こんにちは、みやけです。今回は沢田研二さんの曲紹介の回です。2000年9月に発売されたアルバム「耒タルベキ素敵」に収録されている「アルシオネ」についてあれやこれやと書いてみたいと思います。この曲は私が最近とっても好きになった曲で今現在ではジュリーの曲の中ではベスト3に入るお気に入り曲かも知れません。
この曲の作詞はGRACEさん、作曲は伊藤銀次さんです。「耒タルベキ素敵」は私がジュリーの出したアルバムの中でもかなりの”推し”の作品なのでその存在はもちろん知っていたのですが、聞いた当初はそれほどピンとくるものはありませんでした。ムチャクチャカッコいい「ACB」にまず目が行きますし、アップテンポの「君のキレイのために」もまた素晴らしいし、「世紀の片恋」や「耒タルベキ素敵」にまず目が行きました。
その後体調を崩してから「無事でありますよう」に感銘を受けるのですが、ここ4~5年くらいの間にこの「アルシオネ」について「なんと壮大で素晴らしい歌なんだ」と感銘を受けるようになりました。それは偶然かもしれませんが、今年の2月に80歳で亡くなった非常に正確の激しい人だった実母と正面から相対するようになった時期と被っています。
この曲の受け止め方について、「失ってしなった愛する人を神秘的な星に見立てた歌だ」とか、逆に「女性を星に見立て、宇宙の壮大さを描いた歌」という意見を目にしました。しかし私の考えはいずれも違います。アルシオネは「母なるもの」であり、母性へのあこがれを歌った歌だと私は感じるのです。
それでは歌詞を紹介しつつ私の解釈を書いていきたいと思います。
瞳を閉じた 寒風の空その星はある 。ひときわ輝いて。
その星をそっと仰ぐキミ。キミの廻りを めぐるボク。
無限に走る この空間はいつか限りを見つけ出す 闇を抜けて。
引き裂かれそう たとえ夜が明けても
ボクは完全な 孤独にうちふるえ、聖なる球体を見上げてる 両手拡げ
紅くにじんだ この世の果てにキミを盗んだ 土ぼこりが舞うよ。何も無いのが悟りなの?受け入れるのが愛なのか?
罪を背負って たどり着く場所。時よ放たれ塵になれ 光る海に
引き裂かれそう たとえ夜が明けても
ボクは完全な 孤独にうちふるえ、聖なる球体を見上げてる 抱いて欲しい
まず、この曲内に出てくる「その星をそっと仰ぐキミ」「ボクは完全な 孤独にうちふるえ」「キミを盗んだ 土ぼこりが舞うよ」「何も無いのが悟りなの?」というフレーズからして、この主人公は愛する女性を何らかの不条理な理由で失ってしまったのではないかと思われます、一見。それは病気なのか?それとも女性の背後にある人間関係なのか?
普通に考えればそれが自然なのかもしれませんが、最後のフレーズ、特に「聖なる球体を見上げてる 抱いて欲しい」が唐突であるし、仰々しい。そして自身について、何かこう、相当に悪事を重ねてきたような表現をしていることに違和感を覚えます。愛する人と自分の一対一の問題であるよりも、世知辛い世の中において、自分の力が全く及んでおらず通用していない事にもがき苦しんでいいるようにも思えるのです。社会で生きる事への苦悶ですね。
「寒風」とか「土ぼこり」とかいう単語を使っているますが、これは「ドライな世間・社会」という意味に私は感じるのです。恋愛とはちょっと結び付けにくい。そして具体的なアドバイスを求めるよりは男性が最後のよりどころとなる「母なるもの」の存在を欲し、「それさえあれば心の支えになるのに」と慟哭しているように感じます。ファンの反応を聞いているとこの曲のファンには男性が多いような気がするのですね。そして「光る海」ですからね。
「無限に走る この空間はいつか限りを見つけ出す 闇を抜けて」このフレーズなんかは生きる事の辛さをとてもうまく表現していると思います。そして「孤独にうちふるえ、聖なる球体を見上げてる 両手拡げ」この辺りは完全に壁にぶちあった未熟な男性が母、母性を求める象徴的な表現だと思うのですよ!
「紅くにじんだ この世の果てにキミを盗んだ 土ぼこりが舞うよ」これはかなり難解な表現ですが、「紅い」というのはおどろおどろしい様を表現しているようにも思えます。それは「=」実社会。そんな中で自分の想いにそぐわない生き方をしてみたり、嘘をついたりして心がボロボロになるこの私。「罪を背負って たどり着く場所」とは男の子にしたら母親しかないのではないでしょうか?
そしてもう「聖なる球体」とくれば傷付いた私をその母性でギュッと抱きしめてほしい。そう表現しているとしか思えないのです。これを作詞されたのが長年ジュリーのバックバンドのドラムを担当したGRACEさんというのも興味深いですね。彼女もパワフルですがとっても母性を感じるチャーミングな女性だなと私は思っています。
もちろん、女性であれば全て「母なるもの」である母性を均等に有している、という訳ではないと思います。薄い人もいますし、ほとんど見受けられない人も言います。これは器量の良しあしとは関係ないんですよね。特に女優さんや歌い手さんには物凄く奇麗な容姿でも心は完全にオッサン、という方は非常に多い!(笑)そしてまたその逆、母性を求める男性が何と多い事か!俺もまたその一人か。。。
いえ、男性って基本母性を求める生き物なんです。そしてジュリー。。。。
賛同してくれる人がどれだけいるかどうか分かりませんが、ジュリーって女性に対して少し距離を置いたスタンスを取っているように思えるのです。「嫌い」とまで言いませんが、なんだか醒めているというか警戒しているような、、、昔はそんなことは微塵も思いませんでした。そして目の奥底にはとてもうっすらとしてですが「女性への怒り」があるように思えるのです。
比較してはいけないのかも知れませんが、私はこの5年ほど母とじっくり相対し、母が極めて母性が低く、それどころか自身の息子に対しても庇護を求めるような依存性の高い人間であったことがはっきり認識できました。子供にとっては自分の親が短所のある一人の人間であることを受け入れるのはとても辛いことですが(それって当たり前の事ですが)それを受け入れた時には心の雲が晴れたというか自分のモヤモヤした部分が解消されたものでした。
私は以前「ジュリーの怒り」について書きましたが、大変失礼ながらも、この部分が根底にあるのだという気がしてなりません。なので私としてはここ5年くらいでこの曲がとても好きになった、そんな気がしてならないのです。
アルシオネというのは恒星の名前ですが、ギリシャ神話にある「アルキュオネ」という女性から流用したものだと言われています。アルキュオネはテッサリアという国の王ケユクスの妻なのですが、あまりに仲睦まじすぎたため女神ヘラが嫉妬し2人をカワセミ(鳥)に変えてしまったのです。しかし鳥に姿を変えられても2人はとても仲が良く、子供を作り平和に暮らしたとの事です。
そうなってくると、やはり男と女の愛を綴った歌のようにも聞こえるのですが、、、いや、やはりこれは母性を求める歌なのですよ!(笑)
いろいろと好き勝手なことを書いてしまいました。今日はこんなところです。それでは、また。