ここでテリーが動揺し;リングサイドに降りて行って「なんで俺を応援しないんだ!」的なリアクションを行っていたら、惨めさはさらに増していたと思います。

しかしテリーは場の空気を読み、あくまで”べテランヒール”としてのパフォーマンスに徹しきった。私的にはかなり「危ない」場面だったと思うのですが、テリーの本当の錯乱を見なくて良かったです。この話twitterでつい1週間ばかり前にフォロワーさんとやり取りしたばかりなんですよね。。。何の偶然だったのか。。。

テリーは晩年喧嘩ファイトを主体とする、いわゆる「ハードコアレスリング」に身を置きました。中には「世界王者にまだなった人が、、、」という意見もあったと思います。でも私はテリーがやりたいようにやっているのだから特に何も感じませんでした。ハードコアレスリングそのものは好みの面から好きにはなれませんでしたが。

そして高齢者となったテリー。比較的定期的に来日してくれるドリーに比べ、テリーが来日する頻度、ゲストとしての来日でもそれは減っていきました。体調不良であることは断片的に伝えられていました。相当身体を痛めつけた人生を送っているし、まだ健在なドリーやシン、マスカラスと比べてムチャクチャなバンプを散りまくっているテリー、、、、覚悟はしていました。

そしてついにこの日を迎えてしまった訳です。

他のプロレスファンであるなら、テリーの輝かしい功績をたたえ弔うところでしょうけど、私はちょっと違います。「こんな人になりたいものだ」という夢を常に与えてもらい、それを裏切らなかった事。それに対してお礼を言いたいですね。

テリー・ファンクさん、やすらかにお眠りください。

テキサスブロンコ!フォーエバー!

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